ライデンリーダーのぱぱ、ワカオライデン
ライデンリーダーのばーば、ワカオライデンのまま、オキワカ
ライデンリーダーのひぃばーば、オキワカのまま、ワカクモ
ライデンリーダーのひぃひぃばーば、ワカクモのまま、クモワカ
ライデンリーダーのちょっと昔のおばあちゃんから起きている、『11』にまつわるちょっぴり長いお話。
…ちょっとばかり調べてみました。
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昭和27年の夏。
昭和26年の桜花賞2着、菊花賞4着とクラシックレースで華々しい活躍をし、
そして翌年 昭和27年6月の阪神特別で3着となった後の一時の夏休養を京都で過ごしていた
1頭の女の子がいた。その名はクモワカ。
これまで病気どころか怪我もなく無事是名馬と言わんばかりの活躍で、
成績も11勝、秋には12勝目も間違いなしと言われていた名牝だった。
そんなクモワカが 休養中夏負けによると思われた熱発を起こす。
もちろん関係者達も大袈裟には考えておらず、むしろ回復の気配をも感じていた。
しかしこれだけの馬、念の為にと獣医の診察を受けさせた事から 事態は急変する-----
---『デンピン(伝貧)』の疑い---
伝貧とは 馬の病気の中で一番恐れられている伝染性貧血の事。
伝染力はきわめて強く、不治である。狂犬病、豚コレラと同等の扱い。
死の宣告--死刑が言い渡される病気。
(昭和28年9月にも、当時今で言うサンデーサイレンス的存在の名種牡馬「クモハタ」もデンピンで薬殺された。)
家畜伝染病予防法第17条
『都道府県知事は、家畜伝染病の蔓延を防止するため必要があるときは、次に掲げる家畜の所有者に
期限を定めて当該家畜を殺すべき旨を通知することができる』
それから約半年後の昭和27年12月6日。
クモワカの殺処分を同年12月31日まで行う様 京都府知事から命令が出された。
すでに隔離厩舎に離されていたクモワカではあったが、体調は衰えるどころかめきめきと回復を見せている。
こんなクモワカを直に見ている関係者達には、とてもデンピンにかかっているということが到底信じられないでいた。増して殺すなんてとんでもない…
クモワカの馬主、山本谷五郎氏がクモワカを「学術研究馬」として
試験治療させてやって欲しいとの申請を出し、それから死刑執行は一日延ばし、そしてまた一日延ばしと延ばされ続け、
京都競馬場・隔離厩舎で3年もの歳月が流れていた。
これまでの間、デンピンの検査結果に決定的な証拠がなかった事が行政側の強行突破の阻止にもなり、
このお陰でなんとか首の皮1枚ではあるが命が繋がっている状態で過ごせていた。
そして昭和30年10月 死刑宣告から一変、国外(府外)追放の刑となったわけである。
つまり、デンピンの決定的証拠もなく、どうすることも出来ずに無駄に月日が流れただけの状況から
京都府側が何かの便宜を図り(クモワカは移動証明、健康証明を携帯しなければ区域外には出られない状況だった)
隔離厩舎を改装するとの理由で厄介払いされた、という訳。
かくしてクモワカは京都競馬場から北海道早来・吉田一太郎牧場へと移ったのである。
昭和32年1月20日、クモワカは繁殖牝馬として認められるべきの登録申請をすんなりと認可されることが出来た。
......しかしそれは「クモワカ」としてではなく 血統名「丘高」として。
これからまた、今度は北海道での第二の人生の行く末で、奇妙な運命に導かれていくのである。
この年、「丘高」であるクモワカは子供を産んでいる。血統名「天祐」と名付けられた牡馬。
ところが、翌年昭和33年になって、「丘高」がかつてデンピンで殺処分命令を受けていたクモワカであるという事を
繁殖牝馬登録申請を認可した東京軽種馬登録協会が知ったのである。
同協会は本登録認可取消と、子供の天祐の仮登録(競走馬達は、競走馬となる前に後の繁殖に上がるための予備登録をする)拒否を通告してきたのだ。
生きることが許されないはずのクモワカの登録を認められる訳もないし、ましてやその認める事の出来ない、要するに戸籍が与えられない母親の子供をサラブレット-競走馬として認める訳にはいかない
というのが同協会の意見であった。
ここで、またクモワカの馬主・山本谷五郎氏は手を尽くし、京都府に懸命に働きかけたのである。
このお陰で、昭和34年3月9日付で、京都府知事より
『昭和33年12月6日 北海道において再検査の結果、陰性と認められた。』
との殺処分命令取消通知を受理出来たのであった。
これで、仮釈放から本出所となったクモワカであったのだが、
軽種馬登録協会は難色を出す。
「現在は陰性でも、当時伝貧でなかったとは言えないし、将来は再発の恐れもある。法律に違反した馬の登録を認めるなんてとんでもない話だ。」
断じてクモワカの登録取消の方針を変えなかったのだ。
そして。
クモワカサイドは最後の手段に出た。
これが後に「クモワカ伝貧事件」と称された前代未聞の馬の裁判の幕開けである。
昭和34年6月 クモワカとその子供天祐の登録請求訴訟を東京地検に起こしたのだった。
本人のクモワカはと言うと、天祐に続いて娘の博祐、牡馬正祐、安祐と毎年無事に子供を設け、
2年空胎後に38年3月12日には二人目の娘「玲祐」を産んでいる。
一方 裁判はクモワカ側にとって不利な展開ではあったが、玲祐誕生後、有力な生産者や馬主達の連名で
クモワカとその産駒の登録を協会側が拒否するのは不都合とする「登録協会臨時総会請求趣意書」を出した。
これを受けた登録協会は38年7月12日に理事会を開き、
「クモワカの健康診断を農林省に依嘱する。もし農林省が早急に診断出来ない場合は、
7月24日に行われる道庁の胆振地区の定期検査の結果を待つ。それで健康と判断されれば
自動的に登録し、また伝貧と判断されれば登録は行わない」
このような議決を出したのであった。
そして運命の7月24日の定期検査は『シロ』。
クモワカは 昭和27年から11年もの歳月を経て、名実ともに健康なサラブレットとして認可されたのである。
昭和38年9月28日、クモワカとその産駒達は正式登録され、無事「戸籍」を手に入れることが出来、
係争事由がなくなった裁判はこれにて消滅となったのであった。
さて、これでクモワカの子供達は晴れて競走デビューとなったわけだが、
初仔・天祐はすでに7歳。それでも12月22日の阪神未勝利レースでツキサクラとの名のもと、初のデビューを果たしたのであった。
関係者の方達も勝負うんぬんではなく、無事ここまでこぎつけた事、クモワカのえん罪を晴らした喜びをかみしめていたという。
そして この年に産まれた玲祐なのだが、
この娘だけはこの復権闘争の事実を目のあたりにはしていない。そのおかげで競走馬として順調に調教を積み、
大活躍を果たしていた。この娘は「ワカクモ」と名付けられている。
母・クモワカの成し得なかった桜花賞を、母の主戦騎手・杉村一馬と共に制した。これが昭和33年の事。
このワカクモは、母と同じく11勝という成績を残し、繁殖に上がっている。
そして…あの貴公子の母となった。息子はテンポイント。
テンポイントは名前の通り順調に10ポイント、10勝星を挙げ、11勝目ももぎ取った。
母も、母の母も、同じ数だけの勝ち星を挙げている。
そして、母を、奇怪な運命を辿った祖母をも越えようと、12勝目のゴール目前での悲運、そして、死。
この一族の、11にまつわる不思議な運命。
そして、時は流れ流れて1995年。
ひぃひぃおばあちゃんにクモワカを持つライデンリーダーは
11勝目を初の中央参戦・報知杯4歳牝馬でもぎ取っていた。破竹の11連勝。
そして、12連勝を狙うべく、初の地方所在馬中央G1勝利を狙うべく、1番人気を背負いながら--------
時間は巡り、忘れかけた「11」の数字のいたずら。
クモワカの血は遠い孫に少しのいじわるを仕掛けたけれど。
でも、彼女は奇怪なこの数字の運命を自力ではね除け、13勝の成績を残し、
そして 今
ライデンリーダーは吉田牧場で母親となり、この「11」のいじわるに負けない子供達を育んでいる。
遠い日の記憶と、自分の愛孫娘を
今クモワカはどう思い見つめているのでしょうか。
そして、ライデンリーダーは 何もなかったかのように草を食むのです。