Yamate254

横浜・山手にある服飾資料博物館<岩崎ミュージアム>スタッフによる情報告知用HPです。

プロフィール

1964年 川崎市に生まれる。1990年 和光大学人文学部芸術学科卒業。現在、横浜市鶴見区在住。スケッチ40%を主催。舞台美術の制作を皮切りに、抽象具象、平面立体を問わずジャンルをクロスオーバーしながら制作活動を行っている。…その為、「専門は?」と問われるのが一番の弱み。近年はこの岩崎ミュージアムをはじめ、川崎市市民ミュージアム、郡山市立美術館、いわき市立美術館などでワークショップの講師を数多くつとめるほか、横浜市教育文化プログラムの一環で、小学校への出前造形教室を行い、美術の楽しさを広める活動にも力を入れている。

COLUMN 2017

2017年 11月


ポルトガルからの手紙⑸(後編)
~エボラ、ベージャ、メルトラそしてリスボン~


 
エボラÉvora(続き)
一人でポルトガルを歩いていると、〈効率〉ほど〈旅〉と不釣り合いなものはないとよく思う。
ポルトガルは車社会だ。だから電車やバスでの移動はそれほど便利ではない。旅行者の都合など二の次(ちょっと言い過ぎ?)なので、長い待ち時間など当たり前。でも…ポルトガルにいるとそれを煩わしく感じないし、それどころか駅のホームやバス停でぼんやりと待つ時間が結構好きだったりもする。
エボラから次のベージャに向かう時、長距離バスが珍しく30分近く遅れた。
早々と外でバスを待っていた派手な服装のおばさんは、明らかにイライラしているのが分かるし、ガイドブック片手の旅行者は(あっ、ぼくもそうでした)不安げにうろうろと落ち着かない。褐色の腕や足に見事な刺青を入れた黒のタンクトップの女性だけは、仕方がないわね…という感じでタバコを吸いながら悠然としている。
バスがようやく来て乗り込む時も、派手な格好のおばさんはSuper atraso !{注1}…日本語だと超遅い!かな…と文句たらたらだったけれど、刺青の彼女は肩をちょっとすくめて見せるだけだった。
 
ベージャBeja
エボラからバスで1時間半ほど南下してベージャの街に着いた。エボラも暑かったが、ここはさらに暑い気がする。
スペインやポルトガルには、昔のお城や修道院など、歴史的に由緒のある建物をホテルに改装したホテルチェーンがある。ポルトガルではそれをポザーダと言って、ポルトガルを旅するものにとって一種の憧れになっている。
普通のホテルだと、どんなところでも少し儀礼的で冷たい感じがするのだけれど、ここではそういうことがない。ぼくも何度かポザーダに泊まったことがあるが、どこのポザーダもとても暖かく迎えてくれる。そして誰に対しても礼儀正しくそして親切だ。
ベージャでは古い修道院を改装した趣のあるポザーダ{注2}に泊まったが、やはりここも例外ではなかった。
帰り際、「この街もこのポザーダもとても気に入ったので、ここに一泊しかしなかったのはとても残念だ。」とチェックインの時に応対してくれた男の子に声をかけたら、「ぜひまた来てください。お待ちしています。」と。
 
メルトラMértola
今回の旅の終着点メルトラ。
グアディアナ川の織りなす豊かな自然の懐に位置するこの村は、古くローマ時代から物流と戦略上の要衝とされてきたのだが、13世紀のレコンキスタ完遂後、北アフリカとのパイプの役目を失い寂れゆく一方だった。
しかし1980年代に始まった考古学調査で、初期キリスト教時代のカタコンベやイスラム時代の住居跡などが見つかり、再びメルトラは長い眠りから覚め、重要な文化観光地として表舞台に立とうとしている。
ベージャからさらに南へ下り、バスがメルトラのロータリーに止まった。焼け付くような午後の日差し、白壁にくっきりと落ちる黒い影。バスを降りるぼくらの他に人影はなく、まるでセルジオ・レオーネの映画に紛れ込んだよう。
翌朝、暑くならないうちが勝負と9時前にはホテルを出て、橋を渡り旧市街を見晴らせる対岸の村Além Rioアレン・リオへ行く。とても小さな村だが、こちらの村の皆さんは、気軽に挨拶をしてくれるのでとても居心地が良い。
お昼をまわったころ、黒服のお婆さんがぼくのスケッチブックを見て「まぁ綺麗!」と褒めてくれたのだが、残念なことに…お婆さんのポルトガル語の訛りはぼくの手に負えなかった。ちょこちょこわかる単語を繋げて類推するに、メルトラや教会の歴史を話してくれていたのだと思うのだが…。
 
リスボンLisboa
メルトラからベージャ、エヴォラを経由してリスボンへ。
リスボンでの宿はAlbergaria Senhora do Monte{注3}。7つの丘を持つと言われるリスボンの丘のうちの一つの丘の上。
ホテルに着き、フロント{注4}の少し強面のホテルマンに、予約したものだとこちらの名前を告げたが、名前が見当たらないという。
もうこういうやりとりは慣れっこになったので、「日本のポルトガル文化センターの先生にお願いして予約してもらったが…」と言ったら、やはり予約が先生の名前でされていて、無事一件落着。
日暮れが近づくと、リスボンの展望台はどこも日没目当ての人たちで賑わう。
宿の近くのグラッサ展望台で、ぼくの脇へ腰を降ろした、背が高く、長い金髪をポニーテールに結った女の子が、カメラに夢中の大勢を尻目に、静かに、陽が落ちゆくのをじっと見守っている。さも素晴らしい景色は目に焼き付けるものだと言わんばかりだ。彼女を見ていると、ぼくらはすでに崇高なものに対する謙虚さを失っている…そう思えてならなかった。
リスボンには安くて美味い町の食堂がたくさんある。お店の人たちはとても気さくだし、何より気兼ねがないのが良い。
もうこの日は長旅の疲れであちこち歩くだけの余力がなかった。
スーパーへ買い物に出た帰りがけに通った横丁のレストランの店先で、ちょうどマダムがテーブルを直しているところに行き合わせ、「いいですか?」と聞いてみると、jantar ? Sim. Peixe ou Carne ? Prefiro peixe.{注5}と話した後、今日はPercaペルカ{注6}という魚があるという?ペルカは初耳だが、サーモンみたいだというので、お任せすることにしてビールを頼んだところ、ペルカには白ワインじゃなきゃダメだと言われ、じゃワインで。
その後も頼まないのに…気のせいかもしれない。でもメルトラでもそうだったが、ポルトガル語を話すぼくの方が、他の観光客よりサービスが良い気がする…バカリャウのコロッケが出てきたり、サラダはいるか?と聞くから、サラダも頼み、程なく蒸したペルカがブロッコリー、ジャガイモ、ニンジンと一緒に盛られて出てきた。
これがまた絶品!白ワインとの相性も抜群。思わずカラフェをお代わりして、すっかり日の暮れたリスボンの路地裏の夜景とともに堪能!
 
リバテージョへ向かった日に、戻ってきたらメールか電話をくれと先生から言われていたので、帰る早々メールを送ったのだが、返事が来ず、翌日の朝になってしまった。
朝食後、ホテルの部屋でこのエッセイを書きながら…さてどうしたものかと思案していたのだが、考えていても埒が明かないと諦め、思い切って先生の携帯に電話をしたら、「あっ、返事を出すのを忘れていた!」と。
「今日お昼を一緒にしましょう。コメルシオ広場のアウグスタ通りに近いところで、1時に待ち合わせ。」…。
 
翌日ホテルをチェックアウトするとき、フロントに座っていた女性にタクシーは必要か?と聞かれ、飛行機は午後の便なので時間もあるし、ゆっくり歩いて行きます、と答えたら、それが正解ね!と。
この日も暑かった。
日本から被っていったハンチングはこの2週間の酷使で汚れて見る影も無い。
昨日ロシオ広場で見かけた帽子屋で、値段がそれほど高くなければ新しいのを買おうかなと、ショーウインドーに飾られていた帽子を見せてもらった。夏物なのでもうこれが最後だそうだ。少しきついかな?という感じもしたが、少しは伸ばせるよというので、それを被って帰ることにした。なにせ、外の日差しはかなりきつい。
                     

〈完〉
2017年11月5日 齋藤 眞紀

 
 


注1 Super atraso ! スーペル・アトラーゾ
注2 Pousada Convento Beja ポザーダ・コンベント・ベージャ
注3 Albergaria Senhora do Monte アルベルガリア・セニョーラ・ド・モンテ
  ※Albergariaは4星クラスのPensãoペンサオン…規模の小さな宿泊施設のこと。
   Senhora do Monteは山の淑女という意味。
注4 ポルトガルではホテルのフロントはrecepçãoレセプサウン。
注5 jantar ? ジャンタール?、Sim. シン。Peixe ou Carne ? ペイシュ・オウ・カルヌ?Prefiro peixe. プレフィーロ・ペイシュ。…「ディナー?」「そう。」「魚か肉か?」「魚の方が良いかな。」
注6 Percaペルカはパーチというスズキに似た淡水魚。北半球の温帯に広く分布するが、日本や朝鮮半島にはいないらしい。ヨーロッパでは重要な水産魚だそうだ。

2017年 10月


ポルトガルからの手紙⑸
~コンスタンシア、トマール、エボラ~


 
この旅行の間、なぜポルトガルなのかをずっと考えていた。
 
いま、グローバリゼーションが否応無く世界を一つにしようとしている。
日本に戻る前日、リスボンのコメルシオ広場のレストランでポルトガル語の先生と食事をともにした。
3時間以上みっちり個人レッスンを受けたのと同じくらい疲れはしたが、久しぶりにポルトガル語のシャワーを存分に浴び気持ちが良かった。
今回リスボンに着いて一番驚いたことは、夜遅い時間なのにタクシー待ちをする観光客の多さと、英語の氾濫だ。
もちろんポルトガルもグローバリゼーションの波から無縁でいられるわけではないのは分かってはいるが…でもここはポルトガルだよ!とぼくは思う。
ぼくの中でのポルトガルは、適当で、いい加減でまあまあで済むような場所だった。だって、いままではポルトガルから出した絵葉書が、こちらが帰国して一月くらいしないと日本に届かなかったのだから。
 
このエッセイの書き出しを、リスボンの高台にあるアルベルガリア・セニョーラ・ド・モンテというホテルの、街を一望できる眺めの素晴らしい部屋で書き始めた。
ぼくはリスボンが好きだ。ここには種々雑多な人間がいる。ユーラシア大陸の西の果てにそんな人間たちが吹き溜まっている…リスボンにいくつかある展望台、例えば、グラッサだとかセニョーラ・ド・モンテ展望台を夕方訪れてみるといい。カメラでリスボンの街を収めようとしている多くの観光客の傍らで、所在無げな若者たちが一人静かに佇んでいる姿に出会うことができるだろう。
彼らも旅の途中かもしれない、でもぼくの…というよりぼくを含めた多くの旅行者のように、どこへいって何をする、そういう目的を持たない旅をしている、行き当たりばったりの。そんな気がする。それにはリスボンはうってつけだ。
旅そのものが目的。それが本当に旅をするということだ。
 

コンスタンシアConstância

リスボンから北東におよそ100km。テージョ川を遡った緑豊かなリバテージョ地方にあるコンスタンシア。テージョ川とゼゼレ川とに挟まれたのどかでとても小さな街だ。
ここへは、リスボンのオリエンテ駅からポルトガル国鉄(CP)の鈍行列車でプライア・ド・リバテージョ、日本語に直すとリバテージョの岸辺かな…という駅で降り、そこからはタクシーで行きなさいと教わってきたのだが…。
ところが、プライア・ド・リバテージョの駅に降り立つとそこは無人駅。駅前は荒れ果てた工場跡と民家があるだけで、あとは線路と川と青空が広がっている、それだけの場所だった。
こんなときどうするか?日本でなら迷わず歩くと思う。歩くのは嫌いじゃない。もちろん歩ける距離ならばだが…。
山間の道をトボトボと40分ほど歩くと、丘の上にそびえる教会の鐘楼と町へ渡る長い橋が見えてきて、目的地がさほど遠くないことを教えてくれる。
この日の晩、川岸のレストランで食事の後レシートに何かの数字を書けと言われたのだが、こちらはなんのことだかさっぱりわからず、首をひねっていると、やっぱりポルトガル語では無理かしら?と言われ、結構ショックだった。
結局、駐車場とか駐車券ことだったみたいだったが、もともと車に乗らないから、ポルトガル語でも英語でもその手の語彙がまるでない。つまり概念そのものがないので分からないのは当然なのだけれど、旅のはじめにそう言われてしまうと自信がなくなるものだ。
言葉を喋ることとそれを理解することは、必ずしも一致しない。それは日本語でも同じこと。
 

トマールTomar

ナバオン川の対岸からの眺めがとても印象的なトマール。この街の歴史はポルトガルがレコンキスタを遂げた12世紀にまで遡ることができる。
ポルトガル王アフォンソ1世がイスラムとの戦いに功績があったテンプル騎士団にこの地を与え、それにより町の礎が築かれた。
彼らの本拠となった修道院に一歩足を踏み入ると、まさに神域の霊気に触れる…、そんな感じがする。さすがは、ウンベルト・エーコの『プラハの墓』に登場してくる場所だけのことはあると思う。
トマールでの夕食は2晩ともナバオン川の対岸にあるヴィスタ・ベラというお店に通った。この店のバルコニーから眺める日暮れの、刻々と変化するトマール旧市街の光景はまさにVista bela美しい眺めという形容にふさわしい。
初日はArroz de polvoアローシュ・デ・ポルヴォ、いわゆるタコご飯のメイア・ドーセ(ハーフサイズ)があったので、迷わずこれに。隣のドイツ人のご夫婦は、ぼくが頼んだ料理が来ると、そんなのあるのか!とちょっと羨ましそうだった。
翌日、ツーリズモに地図をもらいに行った時、どうぞと言ってくれた女性がポルトガル語でこの街の見どころを説明し始めたのだけれど、傍にいたもう一人の女性が、「英語じゃなきゃダメじゃないの。ポルトガル語わかんないはよね!」と横から口を挟むので、一生懸説明してくれている彼女は、「だってポルトガル語で地図くださいって言ったわよ!」って言い返していたから、慌ててぼくは、それくらいならポルトガル語でも英語でも大丈夫だよって。二人とも納得したようだった。
 

エボラÉvora

コンスタンシアとトマールのある地方をリバテージョと呼ぶ。まさにテージョ川の流れている地域という意味。
今度はトマールからリスボンを経由して南に下り、まずはエボラという世界遺産の街に。ここを起点にさらにテージョ川の彼方、アレンテージョ地方を南下してみようと思う。
アレンテージョ地方は、いわゆるポルトガルの穀倉地帯だ。オリーブ、ぶどう、小麦畑、それにコルク樫の木。
バスがアレンテージョに入ると風景が一変する。起伏が穏やかな黄色い大地がどこまでもどこまでも続いていく。É tão grande o Alentejoそんな感じだ{注}。ぼくはこのアレンテージョの乾いた景色に魅せられて、ポルトガルに来ているのだ。
さて、エボラだ。実はこの街は世界遺産でもあるし、観光客も多いだろうし…とはじめはあまり期待をしていなかった。
ところが、本当に観光客がいるところはいわゆる目抜き通り一帯だけなので、その周りの、無数に張り巡らされた路地にはほとんど人影がない。いわゆる洗濯物がはためく生活空間なのだけれど、ここがまた言葉では言い表しきれないほど面白い。アレンテージョは他の地方に比べてイスラムの色が濃い。その分、例えば窓や窓枠、玄関の扉、手すりなどそれぞれの家が造作にこだわりを持っていて、それだけを描いてもいいくらい。それに日差しがとても強いから、白壁に落ちる影が色濃く鮮明でとても綺麗だ。
エボラにある無数の路地の細部をとことん見て行くときりがない。それほどこの路地は神秘に満ちて素晴らしい。
エボラについた日、夕食にここの郷土料理の一つであるAçorda alentejanaアソルダ・アレンテジャーナというスープ料理を食べたが、これが体に応えた。蒸した鱈が入った、生のニンニクとコリアンダーをすりおろしたスープにパンを浸して食べるのだが…、結局その晩は体が火照ってほとんど寝付けなかった。
それにすっかり懲りて、あとの残り2晩のエボラ滞在は、パン屋でサンドシュ(サンドイッチ)二種類と甘い菓子パンを買い、スーパーでビールと水を、酒屋で赤ワインを買い込んで、部屋で食べた。この方が気兼ねがないし、疲れを取るのにも良いようだ。
 

〈前編終わり。〉
 
2017年10月12日 齋藤 眞紀

{注}É tão grande o Alentejoエ・タオン・グランデ・オ・アレンテージョ…とても広大なアレンテージョという意味。元々はこの地方の伝統的なアカペラ・コーラス…農作業の時に歌われていたもの…の曲から。今このアレンテージョのコーラスは世界無形文化遺産に登録されている。Dulce Pontesドゥルス・ポンテスもこの曲を取り上げている。興味のある方はYouTubeでどうぞ!

 

2017年 9月


さぁ、旅に出よう!
山手公園にて


アトリエの庭先で盛んに聞こえていた蝉の声がパタリと止んだ。
いまは個展に引き続きスケッチ40%展が同じ岩崎ミュージアムの会場で行われている。この8月は天候に恵まれなかったが、暦が9月になると同時に秋らしいさわやかな風が吹き始めた。会場も連日大勢の来場客で賑わっているようだ。
一方ぼくの方はといえば、もうすぐ銀座で始まる木寺啓幸さんとの2人展の準備で余念が無い。〈注1〉
この展覧会では珍しく、二人の共同作品を2点出品することにしていて、木寺さんが陶器で作った円筒形の土台の上に、ぼくが紙で造作を懲らそうという趣向。昨晩遅くに、ようやく土台が木寺さんから届いたので、今朝は早くからこの仕事に取り掛かり始め、先ほどようやく2点作り上げたところだ。
展覧会間近は、ご近所の迷惑を顧みず、モーツアルトのレクイエムをアトリエ中に響かせながら仕事をしていることが多い。
おそらく…今日もそうだが、すでに心身ともに疲れ切っている。そのためだろうと思う。
疲れてくると、雑念がうまく払えずくだらないことばかりが頭に去来して、お世辞にも制作に良い状態とはいえない。
ところが、レクイエムを聴いている時だけは不思議とその旋律に浸りきり、気づくと無心になっている。なぜ?もちろんぼく自身にわかるはずもない。
ぼくが、モーツアルトのレクイエムを初めて生で聞いたのは、今でも世評に名高い1998年3月の、東京文化会館大ホールで行われたフランス・ブリュッヘン率いる18世紀オーケストラの演奏だった。
やっと取れたチケットで、ホールの一番後ろの席に身を沈めて聞いていたのだが、どうやらブリュッヘンの解釈が斬新すぎたようで、その当時のぼくには正直荷が重すぎた。
でも、そんな風にとっつきの悪い方がかえって長い付き合いになったりするから世の中はわからないものだ。
将棋の羽生善治二冠(先日王位のタイトルを失って二冠に後退してしまった。)も「これはいい手だと思って指す手は、あまりいい手じゃないことが多いんです。」いい手と思って指す手は、狙いが明確なわけで、可能性が広がらないのだと、ある本の中で話していて、なんだ将棋でも同じじゃないかと思ったものだ。ぱっとしない手を選んだ方がゆくゆく名局になることが多いのだそうだ。
すぐにピントくるものよりも、良いか悪いか俄かに判断できないグレーゾーンなんだけれど良いはずかも?と、直感が訴えかけてくる感じの方が、自分の採るべき未来を内包している。そんな気が…。
つまり、未来は誰にもわからないからいまはわからない。それで十分なのだ。
銀座での2人展と岩崎ミュージアムでのスケッチ40%展が終わって10日ほどすると、ポルトガルへ2週間取材に出かける予定。
今度で5回目。ぼくがポルトガルへ行くと言うと、「またポルトガルですか!」とか、「何度も行って飽きないんですか?」と言われることがあるが、「飽きる」という感覚の方がぼくにはよく理解できない。事情が許せばリスボンには毎年だって行きたいくらいだし、それくらい魅力のある街だと思う。
もちろん好き嫌いはあるから誰もが好きになる必要はない。それを否定はしないけれど…でも、噛めば噛むほど味が出るのは音楽も将棋もポルトガルでも同じこと。「もう、ポルトガルは一度行ったから…」で済ませる感覚の方がどうかしているとぼくは思う。
何度も繰り返し触れることでその良さが身に沁みる。何事も、そんなものじゃないだろうか。
さて、(さて、はポルトガル語でEntão[エンタオン]かBem[ヴァイン])、察しの良い方はお分かりになられたと思うが、来月はポルトガル紀行になる。2週間の旅程なので、一回で終わるかな?
                             2017年9月6日 齋藤 眞紀
 

追伸

さる9月3日に、銀座のヴィラ・モウラというポルトガル料理のお店で、ポルトガル語の先生のお別れ会が行われました。
ポルトガル語を習っている人は変わり者が多いと言われたとぼくが話したら、そうかも、文化の香りがする人が多いみたいですよと、同席された一人の方にそう言われると、なるほど!と出席者を見渡しみなさん腑に落ちたようだった。
ぼくが若造だった頃のクラシックの演奏会もこんな雰囲気だった…。でも、その場が失われるのは実に惜しい。



〈注1〉木寺啓幸・齋藤眞紀による~版画(平面)と灯りのコラボレーション~ 9月4日~9日(画廊るたん 中央区銀座6-13-7 新保ビル2F  www.gallerys,jp/tokyo/rutan/now.html

2017年 8月


徒然なるままに〈注1〉

大倉山公園


Valeu a pena ? Tudo vale a pena. Se a alma não é pequena.
                 ( Fernando Pessoa “Mar português”〈注2〉より)

ポルトガルの海

「何かの意味があったのか?って。…あらゆることに意味はあるのさ。魂が取るに足らないものでなければね。」
フェルナンド・ペソアの有名な詩『ポルトガルの海』の中の、これまた有名な一節。

引越し

20年近く住んでいたビルが来年早々建て壊しになるため、引越しをした。
この忙しい時期〈注3〉に、何も好き好んで引越しなどしなくても…とも思うが、部屋を探し始めたら運悪く(?)近所に手頃な物件が見つかったので、ほぼその場の勢いで決めてしまった。
ほぼ…と言うのも、20年前と比べて、ぼくも妻もいまは時間に余裕がないから、悠長に構えていられなかったりで…それでもアトリエにはグッと近くなり、家賃が安く、間取りも少しだけ広く、しかもリフォーム済み…と、悪い話ではなかった。ただ…、契約を済ませて、よくよく確かめたら、大抵お風呂場にあるはずの洗面台がなかった。〈注4〉

最後の授業

この4年と7ヶ月お世話になったポルトガル文化センターがこの9月末で閉校になる。
ぼくの先生は、ポルトガルがまだサラザールによる独裁政治だった時代に、ご主人と一緒に来日され、爾来50年近く日本でポルトガル語とポルトガル文化の普及に携わって来られたが、昨秋、外務省研修所の講師をお辞めになられたのを機に、日本での仕事に区切りをつけようと思われたのではないかと…。
ぼくがここまでポルトガル語に興味を持ち続けられたのも、偏に先生のおかげ。だから快くお見送りしたい。〈注5〉
7月26日の夜がぼくらにとって最後の授業となった。

左手

時々デッサンのクラスで、わざと左手で描いてもらうことがある。
左手で?なんの意味が?と訝る向きもあって当然だが、実際に授業でやってみると、右手で描くときより、左手の方が構図も形もバランスよく綺麗にとるようだ。
なぜかというと、左手には、右手に染み付いた癖がないからだ。
もちろん、癖はその人の個性でもある(かもしれない)。そう考えると、一概に否定するべきものではない。でもほとんどの場合描き方〈注6〉が悪いから癖が生じているので、本来なら、一旦洗い流した方が良い(とぼくは思う)。
ところが癖は、「ある人が無意識的にしばしば行うちょっとした動作。」と辞書にもあるように、人が無意識にしているものだから、意外と厄介だ。
一見荒療治に見えるけど、左手で描くことで無意識があぶり出され、顕在化する。おそらく、これを少し続けるだけで癖を矯正することも可能だろう(と思うのだ)。

元気な抽象たち

最近は抽象を描いている時の方が気楽なので、自分の持てる力を存分に出し切れるような気がしている。
もともと抽象的な絵や造形が好きなので、根がそうできているのかもしれない。
アルベルト・ジャコメッティは、「仕事をすればするほど、自分のヴィジョンが違うものになる」〈注7〉と言たそうだが、まさにぼくもそんな感じだ。描けば描くほど、違う世界が見えてくるようで、とても面白い。

ジミー大西

ヤフーニュースでちらっと読んだだけなので、事の真偽は定かでないが、彼は絵描きを辞めてしまったらしい。
蕎麦屋か何かの求人の張り紙をみて、はて?自分の時給はどれくらいなのだろうと計算してみたら、たったの350円。これじゃ…お金が儲かるはずがないと、筆を全部折ってしまったのだとか?
ジャコメッティはこんなことも言っている。「自分は、展覧会が成功しようがどうしようがあまり気にしていないし…なんの要求もない。ただ、無我夢中に作りたいだけだ。」と。
ぼくらの仕事は、絵を描いたり、ものを作ったりすることそのもの自体に意味を見出さないと続かない。

大倉山公園

東急東横線大倉山駅の北西側にある小高い丘の、木立が丈高く鬱蒼と聳える緑豊かな公園の中にギリシャの古代宮殿を彷彿とさせるような横浜市大倉山記念館が立っている。
この洋館は、1932(昭和7)年に実業家の大倉邦彦が大倉精神文化研究所の本館として建てたもの。1991(平成3)年には横浜市指定有形文化財に指定された。いまは横浜市が所有している。この洋館の裏手には東急電鉄が作った梅園があり、近所のひとちたちにとって格好の散歩コースになっているようだ。
ぼくらが訪れた日は、あいにくの空模様で、いまにも雨が降り出しそうな天気だったが、そのお陰でこの洋館の持っている怪しい?佇まいを引き出すことができたようにも思う。
 
                             2017年8月6日 齋藤 眞紀
 
 


〈注1〉日本の随筆文学の傑作とされれる「徒然草」は、吉田兼好がその感興の赴くままに記したものだ。ぼくも兼好法師にならい、徒然なるままに書き進めてみようと思う。
〈注2〉Fernando Pessoaの“Mensagem”という詩集の中から。翻訳が読みたい場合は『ポルトガルの海ーフェルナンド・ペソア詩選(ポルトガル文学叢書⑵)彩流社
〈注3〉これから岩崎ミュージアムでの個展とワークショップ、それに引き続きスケッチ40%展と銀座での木寺啓幸さんとの2人展が待ち構えている
〈注4〉結局、すったもんだの末、洗面台を取り付け終わるまでに3週間くらいかかってしまった。
〈注5〉…と思うのだが、さて、では他にポルトガル語の教室を探そうとすると、そのほとんどがブラジル・ポルトガル語を教えるところばかり。そんな事情もあり、教室を探し始めたころ、結局困ってここ(ポルトガル文化センター)にたどり着いているので、では、この先どうする?と考えると、かなり難問だ。
〈注6〉描く時の姿勢や鉛筆の持ち方など
〈注7〉‘O inúmero povo dos mortos de Alberto Giacometti’ (http://www.publico.pt)

2017年 7月


 
梅雨と夏の微妙な関係について

イタリア山庭園


 7月になった。
 今回のテーマは「梅雨と夏の微妙な関係」について。
 いまヨーロッパは連日40度を超す猛暑に見舞われている。ポルトガルでは、死者が64人、負傷者が200人を超える大きな山火事があった。TVに映し出された、幹線道路の焼け焦げた車列がなんとも痛ましい。車で逃げ切れず火の勢いにのまれ車中で亡くなられた方が多かったのだそうだ。珍しく日本のニュースで取り上げていたので、ご記憶されている方もいるだろう。強烈な熱波の中、雨をともわない嵐と雷の最中に突然火が燃え上がったという。ポルトガルの山林は、燃えやすい松や杉、ユーカリなどが植わり、それが火の勢いに拍車をかけてしまった。やはり山には楢、栗、オリーブやにわとこなどの比較的水分を多く含み燃えにくい木も必要なのだ。改めて、植生の多様性が問われている。〈注1〉
 ぼくらは夏がいつから始まるかなどにあまり興味がない。むしろ、蒸し暑い日本の夏など願い下げたいくらいだ。
 ところがいま夏を迎えているヨーロッパの人たちはそうでもないようで、特にポルトガル人は海が好き。だから夏が待ち遠しくって仕方がないらしい。ポルトガル人の先生からポルトガル語を習っていると、そういうことに気づかされて存外面白い。

 まずは中学校の理科のおさらいから。天文学上では、季節は太陽が黄道上の何処にいるかで決まる。〈注2〉北半球では太陽が夏至点から秋分点に至る、およそ6月21日ごろから始まり9月23日前後で終わる期間を一般に夏と呼ぶ。そう言われてみると、確かにそれほど異存はないように思う。ところが、日本人の季節感は古い中国の暦によって育まれてきた(と言っても過言ではない)ものなので少し事情が複雑。
 中国では二十四節気の、つまり一年を24に分けることですが、立夏から立秋までが夏。暦の上では、5月5日ごろから8月8日。(俳句の季語はまさにこれ。)
 改めて考えると、ぼくらが採用している2つの暦の間で夏の定義がこんなにズレていても意に介さないでやっていけるのは、結構すごいことかも?
 さらにもう一つ、暦と実際の季節感とに齟齬をきたす要因が…。
 それは、日本を含む東アジアの国の多くが北と南にある気団の影響で、わりと長い梅雨の時期があるため、ヨーロッパのように季節を春夏秋冬の4つに割り切って考えてしまうと、少々無理があるみたいなのだ。 
 例えば五月の連休ごろを初夏というが、ではそこからずっと夏なのかというとどうもそうういう気分でもない。それは梅雨が挟まるからだ。梅雨が明けて、ようやく夏がきた!という方がはるかにピンとくる。
 つまり、梅雨を含めて五季、秋にも長雨がある日本の場合はさらに一季増やして六季と数える方がどうも都合が良いらしい。
 日本の場合、一年を四季で勘定すると、梅雨がどうしても春でも夏でもないとても曖昧で宙ぶらりんなものになってしまう…曖昧な梅雨!それはそれでかえって日本ぽくって面白いとは思うけど…。
 大阪に長く住んでいたポルトガル人の神父さんが面白いことを言っていた。
「文化には連結的なものと選言的なものがある。〈注3〉我々の文化は選言的なので、白か黒かと問うが、日本人の文化は連結的なので、白と黒と言う。要するに灰色だ。それは混合主義的な宗教、文化や物事のあり方と関係し、決してはっきり決めるということがない。日本ではすべてが曖昧だ。その曖昧さは日本語に感じられる何かととても似ている。」〈注4〉
 当然のことだが、言語は話されている土地の気候や風土に影響されやすいので、ぼくだったら、「日本人の曖昧さは、日本の梅雨と夏の微妙な関係にあるんじゃないか…」と言うと思う。

2017年7月2日 梅雨の晴れ間に 齋藤 眞紀

 


〈注1〉’Por que carvalhos e castanheiras salvaram pequeno sítio do megaincêndio em Portugal’ (楢の木や栗の木がポルトガルの大火災で小さな農家を救った理由)http://www:bbc.com/portugues/,24/06/2017   
 
〈注2〉もちろん公転しているのは地球の方なので、黄道はいうまでもなく我々からみた見かけ上の太陽の位置。
 
〈注3〉難しい言い方ですが、選言的と言うのは、論理学での命題と命題を、「または」「あるいは」に相当する記号で結ぶこと。当然、連結的とは、命題と命題をひと続きにするために「と」で繋ぐことを言う。
 
〈注4〉Há a cultura da copulativa e da disjuntiva. A nossa é a cultura da disjuntiva : dizemos ‘isto é branco ou preto'. A cultura dos japoneses é a copulativa : dizem ‘isto é branco e preto’. o que pode significar cinzento. E tem a ver com sincretismo religioso,cultura e com a forma de ser. Nunca nada se define concretamente. No Japão são muito ambíguo, a ambiguidade é algo muito comum na língua japonesa.
    (Adelino Ascenso por um artigo, ‘Português no mundo’, de Leonor Xavier)