
縁あって、岩崎ミュージアムで個展を開いたのが1994年。
僕が、山手に関わりを強くしたのは、それからになります。
この2〜3年は、クロッキー帳を片手に独りで、時にはスクールの生徒さんたちと
スケッチに足繁く通うようになりました。
春の山手、夏の山手、秋の山手、その時々でいろいろな表情を見せてくれます。
何度来ても,何回描いても、この山手の魅力は尽きることはありません。
さて、今日の山手はどんな顔をしているのでしょうか?
- 齋藤真紀
2010年のスケッチ月記はコチラから
12月
冬浅し(山手公園) 山手68番館と桜の紅葉

公園管理のおじさんに挨拶をする。いまの時節、落葉は掃いても掃いてもきりが無い。僕は山手公園が好きだ。ひとりになりたいときは必ずここに来る。一応洋館があるものの、テニスコートと桜以外にめぼしいものが他に無いと思われている様子で、日曜日でも、ほとんど訪れる人がいない。寒くなって、絵具の乾きが遅い。なかなか線を入れられない。辺りを見渡すと、いつからいるのだろう、僕と同じでひとり気ままに絵を描く人がいる。何も無いと書いたが、ここには音がある。テニスボールの行き交う音は長閑で心地良いものだ。僕にしては時間をかけた。多分…1時間程。今日は少しまじめに(具象的に、分りやすく…)描いてみたい、そんな気分の日。形が先か色が先か?僕はどちらが先でもあまり関係無く描いてしまうが、はじめに形をしっかり決めてしまうと、融通が利かず、後でデッサンを直す余地が失くなり不都合が多い。街中にも紅葉が下りて、ここへ来る途中の日本大通りや開港記念広場、そしてイタリア山は、紅葉を目当てにスケッチをしている人達でにぎわっていた。今冬は暖かいせいか銀杏の色づきが遅い。ふと気がつくと、先程まで絵を描いていた人の姿がもう消えている。また、僕ひとりになった。
版画アートラリー
ご存知だろうか?10・11月は版画アートラリーかながわの季節。県内23+町田1の画廊が参加して行われているスタンプラリー、今年で11回目。10年も続いて来たことにに正直頭の下がる思い。僕は2年前にアートラリーの参加者に配るプレゼント用の版画を作らせてもらった。その時は、版画を刷るのに精一杯で、その実情を知る機会が無かった。それじゃ、今年は廻ってみようかと。11月もあとわずか数日を残すのみ。これまで8つの展覧会を観てスタンプをもらっている。山手公園でのスケッチを終えてから、今日は、石川町と中華街、関内近辺の画廊を一時に廻ってスタンプを掻き集めようという作戦。もちろん自転車だから可能なこと。ほとんどが今回初めて訪れる画廊さんばかりなので、アートラリーの冊子の地図が頼り。ところがこれが意外と苦労した。地図は当然、最寄の駅を起点に作られているものだが、僕は自転車なので駅からは行かない。自分のいまいる場所と駅のおおよその方角とから、画廊の場所を推定して行くことになる。いわば、あてずっぽう。だから目印が無いととても困る。例えばある画廊さん。地図では、かやぶきの家が目印となっている。ところが何処を探してもかやぶきが無い。どうやら葺き換えてしまった様子。そんなこんなで、版画(や絵等)を観てスタンプを集める楽しみの他に、オリエンテーリングの醍醐味も加わって、僕は今回とても愉快に廻らせてもらった。明日は町田(成瀬)に行く予定。鶴見川を上れば着くはず…。それで3つのエリアと15の展覧会のスタンプを獲得し、晴れてノルマ達成だ!
後日談
アトリエに戻ると、素敵な手紙が届いていた。10月にワークショップを行った泉区の小学生達からのお礼状。11月の学習発表会でも無事にお披露目出来たとのこと。出来上がったアーチ(の写真)を、「きれい!」と誰もが誉めてくれる。僕の方がみんなにお礼を言わなければならない。「ありがとう」と。
これで今年もおしまい。仕事の都合で山手に来られなかった月もあったが、2月、妙香寺前の呉服屋さんからはじめ、久し振りに山手を沢山描いた。来年は、桜木町から、自転車で大岡川を遡る川紀行の予定。大岡川は上大岡の駅を過ぎた所で二手に分流し、一方は、氷取沢市民の森に、一方は、日野の清水橋辺りで地図から消えている。
師走二日、
齋藤眞紀
11月
秋色(しゅうしょく)

役に立たないものを作ったことが許されるのは、その作品が人々を強く感動させた場合のみである。芸術とはみな、きわめて役に立たないものだ。(オスカー・ワイルド)
紅葉
秩父盆地にある長瀞は、池袋から西武池袋線、西武秩父線、秩父鉄道と乗り継いで2時間程。都会の忙しい生活にリズムが慣れている僕らに、何もしない2時間は長い。電車が秩父の山の中に入ると、殊更ゆっくり、ゆっくり進むので、その時間の歩みののろさにとまどうばかりだ。
長瀞駅の開業は明治時代まで遡る。明治生まれの人が生きているとすると百歳を超すので、随分と古い。当初は宝登山駅と言ったそうだ。いまはライン下りが有名な長瀞も、元を正せば、宝登山神社へお参りする山岳信仰の霊場として開かれたものなのだろう。
標高500mほどの宝登山山頂へはロープウェイが通っていて、ロープウェイの山頂駅を降り、少し登ると木々に囲まれた宝登山神社の奥の院。その先が山頂。山頂から下りて来て気がついた。駅前広場に、きれいに色づいたけやきが1本、その立ち姿はまるで神様が宿ったかの様に神々しい。その見事な黄色が、澄んだ青空を背景に映えわたっている。
宝登(ほど)は宝の山という意味だそうだが、これは多分当て字。山のくぼんだ所を「ほと」と言うし、宝登山神社に、火産霊(ほむすび=火の神)が祭られていることからも、「ほど」は「ほと」から来ているものと、僕は勝手に推測する。流石に地名が「ほと」では具合が悪かろう…。
授業参観
泉区の小学校の2年生2クラス51名と、その親御さん達に理科室に集ってもらって、正四面体を2つ、A3の工作用紙に製図をしてもらう授業の一コマ。
子供も親もはじめからうるさいうるさい。「説明を聞きなさい!」と、たまらず校長先生が一喝するも、焼け石に水。見ていて面白いのは、親がいちいち口出しするところほど、子供はやりづらそうで、余計に手間取りなかなか上手く描けないのだけれど、親が一歩引いて見守っている様なところの子供は、けっこうスムーズにちゃっちゃと上手に描いてしまう。事前の打ち合わせで、「うちの子供達に製図なんて」と先生から疑問符がついていた割には、みんな時間内に無事終了。…と、ここまではまだ余裕があった。
虹のアーチ
まずは、授業参観の折に製図をしてもらった正四面体の組み立てから。泉区の小学校でのワークショプ。『つんでつんで、ならべてならべて~虹のアーチ』の2日目。組み立て終わった正四面体に、今度は折り紙で思い思いの装飾をしてもらい、それをみんなで順に積み上げてアーチにしていこう…これは、横浜市の教育文化プラットホームという事業の一環で、相鉄線のいずみ中央にあるテアトルフォンテ(泉区文化センター)からの依頼によるもの。実は何年か前になるが、「なかなか造形の授業の引き受け手がいない」という話しを聞いたことがある。その時は僕も断った。だってこれは考えてみただけでも大変!絵や造形は、作品が残るから良いねと、言われることがあるけれど、それは時と場合による。ワークショップは、やって「はい終わり!」のほうが絶対に楽。造形の授業の様に、後々つくったものが残ってしまうものでは、いくら過程(プロセス)が大事とうそぶいたとしても、やはり形に仕上がらなければ意味がない。そして何より、自分達が作り上げたものに満足出来てこそ、製図からはじめた一連の授業を楽しかったと思ってもらえるものと僕は思う。しかも今回は小学生51名による共同作業。子供によって出来不出来はもちろんバラバラ。それをひとつにしなければならない。だから大変!
1・2限1組、3・4限2組と、それぞれアーチの脚を組み上げて行き、5限目でアーチのアールの部分を両脚にドッキング。ちょうど終わりのチャイムと同時になんとか完成。出来上がったアーチをくぐる子供達の楽しげな姿に、こちらの疲れも吹き飛んで…と書きたいところだが、11月半ばの学習発表会でお披露目をするとのこと。そこまでは一応こちらの責任(半分くらいは…)。気が気でない。
川崎市民ミュージアム
「わー凄い!格好良い!」と、先生に連れられてお散歩に来た近所の幼稚園の園児達がびっくりしている。10月はワークショップがもう一つ。こちらは「川崎の7人展」の関連企画で、『紙でつくるおもしろいかたち、たのしいかたち』。この時参加をしてくれたみんなの作品が、川崎市民ミュージアムの吹き抜けになった広い逍遥空間の天井から、テグスで吊るして展示されている。何の変哲もない白い紙に、切り込みを入れて曲げたり、ねじったり、まるめたり。曲げるもねじるもまるめるも、解釈の仕方は人それぞれ。何をつくりなさいと、こちらは目標を示さないので、始めはみなさん手探りなのだけれど、次第次第に形が現れてくると、今度は面白くってやめられないみたい。作る前に、僕の作品をみんなに見てもらう。後日、我家の妻は、ガラスのショーケースに収められた紙のオブジェを見て「まあ、こんな立派なところに飾ってもらって…!」と。その点、いまの子供達は恵まれている。美術館にこうして自分達の作った作品が飾られて大勢に見てもらえるのだから。もう一人前のアーチストだね。
鰯雲
空はいつの間に秋になったのだろう。鰯状の淡い白斑が空一面を覆っている。鰯雲は秋の代名詞。この雲が出ると天気が崩れると歳時記に記されてはいるが、ここしばらくは秋晴れがつづきそうだ。
10月31日
齋藤眞紀
★冒頭の引用は、
オスカー・ワイルド『ドリアングレイの肖像』の序文から。二木めぐみ訳(光文社古典新訳文庫)
他にも福田恆存訳(新潮文庫)などがある。
★川崎市民ミュージアムでのワークショップの参加者は、実のところ子供だけでなく、大人も学生もいてにぎやかでした。
10月
夜空
いつの間にかに日暮れが早くなった。秋の日は釣瓶落しというけれど、まさにそんな感じ。岩崎ミュージアムでのスケッチ展が6時に終わり会場を出る頃には、外はすっかり夜の景色となっている。山手の夜を照らすのは月明かりと間遠く置かれた外燈くらいなものなので、この丘の夜は街中よりはるかに暗い。こんもり繁った木々は、夜空よりも黒い。その影の下、フランス山ではカップル達が身を合わせてひとつのシルエットになり僕らを驚かせる。そういえば、昔は外国人墓地で狸を見かけてビックリしたものだが、いまはどうしているのだろう。夜が暗い程、人間の想像力はかきたてられるもの。梢を揺らす風の音、小鳥達の小さな羽ばたき。昼間ならなんでもないことでも、夜の闇の中では、幻聴や幻影となり、あたかも怪奇な存在に囲まれている様な錯覚を覚えるものだ。この山手でも、僕らの知らないところで、夜の住人が目を覚まし、僕らが帰るのをじっと待っている。
気がつかれた方がいるだろうか?この夏は思いのほか空が澄んでいた。たいてい午後になるとどんよりと平板になってしまう夏空に、一日を通して、入道雲が浮かんでいることが多かった。僕の記憶を辿ってみても夕焼けに染まる入道雲はかなり珍しい。だからか?秋の夜空も透き徹ってとてもきれいだ。絵具で言えば、ウルトラマリンブルー。さしづめフェルメールならば、ここぞとばかりに伝家の宝刀ラピスラズリで作ったこの色を、しかも惜しげもなく使ってみせることだろう。ラピスラズリは、アフガニスタンで主に産出される鉱石で、ウルトラマリンブルーの原料(顔料)とされるが、ラピスラズリから実際に採れる顔料(ウルトラマリン)はごく少量なので、とても高価。だから昔も今もラピスラズリで作ったウルトラマリンブルーは絵描き達の憧れ。少し前に、ブロックスの規格外品でラピスラズリの油絵具が秘かに?出廻った事があって、手に入れてみたのだけれど、ウルトラマリンブルーよりも青が濃く、透明感が強い色だった。
気象台と外国人墓地の間を抜け、真直ぐアメリカ山公園のエレベーターに急ぐ、ではなく、本来は…見尻坂を暗いので足元に気をつけながら下りると、夜の無言(しじま)に雑踏の気配が忍び寄り、次第に街の灯りが見えてくる…と書きたいところ。足の不自由な人は仕方がないとしても、エレベーターは確かに便利だが、やはり風情がない。山手に通うのが、ただ来ては帰るだけの義務の様に思えて情けなくなってくる。涼しくなって、汗もそうはかかなくなって来た。以前の様に、坂を上って山手に来、坂を下りて街へ出てみようかと思う。
夜の元町は、昔の方がにぎやかだった。僕が子供の頃、父親に連れられて初めて訪れた時は、周囲が暗かったせいか、余計にネオンがまぶしく感じられ、大人だけの街に特別に入ることを許された子供の様に、(あっ!実際子供だったっけ…)、わくわく、どきどきとした気分になったものだ。確か…父親の知り合いのやっていた洋装品店-ブティック-(古い!)に行ったと思うのだが、いまはどのお店がそうなのか思い出せない。2階に上がったはずだが、あれから40年近くたっているので、そのお店もあるのかどうかも疑わしい。
九月二十九日
齋藤眞紀
9月
雨 −霧笛橋の袂で−(スケッチ40%展に寄せて)
愛は果てなく夢見るようなものだ。だが、芸術は永遠なるものである。
(ウイリアム・サマセット・モーム)
サマセット・モームの短編に『雨』というのがある。雨季で何時止むともしれぬ雨に降り込められた、南洋(南太平洋のこと)の島を舞台にした、短いながらもずしりと読み応えのある小説だ。元々モームは劇作家で成功した人なので、短編が殊の外上手い(と僕は思っている)。話の筋が見え始めてからが実に味わい深く、最後の一行まで疎かに出来ずつい読んでしまう。『雨』の翻訳は、文学の香りがする中野好夫の訳が名訳として定番。しかし、南洋も、ある意味文学もまた、距離の遠さが作り出すフィクションなので、(だからゴーギャンが小説の主人公に選ばれるのだ!)、飛行機とインターネットの時代の今となっては流石に古いか?新しい訳も手に取ってみたくなる。
港のみえる丘公園の、イギリス館とブラフ111に挟まれた噴水のある広場から、大佛次郎記念館に、霧笛橋辺りまでの庭の景色を眺めると、月並だけど、僕は異国情緒という言葉をよく思い浮かべる。夏場でも、鮮やかな緑のコントラストに出会えるのはここだけだろう。手前の庭の緑は明るく軽やかなのに、近代文学館の背後の奥まった緑はまるで、熱帯の森の様に深くて濃い。モームの小説の舞台となっている南洋の外国人居留地は、まさにこんな感じではないかしらと…。
8月にめずらしく雨が続いた。川口で生まれ育った妻は、横浜の雨は雨足が強いと言う。海が近いから?ここまで猛暑が続いていたので、幾分かは涼しい雨の日の方が、絵を描くのに体が楽かもしれない。スコールでもない限り、雨を避ける方法はあると思うので、僕は雨を描きに出掛ける事にする。雨をどう描くか?あまり深く考えたことはなかった。その時々でなんとなく雨になった。技法書を覗くと、絵の具が乾いてから、カッター等の鋭利なもので引掻くと、紙がめくれて白い筋になり、いかにも雨が降っている様になるとある。スクラッチと言うのだそうだ。でも今は、何のことはない。描き味がとても滑らかなゲルインクのボールペンの、白やシルバーを使って普通に描けば簡単に雨になる。広場の噴水も、きっと海の波頭だってこれでいけちゃうと思う。そう考えるとこのボールペンが登場してとても便利になった。色も揃っている。何より、技法というものが相対化され、意味をなさなくなり、誰にでも楽に描けるのがうれしい。雨の日は、晴れの日と違ってコントラストが弱いので、彩度や明度はそのままにして、全体のコントラストを均一に平すことが大切なのだけれど、それを説明していたら難しくなり過ぎてしまったので止める。
霧笛橋の袂で雨を避けながら絵を描いていると、蟻の働く姿が以前にもまして、多くなった様に思う。油断をすると、カバンの中にまぎれ込んだのを連れて帰ってしまいそうだ。まだまだ残暑が続く気配だが、意外や足下では秋の訪れが近いかも?
今年のスケッチ40%展(岩崎ミュージアム)の開催は秋。早いもので今度で7回目を迎える。7回目のタイトルは「夏の便り」。まさにこの夏が正念場だった。それもあともう少し。どうにかみんな作品が間に合いそう。このエッセイが載る頃には、すっかり準備も整って、展示を待つだけになっているはずだ。「なかなか上手くならない…」なんて言いながらも、(これは僕への悪口!)出来映えはかなり良いみたい。普段より、絵具の乾きが速く、色を重ねるのが楽だったからだろう、一様に絵が引き締って見える様になった。これも猛暑の中を頑張ったお陰だ。はじめた頃は10年続けば…なんて言っていたスケッチ40%だが、この調子で行くと、10年はあっという間に過ぎてしまいそうだ。
8月28日 齋藤眞紀
サマセット・モーム『雨』は、
○『雨/赤毛』中野好夫
訳(新潮文庫)
○『マウントドレイゴ卿/パーティの前に』木村政則 訳(光文社古典新訳文庫)
冒頭の引用は、
『昔も今も』天野隆志 訳(ちくま文庫)
8月
Cogito ergo sum ーコクリコ坂のある風景−(港の見る丘公園)

あることを他人から学ぶ場合には、みずから発見する場合ほど十分に、そのことを理解しそれをわがものにすることができない。
(デカルト『方法序説』)
デカルトの名前は誰でも知っている(と思う)。でも何をした人だかまでは良く知らない!ルネ・デカルトは、17世紀、つまりヨーロッパの近代がはじまる頃、フランスの官僚貴族の家に生まれるが、30歳を過ぎた辺りでオランダに隠棲し、ひとり近代を貫く諸原理を考えた人…とでも言えば良いか?余談になる。王侯貴族の美術品の蒐集に、はじめはフッガー家の様な貿易商が手を貸していたが、17世紀に入ると、それを専門にする画商というものが生まれて来る。レンブラントの内縁の妻と息子は共同で画商を営んでいるし、フェルメールの父親も確か画商だった様に記憶している。話しを戻そう。「今日私はあらゆる気づかいから心を解き放ち、落ち着いた閑暇<かんか>を手に入れて、ただひとりとじこもっているのである。それゆえ、いまこそ私は、真剣にかつ自由に、私の以前の意見を全面的にくつがえす仕事にうちこもうと思う。」(『省察』)僕の場合、お金が無いので、半ば引きこもりみたいな生活をしているが、デカルトは、働かなくとも生活には困らなかったみたい(軍隊にいたときも俸給をもらった記録ががない!)。そこが僕と違うところ…もちろんのこと頭の出来も。僕が本を読み始めた時分は、構造主義やポスト構造主義が主流で、「近代の超克」だとか「脱構築」などをみんなが盛んに唱えていたものだから、(フーコーもドゥルーズもデリタも生きていた)、どちらかと言うと、近代合理主義の生みの親みたいに思われているデカルトは、だいぶ旗色が悪かったものだった。それから結構な時が経つけれど、一向に近代が乗り越えられた気配は無い。かえって近代の病は重くなっている様子で、科学技術文明の弊害(原発)、環境問題(温暖化)、医療倫理の不在(卵子の売買)と深刻さは増すばかり。
そこに、今回の中国での高速鉄道の事故。起こるべくして起った印象だ。近代化(近代の移入)は、もっぱら技術の移入として捉えられ、どこでも性急になされて来た。日本の明治もそうだった。夏目漱石はその性急さを、「涙をのんで上滑りに滑って行くほかはない」と、幾分やけくそ気味に嘆息している。「和魂洋才」という言葉があって、高度成長の頃までは誉め言葉とされ、日本の企業の強さの秘けつと思われていた言葉。意味は、日本の精神でもって、西洋の技術を消化吸収していこうというもの。いまはこれが仇になっている。
この夏のスタジオジブリの新作は、昭和38年の山手を舞台にしているそうだ。日本で新幹線が開通したのは、その翌年の昭和39年。東京オリンピックの年。ちなみに、この年に僕も生まれている。日本の社会や風景は、東京オリンピックを境に大きく変ってしまう。本牧の海が埋め立てられるのもちょうどこの頃。『コクリコ坂から』の原作(少女マンガ)を(立ち読みで)パラパラとめくってみても、山手に該当する箇所は(多分…)見当らないので、どうやら場所と時代の設定はジブリの脚色の様。原作の失敗は(失敗作だったらしい…)、少女マンガが構造的に、社会や風景、時間や空間といったものを築かずに、心象風景の描写に終始してしまったからだ…と宮崎駿は書いていて、なんだ現代の美術がダメ(面白くない)のと同じじゃないかと。少し立ち入ってみる。日本の少女マンガの絶頂期が、1970〜1980年代だったとすると、宮崎駿の言う、(日本の)少女マンガの特異性を支えていたのは、紛れもなく、オリンピック以降に訪れた高度成長だったと言えなくもない。表現の具体性の有り様は、時代と共に変わるものなので、高度成長の終わりと共に、少女マンガもその支えを失い、急速に衰えて行くことになる。最近のジブリの失敗の原因が、取り上げた原作の持っている強い具体性(世界)を描ききれずに、安易に自分達の世界にしてしまった事によると僕は考えているので、今回の新作は、原作の破綻ゆえに、かえって上手くいくのかもしれないな。
『コクリコ坂から』の脚本に収められている、宮崎駿のイメージ画は、鉛筆の線が太く伸びやかで、とても気持ちの良いスケッチになっている。水彩とクレヨンかパステルで着彩しているが、線と色とが対等で、塗り絵になっていないのが良い。アニメーターの描くスケッチやデッサンには動きが自然と現われてくるものの様だ。(僕に誉められてもしょうがないか)まだ夏休みも始まって間もないので、映画の影響はさして感じられず、いまのところ山手はいたって静かな様子だ。この夏に、自分の中の「コクリコ坂」を探して歩き、それを描いてみるのも、また面白いのかもしれない。
七月三十一日 齋藤 眞紀
参考文献
○デカルトの著作は、岩波文庫版、ちくま文庫版、中公クラシックス版とがあるが、中公クラシックス版が読み易いと思う。
○『反哲学史』木田 元(講談社学術文庫)
○『土方定一著作集1』土方 定一(平凡社)
○『コクリコ坂から』高橋千鶴(画)佐山哲郎(作)(角川文庫)
○『脚本コクリコ坂から』宮崎 駿・丹羽圭子(角川文庫)
7月
天使の蝶(港の見える丘公園)
おまえたちは気づいていないのか、私たちが裸で
神の裁きに向かって飛ぶ天使の蝶になるために
生まれた蛆虫だということに?
ダンテ・アリギエール
『神曲・煉獄編』第10歌より
夕立ちが来ると、いよいよ夏も近い。我が家の老犬は雷が鳴っても聞こえないのか素知らぬ顔。雨が上がり、散歩に連れ出すも、まだ西陽の残る時刻。外は流石に暑い。歩道のあちらこちらに出来た水溜りで、すずめが水浴びをしている姿がなんとも微笑ましい。
いつの頃からか、紙を相手にすることが多くなった。絵を描くのも、版画やオブジェ(立体)も紙でつくる。紙は取り扱いが簡単。切るのはハサミやカッター、貼るのは昔ながらのやまとのり。特別な事は何一ついらない。特殊な技術など必要ないから、かえって素のままの自分が出て面白いものが生まれて来る。そして、誰にも真似の出来ない楽しいものが出来るのだ。
紙のオブジェをつくり始めてもう10年になる。昔も今も、つくり方は何一変らない。紙に切り込みを入れて、曲げたりねじったり。それはいつも同じ。違うのは、つくる時の僕の気分。何も考えず、手のむくまま気のむくままにつくってしまう。だから、つくり方は同じでも、一つとして同じものが出来た試しが無い。一度バラしたら最後、自分でも二度と元の姿に戻せないのではないかしら?そんなだから…この紙のオブジェに灯りを入れたシリーズをモチーフにダンスを踊りたいという人がいて、彼女はいまダンスのレジデンスでロンドンにいるのだけれど、この春、日本を発つときに、どうしても僕のオブジェをバラして持って行くのだと…。僕が気分(センス)で作ってしまっているものを、他人の、しかも素人の彼女に組み立てられるとは到底思えない。どう考えても無理だと思うので、結局あきらめてもらったが、果して彼女はいま、僕の作品抜きでどうしているのだろうか?一度来たメールでは、プロモーションで撮ったビデオをレジデンスの参加者に見せたところ、オブジェの評判の方が良かったりして…とあったけど。
岩崎ミュージアムで、7月6日から始まるこのエッセイと同じタイトルの個展の会期中、コラグラフのワークショップを行う予定。コラグラフというと、いかにも専門的な響きがして難しそうに聞こえるが、なんていうことはない、子供達もよくやる<紙はんが>。これも紙だ。紙を切ったり貼ったりしてコラージュをつくり、その上に水彩絵具を塗ってバレンでゴシゴシと刷り取るやつ。単純明快、いたって簡単なものだけど、そこはそれ、同じ紙はんがでも僕がやると、れっきとした作品になりますよ!というのが、今回の隠れた主張。この<紙はんが>自分で言うのも変だが、実に奥が深い。得てして、単純なものほど奥が深いの道理。
『天使の蝶』というタイトルは、プリーモ・レーヴィの短編からこっそり頂いた。小説の内容は別に、軽やかな感じの言葉が、僕のオブジェやコラグラフにぴったりだ(…と思う)。レーヴィはこの言葉をダンテの『神曲』からとっている。ところが、訳文が違うと(原文にあたれないので…)、「天使の蝶」が「天使のような蝶」になり、「蛆虫」が「虫けら」となっている。微妙にニュアンスが変わると思うが、ここはやはり『天使の蝶』を、僕もとることにしよう。
レーヴィについて。ユダヤ系イタリア人の化学者であり、小説家でもあったプリーモ・レーヴィは、アウシュヴィッツに送られながらも奇跡的に生き延びるという数奇な運命を生きた人。その彼の体験は、2冊の本となっているので僕らも読むことが出来る。『天使の蝶』にも、彼の特異な戦争体験が、通奏低音として流れていて、実は怖いお話しなのだ。
僕の個展では、オブジェとコラグラフの他に、オランダの風景を描いた油絵も一緒に展示している。「絵も紙で…」と書いておきながら、油絵の方はキャンバス(麻布)に描いているので紙ではないのだけれど、ルオーなどは紙に描いているみたいなので(ルオーに描けるのだから)紙に描いても、何の不都合も無い様だ。でもここで、支持体が紙であるかキャンバスであるのかの違いを説明していると長くなりそうなので、それはこの次にしよう。
七月三日 齋藤眞紀
※プリーモ・レーヴィの本は
『天使の蝶』関口英子 訳(光文社古典新訳文庫)
『アウシュヴィッツは終わらない―あるイタリア人生存者の考察』竹山博英 訳(朝日選書)
『休戦』竹山博英 訳(岩波文庫)
6月
無花果<いちじく>(黄金町にて)

芸術は構成や技巧、つまり空間や外界への巧妙なかかわり方ではない。
(M・メルロ=ポンティ)
雨の季節となった。雨が嫌いかと問われれば、まんざら嫌いでもない。雨の日はじっくり本を読むのも、またぼんやりと物思いに沈むにしても、晴れの日よりか気兼ねが少ない。先日、面白い話を聞いた。日本には四季があると言うけれど、実のところは五季なんだと。春夏秋冬に、雨という季節があるのだと。なるほど、日本は雨が多い。季節の変り目には必ず長く雨が降る。その雨の時期をひとつの季節とみて楽しもうという。
前触れもなく雨の季節となった。アトリエの、屋根の軒には大きな巣箱がつけられている。家を直す時に父がつけた。その巣箱に、毎年きまって椋鳥が巣を作る。例年ならば親鳥は、梅雨入り前にひな鳥の巣立ちを促すものだが、流石に今年はその間が無かった。今朝も屋根の方からは、しきりにえさを求める可愛らしいさえずりが聞こえてくる。大雨が降ると、アトリエの樋から雨水が溢れ出してしまう。椋鳥がいろいろなものをくわえて来ては屋根に落して行って、それが樋に溜って泥になり詰ってしまうからだ。ならばいっそ巣箱を外してしまえというのも道理だが、道理が必ずしも正しいとは限らない。家を直す前は、どこかのすき間から入って屋根裏に巣を作っていたものだった。椋鳥達とは、父がこの家を建てた頃からの付き合いだ。
僕のように拙い文章でも、何事かの反応を頂けるのはうれしいこと。「頭に浮んできた言葉と、なかなか出てこない言葉とのあいだで、無花果の木の葉越しに海を眺める、これほど、確実な忠告、豊饒な放心、精神の行為の貴重な未決定がありましょうか。」『初景色』と題したエッセイで、ヴァレリーのこの文章を引用したところ、「なぜ突然無花果なのか?」と。もちろん富戸に無花果は無い。あったとしても正月では、木の葉を落して裸だろう。こういうことだ。富戸の岬で僕が絵を描いている時の心とヴァレリーの文章を読む僕の心が同じだったから。本来このエッセイはこう結ぶつもりだった。…アトリエの裏の家には、おばあさんがとても大事にしていた無花果の木があって、おばあさんと庭で顔を合わせると、よく無花果の実をその場でもいでくれたものだった。でも、まだほんの子供だった僕は、両手一杯に抱えた無花果を食べられずに、頂いた実は、いつも父がひとりで美味しそうに平らげていた。大人になって、僕も無花果を食べられる様になった。でも、もうその頃は、余り体調の良くなかったおばあさんは家にこもりがちになって、僕と庭で顔を合わせることも無くなってしまっていた。その裏の家も代が替わり、孫娘が家を新築するという。おばあさんの大事にしていたあの無花果の木はあっけなく切られてしまい、僕は悲しい…。世の中の振舞いを見るにつけ、今しかない様な心持にいらだちを覚える。人は今だけを生きているのではないと思うから。人には思い出があり、その思い出は、今を生きる上での肥しになるものだと僕は思う。そしてその思い出がバッサリと切り捨てられる様を目の当りにするのは、とてもつらいことだ。…と。
それが仮え非合理なものだとしてもだ。戦後の闇を一身に背負った黄金町の、僕は往時の姿を見聞きして知っている訳ではない。青線だった頃の様子が、黒澤明の『天国と地獄』に出てくるというが、それさえもが朧げだ。子供だったから…と書きたいところなのだが、そちらの興味が無かったのだろう、黄金町から「ちょんの間」と呼ばれた畳三畳ほどの非合法の特殊飲食店(…まどろっこしい)、いわゆる売春宿が姿を消したのは、そう古い話しでもない。評判がまるで芳しくなかった「開港150年祭」の一環として、横浜のイメージアップを計る為に警察が重い腰を上げて取り締まったことによる。それが2005年。京急の日ノ出町から黄金町にかけて、大岡川と京急の高架にはさまれた路地のいまの様子は、有体に申さば、古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず…というところか?ちょんの間が入っていた長屋は徐々に壊されて行き、その跡地にはマンションが建っている。高架下のお店も、若者向けのバーやカフェに変わり、ずい分ときれいにはなった。歩いてみても、危ない気配はどこにも感じられない。比較をしてみてもはじまらないが、川崎の南辺りは、昼間でも、ほのかに夜の街の香りが残っていて、知らずしらず足早になってしまう。土地の匂いを失くしたと言えば良いのか?アートで町興しを狙っているらしい、しかし僕にはどうも、ところどころ歯が欠けた間抜けの顔に見えて仕方がない。
今年は5月も終わらぬうちから梅雨になった。暦の上では、6月11日、12日ぐらいが入梅。5月の終わりに降る雨は、走り梅雨と言って区別するものだが、天気予報は梅雨に入りましたと言う。6月にならないうちからの梅雨入りは、僕の記憶に無い。
水無月三日 齋藤 眞紀
※文中の引用は…
○M・メルロ=ポンティ『眼と精神』(みすず書房)
○ポール・ヴァレリー『ドガ・ダンス・デッサン』(筑摩書房)
○古京…は、『新訂 方丈記』市古貞次 校注(岩波文庫)
5月
友に…。(百段公園・山手高田坂にて)

自尊心は網をあまりに高く張るので、現実的なものは何一つそこにかからない。虚栄心は三段網を社会のどん底に広げるので、随所で、つねに何かしら利得になるようなものを拾い上げる。(P.ヴァレリー)
今度は黄砂だと言う。トーキョーの空は相変らずすっきりとしない。
絵描きはものを知らないもの。銀座での個展の折に、「オランダの光」と題した小文を寄せたところ、同名の映画があるのだと、何人かの人に教わった。オランダの空は明るく透明で澄んでいる。それが僕の印象。その空の、季節による移り変りを追った映画なのだそうだ。感想を聞くと、面白かったと退屈だったの割合が1対4。ちなみに1は写真家の人。
絵描きはものを知らない方が良い場合がある。科学者レオナルド・ダ・ヴィンチが、永遠に残る様にと、顔料と絵具の事をみっちりと研究し、(画家として)満を持して挑んだはずの『最後の晩餐』は、無残にも「鱗状にほとんど剥落してしまった」と、堀田善衛の『ゴヤ』は教えてくれる。
絵描きは違いの分かる大人?…オランダの光は、明るく透明で澄んでいると書いた。もちろん光が変われば、絵の方でも色彩が大きく影響を受けるはず。色は感性だとみんなは言うけれど、僕に言わせれば、(光の)違いが分かることが感性、色は理屈で成り立っている。理屈ならば更新することも可能なはず。新しい色の世界を立ち上げることが出来るはず。
絵描きに必要なのは、多くを知ることではなく、時に何かに引っ掛かること。来年また、スケッチ会のメンバーと海外にスケッチをしに行こうと思う。候補はチェコとポルトガル。ヨーロッパという以外に共通点は無い。でもどちらも魅力的。チェコはプラハとチェスキー・クルムロフ。世界遺産として有名。チェコに行きたい人の意見を聞くと、プラハに行ってみたかったや、ミュシャの絵を観たいだとか、はたまたユーロになる前になどが最大の理由。もちろん理には適っているが、スケッチをするという視点からすると弱いようだ。一方、ポルトガルは遠くて不便。しかもリスボンやポルトなどは素通りで、小さな小さな村に滞在するプラン。でもこちらの方に魅力を感じる人が多い。それは多分…話しを聞いていて、何かに引っ掛かったから。その何かが大事。もし仮にチェコに行きたい人が多かったとしても僕は、ポルトガルを推すと思う。その何かは決して僕らを裏切らないと思うから。
…と書いてきて、美大を卒業して作家活動を始めると、真先に画商に言われることがある。「30歳の壁、40歳の壁」というのがあるんだよと。絵が描けなくなって挫折する者。経済的に行き詰る者、それらの人達をふるいにかける壁があるのだと。その壁は歳
と共に大きく高くなって、絵を志す者達の前に立ちはだかる。この歳になって思うのは、もっと最初に教えておいてほしかったことがある。絵は売れないと絵描きは続けられないのだと。絵が売れれば、お金が入る以上に、自らの虚栄心が満たされる。自尊心と虚栄心。この2つが揃わなければ、壁を乗り越えることは適わない。絵が売れない絵描きの心は、いつかは、いつかは折れるものだから。
写真でみる昔の百段階段は、真っすぐと立つ壁の様だ。いま僕の前にある50歳の壁の様に高く険しい。個展の折に、「意味は無い」と断りながらも、僕の絵を観ながら叔父がぽつりと漏らした。「真紀君は何処へ行く…という感じかな」と。
五月七日、 齋藤眞紀
文中の引用は
『ヴァレリー集成Ⅰ』の中の「スタンダール」より。ポールヴァレリー(筑摩書房)
※ヴァレリーの文章を読むことでずいぶんと救われている。
『ゴヤⅡ‐マドリード・砂漠と緑』堀田善衛(集英社文庫)
4月
芝崎海岸・葉山にて

自分が知っていることを忘れるようにせよ、
それをどのように知ったかを知り、
自分が知っていることは何かを伝えるために
(ポール・ヴァレリー)
葉山の美術館で、アフリカの彫刻家の仕事を観た後、バスの時間にはまだ間がありそうなので、海岸線の道をゆっくり辿ってみようと思う。そのうちバスが追い付くことだろうし、今日はスケッチの道具も一緒に抱えて来ている。この道は、何度も自転車で通った道、これからもくり返し通る道だけど、こうして改めて歩いてみると、いつもと違う顔で僕を迎えてくれている様だ。砂浜を散歩する人がいる。浜辺で子供を遊ばせる親がいる。堤防から釣り糸を垂れる人や、ダイビングの講習でここに来ている人達がいる。この浜にも人の気配がある。
海岸通りからは少し脇に外れる形になるので気がつき難いが、ちょうど、美術館と森戸神社の真中辺りにある出張りが、「葉山層群の森戸泥岩層及び森戸凝灰岩層からなる岩磯を中心とした」珍しい磯になっている。ここ芝崎海岸は、幸運にも、岩磯とその周辺水域の貴重な自然に手が付かず残されていたお陰で、生態系の調和が保たれ、海洋生物の宝庫となっているのだそうだ。ここで発見された新種も多いという。いまは、葉山町によって天然記念物(芝崎ナチュラルリザーブ)に指定されている。堤防の上に腰かけると、この磯の全容が見渡せる。穏やかな海、沖では漁船の船影が小さく見え隠れしている。磯では地元の人だろうか?先程から中腰の姿勢でせっせと手を動かしては、傍らに置いた小さなバケツに何やら穫ったものを入れている。遠目では分からないが、岩のりでも穫って鋳るのだろうか。戸外に出て、風に吹かれるのはひさし振りだ。このところはアトリエでの仕事が続いていたし、震災の影響で、川越に行くはずだった3月のスケッチ会も取り止めにしてしまったから、(自転車も花粉が酷しくて乗る気にならない…)僕だけではないと思うのだけれど、3月11日の地震以来、頭の中が常にざわざわとして落ち着かず、とても煩わしい。頭の方で起きた事の大きさを受け止められないでいるのだろうか、まるで音(情報)を読まなくなったCDプレイヤーみたいに、クルクルといつまでも空回りを続けている感じなのだ。みんな情報を!と言う。リアルタイムな情報が欲しいと。だけど、(被災したわけではない我々は)ちょっと考えてみて欲しい。情報を受け取る僕らの方が、壊れたCDプレイヤーなのだとしたら、どんなに正確な情報が寄せられようとも、チェーンメールのたぐいと同じで、たいして役に立ちはしないし、かえって混乱をまねくばかりなのだと…。
(今僕に出来る事は、震災の事、フクシマの事、そして、震災後の事を考えることだと思う。)停電の夜、空を見上げると、普段よりも星は大きくまたたき、月は煌々と冴え渡っているのに気がつくと思う。『夜は暗くてはいけないのか』という本の中で、著者の乾正雄さんは、こう記している。「現代はどこもかしこもまばゆいほど明るい」と。しかし、「…かつてのほの暗い空間暮-それは、人間が暮らすのにふさわしい環境だったのではないだろうか。そのころは、落ち着いた人、思慮深い人、謙虚な人などがもっと多かったように思う。…」「現代はどこもかしこもまばゆい」、そのまばゆさは、砂上の楼閣の上に成り立っていたものだということを、僕らはいま思い知らされている。
最後に、鎌田慧さんの『原発列島を行く』の、はじめに…を引いて終わろう。僕が自分の言葉で語ろうとすると抑制が効かなくなりそうだから、乾さんの本もこの本も10年くらい前に出たものだ。「いまのわたしの最大関心事は、大事故が発生する前に、日本が原発からの撤退を完了しているかどうか。つまり、すべての原発が休止するまでに、大事故に遭わないですむかどうかである。大事故が発生してから、やはり原発はやめよう、というのでは、あたかも二度原爆を落されてから、ようやく敗戦を認めたのとおなじ最悪の選択である。」
僕の目の前の海は、とても穏やかに見える。
四月一日、エイプリール・フールに
齋藤 眞紀
文中の引用は
〇『ヴァレリー集成Ⅰ テスト氏と<物語>』ポール・ヴァレリー著(筑摩書房)
〇『夜は暗くてはいけないか 暗さの文化論』乾正雄著(朝日選書)
〇『原発列島を行く』鎌田 彗著(集英社新書)
3月
地蔵坂上にて

ブームとは、起こされるものであって、起こるものではない。”口こみ”と聞くと、さも自然に広がったものとの印象を受けるが、それが宣伝の常套句であることを考え合わせれば、それさえも、自然さを装った巧妙な作為でしかないだろう。
今年は岡本太郎の生誕100年。僕らにとっては、『太陽の塔』の、若い世代には、渋谷駅の壁画『明日への神話』の岡本太郎だ。展覧会をはじめ、作品集や著作集の出版に、雑誌の特集、TVドラマなどが目白押し。マスコミはそれにあやかろうとあの手この手。普段はあまり人が訪れない川崎の岡本太郎美術館にも、彼の誕生日には、多くの人が訪れたという。
僕はここで、岡本太郎について書こうとしているのではない。岡本太郎にまつわるイメージの話しをしたいだけ。どちらかというと、『太陽の塔』の世代に属する僕には、この俄仕立ての太郎ブームには、違和感を持っている。
岡本太郎とは、この違和感を巡る物語なのではないかとさえ。『太陽の塔』の世代、ある程度リアルタイムで彼のことを知っている世代にとって、岡本太郎は両義的な存在のはず。凄い芸術家らしいのだが、TVでは目をむいて、「芸術は爆発だ!」と吼える変なおじさん。「まっさらな目を持て、そして目的を捨てよ。」ある雑誌の太郎特集のキャッチコピー。字義通り受け取れば、先入観を持つな、虚心であれ、とでも言えば良いか?僕が絵を教えていて痛感するのは、人はいかに先入観で物事を見、判断しているのかということ。人は、自分の眼でみている様でいて、実は先入観という、あらかじめ作られたフィルターを通してしか物事を見ていない(場合が多い)。そして、そのフィルター越しに見た情報を元に、何事かを判断してしまっている。だから最初にブームは作られるものだと断っておいたのもそういう訳。
太郎が亡くなってから、生誕100年を迎える今日に至るまで、国立の近代美術館での回顧展が遅れたのも、太郎自身が僕らに与えた先入観と無縁ではないだろう。パーキンソン病の影響もあったのだろうが、TVやコマーシャルでの、その特異(怪異)な風貌と、おもしろおかしい(と受けとめられていた)言動が、ある時期から彼を人気者?へと押し上げていった。しかし、TVへの露出が増える程、彼の芸術家としての地位や評価は、際物扱いされ、相対的に下っていった様に思う。
「まっさらで」いろと説きながらその一方で、太郎が僕らに植え付けた強烈なイメージが、僕らに、「まっさら」でいることを難しくもしたのだ。だからいま、戦後最大の前衛芸術家としてでも、TVに出ている変なおじさん?でももちろんない、「まっさらな目」で『明日への神話』を受け入れることが出来る世代が登場して、ようやく、太郎の仕事への再び光が当たろうとしている。
天気予報によると曇りのち雨。雨は夕方遅くからの予想だが、沿岸部では午前中から雨がパラつく模様。ベランダで洗濯物を干しながら、空を見上げる。時折り陽も差していて、そんなに悪い様に思えない。明日は晴れて、気温が4月並みに上がり、春一番が吹くという。雨を取るか、それとも春一番を取るか?もちろんスケッチの話しだ。南から生暖かい風が吹く時節になると、途端に僕の気分は滅入って来る。同病相憐れむで、僕が何を言っているのか、もう分かる人には説明はいらないだろう。先月は一年で一番寒い頃だと書いた。一月で随分と季節が進んだもの。当然、僕は雨を取った。いざとなれば屋根のある所で描けば良い。石川町の駅前を流れる中村川にかかっている亀の橋の袂に、「濡れ地蔵」というのが立っていて、この地蔵があるところから、山手へと上る坂に地蔵坂と名前がついた。もとは坂の中途にあったらしい。その由来は長くなるので省く。坂を上り、僕は山手本通りが桜道と合流する辺りにある小さな公園の入口に腰を落ち着けることにする。
山手で絵を描く人達の多くが、洋館を目当にやって来るので、こんな地蔵坂の、人もいない小さな公園で描く人はまれなのだろう、通りすがりの人が声を掛けて来る。「雨に濡れませんか?」と聞かれたので、「濡れます」と答えると、何を物好きなという顔をして、笑いながら去って行った。雨の痕跡が良い具合ににじみを作ってくれる。でも、これ以上雨が酷くなっては叶わないので、急いで黒を入れて仕上げをしなければ…。近くに適当な屋根は見当たら無いが、幸い公園の中に大きな木があってこの程度の雨なら、茂った葉が上手に防いでくれるだろう。
弥生二日 齋藤眞紀
2月
妙香寺前にて

クリフサイドを脇に見やり、代官坂トンネルをくぐり抜けると、眩しく照り返す冬の日差しを受けて、坂道は左へ折れながらゆったり本牧の方へと下って行く。店が増えてにぎやかな元町側とは対照的に、山手公園や妙香寺のあることらの、みかけは閑静な住宅地。無やみに高い建物が無いせいか、真冬のこんな時節でも、ぽかぽかとして、のどかな雰囲気が漂いなんだか居心地が良い。坂を下り切ると、妙香寺前。左はビヤザケ通り、右へ行って本牧通りへ出なければ桜道。それぞれを上るとまた山手へと戻る。思わず住宅地と書いたが、ビヤザケ通りと桜道にはさまれたこの狭い一角には、意外と学校が多い。元町小学校をはじめ、北方小学校、雙葉の小中高校に、フェリス女学院や2つのインターナショナルスクール、それに幼稚園や保育園などなど。
この冬はひさし振りに寒い冬。とりわけ1月の終わりから2月のはじめにかけてのこの時期が一番寒い。最高気温が10度を下回る日が続いていて、スケッチに出掛けるタイミングが難しい。昨年一昨年は、冬らしくなかった。今から思えば、そちらの方がありがたかった。それが、今年の様に、冬に威張られてしまうと、たとえ日差しの温もりがあっても寒い。第一、絵具が乾かない。乾くのを待っていると凍えてしまう。こんな時に長居は無用。色は着けず、墨の濃淡で済ませるか、いっそのこと、颯とデッサンだけで終わらせて、あとはアトリエで…にするくらいが賢明なところだろう。
アトリエの2階の窓際には、もう5年目の冬を迎えるシクラメンが居座っている。毎年冬になると、シクラメンの鉢植えを買って来る伯母は、「次の年も咲くの!!!」とビックリする。居座るとは人聞きが悪い。もちろんシクラメンは、誰かに動かしてもらわない限り自分では動けないので、勝手に居座っている訳ではない。そもそも、シクラメンに限らず<動く>とは、動かされることのこと。動かされるから動くので、動かすものがいないと、動かない(動かされない)。屁理屈の様だが、古代ギリシャで、アリストテレスはまじめにこう考えた。それを中世になって、ヨーロッパの人達は、神の存在を証明するために利用したのだとか…また話がそれた。シクラメンを調べると、多年草とある。個展の折に頂いたものが、放って置いたらそのまま居着いてしまったのも納得。居心地が良かったわけではないだろう、水だってやったりやらなかったり。仕舞には、葉もつけず球根だけのハゲ山に。シクラメンの和名を、「豚の饅頭(まんじゅう)」という。(実はもうひとつ、「篝火花(かがりびばな)」というのもある。)球根の部分を豚がえさにするところから思いついたらしい。しかも、古くは人間もこれを食べていたというから驚いた。干涸びた様に見えるハゲ山を、食べてみようなどという想像は、凡人の僕には到底思いつかない。流石に、もう片づけ様かと思っていた矢先、たまたまTVでシクラメンの植え替えを紹介していたので、それを試してみたところ、なんとなんと、干涸びたハゲ山が見事に息を吹き返し、小さいながらも沢山の花を咲かせたのが昨年の春のこと。この冬も、いまのところ順調に花を咲かせはじめている。たぶん春になって、我家のシクラメンを御披露目すると、伯母はまた驚くのだろう。
正月のスケッチ会で深川に行って、富岡八幡の境内や深川不動尊の参道に、飲み屋が集まる横丁などを描いてきたせいか、古い店の趣になんとなくひかれている。坂の途中、ちょうど妙香寺の向かい辺りか?、木造の古い一軒屋があって、表には黒地に白で文字を染め抜いた大きな暖簾が掛かっている。「呉服・染物・丁字屋」とある。100年以上続いている老舗らしい。そう言えば、繁華街の元町に、呉服屋が…(あるのかもしれないけれど)見当たらないと思っていたら、こんな裏にあったとは。絵のモチーフを求めている僕らには、さりげなくって良い感じ。和服をしつらえる人達は、にぎやかな街中よりも、こんな静かな佇まいがすきなんだね。敷居が高い感じはしないので、間違って?僕が和服をそろえる時でも来たならば、この店の暖簾をくぐってみようか?
如月五日 齋藤眞紀
1月
初景色(富戸、伊東市)

年賀状(1日)
アルバイトの学生が配っているのだろう、キーッと耳障りなブレーキの音に続いて、コトリと郵便の束がポストに落ちる音がする。いつもは気にも留めないくせに、今日ばかりは郵便配達の来るのが待ち遠しい。正直、僕は付き合いの良いほうではない。日ごろ色々な方面に無沙汰ばかりをしている。だからと言う訳でもないが、年賀状くらいはなるべく欠かさないよう心掛けているつもりだ。もう何十年も会わない人もいる。遠方でなかなか会う機会のない人も。そうした方々と一年に一度、君のことは未だ忘れていないよと、お互いの消息を伝え合うことが出来るのだから、こんな有り難いものはないだろう。面倒だからと出さない人も多くなった。そんなことを言いながらも、僕でさえ、毎年暮れになると今年はどうしようかしらと頭が痛い。だから、年賀状を書く手間を厭う気持ちも分からないではないのだけれど。
ゴダール・ソシアリスム(2日)
朝の映画館、人影もまばら。断片化された映像(イマージュ)と音(ノイズ)と引用の集積(コラージュ)。あるいはモンタージュ。果たして、僕らがいま観終わったものを映画(シネマ)と呼ぶべきなのか?−ウィ−。ゴダールの言葉、「シネマがどんなフィルムにも存在するとは限らない、だけ」。彼も80歳になった。これが最後の映画?−ノン−、次回作のタイトルは?−『言葉よさようなら』Adieu au langage−
箱根駅伝(3日)
いま駅伝は、緻密な計算と戦略によって成り立っている。まるで自転車のロードレースをみている様。大崩れすることなく、1キロ3分、20キロを1時間で確実に刻める力が必要。ひとりのエースの活躍よりも、10人のアベレージの方が速いということ。
初景色—富戸—(4日)
穏やかに晴れた空とは対照的に、鋭く切り立った岸壁、狭い入り江に激しく打ちつけ岩にぶつかり逆巻く波しぶき、コバルトグリーンの海はあくまでも透明。絵を描く僕の傍らで、妻が怖い怖いと言いながらも、その様子を形態のムービーで撮影している。割れた音に荒々しい波。画面で執拗に繰り返されるイマージュはまるでおとといのシネマ(映画)の続き。
僕らは熱海で伊豆急へと乗り換えた。リゾート21の車内はゆったりとして気持が良さそう。今から下田辺りにでも行くのだろう、一部のコンパートメントではすでに宴会ムードの乗客たちが、窓際の特等席を占めて騒がしい。僕が伊豆へ向かうのは何時以来だろう。記憶を手繰り寄せてみても、断片が思い浮かぶだけで、まるで判然としない。たぶん小学生の頃の夏休みに家族旅行をしたきりか?それも一度か二度?いや、サボテン公園に8ミリ映画の撮影で来た覚えがある。その時は車で連れてこられて、また車で帰ってしまったので、ほとんど印象にないだけ。川崎で乗り込んだ10両編成の熱海行きの東海道線は、茅ヶ崎を過ぎてもまるで空く気配がない。世の中は今日からが仕事始め。でも僕は2日も前からこの原稿を書き始めている。自慢ではない。いきなりは書けないので、始める前に、頭のスイッチを切り替える必要があるからだ。死の間際まで『カイエ』を書き続けたポール・ヴァレリーみたいに、発表するでもなく、日記を綴る様に、毎日毎日自分自身の思考の発露を書き留める努力を惜しまなければ、僕でもスラスラと書くことが出来るのかもしれないね。しかも格好良く、例えばこんな風に、「頭に浮かんできた言葉と、なかなか出てこない言葉とのあいだで、イチジクの木の葉越しに海を眺める、これほど、確実な忠告、豊穣な放心、精神の行為の貴重な未決定がありましょうか。」と。
ある日、富戸の海岸のとある小さな岬に、伊豆へ流された源頼朝と、この地の管領伊藤祐親の娘とのあいだに生まれた幼子千鶴丸の亡骸が流れ着いたそうだ。いまこの岬には祠が建てられ、産衣石という大きな石が祀られている。さすがに無花果とまではいかないけれど、葉を落として裸になった桜の木の枝越しに広い海を見渡すことが出来る。小道を歩み、海に突き出した岩場にある展望台に上ると、大島はもう目の前。青い島影がくっきりとして美しい。アロエの花の鈍いオレンジに、赤と白の寒椿、そして愛らしい水仙の花々が冬枯れの景色に色彩りを添えてうれしい。
初景色という言葉は、俳句の季語から拾った。普段見慣れた光景でも、年があらたまったという感懐から、まるで違った世界の様に新鮮に感じられることを言うのだと。もちろん、富戸のこの海岸を訪れるのは今日が初めてなのだけれど、ここでしばらく絵を描いていると、子供の頃にも来た様な気がしてなぜか懐かしい。
「初景色はやはりよいものである。」
正月五日
齋藤眞紀
※文中の引用は『ゴダール・ソシアリスム』のパンフレット
ポール・ヴァレリー『ドガ・ダンス・デッサン』清水徹訳(筑摩書房)
『図説日本大歳時記』(講談社)より



Column 201...