Yamate254

横浜・山手にある服飾資料博物館<岩崎ミュージアム>スタッフによる情報告知用HPです。

プロフィール

1964年 川崎市に生まれる。1990年 和光大学人文学部芸術学科卒業。現在、横浜市鶴見区在住。スケッチ40%を主催。舞台美術の制作を皮切りに、抽象具象、平面立体を問わずジャンルをクロスオーバーしながら制作活動を行っている。…その為、「専門は?」と問われるのが一番の弱み。近年はこの岩崎ミュージアムをはじめ、川崎市市民ミュージアム、郡山市立美術館、いわき市立美術館などでワークショップの講師を数多くつとめるほか、横浜市教育文化プログラムの一環で、小学校への出前造形教室を行い、美術の楽しさを広める活動にも力を入れている。

COLUMN 2018

 
ポルトガルからの手紙 ⑺

モンサント、エボラモンテ、エルバスそしてリスボン

2018年10月

 
 
スペインとの国境に近いエルバスのバスターミナルでリスボン行きのバスを待っている。
バスのターミナルと言っても切符売り場とトイレがあるだけに過ぎず、以前はカフェやキオスクがあったようだが、いまはその看板とカウンターだけが虚しく、店はもぬけの殻になっていて、ただ器だけが大きくがらんとした待合室のベンチでひとりパソコンに向かっているこのぼくは、側から見ればとても淋しいものに映るだろう…ただし、ひとりで旅を続けていると人恋しさが募るかと言えばそういうものでもなく、誰にも煩わされないこの状況の方がかえってありがたい。
ポルトガルの町並みはどの街も同じようで意外とそうでもない。そうでもないが…と思うとやはりどこか似ている。その微妙なニュアンスがポルトガルらしさのなのかもしれず、だからこそ、この旅の初め、カステロ・ブランコからモンサントへ向かうバスの窓越しに、通り過ぎる名も無い村や町を見やるたびふつふつといまポルトガルにいるのだと実感するのだった。
モンサントからエボラモンテ、エルバスそしてリスボンが今回の旅の道程。
巨石の村として名の通ったモンサントは、とにかく花崗岩の大岩が村中にゴロゴロしていて、その大岩と民家や城壁などの人工物が見事なハーモニーを奏でている。その様は唖然とするほど見ていて楽しい。
ぼくがモンサントを発つ日、朝早く旅立たねばならないぼくのためにひとりで宿を切り盛りする背の低いご婦人が、特別に朝食を用意してくれた。その別れ際、Já está na hora de ir me embora.〈注1〉とぼくが言うと、ゆっくり食べる時間がなかったでしょうとすまなそうにおっしゃるので、ポルトガルでは朝食をpequeno-almoço〈注2〉というくらいだから、これくらいがちょうど良いですよ、ありがとう!と。
モンサントから南下してエボラモンテ、そしてそこから東へ向かいエルバスまで辿り着くと、肌にまとわりつく風が馴染みのあるものへと変わる。
エルバスはイスラムの残り香が濃厚に漂う街。これまで訪ねたほかの街とはまた違った趣を持っている。考えてみると、ぼくがアレンテージョに足繁く通うのもこのアラブの遺風に惹かれているからなのかもしれないといつも思う。
ポルトガルのポルトガル語にはsotaque〈注3〉と言われる独特の訛りがあって、このニュアンスを真似することは難しいとされている。単純に字面を追うだけならまだしも、こと、ポルトガル人らしく…となると途端に難易度が上がるのだ。
実は、ポルトガルの風景もこれと同じくらい難しい。おそらくこの国の風景が持つ独特な灰汁みたいなものを理解しない限りポルトガルをいくら描いても無駄なような気がして…。
Devemos, igualmente, aos mouros vastos vestígios técnicos e culturais que marcam tão profundamente a nossa maneira de ser.〈注4〉
しかし悲しいかな、ポルトガルも観光客が押し寄せるようになり、英語が幅を聞かせるようになってしまった。
リスボン郊外にあるシントラのペーナ宮で、入場制限をしている係りの女性から、Do you speak English?と聞かれて、ついむっとしてWhy don’t you ask me, “Do you speak Portuguese?”と口にしかけてぐっと堪えたのだが、確かに押しかける大勢の観光客にいちいちポルトガル語と英語で言う不都合は分かる。それでもいきなり英語ははないだろう。
たとえばぼくは、エボラモンテの丘のたった4部屋しかないAlojamento〈注5〉で奥さんのVickiになぜポルトガル語を話すことにこだわるのか?と聞かれ、英語じゃ…なんか違う感じがするんだよね、やはり、ポルトガルではポルトガル語を、たとえ拙くとも話さないと…旅の、体験の深さが違う気がする…と答えたことが、いまさっき書いたポルトガル語の訛りやその風景にある独特な灰汁を理解しようとすることと深いつながりがあると信じているからだ。
それに、エルバスのホテルでチェクインしたときにも、レセプションの女性がポルトガル語を話してくれると良いはよね…とボソッと漏らしていたから、彼らだってその方が嬉しいはずと…。
最後に。ぼくは運命論者ではないつもりだが、この旅でエボラモンテのThe Place at Evoramonrteというとても小さな小さな宿に泊まることになったのは、いくつかの偶然が重なったからなのだが、その偶然がなければ、この宿を営むVickiとMitch〈注6〉という気さくで素敵なご夫婦と出会うことも無かった。人々との触れ合いは旅に彩りを添えてくれる。彼らと別れ際に交わした抱擁や握手の温もりは、日本に帰りたとえどんなに忙しいかろうともそう簡単に消え去るものではない。そして折に触れ、瞼の奥にしっかりと焼き付いたアレンテージョの広野に沈む見事な夕日と共に彼らのことを思い出すことだろう。
やはりこれは運命だったのだとしか、いまは言いようがない。
 

2018年10月10日 齋藤 眞紀

 


注1 …もう出掛ける時間です。

 
注2 ペケーノ・アルモッソ…直訳すると小さい昼食。ポルトガル人の朝食は、だいたいパンや菓子パン一つにエスプレッソやカフェオレを行きつけのカフェで軽く頬張る感じ。その代わり、昼と夜はがっつり食べる。
注3 ソタク…訛り。
注4 …同様に、我々の在り方に深く刻み込まれた、技術や文化の広範な知識の遺産はムーア人〈注7〉たちに負っている。Luíz Gaivão “HISTÓRIA DE PORTUGAL EM DISPARATES” (GUERRA & PAZ)より
注5 アロジャメント…宿屋かな?実際は民家を改装してるので、ゲストハウスに近い?
注6 ビッキーとミッチ
注7 北アフリカのイスラム教徒のこと

丸窓から

岩崎ミュージアム

2018年9月

 
真夏の8月、3週間に及んだ岩崎ミュージアムでの個展が終わった。[注1]
 
ポルトガルの天気予報を見ていると、ぼくらにあまり馴染みのない「熱波」という言葉を目にすることが多い。ポルトガル語だとonda do calor。辞書で熱波を調べると、「摂氏40度前後にも及ぶ高温の空気が地上を覆う現象」とあるから、ポルトガルの特に内陸部では夏場、気温が40度を超えることも珍しくないのだろう…と、他人事だったのはもはや昔のこと。今年の夏の猛暑は、熊谷や八王子などで幾度か40度越えを経験し、すでに「熱波」という言葉が相応しいくらいひどい有様だった。
気温が35度を超える世界はやはり異様だ。普段なら煩く付き纏う蚊さえ見かけなくなり、たとえばこの緑の多い山手で、大手を振い半袖短パンで絵を描いていてもまるで刺される心配がないなんて。もちろん我々人間とて35度の暑さは過酷なことに変わりはないのだけれど、それでも上手く木陰や風が通りそうな場所を見つければ、それなりに酷暑の下でも堪えることができる。できるが…スポーツはそうもいかない。
中学生の頃の話しになる。400mの神奈川県代表として栃木県大田原市で真夏に行われた関東大会に出たことがあり、その時はあまりの(盆地特有の)蒸し暑さで十分に力を発揮することが出来ずに…というよりも、走る前からすでに気持ちのほうが萎えてしまってレースに集中するどころの話ではなかった。
2年後にオリンピックを控え、暑さ対策でサマータイムの導入が検討されるらしい。ところがサマータイムの本場のヨーロッパでさえ不都合が多いからと、2020年か2021年にはサマータイム制度を廃止する方向だという。だから何を今更という感じがしなくもないのだが、そのヨーロッパでも北と南ではやはり事情が違いそう簡単でもなく、夏時間で統一すると、冬場に子供達が学校へ登校するころ、まだ日の出前の真っ暗な時間だから考え物だという記事をポルトガルのニュースサイトDiário de Noticiasで読んだ。[注2]
 
ぼくがこの岩崎ミュージアムで初めて個展を開いたのは1994年7月後半から8月初めにかけて。今からざっと24年前のこと。『東京ロマン』というタイトルで平面と立体を展示している。立体作家としてキャリアをスタートさせたばかりのぼくが、本格的に絵を描き始めるきっかけともなった。その意味で、いまのぼくの展示スタイルがここで芽吹いたと言っても過言ではない。タイトルの『東京ロマン』はムード歌謡コーラスグループ、黒澤明とロスプリモスの歌から。リードボーカルの森聖二の歌声が甘く切ないが、横浜での初個展に東京は無いだろうと考えるならば、青江三奈の『伊勢佐木町ブルース』か石原裕次郎の『夜霧よ今夜も有難う』でもよかったかもしれない。
その年もかなり暑かった。
次の個展は2004年。10年間が開いたのは、その間かなり忙しかったからなのだが、ちょうど10年無我夢中で走り続けて、さてどうしようかと…。
その時のタイトルは『山手の冬、そして春』。ドライポイントで山手の風景を15景制作した。これがスケッチにのめり込むきっかけでもあり、抽象的な仕事から具象的な方向へと変わる契機にもなる。[注3]
そしてそのすぐ翌年(2005年)には水彩とドライポイントで『山手の初夏、そして夏に』と、いうなれば個展の連作をしていて、そうであるならば、『山手の秋から冬へ』もいつかしなければならないだろう。
川崎市市民ミュージアムで作ってくれたぼくの年譜をみると、この仕事を初めて来年で30年になる…。
                                                                                          2018年9月6日  齋藤 眞紀
 
 


注1 “Terra dos Sonhos~夢の国~”   2018年8月8日(水)~26日(日)
注2 “Se acabar a hora de inverno, entre os meses de novembro e janeiro iremos estar às 08:15 ainda com noite escura.”(もし冬時間が終わってしまうと、11月から1月の数ヶ月間朝の8:15はまだ真っ暗な夜のままだ。)
注3 この夏、昔からの…それこそデビュー当時からの友人が初めて山手まで登ってきてくれて、ぼくが抽象的な仕事を忘れずに継続させていることを喜んでくれた。今年の個展では随分と、こういう仕事の方が「齋藤さんらしい」という声を聞いたような気がする

 大黒埠頭

大東タンクターミナル横浜油槽所

2018年7月 

 
ムッシューイノクマ、きみの絵はうますぎる(アンリ・マティス)〈注1〉
 
伯母が亡くなった。〈注2〉
もともと…夏を乗り切るのは難しい?というのがぼくも含めた大方の見方だったし、老健〈注3〉へ入所する前から食べられなくなっていた食事の量がいっそう減って、スプーンにほんの二口か三口程度、辛うじてエンシュアやメイバランスで命を繋いでいたようなものだったので、仕方のないことではあるのだが、それにしてもこの3ヶ月は、日に日に痩せ衰える伯母の姿を目の当たりに、本人の口からもう十分ね…というため息にも似た呟きが漏れるのを、よく頑張ったからもう楽にしてあげたいという気持ちと、少しでも体力が回復して、もう一度家に戻れたら良いのにといった相反する感情に苛まれながらも、やはり人間はそう簡単には死ねないからなぁ…と思っていたこともまた。
本当に食べられなかったのか?それとも食べようとしなかったのか、今となっては確かめようがない。ぼくは薄々気持ちの問題だったのではないかと思っている。それでもぼくがイタリアとスイスに行っている間〈注4〉は留守中に死ねないと頑張って食べようとしてくれていたらしい。
伯母が亡くなった日の朝、寝苦しさもあって、早朝からアトリエで仕事を始めた。ちょうど15号のキャンバスに白黒の絵を描き終えた頃、施設のケアマネから電話がかかりすぐ来てくれと。取るものも取り敢えず家を出てタクシーに飛び乗りはしたのだが、電車のトラブルで、踏み切りで足止めを喰い残念ながら死を看取る事は出来なかった。
伯母は朝起きて、動けない身体で職員数名に補助されながらトイレへ行き、食堂で一口だけ朝食を摂った後自室に戻り、馴染みの看護師さんから、もうすぐ甥御さんが来るわよと言われて、にっこり微笑んでいたと聞いた。
本来なら、もう伯母の身体ではトイレに行く事さえ無理だったのだそうだが、オムツもポータブルトイレも使わず、最後までトイレに拘るあたりが、プライドが高かった伯母らしかったとも。
 
「ムッシューイノクマ、きみの絵はうますぎる」
もちろん、イノクマとは猪熊弦一郎のこと。パリでの修行時代に、自作を携えて会いに行ったマティスから「対象を深く見つめることなく、ただテクニックだけで描いている」と。
佐伯祐三がブラマンクのアトリエを訪ねた時に「このアカデミックめ」とこっ酷く怒られた逸話ととてもよく似ている。
 
35度を越える猛暑の中でのスケッチは流石に厳しい。しかし…スケッチとは面白いもので、この暑さの中でも頑張れる人の絵はきちんとその頑張りに応えるものだ。
7月の定例会は幹事のつてを頼りに、鶴見の大黒大橋のたもとにある大東タンクターミナル横浜油槽所でスケッチをさせてもらった。よほどのことがない限り、コンクリートの壁に覆われた工場の中で描ける機会というのはそうあるものではない。しかも今回は冷房の効いた事務所の会議室まで使わせてもらえる特典つき。
流石に35度を越える炎天下でのスケッチをみんなに強要することはできない。冷房の効いた事務所の中で写真を元に絵を描いていても、それはそれでいい。ただし、結果が伴えば…だが。
スケッチで大切なのは、うまく描くことではない。現場で、しかもこの暑さの中で完璧を期することなどはまず無理な話だから。どんなに慣れた人でも、現場ではどうしても描き過ぎたり、余計な線が入ってしまったりするものだ。でも、それがかえって臨場感を生む要因にもなる。
絵には感情が大事だ。暑い時は暑い。その実感を絵にすること。そしてそれが出来るのがスケッチなんじゃないかとぼくは思っていて、だから酷暑だってあながち悪いものでもない。〈注5〉
講評の時、外で頑張れた人の絵はみな気持ちのこもった良い絵になっていた。反対に、早々と事務所に退散した人たちのは、どこか真に迫るものがなく物足りない。そう、暑さを絵から感じられないのだ。
イノクマさんの逸話は、鷲田清一の「折々のことば』からの孫引き。彼はこう付け加えている。「画家の修行は、恵まれた才能を押し殺し、世界にイニシアチブを明け渡すことから始まる。画業に限らず、小器用、小細工はいかん。」〈注6〉
                             2018年8月3日 齋藤 眞紀
 
 


注1 『猪熊弦一郎のおもちゃ箱:やさしい線』(文・小宮山さくら/丸亀市猪熊弦一郎現代美術館)
注2 『桜の頃に~厳島神社~』(スケッチ月記2018年4月)参照。
注3   介護老人保健施設の略。介護保険のサービスが適用され、在宅での生活が出来るようにリハビリなどをしてくれるところ。
注4 『La Soglia del Paradiso 天国への入り口~Soglio, Villaggio ソーリオ・スイス~』(スケッチ月記2018年7月)参照。
注5   とは言いつつも、実際にスケッチしたのは午前中、お昼までの2時間ほど。その後、しっかり冷房の効いた部屋でお昼と講評が出来たのがありがたかった。そのおかげで熱中症にならずにすんだのだと思う。
注6   朝日新聞2018年7月23日朝刊。ただし、この逸話もとても有名。大学時代に教わった荻太郎先生はイノクマさんと同じ新制作協会だったので、この話はよく聞かされた。

La Soglia del Paradiso 天国への入り口

Soglio, Villaggio ソーリオ・スイス

2018年7月 

 
 
イタリアの湖水地方にあるオルタ湖畔の郵便局から2週間以上前に出した絵葉書がようやく我が家に着いた。
昨秋ポルトガルからは5日程度で届いていたことを考えると悠長な話のようにも思えるが、もっともそのポルトガルにしても以前は随分と時間がかかったりしていたので、まぁ…そうイタリアを悪くも言えまいか?
ただし、イタリアの郵便事情は本当に悪いらしい。何せ郵便局に行っても切手がない。だから直接窓口で「これを日本に送りたいのですが…」とお願いしなければならず、しかもその郵便代がハガキ一枚につき2€20もする。いま手元にスペインの切手があるがそれが85¢。ポルトガルからもだいたいそれくらい。そう考えるとこれは幾ら何でも高すぎまいか。〈注1〉
オルタにはあまり良い印象がない。昼飯用にパニーニを買おうと思って入ったお店で、チーズやら生ハムそれにバルサミコ酢まで試食させられ、しかも英語の長い説明付き。
飛行機の中で読んだ本に「イタリア人は、こちらのイタリア語が下手くそでも、言おうとしていることをなんとか理解しようと頑張ってくれる…」〈注2〉とあったのに…せっかくイタリアまで来た挙句に散々英語を聞かされたのでは雰囲気も何もあったものじゃない…ここはイタリアだよ、だったら自分の国の言葉で喋りなよと。
旅は五感を通して味わうものだ。だからこそ言葉(の響き)はとても大切なのだ…と、こう切り出してしまうと、今回はスケッチ旅行の引率だった手前大変申し訳ないのだけれど…。
ぼくらのツアーはいつもスケッチ専門の旅行会社にお願いしている。毎回安心してスケッチが出来、しかも普段なかなか行けないような場所を選んでくれ有難いのだが、やはり旅行会社である以上限界があって、ぼくがひとりでふらふら行くような所と違い、観光客にまったく煩わされずに済むという訳にはいかない。それが…玉に瑕なのだが…。
オルタに3日滞在し、その後バスでスイスのソーリオという村に向かった。途中、プロモントーニュという川縁の静かな村で、地元の路線バスに乗り換え。事前の説明では、スイスは環境規制が厳しいので、イタリアからのバスではこのまま先には進めないのだとか?
ソーリオはしばしば「スイス最奥の村」と形容される。イタリアとの国境にほど近く、サンモリッツの南西、標高1090m、ブレガリア谷〈注3〉の高台にある。先ほどのプロモントーニュからはバスで10分程、くねくねとした峠道を登ると、鋭く切り立つシオーラ山群に抱かれ、緑豊かな牧草地の合間に石のスレートで葺かれた屋根と石壁の家々が肩を寄せあうように並ぶこの小さな村が見えてくる。
村内は10分も歩けばひと回り出来そうなくらい狭く…因みにこのソーリオには番地がない。手紙は○○○様、Soglio, Villaggioで着くそうだ…その割に、見所、描きどころは満載。まさにè un posto pittoresco(絵のような美しい場所)だ。
石と太い丸太で作られた一見すると荒削りで無骨な感じの家が立ち並ぶ狭い路地の佇まいが何とも言えず、その路地の奥、家と家との僅かな隙間にさえこちらの絵心が掻きたてられ、たった2日では物足りないそんな気にさせてくれる。
ソーリオをこよなく愛したアルプスの画家、イタリア人のジョバンニ・セガンティーニ〈注4〉はこの村のことを「La Soglia del Paradiso(天国への入り口)」と言ったそうだ。
確かに、この村から間近に望むスイス6大北壁の一つピッツオ・バディーレ、ピッツオ・チェンガーロにシオーラ山群が織りなす雄大で清浄な景色は天国への入り口に似つかわしいのかもしれない。
セガンティーニはミラノの人だったが、アルプスの山々やその自然をこよなく愛し、妻と共にコモ湖畔の村に移り住んだ。しかしそれでも高山への憧憬は止むことを知らずに、国境を越えてスイスへ、そしてその晩年にはソーリオと同じブレガリアにあるマローヤにアトリエを構えたという。
セガンティーニが生きた19世紀後半は印象派の時代。ところが、風景を印象で(単純化して)捉えようとする印象派の描き方では、鋭く切立つ頂きを露わにした峻厳なアルプスの威容を描くことが難しい。それを悟った彼は、独自に描き方を工夫しアルプスに挑んだのだという。だからこそ後世に名を残すことが出来たのだろう。
自分に対象を引寄せるのか?それとも対象に自分を合わるのか?風景と対峙する時、いつもここが悩ましい。
この旅行が決まった時からぼくもアルプスをどう描けば良いかを考えていたので、彼の悩みは他人事ではないような気がする。
もう…いまから9年ほど前になるか…はじめてみんなとオランダに行ってスケッチをした時、いままでの描き方ではダメだと思ったことをつい昨日のように思い出す。
                             2018年7月1日 齋藤 眞紀
 



注1 2€20=2ユーロ20、円に換算すると280~290円。85¢=85セント、だいたい110~120円くらい。ポルトガルから日本は80¢。因みに、日本からは何処へ出してもハガキは¥70–。
注2 『はじめてのイタリア語』郡史郎著(講談社現代新書)
注3 このソーリオのあるブレガリア地方は栗の産地でもあり、栗のスープ、ニョッキやパスタなど料理はどれもとても美味しい。ただスイスはとても物価が高いので、その値段を聞くとびっくりしてしまうが…
注4 Giovanni Segantini 1858ー1889。彼の死後ひとびとに、彼以前にはアルプスを征服した画家は存在しなかったとまで言わしめた。…が、よく旅行案内などでセガンティーニの愛したソーリオとなんの前置きもなく引用されることが多いが、これはとても不親切。このソーリオは、画家セガンティーニの他にもリルケやヘッセ、それにニーチェなども度々訪れこの村での滞在を楽しんでいる。彼らに比べると、セガンティーニの名前は註釈抜きで引用できる程有名ではないと思う。

梅雨のあとさき

岩埼ミュージアム

2018年6月 

 
 岩崎ミュージアムの隣に、瀟洒な建物が並ぶいまの山手にはおよそ不似合いな古い木造の家が、鬱蒼と茂る木々に隠れるようにあったのだが、ついに取り壊されて駐車場になるらしい。
 両隣が駐車場だなんて、想像しただけでも寒々しい。せめて生け垣でも植えてもらえないものだろうか?
 岩崎ミュージアムで夏の個展の打ち合わせをした後、横浜美術館まで歩いた。いま横浜美術館では、『ヌードー英国テートコレクションより』が開催されている。テートとは、テート・ブリテン、テート・モダン、テート・リバプール、テート・セント・アイヴスの4館で構成された、イギリスの近現代美術を中心にコレクションをしている美術館だ。
 横浜の展覧会はこのテートが国際巡回展として企画したもの。キュレーションはテートのエマ・チェンバースとシドニー・ニュー・サウスウエールズ美術館のジャスティン・バトン。
そもそもこの展覧会に興味を持ったきっかけは、油絵の生徒のひとりから、「ヌードを描く参考にしょうと思って行ったら、とてもがっかりした。先生、是非観て感想を聞かせてください」と言われたらかだった。
 結論を先に言おう。例えば、『○○◯コレクション展』などと銘打ち巷に氾濫している、どこそこかの美術館のコレクションをただ総花的に並べただけの展覧会と違い、ヌードを切り口に、19世紀以降のヨーロッパの美術が…というより個々のアーティストたちが、彼らが属する社会の性に対する無知と偏見、それに付随するステレオタイプを容赦なく暴き、そしていかに争ってきたかの、その歴史をつまびらかにしようという強い意図を感じさせる内容の濃い展覧会だとぼくは思う。
 一般に西洋絵画とヌードは切っても切れない関係にあると思われていて、古典絵画では歴史画や宗教画を描くために…つまり、ニンフやビーナス、サロメにクレオパトラ、そしてアダムやイブたちなどを描くのにヌードデッサンは必須だった。ヌードですぐ思い浮かべるのは…ティッツィアーノ、ジョルジョーネ、ルーベンス、アングルなどか?ベットに横になり、取り澄ました女性の顔が印象的だが、でも実際は…キリスト教が性に対してうるさかった(要するに禁欲的で不寛容だった)こともあり、絵画の中でのヌードの扱いはとてもセンシティブな問題だった。美は描いてもエロスはご法度。ヌードであって裸体ではない。詭弁にも思えるが実際、マネの『オランピア』やゴヤの『裸のマハ』が発表された当時、スキャンダルだと物議を醸したのは有名な話。
 彼らより大胆だったのはクールべ、女性の生殖器と腹部だけを描いた『世界の起源』という油絵まで描いてしまっている。
 いまようやくLGBTだの#Me Tooだとかが盛んに話題にされるようになったが、美術家たちはおよそ2世紀近くも前、そのことに触れることさえタブーだった時代からこの問題にアプローチしてきていたのだ。
 これ以上詳しくは書けないけど、こういう背景をきちんと踏まえてこの展覧会を見れば、これを企画したテートの意図がわかるというもの。
 ぼくが冒頭に挙げた文章は、ポルトガルのPUBLICOというニュースサイトに載っていたLGBTの記事の中からの抜粋で、Gosta de desfazer os estereótipos que se propagam como ervas daninhas. 意味は、「雑草のようにはびこるステレオタイプを壊す事が好き。」まさにこの展覧会にピッタリじゃないか。
                             2018年6月3日 齋藤 眞紀






『ヌードー英国テート・コレクション』展図録(横浜美術館/読売新聞東京本社)
『性の歴史Ⅰ~Ⅲ』ミシェル・フーコー/渡辺守章ほか訳(新潮社)
『ザ・ヌード 裸体芸術論-理想的形態の研究』ケネス・クラーク/高階秀爾・佐々木秀也訳(ちくま学芸文庫)
『イメージ Ways of Seeing 視覚とメディア』ジョン・バージャー/伊藤俊治訳(ちくま学芸文庫)
『エロティシズム』澁澤龍彦(中公文庫)
 

桜の頃に

元町厳島神社

2018年4月

 
ぼくの知らぬ間に冬が通り過ぎていた。
冬の間は満足に陽が差さないアトリエの庭にもようやく日差しが届きはじめ、猫の額ほどの庭に植えられた木々や草花は春の訪いを喜んでいる。
アトリエで冬を越した君子蘭、窓から見える椿や木蓮、雪に耐えたビオラ、それに勝手に生えてる雑草までもが元気いっぱいだ。そして巷では桜が満開を迎えようとしている。
天気予報によれば、今週半ばに気温が25度を超え、夏日になるかもしれないと言う。そういえば、こちらはようやくセーターを脱いだばかりなのに、久しぶりに出かけた街ではTシャツ姿の人も。季節とは、こんなにもせっかちなものだっただろうか?
この原稿が上梓される頃はおそらく、桜もその見ごろを終え、にぎやかだった街も落ち着きを取り戻していることだろう?
昔は、学校や公園、神社やお寺、工場の敷地など方々に桜の木があって、大仰にはしゃぐほどのものではなかったような気がするが…。
小学校では、裏庭の掃除当番を放っぽり出し、舞い散る桜吹雪の中、竹箒を振り回してチャンバラごっこをしたものだった。もちろんぼくらの頃の遠山の金さんは西郷輝彦だったけど、小学生だって定番の「この桜吹雪が見えね~か~~」くらいは知っていて、だから花見など、数える程しかしたことがない。
そう、花見に浮かれる世間を他所に、伯母の家のカレンダーは2月のまま…主人のいない古い木造家屋はひっそりと静まり返り、未だ、冷ややかな冬の空気に包まれている。
伯母の家で用事を足していると、時折鳴る古い柱時計だけが、あゝ、時間というものがあったのだと、このひと月の間ぼくの中で忘れかけていた懐かしい感覚を呼び覚ましてくれはするが、それさえも虚しく、今さっき時を告げた柱時計の、その音の残像が宙に吸い込まれ跡形もなくなると、部屋の中はまた、何事も無かったかのように再び、また元の静けさへと戻って行く。この家では時間を含むすべてがまるで空回りをしているかのようだ。
そう伯母の家ではあの日以来時間が止まったままなのだ。…そしてぼくもまた時間という感覚を失ったままでいる。
残念なことに、今月はこの話題の他に書く事がない。2月28日の水曜日の朝、デイサービスへ行くはずの伯母から電話がかかり、身体が痛くって動かせないからすぐ来てと。
アトリエの隣で、ヘルパーさんの助けを借りながら一人暮らしをしている大正生まれの伯母は、昨年の秋頃から体の衰えが目立つようになり、自宅で骨折するようになった。そして今度は肋骨を折って動けなくなってしまった。
仕事柄アトリエにいる時間が長いとはいえ、始終見守っているわけでもなく、もともと伯母のことは分からない事の方が多い。それにもう記憶があやふやなこともあって、なにがどうしてこうなったのかを説明できずに、だから伯母の身に何か事が起きるたび、こちらがその事情を飲み込むまでは雲をつかむようでとても大変なのだ。
例えば今回、肋骨が折れて痛いのだとわかったのが、1週間以上たってからだった。それもどうやら夜中にベットから落ちてのことらしい。
胸部骨折が厄介なのは、治療の施しようがなく、自然に痛みが引くのを待つしかない事。医は仁術などと言ったのは遥か昔で病院は、気休め程度の痛み止めを処方して、家に帰してしまう。
でも、それが問題だった。
肋骨を骨折して3週間が経ち、ようやく回復の兆しが見えはじめたある朝、また振り出しに戻った伯母の姿を目にすることになる。おそらくまたベットから落ちたのだろう。
流石に一からやり直すのは…こちらもすでに心身ともに限界にきているし…とても無理…さて…。
これを書いているいまは近所にある特養のショートステイでなんとか面倒を見てもらってはいるが…痛いからとほとんど食事も取ろうとせず、あちらも手を焼いている様子。はじめはその面倒をぼくが診ていたわけで、その難しさは痛いほどわかるけど…ショートステイ先で匙を投げられると、病院もダメ、介護施設でもダメとなり他に考えられる有効な手だてがない。
先日、伯母と仲の良い近所のおばさんが事情を察して、「程々にして、あんたは自分を大切にしなさい」と励ましてくれた。それで少し気持ちが楽になっている。
 
                2018年4月1日 エイプリールフールに…  齋藤 眞紀
 
 

 

薫風

山手本通り

2018年4月

 
山手の丘に吹く初夏の爽やかな風に木々が揺す振られ、さわさわと音を立てる葉擦れが心地よく耳に響く季節になりました。
ゴールデンウイークに入り、山手本通りも大変な賑わいをみせていて、ほんの少し歩くだけなのに随分と手間がかかります。
保育園の年長組さんに日系ブラジル人の子が新しく加わりました。彼女はまだ日本語がほとんど話せませんが、ぼくが「おはよう、宜しくね!」とポルトガル語で話しかけ手を差し出すと、少しはにかんだ様子でそれに応じてくれました。
絵を描くことは好きみたいで、とても上手にクレヨンで絵を描きます。授業の終わりに彼女の絵をクラスのみんなに見せると、「可愛い!」という声が上がりましたが、ぼくが「可愛いじゃ伝わらないよ、そういう時はQue bonita!(ク・ボニータ)というんんだよ」と教えてあげたら、クラス中Que bonita!の合唱になって、彼女はとても嬉しそうでした。
いま、小学校や中学校でも外国人の子供たちが増えているそうです。
うちの子たちは言葉が通じずとも身振りや手振りで一生懸命彼女をサポートしています。その様子はとても好感が持てました。きっとこの子達なら大人になっても臆せず言葉の壁を乗り越えていくことでしょう。
先日リキテックスの新しいアクリルガッシュの12色セットをもらいましたので、今日はその試し描き。アクリルガッシュが出始めた頃はなぜガッシュとアクリル絵具の合の子みたいなものが必要なのかもよくわかりませんでしたし、それに色が少し痩せているような気がしてあまり好きになれませんでした。
話が脱線しますが、最近は水性の油絵の具などというものもあり、それにもとんと合点がいきません。なぜなら油絵を描くときには溶き油(ペインティングオイル)の使い方が肝要なのであって、水を使ってしまったら何の意味もない…結局絵具メーカーが、それぞれの画材の持ち味をよくわかっていないからそういう中途半端なものを、ただ便利だというだけで、作り出してしまうのだと思います。
話を戻しましょう。ぼくはガッシュを好きでよく使います。透明水彩を無理強いして強い表現をするくらいなら、素直にこちらを使った方がいいと思っています。例えば19世紀の中頃にイギリスで活躍したラファエル前派の絵描き達も、透明水彩とガッシュを併用して見事な大作を制作していたりしますから。
ガッシュで抽象はよく描きますが、具象的な絵を描いたことが…実はあまりありません。ですから今日は戸惑いつつもあれこれ手探りしながら描きました。いつもと勝手が違いましたが、なんでも初めて取り組むときは楽しいものです。楽しいのですが…プロとして出来栄えを自慢できるレベルかというとそれはなかなか難しい。やはり習熟したものとそうでないものとでは差がありますから、その辺はご容赦ください。最も現場で描くスケッチは、いつもこんなものかもしれませんね?
時計が2時を回りそろそろ描き終えようかという頃、フェリスへ上がる階段を息を切らしながら登ってきたおじさんに、「こんにちは!」と声をかけられました。
話を聞くと、埼玉の越谷の方からわざわざ横浜まで絵を描きにきたとのこと。随分と遠くからとも思いますが、意外と遠足気分で楽しいのかもしれません。
休日はいつも絵を描くのか?と聞かれ、当たり障り無く「はい」と答えるか?それともこちらの素性を明かすかと、ちょっと返答に困りましたが、ここは正直にこれが仕事なので、今日は休みではないんですよと。
「あっこれは失礼しましたプロの絵描きさんでしたか!」
ちょうど、個展のDMを一枚だけ持っていたので、今週いっぱい銀座で個展をやってますから、お時間があればお出かけくださいとおじさんに渡したところ、齋藤眞紀さん…うんお名前に聞き覚えがありますと。
おいおいいつからそんなに有名になったかな?と思いましたが、まぁ…社交辞令でしょうし、そう言われてまんざら悪い気はしません。
 
 

2018年5月5日 端午の節句に 齋藤 眞紀

旅について

海蔵寺・鎌倉

2018年 3月

 
毎日絵を描いて暮らす、これは絵描きの理想かもしれないが、存外そう上手くいくものでもない。ところが、毎年ゴールデンウィークに銀座で個展があるばかりに、この時期だけは例外で、出かける用事はなるべく断り、アトリエにへばり付いて、外へ出ないものだから、人間も段々と無精になって、髭も剃らず、週に一度か二度、今日は教えに行かけなければならないと思う日に限り、朝寝床から抜け出すのがとても億劫で仕方がないのである。
個展の締切から逆算すると、年明け早々から仕事を始める必要があって、だから冬場の1月から3月まではとても忙しい。
まずは水彩とエスキース作り。ここで個展の大まかな骨格が見えてくる。見えたところで、油絵を描き始めるが、油絵の持ち味は勢いの良さにあり、南欧の眩ゆい日差しと黒い影の強烈なコントラストを再現するのに殊更向いていると思う。それに加えてごくありきたりな風景でもその勢いに任せれば絵にすることができ、概して風景は平凡な方が気持ちのこもった良い絵になるから、ぼくなぞは描いていて楽しくて仕方がない。
油絵はすでに9点仕上げた。それに描きかけが4点あって、まだ2~3点足すつもりでいる。欲張るのも大概にしないと、とは思うのだが、どうも描きたい気持ちを抑えることの方が難しそうだ。
水彩よりも油絵を描いている時の方が旅先での事どもを強く思い出す様子で、その上、吉田健一の『汽車旅の酒』という本を読んでいたものだから、描きながら無性に「旅がしたい」という気になっていて、多分9月までは仕事が詰まって出掛けられそうもなく、出掛けるとすれば秋の終わりか冬の初めだろうか?それも今年は長いのは無理。それならいっそ、取材を忘れてただただリスボンに居続けるのが良いかもしれず、リスボンという街は、朝起きると、自分がリスボンにいるのを強く感じさせてくれ、「そういうものがない町は、本当を言えば、町というものではない」のである、などと「もうこうなれば完全に旅行をしている気分になり」、油絵も「締め切りもあったものではない」。
言いそびれたが、今年は6月にスケッチツアーの引率でイタリアとスイスの湖水地方に行く。良いとか悪いとかの問題ではなく、これを旅とみなすのは少し微妙で、勿論現地で絵を描き、みんなんとわいわいやりながら酒を飲むことは楽しい。それに異論はないが、反面、仕事という日常を一緒に連れて歩くようなものでもあり、もし旅というものを定義するとして、それが「…1日でも、1週間でも我々を兎に角、その間だけ解放してくれるのが」旅であるのならば、やはり旅はひとりでしなければならないと思う。
ここまで読まれて、不思議な印象を持たれたことと思う。今日の文体は吉田健一風である。彼の文章はお世辞にもほめられたものでなく(と、ぼくは思う)、読むのにとても難渋し、何と数ページ読んで眠くなり読むのをやめにした人さえあるそうだ。「駅弁の旨さについて」というエッセイでは、駅弁のことはそっちのけで、日本料理とフランス料理の違いについて講釈した挙句に、イギリスの肉料理にただ焼くだけみたいなものが多いのは、肉がフランスのものより上手いからに違いなく、ただそれでは「一国の料理をなすに至らない」として、やっと最後に「駅弁などまずくて食えないというような通人の仲間入りを我々はしたくないものである」と結んでいる。こんな作文をテストで書いたらまず落第は間違いがない。ただし、そんな彼の文章がぼくは結構好きだったりする。
「何の用事もなしに旅に出るのが本当の旅だと前にも書いたことがあるが、折角、用事がない旅に出かけても、結局はひどく忙しい思いをさせて何にもならなくさせるのが名所旧跡である。極めて明快な一例として、鎌倉に旅行した場合を考えてみるといい。余り明快でそれ以上に、何もいう必要は無いだろうと思う。」
これで終わる。
                             2018年3月1日 齋藤 眞紀
 
 


注:引用はすべて、吉田健一著『汽車旅の酒』(中公文庫)から

 
王は退屈する

港の見える丘公園

2018年 2月

 
少しは生きる苦労というものがあった方がいいし、あまり平坦な道を歩まない方がいい。王たちがすべて思いのままだとすれば、気の毒なものだと思う。(アラン『幸福論』より)[注1]
 
月曜日の大雪で積もった雪が、まだ解けずに港の見える丘公園の花壇を覆っている。
どれくらい前だろうか?やはり雪が降った直後に山手へ絵を描きに来たことがある。その時は霧笛橋の下から大佛次郎記念館の裏手を見上げる構図で水彩とパステル色鉛筆とで描いた。水彩で着彩して紙の上の水分が乾ききらないうちにパステル色鉛筆を走らせると、クレヨンで描いた様な柔らかい表情になり、普段なら伸びやかな線を引くのに不向きなこの画材のこの描き方をぼくは好んでいる。
この時の絵は、春に予定していた個展のDMに使った。冬枯れの木立の隙間から大佛次郎記念館の裏側がこの角度で姿を見せるのはこの時期をおいて他にはない。冬ならではのとても貴重な景色だ。
この冬、日本列島は強い寒気に見舞われ、東京や横浜でも連日最高気温が10度に届かず、平年を下回る日が多い。アトリエの小さな庭には霜柱が立ち、ザクザクと踏みしめるたび、「貧乏の庭の広さの霜柱」(虚子)か…などと溜息ともつかない白い息を吐く。
ぼくが小学生のころは、真冬に立つ霜柱は風物詩みたいなもので至極当たり前のことだった。ぼくの家は学区の一番外れだったから、家を出るのが誰よりも早く、朝一緒に登校する近所の友達を待つ間によく霜柱を踏んで遊んでいたものだ。
そして同じように雪が降り、積もるのも珍しくなかった。冬場のこの時期には雪だるまや雪合戦をしょっちゅうしていたのをいまでもよく覚えている。「家々の灯るあはれや雪だるま」(水巴)夕方になり、庭や道端に残された雪だるまは実に淋しげだ。[注2]
先日、保育園で園児たちにそんな話をしていたら、20代の先生がここらへんでですか!とびっくりされていたので、そうか…東京に降る雪が珍しくなってそんなになるのかと。
朝の冷え込みが0度を下回る日のスケッチは流石に辛い。9時過ぎに家を出て10時ごろ山手に着いたとしても気温はまだ3度とか4度。しかも残った雪を渡り来る風は予想以上に冷たいもの。おそらく…実際の体感温度は0度に近いのでは…。もちろん十分に着込みはする。着込みはするがが、それでも座り込むのは3、40分が限界だろうか?だからこそ、なるべく慣れ親しんだ構図で手早く済ませようとは思うのだが、この時期は洋館などの補修や改修工事が多く、こちらの思惑が肩透かしを食うこともしばし。来るべき春に備えてのつもりなのだろう…が、こちらにしてみればあてが外れいい迷惑。そうなると、他に面白そうな風景を探さねばならない。ところが風景というものは少し視点を変えただけでガラリと様子が変化するもの。いくら慣れた山手の景色でも、やはり時間が必要だ。
昨日の夕刊に将棋の加藤一二三九段が、梅原龍三郎との飛車角落ちでの指導対局の折、手心を加え勝ちを譲ったのが後日バレてしまって怒られた事を書いていて、「加藤さんね。私はあなたが本気で付き合ってくれていると思っていた。この前の将棋で緩めたのは、意外だったし、正直言ってがっかりした。」と…。「思えば梅原先生は、桜島を描くために現地に1ヶ月ほど滞在された際に、納得できるものがなく、一点も持ち帰らなかったというエピソードの持ち主である。」。[注3]
冒頭に挙げたアランの【王は退屈する】と題されたエッセイはこんな文章で締めくくられていてる。「私は何人もの王を知っている。それは小さな王国の小さな国王たちだ。…中略…。神々は、退屈のあまり死んでしまったのでなければ、この家庭の平坦な王国の支配をあなたに命じないはずだ。けわしい山あいの道を通って導いてくれるはずだ。井戸のような眼と鉄床のような顔をもち、路上に自分の耳の影を見てもあわてず騒がずただちに立ちどまるような、アンダルシア産のよい騾馬を道づれとしてくださるはずだ。」[注4]

 
2018年2月2日 齋藤 眞紀
 

注1 アラン『幸福論』(串田孫一訳/白水社uブックス)

 
注2 高浜虚子・渡辺水巴
注3 東京新聞2月1日付夕刊『この道』加藤一二三 ※加藤九段は昨年現役を退かれた。
注4 アラン『幸福論』(串田孫一訳/白水社uブックス)

スケッチをする君に

山手本通り

2018年 1月


A:あけましておめでとうございます。今年も宜しくお願いいたします。
B:あけましておめでとうございます。早速で恐縮ですが、本年1回目のスケッチ月記です。
A:どれどれ…2 de janeiro, 2018(ドイス・デ・ジャネイロ、2018)
〈注1〉…へぇ~正月早々だ!
B:うん、とても静かでよかったよ。
A:『冬の華』
〈注2〉という映画で健さんが、刑務所から出所した後仮住まいしたマンションと山手十番館だね。
B:そう。この映画の事は前にも書いたけど、まだ猥雑さを色濃く残していた頃の横浜が丁寧に描かれていて懐かしかった。映画の舞台となった1970年代といえば、ぼくは子供だったから伊勢佐木町でも元町でも大人の街のような気がしてたし、もっと街自体にプライドがあったんじゃないかなぁ…。
A:今月の絵は、しっかり描きこんでるね。こういうの珍しくないかい?
B:寒いからね…。風も強かったし。
A:寒いとなんで?
B:だって、ゆっくり座ってられないじゃない。トイレだって近くなるし。だから、さっさとすませようとするだろ、そんな時は、とにかく”がー”と一気呵成に描かないと、寒さに負けちゃうんだよ。この絵で、多分…40分くらい。
A:どんなに寒くっても外で。
B:写真で済ませる人たちの絵って、どこか写真みたいで嫌なんだ。
A:それにしても、よく絵の具が乾いたね!
B:乾燥してるからかな?それはぼくにも予想外だった。でも、色に厚みがあるのは水彩色鉛筆が効いてるからだよ。絵の具が乾かないのを見越して持っていったから。強い絵になったのはそのせいさ。
A:なるほど、違う画材をミックスすると、表情がより豊かになるんだね。
B:よくスケッチ会の時でも、みんなに水彩だけじゃなくいろんな画材を試しなさいと言うんだけど、なかなか、実行に移す人は少ないね…。
A:なぜ?
B:描線だって、上手ければ筆圧の加減で表情に変化をつけることができるけど、普通はそんな芸当できないでしょ。だから何種類かペンの太さを使い分けて、線の質を変えなさいと。だけど…大体が…。
A:忘れちゃうんじゃない?
B:それもあるし、荷物が増えるのが嫌なんじゃないかな?
A:その気持ち分からなくはない。それにそこまで考える余裕が無いんだよきっと。どうしたらいいかわからないんだろう。
B:でもさあ、やってみなきゃ…下手な人間こそあの手この手いろんなことをして表現をごまかさない…いや助けないと絵にならないものだぜ。もし、自分は上手くないと自覚があるのだったら、その分手数をかけないとダメなのに…総じて淡白すぎるかな?かえって絵を壊しちゃうくらいでちょうどいい…、しくじるくらいが面白いんだよ。
A:そうか…いろいろと試行錯誤して試さないと…同じことをやり続けてもなかなかブレーク・スルーは生まれないのかもね?

  話は違うけど、スピードスケートの小平選手も、オランダに渡って〈怒った猫〉の姿勢だと、いままで日本で教わってきた常識と反対のことをオランダのコーチに言われたのがきっかけだったと話してるし、今年の箱根で、前評判の高くなかった東洋大学が往路優勝したのだって、ナイキのヴエイパーフライ4%〈注3〉とという、やはりこれまでの日本のマラソンシューズとは真逆の発想で作られた靴を普段の練習から取り入れてきたことがこの結果に大きく関与していると聞くよ。
B:ぼくも小平奈緒さんの記事はよく読んでて、はじめはえーと思ったらしいけど、このコーチが言う事だからじゃあやってみようと。そう言う意味では、ぼくのアドバイスが伝わらないのは、こちらに責任があるんだとは思うんだ。
A:それでも、スケッチ40%のメンバーは毎年腕をあげてるように思うけど…もう展覧会を10年以上続けていて、それでも停滞せず伸びてるのは素晴らしい。
B:それは、先生がダメでもスケッチ40%が良いチームだからだよ。
A:え?
B:スピードスケートの話と同じさ。小平選手だけではなく女子を中心に成果が上がっているのは、それまで各自バラバラにトレーニングしていたのを、全日本の代表チーム合同で一緒にトレーニングするようになったからだそうだよ。つまり…普段から高いレベルの負荷がかけられるようになったからだ。絵だって、スケート同様個人戦だけど、みんなが同じチームの一員だという自覚が大切なんじゃないかな…チームの力が個人の力を引き上げるんだ。それに一緒に切磋琢磨できる仲間がいるのは幸せなことだと思うしね。

 

2018年1月7日 七草に 斎藤 眞紀

 


注1 ポルトガル語で2018年1月2日
注2 『冬の華』監督降旗康男、脚本倉本聰、主演高倉健、製作東映、1978年6月17日公開。
注3 https://store.nike.com/jp/ja_jp/pd/ナイキ-ズーム-ヴェイパーフライ-4%-ユニセックス-ランニングシューズ/pid-11935473/pgid-12024783