Yamate254

横浜・山手にある服飾資料博物館<岩崎ミュージアム>スタッフによる情報告知用HPです。

プロフィール

1964年 川崎市に生まれる。1990年 和光大学人文学部芸術学科卒業。現在、横浜市鶴見区在住。スケッチ40%を主催。舞台美術の制作を皮切りに、抽象具象、平面立体を問わずジャンルをクロスオーバーしながら制作活動を行っている。…その為、「専門は?」と問われるのが一番の弱み。近年はこの岩崎ミュージアムをはじめ、川崎市市民ミュージアム、郡山市立美術館、いわき市立美術館などでワークショップの講師を数多くつとめるほか、横浜市教育文化プログラムの一環で、小学校への出前造形教室を行い、美術の楽しさを広める活動にも力を入れている。

COLUMN 2017

2017年 4月


洋館を訪ねて ②

 

「和菓子とパン」

山手34番館(山手本通り)


 桜の季節になった。
 
今年の桜はいつもより遅い。このスケッチに出かけた三月末の時点ではほとんどの桜が硬い蕾のままだった。
どれくらい前のことだったろう。やはり桜の頃、その当時中村川沿の裏通りにあった小さな和菓子屋さんの店先でいただいた道明寺の味がいまでも忘れられない。それまで桜餅といえば関東風の長明寺一辺倒だったぼくの嗜好が、それを境に関西風の道明寺へと靡いいてしまった。
その和菓子屋さんもすでにお店を閉じたと人伝に聞いた。いま元町で和菓子を扱うお店は、代官坂下にある香炉庵くらいだろうか?
もともと元町では和菓子屋さんより、パン屋さんの方に馴染みがある。ポンパドールとウチキパンはいつも人でいっぱいだ。ぼくがウチキパンに行くのは、決まって焼きそばパンが食べたくなったとき。すぐに売り切れてしまうから、出来上がる頃合いを見計らって行く。
パンは、種子島に渡来したポルトガル人たちにより、鉄砲とともに日本にもたらされたもの。ポルトガル語ではpão(パオン)という。だからパン屋は日本の伝統や郷土と深いつながりがないのだと言われれば、身も蓋もない。だけど…和菓子の由来だって、元を正せば遣唐使が持ち帰った唐菓子からだからかなり怪しいものだ。ぼくらが和菓子と聞いて真っ先に思い浮かべる饅頭や羊羹でさえ例外ではない。〈注2〉
それにぼくらはなんの疑いもなく『和菓子』と言うが、この言葉自体も明治時代の造語。つまり『西洋画』に対する『日本画』と同じだ。〈注3〉
もう一つ。和菓子の中にはカステラや金平糖にカラメル、そして鶏卵素麺など、ポルトガルのお菓子の影響を受けて作られ始めた南蛮菓子というのもあって、話はそれほど単純でもない。
そう考えると、日本独自の焼きそばパンやメロンパン、そして木村屋が作ったあんぱんも十分胸を張っていい。パンも和菓子も辿った経緯はそんなに違いがない。
パンといえば、18世紀の後半に消しゴムが登場するまで、パンが消しゴムの代わりをしていたのは有名な話。いまでも木炭デッサンの時に古くなった食パンの白い部分だけをくり抜き丸めて使う場合がある。それの方がなんとなく通っぽい気がしなくもない。実際、練り消しゴムよりよく消える。
では、いつ頃からパンが消す道具として使われ始めたのだろうか?その辺を調べてみても、実はよく分からないのが実情。消しゴムメーカーも、「消しゴムの歴史」は書いてくれても、「消す」歴史までは遡ってくれないみたいだからだ。
以前川崎市市民ミュージアムで安田靫彦の下絵(本画の原寸大のもの)を見たことがあるが、墨と筆で描線を描いているので、当然消すことができない。その分、こちらに緊張感が伝わってきて、本画よりはるかに面白かった。修正する時は、上から紙を貼って描き直していた。
 おそらく、ヨーロッパでも消すことが出来るようになるまでは、そんな感じだったのだろうと思う。


山手34番館

 山手本通り沿いにある山手34番館は関東大震災〈注4〉後に外国人向けに建てられた木造2階建ての住宅だそうだ。屋根は左右に2本の煙突が立ったスレート葺。形状は、「典型的なギャンブレル屋根(駒形切妻屋根)と書くものもあれば、「腰折れ式のマンサール(マンサード)屋根」としているものもあり、建築様式に疎いぼくにはどちらが正しいのかまるで見当もつかない。
 この日は、日差しが眩しく屋根を照らし、建物全体が強い陰影のコントラストの中に埋もれてしまっていたため、俄かにはこの洋館の色が何色なのか判別しがたかったのだが、おそらく1階はモルタルを吹きつけた白壁、屋根や窓枠は濃緑色だと思う。
 玄関ポーチの上と通りに面した2階部分の壁には六角鱗タイルが貼ってあり、その様子がなんとなく人間臭くもあり、遊び心のある面白い家だと思う。
 所有者が一般の人?会社?のため、残念ながら中を見ることはできない。

                        2017年4月7日 満開の桜に 齋藤 眞紀

〈注1〉 1543(天文12)年

〈注2〉 もうお判りだと思うが、文部省の2018年度から使われる道徳教科書に対するくだらない検定意見のこと。新聞の読者欄に、小学校を卒業したばかりの子の素晴らしい投書があった。要約すると、道徳は答えのないものだから好きだった。答えを押し付ける道徳なんて…。(朝日新聞 2017,4/6日付け朝刊)

〈注3〉 明治の初めにその嚆矢となった横山大観たちが西洋絵画の技法を取り入れながら、江戸時代までの絵画技法を刷新し再構築したものが日本画。大観が編み出した「朦朧体」というのはつまり、レオナルド・ダ・ヴィンチの「スフマート」という技法に他ならない。違いをあげれば、ダ・ヴィンチの絵には輪郭線がない。それはスフマートが「ものには輪郭線は存在しない」だろうという考えを前提にしているからだが、ものの形を質量を伴った物体として捉えようとしない大観たちには輪郭線が捨てきれなかった。

〈注4〉 (大正12(1923)年)


参考文献
オフィス用品の教科書 消しゴムの歴史を学ぼう! http://office-frt.com/770
横浜山手の34番館/近代建築写真室@東京 http://farwestto.exblog.jp/8548290/
南九州大学人間発達研究 第2巻(2012)絵画教育研究(その1)古賀隆一 ー幼児・児童の心と基礎デッサン入門ー http://www.nankyudai.ac.jp/library/pdf/069-078古賀隆一.pdf

2017年 3月


洋館を訪ねて ①

旧華頂宮邸(鎌倉)〈注1〉


 
ものを作るというのはね、分からないからやるんだよ。分かったらやる必要はない!

 (鈴木清順)

 
分かるということはかなり中途半端なことだ。世の中分からないことの方が概して多い。だからぼくらは色々思索を巡らし分かろうとしてきた。つまり、その健気な努力の積み重ねが哲学の歴史だと言っても過言ではない。
「永遠とは存在そのもののことである。だが、この場合の存在とは、永遠なものの定義のみから必然的に生じてくると考えられる存在のことである。」(スピノザ『エチカ』)〈注2〉
例えばデカルトやスピノザを読んで見て、すんなり分かるかと言えばまず無理だろう。
なぜなら、彼らは分からないことについて必死に考えているからだ。
だからぼくらは彼らの本を読んで見てう~ん分からなかったという感想で良い。分かってしまったら、かえってそれは気持ちが悪い。もちろん読めればの話だが…。
いま、哲学の旗色がだいぶ悪い。それはみんなが、分からないことに我慢ならなくなってるからだ。
ぼくがデビューしたての頃、その当時抽象画の第一人者だった村井正誠先生に、「自分の絵は自分が一番よく分かっているのだから、親父さんに何か言われても気にすることはない」と言われたことがある。つまり、絵なんてものはね、ちょっと見ただけの他人においそれと分かるものではないよ。それより、絵とずーっと付き合ってきた自分自身が良い点も悪い点も分かっているはずだから、それに気づきなさい、とおっしゃられたのだと、ぼくは解釈している。
分かる事よりも、その分かろうとする過程の方がはるかに大事なのだ。幸いぼくは(頭が良かったから‼︎)、村井先生がおっしゃられた意味をすぐに理解できたが、なかなかそれが人には伝わりにくい。
分からないものばかり作って終いに日活を追い出された鈴木清順の映画は、決して分かり難くいものではなかったと思う。ただ風変わりなだけだった。不意に脈略もなく耽美的なシークエンスが挿入され観客をまごつかせたりもするが、ぼくらはその突飛さを面白がれば良かったのだ。それこそが映画にしかできない美学なのだから。
先日、アカデミー賞の授賞式で、一悶着あったらしい。そもそも○○賞というもの自体が極めて政治的なもの。作品の良し悪しはどちらかというと二の次。その点でトランプのコメントは的を得ている。〈注3〉
あらゆる表現にとって、賞をもらうより、賞という物語を解体することの方がはるかに大事なことだ。
 
鎌倉の駅前から金沢八景方面行きのバスに乗って、金沢街道を10分から15分ほど、浄明寺でバスを降りる。お寺の名前は浄妙寺なのに、バス停はなぜか浄明寺。当て字や略字の類ならいざ知らず妙と明では明らかに違う。もしかしたらお寺の名前が商標登録でもされているのかな?
浄妙寺へは行かず、道を渡り、道沿いを流れる滑川を越え谷戸道を行くとすぐ、竹林で有名な報国寺の山門が見えてくる。
金沢街道は、かつて六浦道と呼ばれた。六浦湾で荷揚げされた物資を鎌倉へ運ぶ要衝だったために、今でも多くのお寺が沿道に点在し、見所が多い。この先十二所から六浦へ抜ける峠越えは朝比奈の切り通しを通らなければならなかった。〈注4〉
今、この切り通しを歩くと、よくこんな急峻で狭くデコボコした道で荷物を運んだものだと思う。往時の人たちの苦労がしのばれてならない。
報国寺を過ぎ、さらに1~2分ほど奥まったところにお目当の、古典的なハーフティンバー様式の趣のある洋館が建っている。〈注5〉
一般に、旧華頂宮邸という名称で親しまれているが、正式には、華頂博信侯爵邸の方が正しい。なぜかというと、華頂宮家は大正13年(1924年)に臣籍降下させられているので、この洋館が建てられた昭和4年(1929年)には宮家はすでに存在していなかったからだ。
前庭にフランス式庭園を擁し、四季折々の花を楽しめるようになっているそうだが、ちょうど今の時期は花がなく残念ですと、庭の手入れをしていたご婦人がそう話されていた。
2月も後半に入ると、だいぶ寒さが緩んできたように思う。天気予報によれば最高気温は10度を少し超えるか超えないかくらいのところ。でも、正月の頃に比べると体の芯まで冷えて、居ても立っても居られないというほどでもない。
                       2017年3月3日 ひな祭りに 齋藤 眞紀
 
 
 
 
 

注1 たまには、各地に残る洋館を訪ね歩いてみるのも面白いかもしれません。ここを描いてというご要望があればお寄せください。(もっとも、遠いいところは…交通費が出ないので…)
注2 工藤喜作・斎藤博訳 中公クラシックス 

注3 「私が思うに、アカデミー賞の関係者は、政治的になることを意識し過ぎて、最後の最後でしくじったんじゃないか」
注4 六浦は横浜市金沢区六浦町。今の道路は十二所から鎌倉霊園の入り口のあるところまで上って行く。勾配は見た目よりきつく、真っ直ぐ登っていくので自転車に乗っているときは良いトレーニングコースだった。

注5 ハーフティンバー様式(half timbering)とは、北方ヨーロッパの木造真壁建築で、半木骨造りとも呼ばれるものだそうだ。主にアルプス以北の北方ヨーロッパに多く見られ、特に15世紀~17世紀の英国の住宅に多用された。

2017年 2月


とある死について

中区元町5丁目〈注1〉


 
Quando eu morrer - e hei-de morrer primeiro
do que tu - não deixes fechar-me os olhos
meu Amor. Continua a espelhar-te nos meus olhos
e ver-te-ás de corpo inteiro〈注2〉
         (Álvaro Feijó “Os Dois Sonetos de Amor da Hora Triste”より)
 
 あらゆるものに寿命がある。ものは朽ち、草木は枯れ、生き物はその死を迎える。ぼくらの人生もまた限りあるものだ。
 死は、この世で唯一逃れようのない自然の摂理…おそらく死の訪いは神の導きによるものだろう…そう考えてみると、多分それはそんなに悪いことではないのかもしれない。〈注3〉
 二年前の秋、ポルトガル北部の街Lamego(ラメーゴ)で、小雨の降る中、傘をさしながら崩れかけ、打ち捨てられた家々を小さなスケッチブックにクロッキーしていると、ちょうどぼくの前を通りかかった老人が、「これは廃屋だけど(良いのか)?」と聞いてきた。
絵描きの理屈ほどつまらないものはない。つまるところ…これを描きたい、その一点に尽きるからだ。
 でも、聞かれたからには少なくとも答える義務があるだろう。
…「ぼくにはこの家が美しく見えるし、しかも複雑で描くのがかなり難しいと思うから、興味を持ったのだ」…と。
 老人は、ぼくの拙いポルトガル語に耳を傾け、そして笑いながら手を振り、何も言わずにぼくの元を立ち去って行った。
 ポルトガルを歩いていると実際空き家が目立つ〈注4〉。観光客が少なそうな街ではボロボロになった廃屋もよく見かける。端的に言えば経済が思わしくないからなのだが、日本もぼくらの子供の頃にはぼろっちい家が結構多かったので、いまの東京のようにスクラップ&ビルド、常に更新(アップグレード)が義務付けられ、新しさを強いてくる街の方がかえって落ち着かない。
 少なくとも、ぼくにはとても息苦しい。
 それが、時々日本を抜け出す理由かも?
 新しい年を迎えてすぐ、20世紀のポルトガルで一番重要な、そしてヨーロッパのみならず世界中でその名を知られた政治家が亡くなった。
 彼の名はMário Alberto Nobre Lopes Soares(マリオ・アルベルト・ノーブル・ロペス・ソアレス)。2017年1月7日にリスボンの赤十字病院で、92年に及んだ激動の人生の幕を静かに閉じた。
サラザールによる独裁体制(Estado Novo)下では、国外追放を余儀無くされながらも、社会党(PS)を立ち上げ、独裁に反対する不屈の闘志として活動し、1974年4月25日のカーネーション革命(Revolução dos Clavos)の時にはいち早く亡命先のパリから舞い戻り、臨時政府に参加した。また、古いルノー16で国中を回って民主主義の重要性を説き、ソ連の干渉を跳ね除けポルトガルの共産主義化を未然に防いだ。
首相と大統領をそれぞれ二期づつ務めたあとは、欧州議会の議員として、ポルトガルのみならず、ヨーロッパ全体のことを考えていた政治家だった。
2006年の大統領選挙に家族の反対を押し切り三度目の立候補をするが、保守系の候補に破れている。
 Pai de Portugal(ポルトガルの父)、um defensor da democracia(民主主義の擁護者)などなど彼を形容する言葉はいろいろあるが、一番ピッタリしているのはnunca foi de ficar parado(決して止まることがなかった、という意味)だと思う。
残念なことに彼の死を詳細に伝えた日本のメディアを寡聞にしてぼくは知らない。
 

2017年2月3日 節分に 齋藤 眞紀

 〈注1〉以前ここにはバーが入っていた家があって、廃屋になっていた。小さな庭に茂った木は手入れがされず、無造作で適度に荒れたさまがなんとも言えず良い感じだった。でも、実際に描こうとすると、とても手強かったことを覚えている。まだあるかな?と、淡い期待を抱きつつここへやってきたのだが、やはり、真新しい家に変わってしまっていた。
 〈注2〉リスボンのジェロニモス修道院で開かれたマリオ・ソアレスのお別れの会(かな?)で流された詩の一節、彼のパートナーで、一昨年亡くなられたMaria Barroso(マリア・バローゾ)が朗読したものの録音。「私が死ぬ時は、きっとあなたより先に行くの 愛しい人、私にあなたの目を閉じさせないで 私の目にいつまでもあなたの姿を映し続けさせて、それがほんの体の一部分だろうとも」※ 最後のver-te-ás de corpo inteiroの訳に自信がありませんが、大意は掴んでいると思う。
〈注3〉Talvez a chegada da morte seja Divina providencia, se pensasse nisso, pode ser que seja muito má. この原稿はポルトガル語の授業のためにポルトガル語で書いたものを日本語に直しているので、「神の導き」みたいな、普段なら使いそうにない言葉が入っているし、少しトーンがいつもと違うかも?
〈注4〉なぜわかるのかというと、あちらは体裁を気にしないから「Vende-se(売り家)」「Aluga-se(貸家)」の看板が目立つように窓やベランダにつけられている。