B&G High school Memorial
後に、今村冴霞は語る。
あの日の自分はきっとどこかおかしかったのだ、と。
しかしその表情は不安さを滲ませるものではなく、見ているだけでイヤな想像しかできないほどに――――だらしのない、ふぬけた笑顔だったという。
事の発端は十月のある週末土曜日。冬まではまだ間が有りながらも、肌寒ささえ感じるほどのその日。冴霞は謙悟の家に厄介になる事になった。
なんでも、急な家の用事で出掛けなければいけなくなった陽子と、そのお供に連れ出された麻那に代わって謙悟の面倒を見てくれないかというお誘いが
かかり、受験に向けて多忙な時間を過ごしていた冴霞だったが、最近はごくたまにしか二人きりになれなかった事もあって陽子の誘いに乗ることにした。
もちろん、学生であり受験生としての本分である勉強道具は持参し、しかし愛しの謙悟のために身支度にたっぷり時間をかけ、新崎家に辿り着いたのは
オファーがかかった時間が遅かっただけに午後八時となってしまい、既にあたりはとっぷりと陽が暮れている時間だった。
「お、遅くなっちゃった……えっと、確か」
ガタガタと庭の植木鉢をどけて、リビングの出窓下に隠してある小箱を出して、中から合鍵を取り出す。そこが陽子に教えてもらった合鍵の隠し場所で
あり、事実上は冴霞のために用意されたものだ。しかし冴霞はまだ謙悟とはあくまで『交際中』の関係であり、嫁でもなければ通い妻でもない。なので
合鍵を持つに相応しい立場になるまではと陽子の提案を辞して、合鍵はここに預けている。とはいえ――――
「ごめんなさい、お母様……」
既に陽子の事を『お母様』と呼んでいる事からも分かるとおり、冴霞としても陽子の申し出はとても嬉しいものだ。夏休みになってようやく直接会う事が
出来た二人の『義母娘(おやこ)』関係は至って良好で、さらに両家の母同士での仲も非常に良い。いずれは本当の親子になるという可能性は非常に濃厚で、
もう一人の当事者である謙悟も口では「気が早い」と言っているが、既に相応の覚悟が出来ていたりする。
両家の仲は万事円満。だがそれが当事者たちを差し置いてというのは少々困ったものではあるが、やはり冴霞も謙悟もお互いの関係に反対される事がない
というのはとても喜ばしいことであり、周囲の人間が気を利かせてくれるからこそ忙しい時期にも関らず同じ場所で同じ時間を過ごせるという、他の受験生
には申し訳がないくらい恵まれた環境を与えてもらっている。
だからこそ、冴霞はその厚意に感謝して今日は新崎家にやってきた。陽子の気持ちに応えるという理由と、やはり本音では謙悟と一緒にいたいという理由。
そのどちらにも真っ直ぐに向き合ったからこそ、玄関の鍵をしっかりかけて防犯用のチェーンまで通す。
仄かに灯る明かりに導かれるようにトントンと階段を上り、半開きになっている謙悟の部屋のドアを軽くノックする。部屋の照明は付いているが、肝心の
謙悟からのリアクションはない。冴霞はそ〜っと音をたてないようにドアを開け、部屋の中を覗く。
「…………謙悟く〜ん……って」
視線が部屋の三分の一を占有するクイーンサイズのベッドに向けられる。何度も謙悟と共に使用したその場所、そこに。
最愛の男性である新崎謙悟は、無防備に横たわっていた。
Memories Base 4th anniversary Short Present
Possibility Dimension 〜Her small reckless driving〜
部屋の隅に荷物を置いて防寒用のハーフコートをハンガーに掛けた冴霞は、テーブルの上に散らばっている参考書とノートを片付け始めた。ここ最近は
謙悟も勉強に積極的な姿勢を見せ始め、また冴霞のみならず彼女たちの共通の友人である高平継、柊木要らとともに教え合ったりしている。謙悟は夏休み
前までは成績に置いて中の下程度とお世辞にも褒められたものではなかったが、この二カ月あまりで順位を大きく伸ばしており、二学年二百十三人の中で
七十三番にまで上がってきていた。元来努力家である謙悟は基礎問題を反復練習することをそれほど苦には思っておらず、応用問題もそれなりの回答率を
得られるようになってきている。この『それなり』が『ほとんど』に変わるようになれば、さらに順位を伸ばすことも難しくはない。その一方で順位が
切迫しつつある高平継も、負けてなるものかと努力していたりするのだが、それは割愛しておくとしよう。
さておき、片付けを終えた冴霞はすぐさま手持ち無沙汰になり、ぺたぺたと謙悟が眠っているベッドにまでやってきた。
「くー…………んぐ…………」
穏やかな寝息。冬も間近だというのに夏のころと大して変わらない半袖シャツとジャージのボトムという格好で眠る謙悟は、下手をすれば風邪を引きかね
ない服装である。それでも慰め程度にタオルケットを使用しているあたり、一応は健康に気遣っていると判断するべきだろうか。
「…………しょ、と。……謙悟くん、こんばんは」
ベッドに腰かけて、そっと囁きかける訪問と挨拶の意味を込めた言葉。優しく静かな言葉に謙悟の反応はなく、冴霞としてもリアクションを期待しては
いない。そもそもこうして気持ち良さそうに眠っている彼を無理矢理起こすような事を、冴霞自身が望むはずもない。
「…………そういえば、謙悟くんの寝顔を見るのって久し振りかも」
座っている場所を移して、謙悟の顔を覗き込む。何度となく一緒に眠った経験のある二人だが、大抵先に寝るのも遅れて起きるのも冴霞の方だ。謙悟は
習慣づけられた早起きのおかげで午前五時には起床するし、睡眠が短くても体力を十分回復させる事が出来るという人並外れたスペックを備えている。
それ故、冴霞が謙悟の寝顔を見る事が出来たのは今までに数えられる程度しかなく、また最近は一緒に過ごせる時間が極端に減ってしまったこともあり、
かなりご無沙汰な出来事だった。
ごくり、と何故か咽喉を鳴らして唾液を飲み込み、手をベッドにつけて謙悟との距離を近付ける。やや短めの黒髪と整った顔立ち。普段は精悍な雰囲気を
感じさせる謙悟だが、やはり寝顔は年齢相応にあどけないものだ。ただ、不精していたのか今日はわずかに髭が残っている。
「……」
こそこそとベッドに乗り出して、しかし音は立てないように気をつけながら横になる。手を伸ばせばすぐに触れられるくらいの超至近距離で、冴霞は手を
謙悟の髪に伸ばし、触れるかどうかのギリギリのところで撫でる。空気が揺れ、触れてもいない緩い感触が手の中に残り、しかしそれでも起きない謙悟を
愛おしく感じつつ、半開きになっている口唇へ手を伸ばす。
「…………謙悟くんって、意外と睫毛長い……」
そんな事を呟きながら視線はゆっくりと下がっていく。何十度、あるいは百に届くくらいの回数を重ねたかもしれない謙悟の口唇。整った形のそれは触れ
れば柔らかく、また独特の味がする。それは明確に表現できるものではないが、敢えて言うならばきっと。
「私たちの、味……ですよね?」
言ってから、自分の恥ずかしすぎる台詞に身悶えしそうになる冴霞。しかしこの至近距離で下手にアクションを起こそうものなら、謙悟を起こしてしまう
だけではなく、さらに追加でいろいろとしたりされたりする可能性が非常に高い。
付き合い始めてからしばらくして分かった事だが、謙悟は割と意地悪なところがある。もちろん酷い事をされた経験は一度もないものの、こっちが困る
ような事をわざと言って反応を楽しんだり、またふくれっ面になったりするのを謙悟は明らかに楽しんでいるのだ。その後にちゃんとフォローしてくれる
から冴霞としても不満は和らぐのだが、結局それはあくまでも和らいだだけでしかなく、解消されたわけではない。
昔日の恨み、というわけではないが、無防備に眠っている謙悟を可愛いと思う反面で悪戯をしてみたいという感情が芽生えている事はやはり否定できない。
むらむらと湧きあがる好奇心を理性で抑えてはいた冴霞だが。
「…………ぇぃ」
長い髪を小さく一房まとめてくるくると紙縒(こより)のように細め、こちょこちょと謙悟の顔を撫でる。頬や鼻の頭、口唇の周りからす〜っと遡って
瞼の上までを柔らかく撫でると、くすぐったいのか微妙な反応を示す。だが起きる気配はまるでなく、冴霞は謙悟の可愛いリアクションにご満悦といった
感じで髪を戻すと、寝たままの姿勢で謙悟にすり寄り、ほぼ密着状態と言っても差し支えのない距離にまで身を寄せる。
「ん……むにゅ……」
吐息がかかるほどの距離。いつもならばこれくらいの距離で一緒に眠る二人だが、今日ばかりは勝手が違う。冴霞の鼓動はとくんとくんと高鳴りながら、
穏やかに眠る謙悟の顔を覗き込んで――――そっと、口唇を触れ合わせる。
「ちゅ……ん」
「…………ぅ」
重ねるだけのシンプルなキス。柔らかな口唇で体温を通わせ、久しく感じていなかった謙悟との触れ合いに冴霞も思わず没頭してしまう。とはいえ、ただ
触れ合うキスまでしか出来ないのは致し方ない事だ。それ以上を求めるのならば一人だけでは少々難しいし、せいぜい口唇をなめて内側に舌を入れる事程度。
そこまでするつもりはなかった冴霞だが、やはり触れ合えなかった時間が長かっただけに自然と熱が入ってしまう。
正式に交際が公になった十月以来、生徒会長という役職からも学生生活におけるイベントからもほぼ解放された冴霞は、学業のみに時間を割くことが許さ
れるようになった。謙悟と会う時間も、謙悟自身が冴霞を応援する意味で控えることを提案し、冴霞も謙悟の気持ちに応えるために受験勉強に専念。数度の
対外模試でも常に上位三位以内をキープするという怪物ぶりを遺憾なく発揮し、余程の事がなければ受験失敗は有り得ないだろうと誰もが思い、また口に
しており、その評価が冴霞の心にわずかばかりの余裕を与えた。
そんなところに陽子からの申し出である。一も二もなく飛びつきたいところをぐっと堪えて大人しく応対したものの、やはり謙悟を前にすれば気持ちの
タガが外れてしまったのか、キスの嵐はもう止まらない。くちゅくちゅと甘い水音を鳴らしながら口唇を舐めまわし、熱い吐息が謙悟の肌を刺激する。
「ん……んぅ、あ……?」
「ぁ……」
うっすらと開く瞼から、焦点の合っていない瞳が覗く。それを遮るように冴霞は謙悟の瞼に口づけて、謙悟の首に腕を回す。
「…………おはようございます、謙悟くん」
「ん……んぁ、あれ? さえ、か…………あぁ、そっか……」
しぱしぱと瞬きを繰り返しながら小さな欠伸を一つ。まだ覚醒しきっていない意識だが、陽子から冴霞が来る事はちゃんと聞かされていた謙悟は寝ぼけ
顔で優しく笑うと、冴霞の身体をくいっと引き寄せた。
「なんか、口の周りがべとべとするんですけど……?」
「ええ、いっぱいいっぱいキスしましたから♪」
イタズラ大好きな子どものように晴れやかな笑顔とともに、再度のキス。不意を打たれた謙悟だが、冴霞に応じるように口を開き自身の方からも積極的に
攻めていく。柔らかな感触は久し振りの味を伴い、混ざり合った唾液は水飴のようにトロトロと垂れていく。
「まさか、寝込みを襲われて気付かないなんて……ちょっとショックだ」
「襲っただなんて人聞きの悪い事を言わないでください。それに、謙悟くんが起きなかった理由だってちゃんと説明できますよ?」
「それくらい、俺だって分かってるよ……」
互いを想い、愛し合う恋人同士。わずかばかりの敵意すらない相手の気配ならば、誰よりも無警戒に、そして無条件に信頼できる。
冴霞が行ったささやかな暴走。しかしそれは謙悟がどれだけ彼女に心を許しているかという証明を得られる結果となり。
「でも、やる事はちゃんとやりますからね。受験勉強のためにいろいろ持ってきているんですから」
「分かってるって。じゃあ俺は、遅くなってからでも食べられるようなもの、作っておくよ」
ベッドから起き上がり、優しく口づけ合う。肌寒い外の空気などすっかり忘れてしまえるほどに暖かな、二人だけの優しい世界に浸りながら。
受験勉強の息抜きとしてはこれ以上ないくらいに効果的な一夜となった。
そして――――この数日後、麻那の申し出により冴霞は麻那を自宅に招待してのお泊まり会を計画し、また同時に複数の友人を迎えての貴重な思い出作り
を行い、二人だけでなく麻那との絆も深め合う事になりまた、新崎家とのつながりも更に強固なものになる――――。
あとがき:
管理人の感想
4周年記念作品ということで、鷹さんより短編を頂きました!
合作と合わせて二作。本当にお疲れ様でした。
さて、こちらはメインである謙悟と冴霞の物語。
・・・甘いですねぇ。相も変わらず。謙悟はほとんど寝てるだけのはずなのに、何故ここまで甘くなるのか(笑)
積極的な冴霞も新鮮でしたね。いつもはどちらかといえば、「受け」の立場に回りやすいですから。
ではでは、ありがとうございました!!