“ザアアアアァァァァァッ”

 

窓の外では、昨日から止む気配を見せない雨が、まさに土砂のごとく降っていた。

季節は初秋。

そろそろ半袖では心許無くなり、かといって厚着をするには暖かすぎる、そんな時期。

どこにでもありそうな、閑静な住宅地の一角に存在する、「双海」という表札が掛かった家の中。

「・・・」

湯気が立ち上る紅茶と、窓から見える雨粒を交互に眺めながら、彼――三上智也は無意識にため息を吐き出した。

 

どうも雨の日は憂鬱な気分になる。

元より人とはそういうものなのかもしれないが、それでも自分に関してはその意識が強いのではないか、と自嘲気味な考えすら浮かんでくる。

『もうとっくに乗り越えた筈なのに、それでもまだ俺は過去を見ているのか?』……と。

そして、そんな考えをしてしまう自分に、またため息を吐きたい気持ちになってしまう。

――やはり、雨は好きになれそうになかった。

 

「紅茶、どうですか?」

ふと、そんな後ろ向きな思考に分け入る、透明感のある声。

振り向くと、そこには微笑みを浮かべている少女――双海詩音の姿があった。

ケーキの乗った小皿を智也の前に置き、その隣に自分の分の紅茶とケーキを置く。

そしてそのままソファー――智也の隣に座った彼女は、先程の質問の答えを待っているかのように智也を見つめる。

「ああ、いつも通り。いや、いつも以上かな?」

先程の暗い考えを即座に打ち切り、隣に居る恋人に笑んでみせる。

その「いつも以上」というのは冗談でも世辞でもなく、先の鬱な気分の中で詩音の紅茶は唯一安堵感をもたらすものだったからだ。

智也の言葉に対し詩音も、「そうですか……」と軽く微笑み、静かな室内に響く窓の外の雨に視線を転じた。

 

「雨……止みませんね」

「……ああ、そうだな」

智也の肩にそっともたれかかり、ポツリと呟いた詩音の一言に、智也は内心ドキッとした気持ちを悟られないように落ち着いた声で返す。

「考えていたのは……彩花さんのことですか?」

「…………」

しかし、彼女はいとも簡単に見破ってしまう。

元より隠してもしょうがない事だったので、智也は特に驚くこともなく返答した。

「そうだ、と言えばそうなのかもしれないし、違う、と言えば違うのかもしれない。確かに考えていたのは3年――いや、4年前の出来事だ。が……彩花のことというよりは、アイツを喪った悲しみと、それを大雨の度に想い出してしまう事に対する自己嫌悪……かな?」

智也はそこまで言い切ると、目の前のカップを手に取り、味わうように一口啜る。

「智也さん……過去を想い出すことは、決していけないことではありませんよ?」

対して詩音は淹れたての紅茶を手に取ることはせず、ただ前方にある窓の外を眺めていた。

「『過去を忘れる事と、過去に縛られる事は違う』……だろ?それはわかっているつもりだ。あの日、俺が詩音に言った言葉だからな。でも、それでも自分自身に納得がいかない。雨の度にこんなに気持ちが沈んでしまう自分が、情けないんだよ。……俺には、詩音がいてくれるのにな」

数秒の沈黙を挟みそう言った彼は、申し訳なさそうに隣に座っている彼女の肩を抱き寄せた。

詩音は少し恥ずかしそうに頬を染めるが、さすがに交際開始から1年近く経っているためか、以前のような初々しさは無くなり今では自然に智也に甘えることができる。

そしてその体勢のまま、彼の悲しげな横顔を見つめる。

『……よしっ』

心の中で炎――前々から密かに考えていた決意を宿し、徐に詩音は立ち上がった。

「……詩音?」

突然の彼女の行動に、困惑する智也。

しかし詩音はそんな智也に構わず、彼の目の前に立つと大人びた微笑と共にこう言った。

 

「智也さん。彩花さんの、お墓参りに行きましょう」

 

 

 

 

 

 

Memories Off SS

           「雨が上がるトキ」

                  Written by 雅輝

 

 

 

 

 

 

雨。

その日も、雨は降り続いていた。

傘を差さないと歩けないほどの、激しい雨。

それは智也の陰鬱な気分を、さらに色濃いものにさせた。

 

 

 

「お墓参りに行きましょう」――そう詩音が智也に告げてから、今日で丁度一週間が経つ。

そしてこの日は、何の因果だろうか……間違いなく彩花の命日だった。

あれから4年……智也が彼女の墓参りに訪れるのは、今日で二度目だ。

一度目は、詩音と付き合うようになってからすぐ。

彼女への報告と、けじめをつけるために訪れたきりだった。

 

「林鐘寺〜。林鐘寺〜。お降りの方はお忘れ物などございませんよう――」

ぼんやりと降り続ける雨を眺めていた智也は、車内アナウンスに思考を連れ戻されるように辺りを見回す。

休日の日曜とは言え外は土砂降り。

いつもなら家族連れで賑わっているはずのシカ電の車内も、少し閑散としていた。

やがて電車が目的の駅に滑り込み、プシュッという音を立ててドアが開くと、智也はゆっくりとそのホームへと降り立った。

隣に彼女――詩音の姿は無い。

きっと今頃、彩花の墓前に立っている頃だろうか……。

「……行くか」

智也は誰もいないホームで一言そう呟くと、ゆっくりと……しかし確実に歩み始めた。

 

 

 

「彩花さん……」

まさに丁度その頃、詩音は白い傘を片手に歩みを止めた。

目の前には、「桧月家之墓」と銘打たれた墓石。

そして彼女は、その墓の中に眠る、今は亡きもう一人の“彼女”に話しかける。

 

――こうして詩音が智也より先に来ているのにはわけがある。

とはいっても大したことではない。

単に彼女――彩花と二人きりで話したい事があったからだ。

そのために智也に後から来てもらうように頼んで、こうして一人、その墓前に佇んでいるのだ。

 

「……まずは初めまして、ですね。私は、双海詩音と申します」

線香を上げ、供花を捧げたところで、詩音が改めて口を開く。

勿論、返事が返ってくるはずのない事くらい、詩音にも分かっている。

礼儀正しく頭を下げているその姿は、端から見るものによっては滑稽に見えるかもしれない。

それでも、今の詩音にはそんなことは関係なかった。

自分が最も愛する男性(ひと)が、かつて最も愛した女性(ひと)。

それだけで、この行動を取る理由としては充分過ぎた。

 

「…………私は……」

長い沈黙の後、再度彼女は口を開く。

しかしその表情は険しく、そして瞳は悲しげに揺らいでいる。

そして――。

 

「私は……あなたの事を憎んでいます」

 

淡々と、ただ事実だけを告げるような口調。

それと同時に胸に走る、ズキッとした痛み。

堪らない程の罪悪感が押し寄せてきている。

それに飲み込まれないように、外見では必死に平静を装いながら、詩音はさらに続けた。

「どうして、死んでしまったのですか?」

「あなたが……あなたが死んでしまったから、彼は心を閉ざした」

「あなたが生きてさえすれば、彼は絶望を味わうことなんてなかった」

「二人とも、幸せになれたのに……何で……」

 

自分でも支離滅裂過ぎて、何を言っているのかわからない。

それでもそれは、間違いなく詩音の本心であった。

智也の事を愛するが故に、彼の幸せを心から願ってしまう。

いつしか、彼は言ってくれた。

詩音は俺の『幸せ』なんだからな」と。

その時は素直に嬉しいと感じた。

しかし、月日が経った今、未だに雨を眺めては憂鬱そうにため息を吐く彼の姿を見ていると、どうしても思ってしまう。

幸せにも順位があるのではないか?

そして、過去の――4年前のあの出来事から分岐した現在(いま)こそ、彼の最上級の幸せなのではないか?……と。

つまり――。

「智也さんの一番の幸せは……あなたと共に未来を歩むことだったのではないですか?」

これが八つ当たりだということも、詩音は重々承知している。

あれは不運な事故……しいて言うならば、信号を無視し、猛スピードのまま彩花を跳ねたトラックの運転手の所為。

分かっていながらも、それを死人の所為にする自分はとても愚かだと思う。

彼女は何も悪くないのに……。

そしてその起因となる感情は、彼女に対するどうしようもない嫉妬心。

昔も今も変わらず、彼の心の奥に住み着いている彼女に対する、とても醜い嫉妬心だった。

 

「……駄目ですね、私。あなたの想い出ごと彼を受け入れるって、決めたはずなのに……」

傘を弾く雨の音が、勢いを増す。

いくら雨足が強まろうが、傘の中にいる詩音の顔が濡れるはずはない。

しかし、間違いなく彼女の頬は濡れていた。

次々と溢れ出す、懺悔の涙で……。

詩音は思わず目の前の彩花の墓から視線を落とし、涙を我慢するように俯き、目をギュッと閉じた。

 

「……?」

ふと……何か、とてつもなく暖かいものに包まれているような気がした。

数秒間俯いていた詩音は、雨音が鳴らなくなった傘を見上げるように、視線を上げる。

「あ……」

目が合う。

墓石の上に座りながら、その背中から生えている大きな純白の翼を、詩音の頭上を覆うように広げている“彼女”と。

 

『こんにちは』

空気が震え、彼女の声が音となって耳に届いた。

それは決して大きな声ではないのに、鳴り止まぬ雨音にかき消されることもなく、しっかりと脳に響く。

「……こ、こんにちは」

未だに目の前の出来事が信じられない詩音の声は、必死に平静を装おうとしているが、やはりどこかぎこちない。

そんな詩音の様子に、彩花はクスッと小さく微笑むと、その穏やかな笑みのまま話しかける。

「双海詩音さん……智也の、恋人だよね?」

「っ!どうしてそれを!?」

先程の自分の自己紹介を――信じられない話だが――聞いていたとしても、言ったのは名前だけ。

何故恋人であることを知っているのか、詩音には分からなかった。

「この前……もう半年以上前になるけど、智也が初めてここに来てくれたの。その時に教えて貰った。詩音さん、あなたというかけがえのない存在を、もう一度見つけることができたって……」

「――――」

言葉にならない想いが、胸の中で蠢く。

彼がこの場所に既に来ていたというのにも驚いたが、それ以上に智也のその言葉が詩音の胸を熱くした。

「私が死んで、智也はずっと苦しんだと思う。それも、この前智也に聞いた。絶望し、この世の全てを拒絶して、もう生き永らえる気力すら湧かなかったと……」

その時の智也の様子は、容易に想像できる。

大切な――最愛の人を喪った悲しみ。

もし仮に自分がその立場になってしまったら……智也を喪ってしまったら……果たして正気でいられるだろうか?

――答えは、おそらくノーなのだろう。

 

「『それから3年という月日が流れて、それでも俺はおまえの死を受け入れることができなかった。ふとした瞬間におまえを思い出しては、一人悲しみに暮れていた。でもな、こんな俺を救ってくれたのが、詩音だった』……だっけか?」

突然背後から聞こえたその声は、詩音の意識を呼び戻すには充分過ぎた。

咄嗟に後ろを振り向くと、紺色の傘を手に、立ち尽くしている智也の姿が。

「智也さん……」

「悪い詩音。本当はもうちょっとゆっくり来るつもりだったんだけど、何だか早く来ないといけないような気がしたんだ。それで来てみれば……」

視線を、詩音から墓石上の彩花へと移す。

「本当に……彩花なのか?」

多少は驚いているように見えるが、それでも詩音に比べれば反応は薄い。

「そうよ。正真正銘、4年前に死んだ桧月彩花よ」

対して、彩花の返事も軽い。

しかしそれが、傍にいることが当たり前となっていた、立派な恋人同士の会話なのだろう。

「ふふ……驚いた?」

「……ああ、まあな。流石の俺でも驚いたよ」

「……今日だけは、特別。本当は死人がこうして現世の人と交わってはいけないんだけど、折角詩音さんが来てくれたんだしね」

そんな彩花の冗談とも付かないような言葉。

「彩花らしいな」

おどけた様子の彩花に、智也の顔がふっと和らぐ。

その瞳には、懐かしさと悲しみが入り混じったような色を映している。

「…………」

そして訪れる沈黙。

聞こえてくる雨音が徐々に小さくなりつつあるのは、気のせいなのだろうか。

「……ねえ、詩音さん」

凛と透き通るような彩花の声が、誰もいない墓地に響く。

「……はい」

「私はね、智也に幸せになってもらいたかったの。でも、そんな私が智也の恋人になれたのはごく僅かな間だけ……私の死の所為で、智也に幸せどころか、絶望を与えてしまった」

「……」

「その点では、あなたの言うとおりだと思う。確かに私は、智也を傷つけたんだから……」

「でも……それでも、これだけは信じて欲しいの」

彩花はそこまで告げ視線を雨空へと転じると、一度目を閉じてから再び二人を見据えた。

 

「私は……私も、ずっと智也と一緒にいたかった。死にたくなかった。幸せになりたかったの……」

 

「彩花……」

そう呟いたのは智也。

その瞳には、うっすらと涙が溜まっている。

――今まで溜めてきたものが、一気に溢れ出そうになるのを必死に我慢していた。

 

「彩花さん……」

そして詩音の瞳にもまた、大粒の涙が止め処なく溢れていた。

泣き笑い。

涙を零しながらも、気丈に笑顔を見せる彩花に、詩音は大きな罪悪感に襲われたのだ。

『私……本当に最低だ。少し考えればわかることなのに。彼女の智也さんを想う気持ちまで疑って……』

 

「でも……それは、私にはどうすることもできなかった。だから――」

“バサァッ”

彩花は一旦言葉を切ると、集中するように瞳を閉じ、その純白の翼を大きく天に広げた。

すると――。

「私は嬉しかったの」

それまであれほど降り続いていた豪雨が……。

「智也を、救う人が現れたから」

瞬く間に雨足を弱め、空も徐々に明るくなっていき……。

「私は、救われた」

数秒後には、地表に降る雨粒は消え失せ……。

 

――「詩音さんのおかげで、確かに智也の心の雨は上がったんだよ?」――

 

雨は、上がった。

 

 

 

「……彩花?」

二人が空から視線を戻してみると、墓石の上に座っていたはずの彩花の姿はどこにもなかった。

その場所は、さんざん降り続いた雨の雫に、天上からの陽光が反射してキラキラと輝いている。

まるで雨に魅せられた白昼夢のように、彼女は別れも言わぬまま、二人の前から姿を消した。

ただ、その墓石に残る、一枚の純白の羽を残して……。

 

「彩花さん……」

詩音は充分に見覚えのあるその羽を拾い上げ、呆然と呟いた。

以前、智也と気持ちを確かめ合った時にも落ちていた、純白の羽。

彼女がこの場にいた、確かな証拠。

「あなたは……強すぎます」

心も……智也を想うその気持ちも……。

詩音はその羽を胸に抱き、瞳を閉じながら確かめるように言葉を続ける。

「私は、智也さんの傍にいていいのでしょうか?」

「あなたに嫉妬して、意味もなくあなたを責めて……」

「そんな私に、彼を幸せにできるのでしょうか?」

返ってくるかどうかも分からない答えを、詩音は求めていた。

後ろにいた智也も、何と答えていいかわからずに、困惑の表情で立ち尽くす。

とその時、胸の中の羽に温もりが灯った。

 

『大丈夫だよ。詩音さんは、智也の“幸せ”なんだから……』

 

胸の中に直接流れ込んでくるような、暖かい言葉。

そして記憶に蘇るのは、かの日の智也の言葉。

――「詩音は俺の『幸せ』なんだからな

 

「し、詩音?」

急に喋らなくなった詩音に、智也はおずおずと話しかけた。

肩に手を置こうとした瞬間、バッと詩音が顔を上げる。

「智也さん」

「へ?」

「絶対、幸せになりましょうね!」

空を見上げ、気持ち良さそうに、清々しい様子で、詩音は声を張り上げた。

「……ああ、もちろんだ!!」

そして智也も、宣言するように声を張る。

一片の曇りもなくなった、心を誇るように。

そして、天上の彼女へ届くようにと、拳を上げる。

それは、彼女の分まで幸せになるという気持ちの証。

 

「「雨は、上がったんだ!!」」

 

――澄み渡る青空への、未来の誓い。




end


後書き

このSSはもともと投稿用のものだったのですが、急遽予定を変更して当サイトでも見れるようにしました。

どうでしょう?「心の仮面」のアフターストーリーでしたが・・・。

今回は少し作風を変えたということもあり、私自身の評価はそこまで高くありません。

しかし量はかなり多くなってしまいました。あくまで「短編というには」ですが^^;

詩音メインの予定だったのに、いつの間にか彩花SSみたいになってしまった・・・どっちがこのSSの主役なんでしょうかねぇ?(笑)

まあそれを決めるのは、画面の前のあなた様ということで(←適当)

それでは、また会いましょう^^



彩花「感想はこちらに書いてね♪」



2006.10.9  雅輝