昔、初音島には「枯れない桜」が咲き誇っていた。
いくら花弁を舞い散らそうとも、まるで逆再生するかのように同じ枝には花弁が咲き、そしてまた舞っては島内の景色を桃色に染める。
科学では未だに解明されていない奇跡の現象。
それはまるで魔法のようで・・・いや、もしかしたら本当の魔法だったのかもしれない。
私の願いを叶えてくれた魔法の桜。記憶障害を持って生まれた私が唯一望んだ願い――「絶対に忘れない記憶力」を授けてくれた。
記憶障害により実の親から捨てられ、孤児となった私にとってはまさに天からの贈り物で。
その能力の欠陥に気付くのは・・・もう少し後のことだった。
それでも、「欠陥」による痛みさえ無視できれば、その能力は確かに便利なものだった。
一度聞いたもの、見たもの、感じたことは、絶対に忘れない。
たとえば、1冊の小説を読んだとしよう。
当然、私は眼で活字を追っていく。それは普通の人も同じ。そうしなければ、本など読めない。
けれど次の行に進んでしまうと、大抵の人は前の行を完璧に思い出すことは不可能だろう。
少ないもので1行20字から30字。多いものなら、40字から50字の活字を、一度目を通すだけで一字一句覚えるのは不可能なのだから。
それが、私には出来た。前の行どころの話ではない。今まで読んだ本は、全てのページ、全ての行を暗記していた。
流石に、自分でも尋常ではないと苦笑する。
――慣れ、とは恐ろしいものだとつくづく思う。
5年間もそんなことを繰り返してきたのだから、ある意味当然かもしれないけれど。
私はもうその頃には、能力があって当たり前。もはや自分の体の一部と言っても過言ではなかった。
だからこそ、なのかもしれない。
その能力を失ったことによる反動は、予想以上に大きいものだった。
始まりは、不意に感じた一つの違和感。
初音島の桜が一斉に枯れ始めたという島内のビッグニュースを余所に、私は自分の中に燻ぶるその違和感を拭いきれないでいた。
何かが違う。・・・いや、何かが変わった。
自分の中にあった一部が、まるでまったく別の何かにすり替わってしまったような、そんな感覚。
やがて、その違和感は確信に変わる。
彼の・・・恋人の名前を思い出せない自分がいた。
私にとってそれは信じられないことであり、それと同時にどこか納得している、やけに冷静な自分も確かにいて。
――違和感の正体は、記憶の忘却。
忘れるという事に憧憬の念を抱いた過去も確かにあったけれど、実際のそれはあまりに残酷で、あまりに無情なものだった。
まるで手に掬った水が指の隙間から零れ落ちていくように、私の記憶から零れ落ちていく過去。
降り続き、降り積もり、やがて自らも飲み込んでしまいそうな錯覚さえ覚えた記憶という名の雪は。
舞い散った桜の花びらに倣うように、溶けて消えていく。
私は無力にも、ただそれを呆然と受け入れることしか出来なかった。
それでも、彼は諦めなかった。
日に日に彼との思い出を、絆を、彼の存在すら忘れていってしまう私を責めることすらせず、ただ抱き締めてくれた。
心神耗弱状態だった私にとっては、それだけでどれほど救われたことか。
時々彼を赤の他人のように扱ってしまう自分が、堪らなく怖かった。
何より一番怖かったのは・・・私の中から、彼が消えてしまうことで。
『忘れたくない!』と、何度も何度も心の中で叫ぶ日々が続いた。
でも、分かってしまう。もう時間が無いのだと。私が彼を忘れるのは、誰も止めようがないことなのだと。
それでも、私は抗い続けた。絶対に忘れたくない存在(ひと)。誰よりも愛しいその人を、記憶に留めておくように。
けれど、そんな抗いの日々も終焉を迎えてしまう。
ある日。とうとう私の中から、彼の存在が消えた。
次に彼を思い出したのは・・・いや、私の中に彼が帰ってきたのは、3日後の私の誕生日のことだった。
彼の温もり、熱さ、そして優しさは、奇跡を引き起こしてくれたのだ。
それは、いつまで経っても絶対に忘れない。
――桜内 義之――
彼にまつわる全ての出来事を思い出せた私は、本当の意味で幸せを手に入れた。
そして今。あれから10年の月日が流れた現在(いま)も尚、私は義之と共に在る。
それは、これからもずっと続いていく幸せな未来。
――ううん、ちょっと訂正かな。
これからは、私と、義之と。
そして・・・私のお腹に宿っている新しい命と一緒に・・・。
D.C.U〜ダ・カーポU〜 SS
「雪の記憶」
Written by 雅輝
「・・・うん、前の検査からの経過も順調ですね。この様子だと、予定日からそうズレもなく生まれてくるでしょう」
エコー診断の結果を眺めていた先生が、椅子を回転させてこちらを振り向きながら笑顔で言う。
その言葉に私も笑顔になって、「ありがとうございます」と返しながら自らのお腹に手を当てた。
出産予定日までもう後2週間と迫った私のお腹は、当然のことながらポッコリと前面に押し出されている。
その小さな体には似合わないな、と彼には苦笑されたけど、逆に私はこんな小さな体でも命を創りだせることに感動すら覚えた。
「出産日まで、くれぐれも無茶はしないでくださいね?今が一番大事なときですから」
「大丈夫ですよ。そんなこと、俺がさせませんから」
先生の言葉に私の代わりに答えたのは、私の背後に立っていた義之。その真剣な表情には、明確な意志が伺える。
そう、まるで私のことを救ってくれた、あの時のように・・・。
「それは頼もしい。それでは、他にも色々と諸注意がありますので、旦那さんはこちらに・・・」
今度は私と入れ替わるようにして義之が先生の前に座り、私は傍にあった診察台に腰を下ろす。
すると、私の上着を持って来てくれた看護師の人がすっと近寄り。
「素敵な旦那様ですね」
「・・・はい」
内緒話のように悪戯っぽく囁かれたその言葉に、私は真剣な顔で注意を受けている義之を眺めつつ、心から頷いてみせた。
「流石に人が多いな・・・」
「そりゃイブだもの。カップルには外せない日でしょ」
私たちは産婦人科からの帰り道である商店街を、肩を寄せ合いながら歩いている。
「まあ、俺たちもその中の一組なんだけどな」
「ふふふ・・・そうね」
密着し、手を絡め合いながら、微笑み合う二人。どこからどう見ても、典型的なカップルだった。
でも、今はちょっと違うかな?3年前、義之の大学卒業と共に入籍した私たちは、今では夫婦というカテゴリーに属する。
もっとも、夫婦になってからも周りからは「バカップル」と呼ばれ続けてきたのだけど。
その原因はきっとこの辺りにあるんだろうなぁと、繋がれた手をチラリと見やる。
でもそれが分かっていても、私は今までずっとこの手を離せないでいた。
そんな理由でこの暖かく優しい手から離れるのは、それこそ馬鹿らしいと感じたから。
「ん〜・・・もう他に準備するものって無かったよな?」
「ええ。大方、出産に際しては準備したはずよ。万が一必要なものがあっても、後から買い足せばいいことだし」
商店街の中の総合雑貨屋を見ながら問いかけてきた彼に対して、私は指を折りつつ準備してあるものを思い浮かべる。
――私の能力までは戻らなかったけれど、脳が記憶するという動作に長年使われ続けたせいか、常人程度の記憶力まで回復していた。
能力の副産物とでも言うべきだろうか。記憶障害だった頃に比べれば、遥かに物事を覚えることができる。
『産着に紙おむつに哺乳瓶にミルクに・・・ベビーベッドとおもちゃ数点。これくらいかな・・・』
とりあえず用意したものを順々に頭の中で並べていく。細かいところまでは思い出せないけど、これだけあれば十分だろう。
「うん、大丈夫」
「そっか。それじゃあ、ケーキを買って帰るとするか」
「ええ」
ケーキとは、もちろんクリスマスケーキのこと。
毎年、私たちが現在住んでいる芳乃家では、イブの日に隣の朝倉家を含めた面々でクリスマスパーティーを開いているのだ。
二人で、既にホールケーキを予約している洋菓子屋へと向かう。
家では音姫さんと由夢ちゃんが料理の用意をしてくれているはずだから、早めに用を済ませるとしよう。
「「「「メリークリスマース♪」」」」
チンというグラスを乾杯し合う音と共に、4人のクリスマスパーティーが始まった。
広めのテーブルの上には、音姫さん達が用意してくれた料理の数々。
ターキーにホワイトシチュー、こんがり焼いたパン。そして中央には、私たちが買ってきたケーキが鎮座している。
「そういえば杏ちゃん。赤ちゃんの様子はどうだったの?」
始まってから数分後、真正面から音姫さんがそう訊ねてきた。
ちなみに席は私と義之が並んで座っており、長方形のテーブルを挟んだ正面に音姫さん。そして隣に由夢ちゃんという順だ。
「はい、おかげ様で経過は良好とのことです。予定日もほとんど変わりないだろうって」
「そう、それは良かったわ♪弟くんも、しっかりと杏ちゃんを支えてあげなくちゃ駄目だよ?」
「分かってるよ。産婦人科の先生にも言われたばっかりだって」
「でも、兄さんはすぐに調子に乗る癖がありますからね・・・。心配です」
義之の言葉を受けて、由夢ちゃんが本当に心配そうにジト目で義之を睨む。
けど流石は家族といったところか、彼女の言っていることもあながち否定は出来ないので、聞こえない振りをして食事を進める。
「おいおい、兄に向かって言う言葉か、それが。俺だって時と場合くらいは弁えているよ」
「・・・そうね、義之って学生だった頃から、空気を読むのは冴えてたからね」
「杏まで・・・っていうか、空気を読むの”は”って何だよ?」
「女性関係はダメダメだったじゃない。ミスター鈍感さん」
「うぐ・・・」
あら?言葉に詰まるということは、一応自覚はあったのかしら。
「・・・なあ、俺ってそんなに鈍感だったか?」
と、自分を指差しながら今度は音姫さんと由夢ちゃんに訊ねる義之。
当然、二人の答えなど決まりきっている。
「そりゃあ・・・ねぇ?」
「救いようのない鈍感でしたね」
「ぐっ・・・」
音姫さんには苦笑で、由夢ちゃんには思いきり冷たい目で肯定された義之ががくっと項垂れる。
そこで、私はとどめを差すかのように具体例を出してみた。
「そうね。私が知っている限りでも、あの頃に義之を好きだった人は私を除いて4人は居たわね」
「へ?」
驚きの余り目をパチクリとさせている義之。本当に気づいてなかったのだろうか。
まずは小恋でしょ。これは流石に本人も気づいている・・・と願いたい。余りにも小恋が不憫だから。
次に目の前に座っている音姫さんと由夢ちゃん。二人とも兄弟以上に義之を想っていたのは間違いないと思う。・・・口が裂けても言えないけど。
後は白河さんか。彼女の場合本気かどうかは判断しかねるところだが、少なくとも他の男子よりは義之に気を許していたように思える。
ん?そういえば、義之に関して何人かのクラスメイトから恋愛相談をされかけたこともあったっけ。
あの頃は小恋の手前もあって、断ってはいたけど。実際にその人数も考慮するとなると・・・。
「ほ、本当に4人もいたのか?」
「・・・冗談よ」
「そ、そうだよなぁ!冗談だよなぁ!俺がそんなにもてるわけ――」
「8人の間違いだったわ」
「ない・・・って倍になってる!?」
ふふふ、やっぱり義之をからかうのは面白いわ。
実際は何人が相談に来たかなんて覚えてないんだけど・・・プラス4人っていうのは、あくまで推測に過ぎないし。
ふと気づくと、頭を抱えて悶えている義之に見えぬよう、向かいの二人は笑顔でピースサインを送ってきていた。
――おそらく、彼女たちも学生時代は義之の鈍さに苦労していたのだろう。その顔は、どこかすっきりとしたものだ。
だからそんな彼女たちに応えるため、私も笑顔でピースサインを返しておいた。
パーティーも終わり、彼女たちが家に帰った後は夫婦二人で後片付け。
・・・とはいうものの、ほとんど義之がやってしまったため私は少々手持ち無沙汰だ。
彼曰く、「もう無理な運動もさせられないしな」とのこと。
これぐらいだったら大丈夫だと思うんだけど・・・その義之の真摯な思いやりと、何より生まれてくる子のために自重しておく。
「生まれてくる子供・・・かぁ」
私は今義之の言いつけ通り、リビングのソファでくつろぎながら窓の外を眺めている。
零れ落ちた呟きは、ここ最近ずっと感じていた・・・不安。
もちろん、義之との子を成すことに不安などありはしない。私にとっては、彼以上の男性などいないのだから。
だからむしろこれは、私の問題。
「どうしたんだ?浮かない顔して」
「義之・・・」
後片付けを終えたのか、ハンドタオルで手を拭いながら隣に座る義之に、私は思わず目線を逸らしてしまう。
今のこの不安を悟られるのが、少し怖かったから。
「ここんとこ、ずっとそうだよな?ふとした瞬間に、物憂げな表情っていうかさ・・・何かあったのか?」
「・・・気づいてたの?」
それは意外だ。私は自分でもポーカーフェイスは得意な方だと思っているし、義之の鈍感さについては知っているから。
「バーカ、当たり前だろ。何年一緒にいると思ってるんだよ?」
そう自信満々に言う義之に、怖いと感じていた自分が馬鹿らしくなってきた。
そうだ、義之はこういう人じゃないか。
普段は鈍くても、一番大事なところはしっかりと分かってくれている。
分かった上で、こうして微笑みかけてくれる。
「ちょっとね・・・怖いの」
隠しているのも馬鹿らしくなった私は、素直に自分の心を義之に伝えてみようと思った。
「怖い?」
「うん、私ってさ。子供の頃に両親に捨てられたじゃない?」
私の自嘲気味な言葉に、義之は真剣な顔を崩さずひとつ頷く。
「物心が着いた頃にはまだいたんだけどね。その頃には、もうほとんど相手にされていなかったの」
「・・・」
「そんな私が・・・親の愛情を知らない私が、ちゃんと母親になれるのかなって。きちんとこの子を育てることができるのかって」
片手で、お腹の我が子を撫でる。その鼓動が聞こえるたび、その存在が感じられるたびに。
「そう考えると、いつも怖くなるの。不安で、胸が押しつぶされそうになる・・・」
「杏・・・」
俯いていた私の視線は、いつの間にか抱き寄せられた義之の胸しか映していなかった。
――温かい。この優しい体温だけで、不安が吹き飛びそうになるから不思議だ。
「義之?」
「・・・それを言うなら、俺だって同じようなものだよ」
「あ・・・」
そうだった。義之もさくらさんと出会うまでの記憶が無い――つまり幼少期の記憶が無いと、以前聞いたことがある。
「でもな。俺は何も不安を感じない。楽観的なわけじゃないぞ?ただ単に、杏と一緒だったら大丈夫だって・・・心からそう思えるんだ」
「・・・義之、キザ」
「うっ!そ、そりゃ俺もちょっとはそう思ったけどさ・・・」
「ウソ。・・・大好き」
今度は、私からも抱き返す。
――私は、いったい何を不安がっていたのだろう?
子供は、私一人で育てていくわけじゃない。彼がいつも隣にいてくれるんだ。
だから私は、頑張れる。だから私は、強くなれる。
彼と一緒なら、きっとどんなことだって。
『あ・・・』
抱きしめ合っている最中、目に入ったのは窓の向こうの光景。
なんという偶然だろう。それとも、これは運命だろうか。
10年前の今日も、今と同じだった。あの時と同じ風景を、こうして10年経った今日、彼の隣で見ることが出来るなんて。
「・・・ん?どうした?」
義之も私が一点を見つめていることに気づいたのか、振り向いて数秒後、懐かしさに目を細める。
「これはちょっと、ロマンチックすぎないか?」
「いいの。なんといっても今日は・・・」
「そうだな、今日は・・・」
「「クリスマスだから」」
お互いの声がハモり、照れくさくなったのか義之が照れ隠しに私の唇を奪う。
私ももちろんそれを、嬉々として受け入れた。
――窓の外には、記憶の中のあの日のように、純白の雪が舞っている。
後書き
ようやく完成致しました〜、250000HITリクエスト作品。
疲れた・・・この長さは、短編では最長かも?
なかなか上手くまとめることができず、ただ時間が過ぎていく〜(汗)
どうにかこうしてクリスマスに間に合わせることが出来ました。・・・本当はイブに上げる予定だったんだけど^^;
ってことで、この作品は「25000HIT記念」兼「クリスマス記念」のSSということで。
話の内容的にも、かなりクリスマスっぽい要素を取り入れましたからね。っていうか、まんまクリスマスイブの話だったり。
それでは、リクエストしてくださったS・Tさん。そしてここまで読んでくださった全ての皆様に。
ありがとうございました!今後とも「Memories
Base」を宜しくお願い致します^^
杏 「感想は、ここに宜しくね」