東北へ
2011年3月11日 14:46
私は市原市の小さな小学校の卒業アルバムを届けようと千葉東金道路の東金インターのETCの手前にいた。突然、車が大きく波打ちUターンしようとしていたトラックの運転手と顔を見合わせた、何だ何だ、一瞬それが地震だとは思わなかった。
車を止めETCを抜けるか考えたが高速に入り左側に車を寄せハザードランプを付けて停車した。車のラジオから東北地方に津波が来ることを知らせるアナウンスが流れていたが
最初はそんなに大きいとは言っていなかったが時間が過ぎるごとに大津波警報に変わっていった。
2011年8月20日 12:00
千葉の自宅を出発、一般道を成田方面に向かい稲敷から圏央道に乗り、つくばで常磐道に合流する。常磐道のいわきジャンクションから磐越道に入り郡山から東北道に入る。当夜は東北道の一関インターチェンジ手前の金成パーキングで仮眠を取り、時間調整して3:00に出発4:00前に一関インターを出ると高速料金は半額になった。
2011年8月21日
目的地は気仙沼市元吉町、ボランティアセンターは9:00から受付なのでその前に気仙沼を抜けて海岸道路を走ると30分も走ればボランティアセンターに着くはずである。
気仙沼の手前のコンビニで明るくなるのを待ち気仙沼市街に入った。
街中は1階は津波で壊れた家屋が多数あり信号も作動していない信号も何か所かある。
道なり気仙沼港方面に車を走らせるとまるで以前に写真で見た、東京大空襲か広島の原爆後の街を見るようなすざまじい光景が現れた。時間はまだ早朝5:00人影は無く、暗く落ちた雲と明けきらぬ暗さの中に恐ろしいほどの光景が広がっていた。
その光景に圧倒され見てはいけないものを見たような、写真も撮ってはいけないような気分になり車の中から4.5枚のみ撮った。この光景はここから撮った方が迫力があるとか、今までの写真概念は持ちたくなかった。テレビやインターネットでみる震災とは全く別の光景を見た。身震いするような現実がそこにはあった。逃げるように現場を離れた。
ボランティア
新聞にはボランティア募集が毎日載っている。
登録制とか車中泊、テント泊禁示とかインターネットで調べるといろんな場所で募集している。
以前10年以上前に千葉から青森まで高速道路を通らず太平洋岸を車で行ってみたことがありその景色の同じ場所で震災前と震災後の風景写真を撮りたいと思っていたが、結局通りすがりでしかなく、そこに関わるには今の私にはボランティアを通じてしか見つからない。気仙沼市本吉町に行くことに決め千葉でボランティア保険に入り私にとっては意を決して行くことにした。
午前6:00本吉町のボランティアセンターに着いた。曇り小雨がちらついている。
まだ時間が早いので車の中で休んでいた。センターの脇の空き地にテントが7張りぐらいたっている、ここでテント生活をしながらボランティア活動をしているようだ。
トイレの前で3人ほどが話をしている。「おはようございます、ボランティアの受け付けは
ここで待っていればいいんでしょうか?」私が尋ねると「8:30になったら作業できる支度をして受付をしてください」と言われた、私が一人に「いつから来ているんですか」と聞くと5月から来ているとのこと、また他の人は3月20日からこの場所にいるとのことで、その人は後2、3、年はここでボランティア活動をすると言っていた。
私はたった1日か2日のボランティアをするつもりで来たのに、3カ月も4カ月もテントやトイレの脇の縁台に寝てカップラーメンをすすり人の為に無償で何かをすることが自分にできるのだろうか?私の千葉での生活は金に追われ人並みの生活に基準を置いた毎日でしかないことを改めて感じた。
8:30分になり支度をしてセンターに入ると係りが受け入れ先に電話している。
しばらくして、係りから今日のボランティア活動は大雨警報が出ているので中止だと言われた。
名古屋からやはり今日初めてボランティアに来た人が南三陸町のボランティアセンターに電話をしたがやはり雨で中止とのこと、丸1日ここで待っても翌日も雨で中止になるかもしれない、私は本吉町を後にして海岸線を南に下った。
福島
宮城の帰り磐越道を小野インターで降り、原発避難区域の方向に行ってみた。
なにも調べないで突然思い立ちどこまで入れるか車を走らせた。
地図で調べ川内村を目指すが途中通行止め箇所があり大きく迂回をした。
福島第一原発の30キロ圏内にある川内村は屋内退避の指示エリアでそこを通る399号線を北に向かい双葉方面に向かうが、川内村内は道路に人気は無く、今の時期には田んぼに黄金色に輝く稲穂が刈り取りを待つばかりのはずが、田植えをしなかった田は雑草に覆われていた。たまに行きかう車と老人に生気は無く、先入観か景色そのものが灰色で放射能を目と肌が感じる。20キロ圏内の避難区域は入り口で県警の車が進入を拒んでいた。
家に帰ってからインターネットで福島の道路の通行止めを調べると、どの道路を通っても原発方面には入れないのがわかった。迂回路は無しとなっていた。
今、日本で何が起きているか
今回の東北行は実際に自分の目で見ることで現実がほんの少し見えた気がした。
2011年8月
気仙沼市本吉町のボランティアセンターに行ったが当日は大雨注意報が出てボランティアは中止になった。
2012年8月
今年こそはとボランティアの計画を立て東金市の社会福祉協議会に行きボランティア保険に入り、東金市役所総務課消防安全係に災害派遣等従事車両証明書の申請をした。
2012年8月5日
午前9:00千葉県東金市を出発
東金有料から東関道、首都高と乗り継ぎ川口JCから東北道に入った。
仙台北部道路から三陸道を終点まで行き45号線で志津川に出た。目的地の南三陸ボランティアセンターに着きテントサイトを教えてもらい、テントの設営をしていると長期にボランティアしている人が愛想よく話しかけてくれ、設営を手伝ってくれた。
インターネットで見るとボランティアの募集はたくさんあるが車中箔ができ、またテントサイトのあるボランティアセンターは少ないようだ。停めてある車のナンバーを見ると九州から北海道までさまざまで車のドアを開け洗濯物が干してある。
昨年3月11日の東日本大震災は18000人以上の死者、行方不明者がいる。
まるで悪夢のような震災をどう受け止めればよいのか、私にはわかるすべもない。
また親を亡くし、子を亡くし、兄弟を亡くした人たちの悲しみは私にはわかるはずもない。
心にふたをして感情を押さえ込み生きていくしか方法がないように私には思われる。
震災から1年半過ぎると、震災地は県外ナンバーの車が停まり、壊れた建物や土台だけ残った跡を写真に撮っている姿を見かける、
私は昨年は写真がまったく撮れず、今年はなるべくたくさんの写真を撮ろうと思っていたが、もう壊れた建物や瓦礫の山を撮ることは無意味に思えた。
美しい東北の自然を撮りたいと思うように心が動いた。
ボランティアに八王子から孫を連れて来た、70歳の男性がボランティアセンターの受付の女性は愛想が無いと長期ボランティアの九州から来ている人に言うと、この辺の人は皆そうで愛想は無いが、今までにボランティア活動をしていると遠方から手を合わせる老人が何人もいたと言い、長期ボランティアでで毎日顔を合わせていると友達関係になると言っていた。
8月6日
昨夜はテントで寝たが、千葉での生活は夕食時に酒を飲み、早く寝ると夜中に起きて、
テレビを見たり、好きなことが出来るが、テントでは夜になると寝るしかなく、夜の長いのが苦痛になる。
4:30明るくなると車を走らせ近くの被災地に行ってみた。
被災地は確かに瓦礫はかたずけられてはいるが、漁港は地盤沈下のままだし、住宅地跡は
基礎部分がそのままで何の手も加えられていない。
8:30にボランティア受付が始まった。
どこで何をするのかもまったくわからず並んでいると、切曽木地区の農業支援だと言う
団体と個人合わせて30人ぐらいが現場に向かう、現場は津波被害は受けていないが大きな農業ハウスが13張りぐらいあり、津波被害を受けた場所から移転して新たにハウスを作った所で、今日の作業はハウスの中の土を掘り石ころを取り除く作業だ。
7、8人が横に並び2人1組で1人がスコップで土を掘り、もう1人が石を拾いバケツに入れる。最初、私は変形性膝関節症で座れないのでスコップで掘る方をしていたが、やはりきつく土に腰をつけての石拾いの方に変えた。
暑さと重労働にも何も言わず皆は黙々と作業をしている。3:00作業終了
今日は午後から雨が降り、テントの入り口を開けて作業に出ていたが、静岡の清水から来ている長期ボランティアの方がテントの入り口を閉めてくれたが、天窓から雨が入り寝具がぬれたので車で寝ることにした。ボランティアで問題なのは水道と風呂とトイレだ、風呂はホテル観洋の日帰り風呂820円で豪華な露天風呂に入った。仮設のトイレはボランティアセンターにもあるが、和式しかなく、前のベイサイトアリーナに洋式水洗トイレがあるが7:30にならないと開館しない。南三陸町志津川に仮設のコンビニは3軒あるが、6:00にならないと開店しない。
8月7日
午前4:30明るくなるとまた車を出し、昨年行った本吉町方面に向かった。
途中ずたずたに分断されたJR気仙沼線を見ながら、果たしてこの鉄道は復興できるのだろうかと思った。昨年はまだ1階部分が被害を受けた建物がそのままにされていたが、確かにその数は減ったように感じた。
8:30持病の膝関節症のため座って出来るボランティアは無いだろうかと、受付で聞くと
責任者が「それならボランティアはやめた方がよい」と言う。確かにそれも一理あるが、
せっかく来たのにもう1日はやりたいと思い、今日の作業はなんだろうかと聞くと、本浜の瓦礫処理だと言われた。志津川の海の近くの流されて何も無い地域の残っている基礎のまわりを掘り可燃物、鉄くず、ガラスなどに分類する。団体で来た大学生や個人で日本全国から来た30人ほどが作業した。今日の作業はマイペースで出来る。しかし私1人で1日
2メートル四方の処理しか出来ない、ナメクジの歩みのような作業が続いた。
やはり皆は黙々と作業を続けている。ボランティアとはなんだろうか?
当たり前のことが私にはよくわかっていなかった。
3日間はボランティアをするつもりで来たが今日で終わりにしようと思った。
ボランティアセンターに帰りテントをたたみ午後4:00に志津川を後にして気仙沼方面に
向かった。陸前高田の奇跡の一本松を見た、近くの駐車上には県外ナンバーの車が停まり
笑顔の親子ずれがカメラを持って松を見ていた。
10年ぐらい前に千葉から青森まで高速道路を通らず太平洋側を行って見たことがあり、その記憶をたどっているが、昨年と今回の東北行は被災地に行くとゆうことが前提になっていた。私はもう被災地と呼ぶことはやめよう、東北の美しい景色と人情に触れたい、毎年東北には行きたいが、美しい景色を写真に撮りに行きたいと思った。
何を見て何を感じ何を考えるか
東北はそれができる場所に私には思える。
2012年8月10日