Yamate254

横浜・山手にある服飾資料博物館<岩崎ミュージアム>スタッフによる情報告知用HPです。

プロフィール

1964年 川崎市に生まれる。1990年 和光大学人文学部芸術学科卒業。現在、横浜市鶴見区在住。スケッチ40%を主催。舞台美術の制作を皮切りに、抽象具象、平面立体を問わずジャンルをクロスオーバーしながら制作活動を行っている。…その為、「専門は?」と問われるのが一番の弱み。近年はこの岩崎ミュージアムをはじめ、川崎市市民ミュージアム、郡山市立美術館、いわき市立美術館などでワークショップの講師を数多くつとめるほか、横浜市教育文化プログラムの一環で、小学校への出前造形教室を行い、美術の楽しさを広める活動にも力を入れている。

COLUMN 2022

 
ポルトガルからの手紙

オビドス、アゼーニャス・ド・マール、そしてリスボン

2022年11月
 
 
Ola! Bom dia!
ぼくはいまこの手紙をリスボンのエストレラ地区にあるホテルの美しい中庭が見えるリビングで書いている。開け離れた窓からは小鳥の囀りが聞こえとても静かで良い場所だよ。
誰にもポルトガル行きを告げずに出て来てしまったけれど、君にだけは言っておくんだったね…。
リスボンでは観光客が戻り、コロナの影は微塵も感じない。日本も早くそうなると良いのにと思うよ。本当に。
前にも書いたよね、リスボンはバックパッカーの吹き溜まりみたいなところだと。ところが不思議とその姿を見掛けなかった。
もっともグラッサとかセニョーラ・モンテとか彼らがたむろしていそうな場所には行かなかったけど。
君と一緒に行ったオビドスへ行ったよ。リスボンのカンポ・グランデからバスで1時間ほど。それほど遠くない。なにせ久しぶりだろ。だから、長い移動はなるべく避けたかったんだ。
本来のオビドスは「谷間の真珠」と謳われるほど美しい街なのに、オーバーツーリズムで台無しにしていたよね、随分と。だからさ、もしかして、今ならオビドスの良さを味わえるかと思って…。
ぼくの予想は見事に当たった。朝、日の出とともに城壁に上り家並みを見渡すと、静寂と清冷な空気がこの街を支配しているのが分かるんだ。だからつい嬉しくなって、スケッチブックを抱えて歩きながらもあちこちで目移りをして時間が経つのを忘れてしまう。
街の周囲は実に長閑で、駅、そうオビドスにはポルトガル鉄道の駅があるんだ、無人駅だけど。で、駅に行ったり水道橋を辿ったり、街を離れて田園を散策するのもとても気持ちが良い。10月も終わりだというのに暑いくらいで、歩き回った後のチョコカップに入ったジンジーニャがとても嬉しかった!
今回の旅の主眼はAzenhas do Marに行くことだった。シントラの近くの大西洋に面した村なんだけどあまり知られていない穴場、なのかな?
Azenhas do Marと、Praia das Maçãsという海水浴場の間にある、海辺にぽつんと立つ一軒家Casal Sta. Virginiaに宿を取った。始終荒波の音が聞こえる素敵な家だったよ。
天気はお世辞にも…。風はビュービュー吹き荒れてたし、雷は鳴るしで、でもそれがかえって荒れ狂う大西洋を目の当たりにする良い機会だったのかもしれない。リスボンに戻ってから足を伸ばしたカスカイスは海が穏やかすぎて拍子抜けしたからね。
 Casal Sta. Virginiaから海沿いの遊歩道を、おそらく10分も歩けば、白堊のAzenhas do Marを一望する見晴台に出る。思わず息を飲むとはまさにこのことだ。おそらく、薄曇りでこれほど感動するのだから、天気の良い日は尚更、太陽の光を一身に浴びるAzenhas do Marの白い家々が輝きを増すことだろう。
 大西洋に突き出た断崖にびっしりと並ぶCasa Branca。そう、白い家だからこそこの情景が成り立つんだ。身贔屓じゃなく、どんな国のどんな場所だろうと、ぼくの眼前に広がる景色に敵うものはないとさえ思えてくる。
「ポルトガル人はずるい。こんな素晴らしい村に住めるなんて!」それがぼくの偽らざる思い。
 有り難いことに本数は少ないが路線バスが走っていて、バスはPraia das Maçãsからシントラの山を縫って走る路面電車シントラ・アトランティコの軌道とほぼ同じ道を辿りながらシントラへ行く。路面電車は夏のシーズンのみの運行で、イザベル・ユペール主演の『ポルトガル、夏の終わり』という映画にも出てくるから見てみると良いよ。その映画でポルトガル人の少年が景色の良いところがあるんだと行って、海水浴に来た黒人の少女をAzenhas do Marが見晴らせる場所へ誘うんだけど、海水浴場からはちょっと距離があるので、設定としては無理があるかな…。〈注1〉
 最初にリスボンのホテルと書いたけど、正確にはAlojamentoと言って家や集合住宅を宿泊施設にしたところだ。ぼくが今泊まっているところは古いアパートメントの2階部分を宿にしている。ちょっとしたlisboetaになった気分だね。
 水曜日にはそっちに帰るから、そしたら話をもっと聞いてもらおう。
 

                                 Abraço,Maki Saito

 

1 de novembro de 2022
The Hygge Lisbom Suite-Estrela, Lisboa, Portugal

 
 
追伸:リスボンからロンドに向かうブリティッシュエアウェイズ507便の出発が大幅に遅れて、ロンドンに一泊する羽目になった。すでにリスボンで乗り継ぎが不可能なのが分かっていたから無茶苦茶腹が立ったけど、飛行機の降下間際にパーサーから、明日の羽田行きとロンドンのホテルが予約してあると告げられて、それでほっとした…というより腹を括ったのかな、それからはこの状況を結構楽しんでて、乗り継ぎカウンターの長蛇の列を前にしても「時間はあるさ」と落ち着ている自分がいたから不思議なものだ。もっともロンドンにいる以上英語で乗り切らないといけないのが少々問題なのだが…。
 さあ、もうすぐヒースローへ向かう時間だ。

                                   2022年11月02日

 



注記 固有名詞の日本語とポルトガル語の表記の違いはガイドブックなどで一般的なもは日本語、それ以外はポルトガル語表記にした
 
Casal Sat. Virginia(カザル・サンタ・ヴィルジニア)
Casa Branca(カーザ・ブランカ)ー白い家
Alojamento(アロジャメント)ーCasal Sta. Virginiaもこれ。
lisboeta(リジュボエッタ)ーリスボン子、リスボンの人。

注1 バスはPortela de SintraーAzenhas do Mar間をScotturbo441系統が走っている。

 
夢の痕跡(鶴見線途中下車)

鶴見区寛政町(安善~武蔵白石)

2022年10月
 
 
貨物船入り来る運河の先になほ電車の走る埋立地見ゆ(土屋文明『山谷集』より)〈注1〉
 
まずはじめに説明が必要だろうか?
鶴見区寛政町とは、鶴見の南東部に位置し、蒲田と鶴見を結ぶ産業道路より海側の埋立地で、鶴見線の安善、武蔵白石と二つの駅があるが、その実情はかなり狭い単独行政地のことをいう。単独行政地とはいわゆる「丁目」の無い地域のことだからその狭さ(0,31㎢)は想像に難くない。
ひと月に一度絵を教えに通う保育園が同じ鶴見区の栄町通にあって、そこからなら寛政町はさほど遠くなく、真っ直ぐ伸びる広々としたゴム通りを自転車で10分も走れば産業道路で、それを渡った先の左手が寛政町。その向かいに入船公園と浅野駅がある。
ゴム通りという一風変わった名前の由来は、この道路の沿道に横濱護謨製造所(現・横浜ゴム)の工場があったことによる。残念ながら工場は空襲で焼けてしまい、いまはゴム通りの愛称だけが残っている。
寛政町の周囲はJFEスチール、東芝、昭和電工、ENEOSなどの工場が幅を利かせていて、週日はトラックの往来が絶え間なく、とても人影があるようには思えないのだが、記憶を辿ってみると、かつての安善駅前は小さな食堂や商店が立ち並んで、鶴見線の駅には珍しい、人の息吹きが感じられる場所だったような覚えが。初めて安善を訪れたのはもう25、6年も前のこと。なのでその記憶は定かではない。それに、そもそも人間の記憶というものは勝手な思い込みや願望で作り替えられていたりして、あまりあてにはならないのだが、やはりこの狭いエリアに559世帯、948人もの住民が住んでいるのだといい、自分の記憶も満更でもない。
JR鶴見線は鶴見駅を起点に横浜と川崎の京浜工業地帯を結んでいる。支線も含めた全長は9,7km、終点の扇町まで乗っても僅か20分弱の短い路線だ。
鶴見線の歴史は大正時代に遡り、1926年(大正15年)、鶴見臨海鉄道として開業する。国鉄への編入(戦時買収私鉄に指定)は1943年(昭和18年)のこと。その時に名称が鶴見線へ。
鶴見線小史を眺めていると、海水浴前停車場、石油駅、鶴見川口駅などと、面白そうな駅名が散見し、興味が尽きない。また、歌人の土屋文明が『山谷集(さんこくしゅう)』の中で鶴見臨港鉄道(原文のまま)のことを詠んでいて、
 
枯葦の中に直ちに入り来り汽船は今し速力おとす
石炭を仕分くる装置の長きベルト雨しげくして滴り流る
嵐の如く機会うなれる工場地帯入り来て人間の影だに見えず〈注2〉
 
ちなみに、土屋文明と母方の祖父は同郷でとても懇意にしていた。祖父の家の書架には土屋文明全集が揃い、病気見舞いの折にはよくその話を聞かされ、手紙なども見せてもらったが、とても味のある立派な字だったと記憶している。
7年前の2015年に、『鶴見線途中下車』と題して連載をしたことがある。その時には、終点の扇町から始め、確か鶴見小野と国道まで順に歩いて、なぜか鶴見駅は描かなかった。特に理由はないのだが、以降このシリーズが尻切れトンボで終わっていることがずっと気になって仕方が無かった。それで久し振りの来訪となったわけでもある。
最後に、来年扇町にあるJFEスチールの東日本製鉄所の高炉が止まり100年の歴史にその終止符を打つ。
JFEスチールの前身は日本鋼管。父方の祖父が定年まで勤めていた。もちろん、祖父が勤めていたのは自分が生まれるずっと前のことでまるで知る由もない。…ないが、高校が浜川崎線の川崎新町だったこともあり、朝、尻手の駅に着く木造2両の電車からどっと吐き出される夜勤明けの職工さんたちの姿に、祖父の若かりし頃の姿を重ねわせて見ていたような気もして、とても懐かしい。
祖父が亡くなったのは30年前だが、日本鋼管の退職金で息子をパリに私費留学させたことは今でも語り種となっている。
 

2022年10月3日 齋藤 眞紀

 


注1、注2 『土屋文明歌集』 土屋文明自選 (岩波文庫)
 

恐竜襲来!

ランドマークタワー

2022年9月

 
 
O cinema só trata daquilo que existe, não daquilo que poderia existir. Mesmo quando mostra fantasia, o cinema agarra-se a coisas concretas. O realizador não é criador, é criatura.(Manoel de Oliveira)
 
 106歳まで現役を続けて亡くなったポルトガルの映画監督マノエル・ド・オリヴェイラのこの言葉は示唆に富んでいる。〈注1〉
「映画は確実に存在するものを扱うのであって、存在し得たかも?などというあやふやなものを扱うのではない。たとえファンタジーを見せるときでも、映画はあくまでも具体的な事柄にこだわるのだ。映画監督は神ではなく、人間だ。」ぐらいかな?
 抽象の絵描きたちが往々にして間違えているのはこの点だ。具象画に限らず抽象画だろうとagarrar-se a coisas concretas(具体的な事柄に依拠すること)が必要なのだ。
 自分が抽象を描く時のcoisas concretasは身体だ。自分の体の動き、リズム、嗜好や癖といったものに依拠しながら作品を具現化する。そう、風景を描く時も同じことをしている。描いているときに肌に触れる風や聞こえてきた音、暑いだの寒いだのと、詰まるところは描く行為(=体験)を通して体に染み込んだものを再構成するのが風景画だからだ。
 
 夏の初めにネット上で、Midjourneyという絵を描くAIが話題になっていたのをご存知だろうか?
 Midjourneyが作った画像がTwitter上にアップされてネット民は右往左往、喧喧諤諤、「絵描きやイラストレーターはもはや要らないね」という声まで。ところが夏が終わろうとしている今の旬はStable Diffusionなんだと。「「安定的な拡散」という奇妙な名前の人工知能は、「絵を描くAIの民主化」をオープンソースコミュニティーがやってのけたという点で、非常に注目すべき出来事」だ、と言われてもね…。
 絵の数量的な側面だけを見れば、おそらくその通り、「絵描やイラストレーターはもはや要らないね」っていうことかもしれない。実際にAIが作製した画像を見ると、手間暇かけて精巧に作られたイラストと言えば良いか?
つまり、スーパーでもハイパーでも良いんだけど、物をそっくりに描く事(写実性・リアル)を一義的に考えている絵描きやイラストレーターがやって来たことって、ただひたすら情報量を上げる作業をしただけだから、確かにAIは脅威だろう。だって、自分たちが散々時間をかけて描きあげた以上の絵がほんの一瞬で出来てしまうのだから…。だけどさ、そんな議論は19世紀に写真が出た時に一度しませんでした?
 
 夏休みが終わり、教室が再開されると、「コロナに罹っちゃいました~。」という生徒もちらほら。「ホテル療養は暇すぎて…」とひたすら本を読んでいたらしく、再開初日もアランの『幸福論(の抜粋)』を持ってきていたから、「アランは比較的に読みやすいよね。『芸術の体系』とかもとても面白いよ。」と、しばし本談義。
 
 「鳥の声や風の音をまねる人をつかまえて、その人を芸術家だとはいわないし、お手本をそのままなぞるだけの建築家をつかまえて、その人を芸術家だとはいわない。」
「…その姿を浮彫りに写しとるような、写真技術に似た技術を発明するのも、不可能ではない。…こうした類の肖像彫刻は、見つめていると不快になり、背筋が寒くなるほどであって、その理由を説明するのも難しくない。」〈注2〉
 
 脳の働きは〈記憶〉〈感情〉〈知覚〉〈運動〉と四つあって、その中で絵を描くことは主に〈運動〉に属しているのだが、初めにも書いたように、絵を描くということは、「自分の体験を通して染み込んだもの」や「自分の体の動き、リズム、嗜好や癖といったもの」に依拠しながら作品を具現化することでもある。要するに、〈記憶〉〈感情〉〈知覚〉〈運動〉の全てが関わっている。今のところAIがどんなに精巧な画像作成マシーンになろうとも、同じ土俵での勝負にはならないだろう?
 

2022年9月5日 齋藤 眞紀

 


注1 Manoel Cândido Pinto de Oliveira(1908ー1915)代表作は『アブラハム渓谷 Vale Abraão』(1993)など。
注2 アラン『芸術の体系』長谷川宏訳(光文社古典新訳文庫)


夏の夜の夢

横浜スタジアム

2022年8月

 
Nさんの思い出
 この秋のスケッチ40%展は今年で17回目。一昨年はコロナで中止だったので、グループ展を始めて都合18年が経っていることになる。
 月日というものは過ぎてしまえば味気ないものだ。それでも18年というのは色々な意味で長い。
 ゴルフとベイスターズをこよなく愛したNさんが我々の会に参加するきっかけは、オランダへのスケッチ旅行だったと思う。
 それから、ポルトガル、シチリア、カタルーニャ、イタリアの湖水地方にスイスと、いつも文庫本を手放さないNさんの姿があった。
 一時期教室で美術に纏わる本を紹介したことがあったが、岡田温司が訳したアガンベンなんかも「分からん!」と言いながら読んでくれたのはNさんくらいだったかなぁ…。
 どちらかといえばNさんはこちらの意見に耳を傾けてくれる人だった。絵の具の発色に満足いかない様子だった時に、「じゃ、セヌリエの水彩絵具はどうですか?」と勧めたところ早速使ってくれて、「先生拙筆が救われました。」と。
 描くのは決して速い方じゃなかった…と言うより、人一倍遅かったかもしれない。
 シチリアのラグーサ・イブラ(旧市街)を見下ろす高台で、1日掛けて一枚の絵をこつこつと、必死で仕上げていた後ろ姿がいまでも印象に残っている。その時は確か…Tさん、Kくんと自分にNさんの4人で新市街へお昼を食べに行ったっけ。
 スケッチ40%の例会の幹事は持ち回りで担当するが、Nさんが幹事の時に大黒埠頭の袂にある大東タンクターミナルの横浜油槽所の構内でスケッチ会を開かせてもらったことがあった。特別な伝手を頼まない限りスケッチなんて出来ない筈だから、得難い経験をさせてもらったと思う。もっともその日は気温が37℃まで上がり、過酷過ぎる条件下だったということも忘れずに付け加えよう。
 何人かで飲みに行った折、酒の勢いでつい「もっとみんな上手くなっても良いんだけどな…」と愚痴を漏らしたところ、珍しく真顔で、「教え方が悪い」と一喝されて喧嘩になったことがあった。
 自分もあまりオブラートに包む方ではないが、Nさんの物言いはそれ以上にストレートで、有体に言えば口が悪いのだが、いつもそのコメントは急所を外さず感心させられた。もともと絵を見る素養があったし、描くことにも真面目に取組んだのでめきめき上達した。
 コロナ禍が始まる前のこと。検査入院で癌が見つかり、抗がん剤での治療をおしてまでクラスの新年会の幹事を務めてくれた。席上では、人を煙に巻くようなことを言ってはこちらを心配させまいと気遣ってくれていたが、緊急事態宣言中に容態が悪化し、闘病の甲斐もなく不帰の人となってしまった。
 運命というのは本当に分からないものだ。余命幾ばくも無いと思われた人が生き延びる場合もあるし、元気だった人の訃報に突然接することもある。
 これ以上言葉をつくすよりも、試合前の練習風景を球場(横浜スタジアム)の外で見入っている人達を描いた今日の絵が、Nさんへの手向けになってくれればと切に願う。
 
マスクを捨てよ街に出よ
 日本人は合理的に物事を考える事が苦手だとつくづく思う。
 ポルトガルでは5月にBA5による感染の大流行が起こった。当初はマスク着用義務の撤廃を含むコロナ関連の規制の撤廃が原因と目されもしたが、結局マスクなしでもひと月ほどで感染者数が減少に転じてしまった。
 現在、世界で一番感染状況が悪い日本では、猛暑の中ほとんどの人がマスクをしている。それなのにこの体たらくだ。つまり、感染の波とマスクとの相関関係が、ポルトガルと日本の例をみるまでもなく何も無いということが見て取れると思う。
 イギリスではすでにcovid-19はインフルエンザなどその他の呼吸器系の感染症と同じ扱いだというし、ツール・ド・フランスで盛り上がったフランスでも街頭でインタビューをするとコロナは怖くないと言う人がほとんど。つまりウイッズ・コロナだね。
 いまの日本が極度にコロナを恐れ過ぎているのは、みんながマスクを外さないからだ。
 日常を取り戻すべく、「マスクを捨てよ、街に出よ」。※1
 


2022年8月5日 齋藤 眞紀
 

※編注1 章題は寺山修司氏の「書を捨てよ、町へ出よう」から。8月5日時点で<早く、そう言えるような状況を望む>作家の私見です。

 

夏の宵

山手18番館(イタリア山庭園)

2022年7月

 
Deveria fazer um esforço e olhar para as pintura dela com mais atenção.(注意深く彼女の絵を見る努力をすべきね。)
 
ポルトガルを代表する現代美術家パウラ・レゴ(Maria Paula Figueiroa Rego)が亡くなった。正直に白状すると、寡聞にも彼女の存在を知らなかった。もしかするとどこかで作品を目にしていたかもしれない。アマランテのアマデオ・デ・ソーザ美術館で現代ポルトガル美術展というのを観てるし、ベレンのべラルド現代美術館にも行ったから、きっと…とは思うが、ただこちらの好みじゃなかっただけなのかも。〈注1〉
彼女の仕事を一言で表すのは難しいが、こんな感じだろうか。
 
Concordo que essas histórias, ás vezes, são bastante violentas. Mas a arte é isso mesmo. A arte não é só coisas bonitas que nos encantam. A arte também são coisas que nos incomodam, que nos fazem pensar, sentir varias emoções, boas e más…e é isso que os quadros dela fazem.(彼女が描く物語は、時には、とても暴力的なのは認めるわ。でも、芸術ってそういうものじゃない。芸術は私たちを魅了する美しいものだけではなくって、私たちを苛立たせたり、考えさせたり、好悪両面様々な感情を惹起するものでもあるわけでしょ、彼女の絵はまさにそれなのよ。)〈注2〉
 
パウラ・レゴの存在を知ったのは、彼女が亡くなる少し前。ポルトガル語の教材Passaporte para Portuguêsを通してだった。訳文からご推察のように、パウラ・レゴが苦手な友人(男性)にある女性が彼女の魅力を語っている。
このポルトガル語のテキストの懐はとても深く、ポルトガル語以外にも勉強になることが多い。例えば…。
皆さんは、2012年にスペイン北部の街ボルハに住むセシリア・ヒメネスという老女が、街の教会にあるキリストの肖像(フレスコ画)『Ecce Homo この人を見よ』を修復して、キリストの顔を猿のように変えてしまったニュースを覚えているだろうか?
実はこのニュースには後日談があって、初めのうちは非難や嘲笑の声が多く寄せられ、パパラッチにも付け回されたりで大変な思いをしていたセシリアさん、次第に彼女の元へは同情の声が届くようになり、なんと、俄に信じ難いことだがこのお猿さんを一眼見ようと、スペイン国内のみならず世界中からこのボルハの街を訪れる人が後を絶たなかったという。そしてそれに目をつけたボルハ市はセシリアさんのキリスト像でTシャツやマグカップなどのノベルティーを作って一儲け。その肖像権料の約半分がセシリアさんの懐に入ったのだとか。〈注3〉
この件ですっかり有名になったセシリアさんはご自分の個展まで開き、作品もずいぶん売れたという。
この小文のタイトルが“Mais sorte do que talento”(才能より運)。うーむ。
もちろん元のフレスコ画を描いた作家の子孫は納得が行くわけもなく、元に戻せと訴えているようだが、果たして今はどうなっていることやら?
 
観測史上最短で梅雨が開けてしまった。既に35度の猛暑日が何日も続いている。今年の梅雨は鬱陶しい日々が多かったたわりに雨が少なかった。
石川町駅の裏口を出て郵便局の角を右に曲がると、弧を描きながら急な勾配を上る大丸谷坂。「おおまるだにざか」と読む。大正から昭和初期にかけて「チャブ屋」と呼ばれた娼館が軒を連ねていたと言う。いまはその面影さえない。〈注4〉
坂を上り切る手前右手に見えてくる小さな門がイタリア山庭園の入り口。門を潜り、階段を上がるとちょうど山手18番館の玄関に出る。建物の右手奥に桜の木が見えるこの構図は何度か描いた。下から階段を見あげる構図も洒落てるし、もちろん桜の時期は華やいだ雰囲気になる。正面よりもこちらの方が「情景」とうい言葉が似つかわしい、そんな気がする。おそらくそれがこの構図を好む理由なのだろう?
今年、夜景を描くのはこれで3回目か4回目?未だ半年しか経ってないのだから、確認すれば良いものの、生来の物臭がそれをさせない。
 

2022年7月1日 齋藤 眞紀

 


注1 Maria Paula Figueiroa Rego (1935ー2022)1935年リスボンに生まれる。1975年イギリスに永住。1989年タナー賞の候補になる。2005年オックスフォード大学から名誉文学博士号を授与された。
注2 『Passaporte para Português 2 Livro do Aluno Nível B1』Robert Kuzka /José Pascoal(LIDEL)
注3 一応…売り上げは、教会の保存修復や慈善団体に寄付されているとのこと。
注4 【横浜の坂道】大丸谷坂|YOKOHAMA STANDARD  http://theyokohamastandard.jp/article-3977/


 
旧綱島街道を歩く

六角橋〜妙蓮寺〜菊名

2022年6月

 
 神保町の土日は、いつの頃からか古びた構えの店先に行列ができるようになった。昔からの馴染みとしては、特段美味いものを食わせるわけでもないただ古いだけの店の、何が有難いのか皆目見当がつかないのだが…。
午前中の授業の後は大抵何人かと連れ立って昼飯を食べに行く。いつもは急で狭い階段を降りる隠れ家のような和食屋へ行くのだが、昨日は和食屋の上、つまりその1階に出来た○○のハンバーグにしょうと古株のOさんが言い出し、気乗りはしなかったが入ってみることに。
 ハンバーグと言えば、アレンテージョのメルトラで食べたハンバーグが、自分の人生の中でこれまで食べた一番美味いハンバーグだと断言できる。
メルトラのバスターミナルを少し上って行った見晴らしの良い高台にある、確か店の名前はO Burasileiro(オ・ブラジレイロ)。
ポルトガルでハンバーグか…と一瞬???が過ったものの、アレンテージョのDOC(Denominação de Origem Controlada)、いわゆる原産地呼称付きの牛肉を使ったハンバーグの誘惑に勝てなかった。
 コルクガシのどんぐりを食べて育つアレンテージョの豚肉には定評がある。ならば牛肉だって…。
 実際に供されたハンバーグは、見た目の平凡さからは想像出来ない至極の味わい。デミグラスソースも半熟の目玉焼きも要らないと思えるほど肉の味がしっかりしている。それにたっぷり添えられたフライドポテトの美味しいこと。
いやはや。
 東横線の白楽の駅を降りると坂道に沿って六角橋商店街が軒を連ねている。
狭い路地に商店や飲食店が立ち並ぶ仲見世、言うなれば昭和レトロの…なんだ自分だってレトロな雰囲気に惹かれるんだ!…昭和レトロの六角橋ふれあい通りのアーケードを描こうかどうかと考えていると、その隣の山崎カメラ店の入り口で店主のおじさんが外を眺めていて、お店とそのおじさんの佇まいがなんとも言えず、つい「絵を描いて良い?」と。するとおじさんこくりと軽く頷いてくれた。ならばと早速描き出すが、邪魔しちゃいけないと思ったのか?照れ臭かったのか?店の奥に引っ込んでしまった。あら、おじさんもセットなんだけど…。
 六角橋商店街からはゆるく上り下りしながらの一本道。この道は旧綱島街道と言う。正確なことが分からず恐縮だが、おそらくこの旧道は菊名で県道2号、今の綱島街道とぶつかるが、大倉山へ抜ける脇道が綱島街道と並走していて、この道筋は鶴見川を渡り新羽まで伸びている。おそらくこちらが本筋では?
六角橋から菊名まではおよそ4km。普通に歩けば40分くらいで歩けるか?いまは疎らで寂しいが、おそらく以前は菊名までの道沿いを店や工場などが埋めてさぞ賑やかだったのだろうと。
 踏切を渡るとすぐに山門がある妙蓮寺の駅は昨年描いた。その時は、駅の向かいの店はケンタッキーフライドチキンで、カーネルおじさんの顔を描き入れたのを覚えている。いまは唐揚げ屋に変わってしまった。
 妙蓮寺では昔からのおでん種屋八洲屋さんにご登場いただこう。このお店の窓格子は水玉のような大小の円で出来ていて、なかなか造作が凝っている。おでんの季節でもないだろうに、仕込みで忙しそう。
 おでん屋さんから程なくすると水道道と交差する。その傍が菊名池。近所の人達(たぶん)がしょっちゅう掃除をしているので手入れが行き届き感じが良い。こじんまりとした公園だが池の周りを背丈の高い木々が囲み、木陰で涼むのに丁度良いんじゃないかしら?
 菊名池を出て右に曲がりながら下る途中に古い木造平家の酒屋さんがある。営業を止めて大分経つみたいだけど、ちょうど腰の曲がったおばあさんが鉢植えに水やりをしていた。残念ながら今回はスペースの都合でカット。
 池を過ぎると菊名駅まではずっと下り坂だが、途中カーボン山と呼ばれる八重桜の名所がある〈注1〉。道を下り切ると線路が高架になり、ガードを潜ればすぐ菊名駅。ガードの手前に大きな石の大黒様や観音様などが整然と置かれていて、なぜ?と唐突に感じるが、菊名駅周辺は結構お寺が多い。
 さて、ガードを潜り、駅に着く。ふと後ろを振り返ると、黄色い看板に赤文字で大阪王将。「中華料理 ぎょうざ」の暖簾。いやいや今日は…と、後ろ髪を引かれながら駅の階段を上る。
 

2022年6月3日 齋藤 眞紀

 
追記:本文では触れませんでしたが、古い横浜六角橋郵便局の局舎は商店街から少し離れたところにあります。


注1 菊名桜山公園(カーボン山)。道路側からだとここが公園だと気づきにくい。

ポルトガル追想、そして薫風

元町公園

2022年5月

 
 
Happy people make happy horse 〈注1〉
 
この春で引退した競馬の名調教師藤澤和雄が、若い時分に修行したイギリスの厩舎で思うようにいかずいつも難しい顔をしていたところ、ある日バーで同僚から「Happy people make happy horse(幸せな人間が幸せな馬をつくる)」と諭されたという。
まさにこれは至言だ。絵の世界だって同じじゃないか?
 
5月2日から銀座のギャラリー惣で『ポルトガル追想』と題した個展が始まる。取材に出かけた最後がかれこれ3年も前のこと。そろそろ新鮮なネタを仕入れたいところなのだが、現下の情勢では見通しは暗いか?〈注2〉
 旅行の時はいつも日記替わりに小さなノートへその日の出費を簡単に書いている。
例えば、
 
  29 de junho, 2019 ☀︎ 28℃
  Piódão → Vendas de Galizes → 
  Coimbra → Viseu
  Preço de quarto(Casa da Padaria)
                           110€ em dinheiro
  Táxi 40€
  Água 0.70€
  Autocarro 14.70€
  Jantar(Restaurante O Hilário)
  ーVitela na Púcara, etcー 14.00€
  Total     179.4€
 
とまぁこんな感じだ。
昼飯の記載がないが、旅行中は抜くことも多い。
この日はPiódãoからVendas de Galizesへ送ってもらったタクシーの運転手に、コインブラ行きのバスを待っている間、カフェでエスプレッソとパステル・デ・ナタをご馳走になった。
ヴィゼウでの夕食は旧市街の路地裏にある家族経営のレストランで食べた。
メインに頼んだのがVitela na Púcara。仔牛の煮込み料理。Prato do diaのうちのひとつだった。
実は手書きのメニューがすごい癖字で自信がなかったのだけど、字面に惹かれてつい頼んでしまったもの。
最初にビールとsopa de legumes、それにメインと赤ワインのカラフェ、最後はお決まりのsobremesaとcafé。これで14€。
美味かった!
味を占めてまた来るつもりで店を出たのだが、翌日は生憎の日曜日。
残念なことに…ポルトガルの地方都市では日曜の晩は食いはぐれることが多い。
メモを見る。広場に程近いワインバーで
Cerveja, Vinho branco, Bifana e Água fresca 15.90€。
軽く済ませてさっさと寝た。
 
『ポルトガル追想』から1週間ほど遅れて、文房堂(自分が絵を教えに行っている画材屋)の3階にあるGallery Cafeで、モノタイプ(銅版画)の個展も始まる。タイトルは『薫風』。
この仕事をするのは4クール目。初めは試行錯誤の繰り返しで、版画の専門家には怒られそうな無茶振りだったが、随分と板についてきた…と思う。
そもそも銅版自体に何も仕掛けをしないので、これを版画と呼べるのか?という疑念もあるが、一応プレス機がなければ成り立たない仕事でもあるし、その点は大目に見てもらうと嬉しい。
今回はモノトーンに加えてブルー2色刷りの連作を作った。
チラッとFacebookに刷り上がるところを載せたら、和光大学版画ゼミの父親の教え子がコメントして、「あっ斎藤ブルーだ!」って。だから昔からの知り合いなら、見ればすぐピント来るはず。もちろん父の版画はディープエッチングの一版多色刷りというしち面倒臭い…いや、難しい技法で刷っているのでそもそも比べようがないのだけど、うちの妻が「ものタイプで簡単にできちゃうんじゃ、ヘイターさんも形無しね。〈注3〉」と言ったくらいだから、それなりに面白いものが出来たとは思う。そろそろ自分も父が亡くなった年齢に近づいてきた。今回は父親の残した仕事へのオマージュのつもりで作ってみたのだが、いかがだろうか?
 
「個展二つも同時に大変では?」と言われる。確かに体力はきつくなったが、仕事はずいぶん楽しめるようになった。そこは経験が物を言ってると思う。
Happy people make happy picture!
 

2022年5月1日 齋藤 眞紀

 
 

齋藤眞紀展~ポルトガル追想~
5月2日(月)ー14日(土) 11:00~18:30(最終日は16:30迄)日曜日休廊
ギャラリー惣:中央区銀座7-11-6徳島新聞ビル3F
 
齋藤眞紀展ー薫風ー
5月11日(水)ー17日(火) 11:00~18:30(最終日17:00迄)
文房堂Gallery Cafe:千代田区神田神保町1-21-1文房堂ビル3F
 

 


注1 『調教師 藤澤和雄 最後の400日』2022年3月15日放送 NHK BS1
注2 ポルトガル日本大使館より、4月28日付けで“Viagens para Portugal sem restrições”(ポルトガルへの旅行は制限なし)という発表が出された。内容をみると個人的な目的や旅行を含むとあるので今年は…。
注3 Stanley William Hayter(1901ー1988)イギリス人。パリに版画工房アトリエ17を開く。ディープエッチングによる一般多色刷り(ヘイター刷り)を考案。
補注 Preço de quarto 部屋(宿)代、em dinheiro 現金で、junho 6月、Água 水、Autocarro バス、Jantar 夕飯、Prato do dia 本日の料理(定食)、sopa de legumes 野菜スープ、sobremesa デザート、Cerveja 生ビール、 Vinho branco 白ワイン、Bifana 煮込んだ豚肉をパンにサンドしたもの

シドモア桜

谷戸橋

2022年4月

 
 
 「専制主義の暗闇は人々の魂を照らす自由の炎にはかなわない。自由のために闘った欧州の人々がベルリンの壁を崩壊させた。ウクライナ国民の力はどんな独裁者の意思よりも強い。」(ジョー・バイデン)
 
 子供の頃近所にあった尼崎製缶の工場はソメイヨシノの木々に囲まれていて、この時期になるといつもコンクリート塀越しに淡いピンクの列を成した。桜の満開は束の間のこと。花が散り始めると職員が日に何度も工場の周りを箒で履いていて、その姿が印象に残っている。
 尼崎製缶の川崎工場の閉鎖が平成12年(2000年)12月。それに伴いソメイヨシノは伐採されて、その更地に建てられたキャノンには、桜の代わりに掃除の手間が要らない常緑樹が植えられた。始終緑を絶やすことがないものの、昔を知る身としては少し味気ない様にも思える。
 我が家の玄関先では桜の花に似たハナカイドウが満開を迎えている。ソメイヨシノより少し紅が濃いめだろうか?自分の背丈ほどの低木にみっちりと花を付けて愛らしい。
 カイドウの木の下では勝手に生えてる花韮の花が踊りとても賑やかだ。花韮が咲くこの木の根元は昨秋若いカラスが息を引き取った場所でもある。
 
 「ああ、桜の樹の下には屍体が埋まっている!
 一体どこから浮かんで来た空想かさっぱり検討がつかない屍体が、いまはまるで桜の樹と一つになって、どんなに頭を振っても離れてゆこうとしない。」(梶井基次郎『桜の樹の下には』)
 
 昔から桜には死のイメージが付き纏っている。軍歌として有名な『同期の桜』も、戦争で命を散らす若者を桜になぞらえていて、例えば5番の歌詞は、「貴様と俺とは 同期の桜 離れ離れに 散ろうとも 花の都の 靖国神社 春の梢に 咲いて会おう」だ。説明は要るまい。
 またこの歌の4番には、「あれほど誓った その日を待たず なぜに死んだか 散ったのか」という件があり、実は反戦歌?と穿った見方をする人もいる。
 ちなみに『同期の桜』は、西条八十の『二輪の桜』という詩に大村能章が曲を付けた『戦友の歌(二輪の桜)』の替え歌なのだそうだ。〈注1〉
 さて、絵を見て頂こう。谷戸橋の袂に咲くシドモア桜は満開だ。それと橋を渡る若い女性の二人連れとすれ違うようにハーレーダビッドソン。桜の奥には元町の入り口に聳えるフェニックスアーチ。偶然にしてもよくこれだけ揃ったものだと関心する。
 えっ、なんのこと?
 絵にはイコノロジー、つまり図像解釈学というのがあって、アビ・ヴァールブルクとかエルヴィン・パノフスキーとがその嚆矢なんだけど、簡単に言うと、描かれた物からその絵に隠されている意味内容を探ろうというものだ。
 じゃ行くよ。もちろんフェニックスは不死鳥、死と再生のシンボル。桜はいま見た通りイメージは死、タナトス。それと裏腹に若い女性はエロスで生の象徴。そして橋の民俗学的な意味合いは、生と死、彼岸と此岸を結ぶもの。
 昔吉原に遊びに行くには日本堤を渡らなければならなかった。吉原は周りを田圃に囲まれていたので堤になっているが、言わば日本堤は俗世(此岸/生)からあの世(彼岸/死=聖)へ渡る橋。だから朝大門を出ると「生き返ったようだ」と言うのはまさに一度死んで生き返った証でもある。
 自分で自分の絵の講釈をするな!と突っ込みたいよね。でもエロスとタナト(生と死)でこの絵を読み解けるなんてもちろん描いている時は全く意識なんかしなかったんだもの。〈注2〉
 じゃぁ、ハーレーダビットソンは?
 ハーレーは反戦の象徴だ。長く続いたベトナム戦争の厭戦気分を描いた映画『イージー・ライダー』の一方の主役。〈注3〉
 それと皆さんお気づきだろうか?フェニックスアーチの横、ブルックスブラザーズのところのウクライナの国旗に。ただしこれだけはこちらの創作だが。
 
 「帝国再建に熱を上げる独裁者は人々の自由への愛着を消し去ることはできない。ロシアがウクライナで勝利することはない。この男は権力の座にとどまってはならない。」
 
 ワルシャワで気が昂り思わずバイデンが口を滑らし本音を吐露してしまった。ホワイトハウスは慌てて火消しに走ったが、図らずも世界中の人々の思いを代弁している。

2022年4月3日 齋藤 眞紀

 


注1 『同期の桜』原詞・西条八十/帖佐裕編詞ほか、大村能章作曲
注2 ジークムント・フロイト『人はなぜ戦争するのか エロスとタナトス』中山元訳(光文社古典新訳文庫)
注3 『イージーライダー』(原題:Easy Rider)1969年公開。ピーター・フォンダ、デニス・ホッパー、ジャック・ニコルソン

ピカソはピカソ

BLUFF 99 GARDEN

2022年3月

 
 
 “ピカソは喫茶店でマッチ箱の裏に絵を描いても、それは立派にピカソである。その自在さと自由さがピカソの魅力であり、絵というものは、ふざけた漫画みたいな線描画でも幼児の殴り描きみたいなものでも全然構わないのだという「許可」を、その生涯をかけて全人類に与えたのがピカソの最大の功績だったと私は勝手に思っている。即ちピカソは我々に絵そのものを解放したのである。”(吉田萬壱『哲学の蠅』創元社)
 
 19世紀後半、後に印象派と呼ばれる画家たちが旧弊な美術界(サロン)に一石を投じた。彼らはルネッサンス以来連綿と続いた古典技法をあっさりと捨ててしまったのだ。バーントアンバー(焦茶色)の地塗りをやめ、暗かった画面が急に明るくなった。印象派の色彩が穏やかなのは、まさにキャンバスの下地が白っぽいからだ。
 彼らの絵を見ると色彩が画面全体に横溢して軽やかに感じると思う。これはフォルム(形)の軛を離れた色が自由を謳歌しているからに他ならない。
今でも「塗り絵ではないのだから、筆で描くようにしなさい」と絵画教室で教わるのは、紛れもなく印象派の影響なのだ。
「印象…何という放漫。何といういい加減さだ!この海の絵よりも作りかけの壁紙の方がマシだ」。〈注1〉
 それもそうだろう、暗く重厚な画面と厳格なフォルムを見慣れた目には、輪郭が周囲(光)に溶け込み厳しさのない彼らの絵は、ぼやけただけの粗雑な絵にしか見えなかった。
 随分前になる。とある画廊主が地方の美大の大学教授へ「斬新な油絵の描き方をする作家だ」と紹介してくれたところ、「やっぱり基本が大事だと思うんだよ、まず基本をきちんと押さえ…云々。」ときた。(…)
 
 さてピカソである。ピカソが天才であることに異論はない。異論はないが、はて、どうしてピカソが天才なのか?
 ピカソはよく分からん、「〈幼児の殴り書き〉のどこが良いんだ」、「こんなの自分でも描けるだろう」と、ピカソの評判はいまでもあまりよろしくない。
 でももしピカソと同じような絵を子供が描いたら褒めるよね。「子供の感性は自由で良い」、「ピカソ顔負けだ」って。子どもだからかな…つまり、大人はきちんとした絵が描けないと駄目というのはひょっとして嫉妬の裏返しなんじゃない。自分だって子供のように自由に振る舞いたいんだよ本当は。ところが体面が気になるから、さっきの大学教授みたいに古びた価値観にしがみついてる。
 
“私は所謂筆達者な文字というのがあまり好きでない。それは写真と見まがうスーパーリアリズムの絵画のようなもので、現実がダイレクトに迫ってきて少しも遊びが感じられず、見るだに息苦しい。文字や絵には、やはり現実をグイッと捻じ曲げたり笑い飛ばすぐらいの余裕あるパワーのようなものが欲しいと思うのである。”(同)
 
 そうさ、絵はそっくりに描かなきゃいけないという、ルネッサンスが作ったもう一つの呪縛(リアリズム)をピカソが解いたんだよ。
おそらく自分の教室で子供(ピカソ)のように自由な精神で絵を描いているのは一番古株のOさんと、オランダのスケッチ旅行の時にOさんが子分のようにあちこち連れ回していたKくんくらいだろうか?
 オランダのアムステルダムで、「先生朝練しましょう!」とOさん達に連れて行かれたのが、飾り窓の入口だった〈注2〉。辺りはまだ真っ暗だし、スケッチしていると酔っ払い(ドラッグかな?)からちょっかい出されたりで、こちらはおっかなびっくりだったのだけれど、するとそのうちにひとりの若い男の子が「自分も絵を描いてるんだ。本当は油絵をやりたいのだけれど、いまはストリートアートさ。」とスプレー缶を振るそぶりをして、明るくなるまで付き合ってくれたことを、つい懐かしく思い出している。

2022年3月3日 ひな祭りに 齋藤 眞紀

 
追記
 19世紀の亡霊が隣国ウクライナに軍事侵攻している。ロシアのヒグマが見ている現実はファンタジー(虚構)にしか過ぎず、その主張は到底受け入れられるものではない。国連でのアルバニア代表の演説を引用する。「ソ連は死んだ。幻想も、郷愁も、戦争も復活させることはできない。」
 
 




注1 当時の風刺新聞「シャバリエ」に載ったルイ・ルロワの記事から。
注2 飾り窓はオランダ、ドイツ、ベルギーなどのゲルマン諸国、またそこから伝播して地中海側でも見られる(見られた)売春の一形態、またはその施設。オランダ語では"nl:Raamprostitutie"と呼び、直訳すれば「窓売春」である。道路に面したドアはほぼ全面ガラス張りで、室内はピンク、紫、ブラックライト等で照明、軒に赤いランプを灯しているのが特徴で、そのため英語圏等ではこれらが集まるエリアを"en:Red-light district"と呼ぶ。https://ja.wikipedia.org/wiki/飾り窓

難題

山手十番館

2022年2月

 
 もう20年以上前のこと。インフルエンザに罹かり酷い目に遭ったことがある。前夜まで喉の痛みも感じなかったのに、ある朝起きたらいきなり38度の熱。これは可笑しい多分インフルエンザじゃないかと医者で訴えたところ、検査もせずにただの風邪だと言われたのだが、案の定風邪薬なんかで落ち着くはずもなく、徐々に悪寒が酷くなって、熱を計れば39度を超える熱。頓服で一旦熱は下がるものの、それも一時的で直ぐにまた上がりの繰り返し。39度を超えるという表現も、熱の一番高い時は体の震えが止まらず体温を計るどころではない。だから少し落ち着いた時点で計ったら39度何分だったというだけ。明らかに40度以上は出ていただろう。
 発熱したのが金曜日。当時は未だ風邪くらいで仕事を休むなという風潮が強かったし、なにしろ医者のお墨付もあるしで、無理を押して仕事に出かけるのだが、39度の熱では椅子に座っているのが精一杯。仕事になんかなりはしない。その上悪いことに土曜日は朝昼夕と授業が立て込んでいる。夜、歩くのもままならずにタクシーと電車で小一時間、やっとの思いで家に帰り着いてそのままベッドに倒れ込んだのを覚えている。
 明くる日曜日。妻が開いている診療所を探してくれたのだが、そこでもやはり風邪だからもらった薬を飲んで寝てろと言われて帰されてしまった。
初めの医者が処方した解熱剤を飲み切っても一向に熱が下がらず、薬箱の奥に仕舞い込まれて使用期限を疾うに過ぎた熱冷ましを飲んで何とか凌ごうとするが、それでもダメで結局三日三晩高熱が続いた。四日目の夕方から幾分ましになり、五日目にようやく37度代まで熱が下がって食事が取れるようになったけど…けどね…。
 正直なところ、未だ30代で体力があったから良かったものの、そうじゃなければどうなっていたことやら…。
 なぜインフルエンザだとわかったかって?そりゃ…当然看病していた妻も仕事先で発熱しますよね…それで掛かった医者が検査をしてくれてインフルエンザと判明した次第。妻の場合はすぐにタミフルを出してもらえたので、何の事は無い、高熱で苦しまずに済んだ。
 
 年末に、日頃お世話になっている方から一通の手紙をいただいた。
二人の娘さんが6歳だった頃のクロッキーがあると言う。当時絵を習っていた先生に描いてもらったものなのだそうだ。美大を卒業したばかりだったかで、絵は大したことないのだろうと思うが、娘さん達の特徴をよく捉えていて気に入っているのだとか。
 そのクロッキー、もうかれこれ50年くらい前のもの。藁半紙みたいな紙でずいぶん痛んでしまっている。そこで先生を見込んでのお願いだが、それをちゃんとした紙に描き直して、額に入れてもらえないだろうか?自分の終活のつもりで、ゆくゆくは娘さん達に上げたいのだと仰られている。
えっ!つまり模写しろってことですよね…お嬢さんたちの肖像画(デッサン)を!しかも子供の頃の!
 えー!
 絵描きにも得手不得手と言うものがある。風景は描くが人物の仕事はしたことがない。それでも腕に多少の覚えはある。覚えはあるが、鉛筆のタッチやなにもかもそっくり真似しろってことでしょ…むにゃむにゃむにゃ。
気の弱い自分にその依頼を断れるはずもなく、つい「分かりました。お任せ下さい。」と。
 実はちょっと甘く見ていて、お聞きした絵描きさんのキャリアを真に受けるなら何とかなるんじゃないかしら?
ところが、送られて来たクロッキーを見ると大したことないどころかとても上手い。上手いうえに子供らしい可愛さがよく出ている。それでまた「ひえー!」とひっくり返ることになるのだが、もはや後の祭り。
…この原稿を書いているということは、既にその仕事を終えた証拠。果たしてその結果は?
 土曜日に文房堂で額装をし、デッサンのクラスと夕方のクラスの生徒達には見せたので、興味があったら聞いてみて!
 
 朝の冷え込みが少し緩んでいるのかもしれない。
一月の初めは自転車に乗ると、手足が悴み痺れて痛かったが、いまはもう痺れることもなくなった。太陽の角度も少し上がり、目の位置から日差しがずれ走りやすくなった。もうしばらくの辛抱で、春が来る。今年はジャージを新調しよう。
 

2022年2月3日 節分に 齋藤 眞紀

 
やーめた!

山手234番館

2022年1月

 
 我が家は古い木造家屋なので冬場の、特に明け方から早朝にかけての冷え込みは厳しい。母親には随分厚着ねと笑われるが、寒いものは寒いので仕方がない。そういう母の家も同じくらい古い木造なのだが、こちらはガスヒーターを始終稼働させていてそれほど寒くはない。ただし、冬期のガス代はかなりなものだ。ガス代だけで、我が家の光熱費、電気とガスを合わせたものよりも遥かに多い。
 
 朝方は曇っていたが、ようやく日が出てきた。日差しがあれば占めたもの。隣棟よりも前庭が広い分、冬の角度の浅い太陽でも真向いの二階屋に日光が遮られず、その恩恵に浴することができる。日の温もりを感じられる日中は割りに過ごしやすい。特に二階は暖房の必要がないくらいだ。
 
 1月4日付の新聞に、都営アパートの3階で電気なしの生活を10年続けているという染色家の記事があった。以前はぼくらも古い鉄筋コンクリートの3階に暮らしていたのでそのイメージが分かる。洗濯物はあっという間に乾く。確かに太陽光発電にはもってこいだが、暑さで鉢植えが参ってしまった。しかもここ数年、夏の暑さが尋常では無い。おそらく冷房がないと夏場はかなりきついはずだ。その方も電気の再契約を考えているという。〈注1〉
 
 元旦から絵を描いた。正月と言えど雑煮を作るくらいでやることがない。それも母親に食べさせる必要上作るので、自分ひとりならおそらく冷蔵庫に残った中華麺を茹で、それに餅を入れるくらいで済ましてしまうだろう。
子供の頃はよくラーメンに焼いた餅を入れて食べた。もちろん餅は最後。うまい具合に汁を吸い、ふやけて絶妙の味になる。
よくラーメン屋の前に列を作るじゃない。あの意味がわからないんだよね…。だって最近は市販の麺やスープが充実しているし、チャーシューは自分で作っても正直遜色がない。
 
 朝起きたら背中が痛んだ。年末の大掃除の疲れが出たのだろう。流石に無理が効かなくなっている。だったら正月くらいゆっくり休めば良いじゃないと思うが、仕事をしている方が気は楽なのでついついしてしまう。「一年の計は元旦にあり」なんて立派なことじゃなく、要するに貧乏性なんです。
昨年は、母親の面倒を看ながら従来通りに仕事をするのは無理だとつくづく悟らされた年だった。だからこそ今年の抱負は無理せず、そして『止めること』。
何を?
 
 まず、個展を減らそうと思う。流石に3つは多すぎ。もちろんその分収入は減るわけだが、コロナで痛いくらい目減りしているので、もう減りようがない。
次にコロナの話題をいいかげん止しにする。「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。」アルファ、デルタと続いてもうオミクロンなんて茶番でしかない。WHOもオミクロン株の感染は上気道の炎症がほとんどだと言っていて、それってただの風邪じゃないか!沖縄からもデルタ株とまったく違う病気で、インフルエンザみたいだとの報告が。いくらなんでもはしゃぎ過ぎ、いや騒ぎ過ぎだと思うよ。〈注2〉
 
 既にSNSは止めてしまった。もともとLINEはやらないし、TwitterもInstagramもアカウントがあるくらいで滅多に開かないから一向に差し支えない、それにFacebookをやっててもね…。
 
 年の瀬に取材をした、日が暮れて暗くなりかけた頃の山手234番館。考えてみると、大半はスケッチ絡みで出かけてきていたので、夜の山手を歩く機会があまりなかった気がする。だからこそ冬寒の、人の絶えた洋館の佇まいはとても新鮮だ。細かい電飾が面倒臭いが、マスキングで抜けば良い。夜景を現場で描くのは流石に無理…というのを言い訳にアトリエで描いているが、スケッチを現場でしなくなったから、いっそのことこの連載もやめちゃおうか⁉︎〈※編注「まだまだ続きます!」〉
 

2022年1月10日 齋藤 眞紀

 
 
 

注1 『だから私は-3- 電気代ゼロで暮らす』東京新聞1月4日付朝刊
注2 風邪については、『風邪について 第二服部病院』https://daini-hattoriiin.jp/風邪
次の論稿は必読。
『新型コロナウイルス:どこから来て、どこへ向かうのか』増田道明(獨協医科大学医学部生物学講座)https://www.covid19-jma-medical-expert-meeting.jp/topic/7111
ー「ウイルスとは変異するものである」という自然の摂理と正面から向き合い、変異株の性質(特に病原性)を冷静かつ客観的に評価することが必要ではないかと思うー。
ーコウモリ由来の肺炎ウイルスからヒトの風邪コロナウイルスへとさらに一歩近づいたのであれば、新たな変異株の出現は必ずしも悪いニュースとは限らない。ー
ちなみに「歴史は…」はカール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』。