「さよならだね・・・兄さん」

あの日、本校の屋上で、本校の制服を身に纏った私が漏らした言葉。

今でもはっきりと憶えている。背に感じる兄さんの気配と、皮肉な程に鮮やかな夕陽のグラデーションを。

悲しみや悔しさ・・・色々な感情に押し潰されそうな想いを。

そして――私はそのまま気を失った。

それで、何もかもが終わったと思ったんだ。

もう二度と、目覚めることはないんだろうなぁって。

死の覚悟なんて、とっくに出来ていると思っていたのに・・・。

それでも、最後の花びらを吐き出す瞬間まで考えていたのは、背中にいる兄さんのことだった。



―――その後の事は、今でもはっきりと分からない。

ただ分かっているのは、奇跡が起こったということ。

もう二度と目を覚まさないだろうと思っていた私は、搬入先の病院で拍子抜けなほど突然意識を取り戻し。

さらに、これまで私を苦しめていた症状も全てが消え去っていて、担当の先生も首を傾げていたっけ。

ただ・・・目が覚めたときの出来事は、今でも頭の中に焼きついている。



「・・・ね・・・む?」

「・・・・・・兄さん?」

「――っ!こ、の・・・バカヤローが・・・心配、させやがって・・・っ」



兄さんの泣き叫ぶ姿を見たのは、もしかするとその時が初めてだったのかもしれない。

彼はいつだって、私にとってはヒーローみたいな頼れる存在であったから。

寝ている私のお腹辺りに覆い被さって嗚咽に咽ぶその姿は新鮮で、そしてその時になってようやく自分が助かったのだと理解した。

それが嬉しくて・・・これからも兄さんの傍に居れる事が何よりも嬉しくて・・・私の目からも勝手に涙が零れ落ちていた。



それから一週間は検査という名目で入院することになったけど、特に異常も見当たらずそのまま退院。

本校への復学にも成功し、病持ちだったこれまで以上に充実した毎日を送っている。

兄さんと一緒に登校して。

兄さんと一緒に授業を受けて。

兄さんと一緒にお弁当を食べて。

兄さんと一緒に寄り道をしながら下校する。

そんなささやかな願いも全て叶った。

でも・・・。



――兄さんは私のことを、ちゃんと恋人として見てくれているのかな?





D.C. SS
 
            「新たな約束」
                  
                      Written by 雅輝






「・・・ふう。まあ、こんなところかな?」

私はそこまで書くと一息ついて、それまで握っていたシャーペンを机の上に転がした。

目の前に開かれているのは、私の日記帳。

毎日の日課のように書いていたものだけど、体調が悪くなってからは書けなくなって放置していたものだ。

これまでのことが一段落着いて、ようやくこの日記帳の存在を思い出し、だいぶ日付は飛んでしまったけど空白の時間のことを簡単にまとめることにした。

「もうあれから・・・二ヶ月か」

今の季節は初夏。

部屋のクーラーを付けるのは勿体無く感じて、リビングで扇風機に当たりながら日記を書いていた。

それでも2階にいる兄さんは、自分の部屋でクーラーを付けながらダラダラしているのだと思うと、理不尽さにちょっとムカッと来る。

「真面目に勉強でもしててくれればいいんだけど・・・ありえないか」

「おいおい。なに人のいないところで失礼なことを言ってんだよ?」

「キャッ!」

突如背後から聞こえてきたその声に、私は軽い驚きの声を上げて、恨みがましく後ろを振り返った。

「兄さん!いるならいるって言ってよ。ビックリするじゃない!」

「そう怒るなって。ちょっとした茶目っ気じゃないか。・・・ん?何だソレ」

おどけた様子で私の肩に手を回すと、兄さんはその手で私の目の前に広げられているものを指差した。

――ってコレは!

「わっ!わわわっ!な、何でもないよ?!」

私は開けっぱなしになっていた日記帳を大急ぎで閉じると、すぐさま背中に隠し笑顔を繕った。

自分でも誤魔化すには無理があると思ったけど、兄さんはおもちゃを見つけた子供のような笑顔で問いかけてくる。

「ほほぉ〜〜。で?その背中に何を隠したのかなぁ?我が妹よ」

「だ、だから何でもないって・・・あっ、ほら。そろそろ昼ごはんの支度をしなくちゃ」

「まだ11時だぞ?そんなに急ぐことはないじゃないか。・・・まさか、恥ずかしいポエムでも綴ってあるのか?」

「・・・そんなわけないでしょ」

その突拍子もない考えに呆れ返ったけど、黙っていると誤解されそうなので脱力しながらも答える。

「そうか・・・自信はあったんだがな」

「はぁ。兄さんが私を普段どんな目で見ているのかが、ハッキリと分かりましたよ」

「ははは。そんなの決まっているじゃないか。俺はいつでも音夢に熱視線を送っているからな」

「なっ――!」

「じゃな。ポエム製作も程々にしとけよ」

「だから違うって・・・はぁぁ」

私はリビングを軽い足取りで出て行く兄の姿を見ながら、大きくため息をついた。

兄さんが今のように時々放つ恥ずかしい言葉に、私はいつまで経っても慣れない。

私の反応を楽しんでいるってことくらいは分かってるんだけど、どうしても過剰に反応してしまう。

でも・・・兄さんの言動は恋人同士になる前とほとんど変わっていなくて。

私にはそれが、嬉しくもありまた不安でもあった。

ねえ、兄さん・・・。

私達って、恋人同士だよね?







「――ってことなんだけど・・・」

「なるほど〜。音夢先輩も色々と苦労してるんですねぇ」

翌日のお昼休み。

いつもなら兄さんと一緒に屋上でお弁当を食べている時間だけど、今日は美春と共に学食に来ている。

お弁当を持ってくるのを忘れたから・・・という嘘の口実で兄さんには謝ったのだが、その時の兄さんの安堵した表情が気になる。

家に帰ったら、問い質してみよう。

「ねえ、美春はどう思う?」

そこまでして美春と昼食を共にしていたのは、彼女に相談があったからだ。

恋人同士になったのに、今までとあまり変わらない態度を取る兄さんに対して、私はどうすればいいと思う?

とまあ、相談の内容はだいたいそんな感じだった。

「そうですねぇ・・・。多分朝倉先輩は、まだ自分が音夢先輩の彼氏になったのだと強く自覚していないのだと思います」

「自覚?」

「そうです!今までずっと兄妹として過ごしてきたのだから、多少はしょうがないと思いますが・・・それでも、音夢先輩から動いた方が良さそうですね」

「私が動くって・・・例えば?」

例を尋ねてみると、美春は数秒間「う〜〜ん・・・」と唸って、ニパッと顔を輝かせた。

「名前で呼ぶっていうのはどうでしょう?」

「名前って・・・呼び方の事?」

「だって、音夢先輩ってずっと朝倉先輩のことを「兄さん」って呼んでるじゃないですか」

「それはまあ・・・元々兄妹なんだし」

「でも、今は兄妹って関係だけじゃなくなったんでしょ?」

鋭く指摘され、思わず「う・・・」とたじろいでしまう。

「音夢先輩が朝倉先輩のことを兄として呼ばなくなったら、朝倉先輩の方も恋人としての自覚を持つと思うわけですよ」

「確かに・・・で、でもっ、急に呼び方を変えろって言われても何て呼べばいいか・・・」

「勿論、音夢先輩自身が「朝倉」なわけですから、呼ぶとなったら下の名前ですね」

「し、下の名前って・・・」

「だから・・・音夢先輩のイメージだと、「純一さん」とか?それとも、「純一」って呼び捨てでいきます?」

「純一さん・・・純一・・・」

私は頭の中で、その呼び名で兄さんを呼んでいる姿を想像した。

・・・。

・・・・・・。

「ムリムリムリムリ!絶対に無理!!」

頭をブンブンと横に振り、今の想像を記憶から抹消する。

多分、今の私の顔は目に見えて真っ赤になっているだろう。

そんな私を見て、目の前の美春はデザート用に常備しているバナナにパクつきながら、クスクスと笑みを零していた。

「まあ、するもしないも音夢先輩の自由ですから。でも、我ながら効果的なやり方だとは思いますよ?」

「・・・うん」

「それでは、もうそろそろチャイムも鳴るので美春はこれで失礼しますね。報酬のバナナパフェを、楽しみにしています!」

最後に笑顔で敬礼のポーズを取り、美春は足取り軽やかに学食を出て行った。

「・・・本当に大丈夫かなぁ?」

いつもバナナに全力投球な後輩の背中を見送って、私は多少の不安をポツリと漏らすのであった。







でも、急に呼び方を変えろと言われてもなかなか難しい話なわけで・・・。

美春に相談してから、既に一週間が経過していた。

その間にも兄さんとの間には目立った進展はなく、惰性のまま日々が続いている。

ごくたまにキスを交わしたりはするけど・・・それがイコール恋人扱いされているかと問われれば、首を傾げるしかない。

私が望んでいるのは、もっと内面的な部分――美春の言うとおり、それは恋人としての自覚に近いもの。

「スー・・・ハー・・・・・・よしっ」

なので、まだ恥ずかしさや抵抗は残っているけど、今日から兄さんのことを「純一さん」と呼ぶことにした。

今日も意味を成さなかった目覚まし時計の前で眠りこけている兄さんを、深呼吸をして気合を入れてから起こしにかかる。

「いい加減に起きて。遅刻するよ?・・・じゅ、純一さん」

”ガバッ!!”

いつもは一言くらいでは起きないのに、今日はまるでバネ仕掛けのような動きで一瞬で起き上がった。

目をパチクリとさせながら、不思議そうにキョロキョロと周りを見回している。

「お、おはよう」

「あ、ああ。おはよう。・・・音夢、今のは・・・?」

「ほ、ほらほら。時間もないんだから、早く着替えて下りてきてよね?」

「あ、ああ・・・」

未だにキョトンとしている兄さんを尻目に、おそらく赤くなっているであろう頬を押さえながら階段を駆け下りる。

「これは・・・慣れるまで本当に大変そうだなぁ」

ぐったりとリビングのソファに身を預けた私は、熱に浮かされたようにぼんやりとそう呟いた。





「名前で呼ぶことにした?」

「うん。だってもう恋人同士なんだし・・・形から入っていくのも、いいと思わない?」

「まあそりゃそうかもしれんが・・・学園でもか?」

「当然です」

向かい合って朝食であるトーストを齧りながら、私は兄さんに事情を説明した。

事情・・・とはいっても、話したのはこれから名前で呼ぶことにするということだけで、その経緯や理由については話していない。

「でも、すげえ違和感を感じるんだけど・・・」

「それは私もです。でも兄さ――じゃなかった。純一さんもその内慣れてくるって」

「・・・そうだな。ま、好きにするといいさ」

兄さんはなげやりにそう言うと、トーストの最後の一口を食べ終え、コーヒーを口に含む。

「うん。じゃあ、そろそろ行きましょうか?純・一・さん♪」

「――っごほっ、ごほっ!」

悪戯っぽく名前にアクセントを置いて促してみると、兄さんはコーヒーを喉に詰まらせたようで思い切り噎せていた。

『・・・ホントに効果覿面かも』

そんな兄さんの分かり易い反応を見て、作戦への期待感が大幅に高まったのは言うまでもない。







それから更に二週間が過ぎた。

学校の皆は私達の変化に最初は戸惑っていたけど、私達が付き合い始めたのは元から結構な数の生徒が知っていることなので、今では慣れた様子だった。

・・・むしろ慣れないのは、本人達ばかり。

私は未だに時折「兄さん」と呼んでしまいそうになるし、兄さんは兄さんで「純一さん」と呼んでも自分のことだと気付かないときがある。

始めた当初は成功するように感じたこの作戦だけど、最近は続けている意味が無いような気がしてきた。

兄さんは恋人としての自覚・・・というよりは、不慣れなことに戸惑っているだけだし。

私も、呼び名を変えるだけで兄さんが兄さんじゃ無くなるような、時折そんな漠然とした不安に駆られてしまう。

――今にして思えば、それは当然なのかもしれない。

今まで、私達は兄妹として長い年月を過ごしてきた。

私がこの家にやってきたときから、何年も・・・兄さんが、「お前は僕の妹だからな!」と宣言したあの日からずっと。

「兄妹」というカテゴリこそが、私たちの絆だったのだから。

「あ、あの・・・純一さん」

もうやめよう・・・こんな思いをしてまで続けるのは、馬鹿らしい。

漠然として不安に耐え切れなくなった私は、放課後デートの途中、桜公園で兄さんに呼びかけた。

「・・・ん、何だ?音夢」

それに対して、やはり兄さんの返事はワンテンポ遅い。

「あのね、呼び名の事なんだけど・・・今日から、また「兄さん」に戻してもいいかな?」

「そりゃ構わないが・・・何でまた?」

「いや、だっていつまで経っても慣れないし・・・何となく不安になっちゃって」

「・・・そうか、俺だけじゃなかったんだな」

「え?」

私が反射的に聞き返すと、兄さんは頬をポリポリと掻きながら照れくさそうに答えた。

「いやな。俺もさ・・・その・・・たかが呼び方ひとつなのに、お前が遠くに行ったような気がしたんだ」

「・・・兄さんも?」

「ああ。何ていうか・・・他人行儀みたいな感じに聞こえて、突き放されたような感覚になっちまうんだよな」

「そ、そんなこと!」

「ない・・・だろ?それくらい分かってるって。ただ、ひとつ聞きたいんだが・・・こんな事を始めた理由は何なんだ?」

いつか聞かれると思ったけど、こうして答える場面となると恥ずかしい。

でも、私の我儘で兄さんにも迷惑を掛けたのは事実だから、私は事の顛末を包み隠さず話した。



「恋人の自覚・・・か」

「うん・・・で、でも美春を責めないでね?」

「分かってるよ。元凶は俺なんだし、美春はお前の相談に乗ってくれたんだろ?怒れるわけないじゃないか」

「うん・・・」

兄さんの優しい笑顔に、私は何となく気まずくなって視線を逸らした。

「・・・・・・そうだな、久しぶりにあの場所に行こうか」

「えっ、ちょっと兄さん!?」

何やら考えごとをしていた様子の兄さんが、突然思いついたように私の手を取りズンズンと歩き出す。

私は急な事態に戸惑いながらも、兄さんに引っ張られながら桜並木を横切るのであった。







「ここは・・・」

見覚えのある道を兄さんと辿っていくと、突如開けた場所に出た。

そこは見覚えのあるなんてどころではない。あの頃の、幼き記憶が蘇る。

「やっぱり枯れても、この木は壮大だよなぁ」

兄さんはその巨木に歩み寄ると、堂々とした幹を慈しむように撫でた。

――そう、ここは初音島で一番大きな桜の木の下。

幼い頃私が家出をした時に一晩過ごした場所であり、私と兄さんが本当の意味で家族に・・・兄妹になった場所。

それだけではない。ここにはまだ小学生の頃によく遊びに来ていたため、たくさんの彼との思い出が詰まっている。

「――確かに」

枯れても尚、威風堂々とした姿を見せる桜に気を取られている私の耳に、不意に兄さんの声が届く。

「俺は恋人としての自覚が少なかったかもしれない。兄妹と恋人・・・どっちつかずな想いで、お前に接していた」

「兄さん・・・」

「でもな。俺にとってお前は、やっぱり兄妹であって恋人なんだよ。どっちが欠けても、俺の中で音夢ではなくなるんだ」

「兄妹っていう関係があったからこそ、俺達は恋人になれた。もし兄妹じゃなくてただのクラスメートだったとしたら、違った結果だったかもしれない」

「だからこそ、俺はお前と兄妹になれて本当に良かったと思う。・・・まあ、それだけが理由じゃないけどな」

枯れた巨木を見上げながら語る兄さんを、私はずっと見つめていた。

そして、思うんだ。

やっぱり兄さんには、敵わないって・・・。

「でも・・・元はと言えば俺が恋人らしいことをしてこなかった所為だよな?」

「え?」

「あ〜、だからだな・・・その〜」

後頭部を掻きながら、ほんのりと赤みがかった頬で言いよどむ兄さん。

その様子に続く言葉は何となく分かったけど、私は意地悪でわざと聞きなおしてみた。

「ん〜、何ですか兄さん?私達は『兄妹』なんですから、恥ずかしがることはないでしょう?」

「ぐっ、お前・・・わざとだな?」

さすがに鈍感な兄さんでも分かったみたい。

私はそんな兄さんに、おどけて舌を出してみる。

「はぁ。まったくお前は・・・恥ずかしがっている俺が、バカみたいじゃないか」

「えへへ♪ごめんね。で、どんな言葉をくれるんですか?」

「ったく・・・。音夢、今度の日曜日に二人きりでどっかに行くぞ・・・デートだ」

その台詞は、相変わらずぶっきらぼうで・・・。

でも欲しかったデートという言葉を貰えた私は、満面の笑みで頷いた。

「うん、兄さん♪」



思い出の桜の木の下で、私達はまた新たな約束を交わす。

それは昔、兄妹になることを誓った時のように・・・いつまでも、共に居られますようにと。



end


後書き

110000HIT記念リクエストSS、「新たな約束」いかがでしたでしょうか?

今回は結構煮詰まっちゃいました^^;やはりバイトのせいで、どうしてもネタを考える時間も執筆する時間も限られてしまうのが痛い。


さて、内容はriaさんのリクエスト通り、「恋人同士」で「兄妹愛」をテーマに書いてみました。

どうでしたでしょう?作者本人としては納得の出来ですが・・・。

ただちょっとテンポが悪かったかな?と反省m(__)m


それでは、リクエストをくださったriaさん。そしてここまで読んでくださった全ての読者の皆様に感謝を込めて・・・。

ありがとうございました!^^



音夢 「兄さん♪ 感想はこちらに書いてくださいね?」



2007.2.4  雅輝