「偽者に注意せよ」    Uコリント11:1-15

2005/06/26 鈴木 靖尋牧師
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 「おひかえなすって、キリスト教、キリスト教と言ってもいささが広うござんす。教会には、いわゆる正統派もあれば、異端と言われる危ないものもござんす。」おそらく、どの教会も自分は正統だと言うかもしれませんが、ここを越えたら、キリスト教ではない。つまり、異端ということになります。では、正統として許される範囲というのはどの程度なのでしょうか。パウロがコリントに行って福音を宣べ伝え、教会を設立しましたが、そのあと偽者がやってきました。それは今でも同じであって、私たちは偽者を排除して、正統派の道を進んでいかなければなりません。きょうは、正統だと思われるキリスト教の枠組を水平方向と垂直方向から考えたいと思います。

1.キリスト教の水平方向

水平方向とは、右と左であります。この世でも、右派とか左派、右翼とか左翼などと言います。これをキリスト教で言うとどうなるのでしょうか。それでは、もう一度、Uコリント11:4をお読みいたします。というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。」ここに、いくつかの偽者が列挙されています。1つ目は別のイエス、2つ目は異なった霊、3つ目は異なった福音であります。使徒パウロの時代は、紀元後50年から60年代であります。まだ、聖書が完結していませんでしたので、人から人へ言葉で伝えるということがおもな手段だと思われます。みなさんも伝言ゲームをなさったことがあるかもしれませんが、伝えている間に、変質していくということもあります。当時、キリストを信じるだけで救われるのだろうか、いや、律法も必要だろうというユダヤ教の影響を受けた人たちがたくさんいました。あるいは、キリストがメシヤではなく、もっと崇高な神様がいるんだ。あるいは、私はこういう霊的な体験をしたので、あなたがたも必要なんだ。そのように様々なことを言い出す、人が出てきました。やがて、キリスト教がヨーロッパに伝わっていくうちに、哲学や、土着の宗教の影響を受け、驚異にさらされていったことも確かです。教会はそのたびに、ここからは異端、ここまでは正統派だとやってきたのです。

 きょうは、歴史をひもといて、キリスト教の異端を1つ1つ学ぶということはしません。もっと分かりやすく、キリスト教の左端と右端、境目ということを取り上げたいと思います。まず、左端であります。左端というのは神秘主義であります。キリスト教のはじめは、グノーシスという異端がはびこりました。グノーシスというのは知恵から来たものでありますが、神秘的な体験に基づいた知恵であります。つまり、聖書とかキリスト教の教義を無視して、霊的体験にのみ頼る異端であります。近代ではスウェーデンボルグが有名であります。ある資料にはこのように書いてありました。彼は52歳ごろから幻視体験をいくどとなく体験するようになり、1745年4月、ロンドンでキリストの幻視を体験する。キリストが現れ、「人々に聖書の霊的内容を啓示するためにあなたを選びました。この主題に関して何を書くべきかを示しましょう」と語った。それ以来彼は霊界の探訪者・神秘主義者へと転身し、一切の世俗的な著作活動を放棄して霊的な研究へと進み、霊界探訪に基づく膨大な量の神学的著作を残す。神学者への転向は彼の科学者としての名声を曇らせるものであったことは間違いない。転向後の彼を精神的な病にかかったものと見る人もいるが、霊界探訪に基づく膨大な著作には終始科学者としての理性的で冷静な目が貫かれ、緻密な整合性が見られる。…ま、私はスウェーデンボルグの専門家ではありませんが、神秘体験をあまりにも重視すると間違った方向にいく可能性が大になります。私たちの礼拝の対象は、イエス・キリストというご人格をもったお方です。そして、手許には、聖書という最高の啓示があります。ですから、聖霊とか啓示とか、奇跡、預言、癒し、異言、悪霊問題を極端に強調しすぎると、危なくなるということであります。みなさん、完全な異端は、ニューエイジであります。これはキリスト教ではありません。ヨガ、瞑想、チャネリング、霊媒、ヒーリング…くれぐれも注意してください。これこそ間違った霊、別のイエスであります。でも、みなさん使徒パウロはUコリント12章に書いてありますが、第三の天に引き揚げられ、特別な啓示をいただいた人であります。また、パウロは「私はだれよりも多くの異言を語る」と言いました。主イエス・キリストや弟子たちも癒しや奇跡を行ないました。ですから、こういう神秘的なものをキリスト教から取り除くなら、魅力のないものとなるでしょう。先日、秋刀魚を食べましたが、秋刀魚は焼くと油があるため煙が出てきます。しかし、「目黒の秋刀魚」のように、油を全部取り除いてしまうなら、本来の秋刀魚じゃなくなるということも確かです。

 では、キリスト教の右端とは何でしょうか。それは哲学であります。パウロの時代はギリシヤ哲学でありましたが、中世の頃もその影響を受けました。トマスアクイナスという神学者は、アリストテレスのイデアを取り入れました。人間は理性で神を見出せるという扉を開けました。近代では、啓蒙主義思想からキリスト教的な哲学者がたくさん登場しました。スピノザ、ヘーゲル、カント、キルケゴール、ショーペンハウエル…どこかで聞いたことがあります。そういう哲学者は神様を本当に実在する人格者と考えていません。彼らにとって、神とは、世界の存在根拠や宇宙の支配原理などを意味することが多いのです。その点、哲学者パスカルは違いました。パスカルが、ある晩、ヨハネ17章を開いていました。イエス様が、十字架に引き渡される前、祈っておられる箇所です。パスカルが読んでいると、突然、まったき聖であり愛である方の炎の臨在が部屋を満たしたのです。聖書に書かれている「ことば」は、御子において臨在する「ことば」によって確証されました。彼は、ただ「イエス・キリストへのまったき明け渡し」によってひざまずくしかありませんでした。パスカルはそのことを忘れないために、上着の裏に覚書を縫いこみました。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神よ。あなたは哲学者や学者の神にあらず。感動、歓喜、平安!ああ、イエス・キリストの父なる神よ。あなたが私の神となってくださったとは!キリストの神がわたしの神。」パスカルは、「神を経験するのは心であって、理性ではない。それならば、信仰とは、心で感じる神にほかならない」と言いました。

 現代におけるキリスト教の右端とは自由主義神学であります。私も日本キリスト教団に入るとき、ある程度、勉強させていただきました。それは、神学というよりも、もはや哲学の世界です。全部が全部、日本キリスト教団がそうだと言っているわけではありませんが、非常に学問的であります。学問的というのは悪いわけではありませんが、信仰と対立してしまうなら問題です。私は、神学とは、信仰をささえるものであると信じます。また、どんなに自然科学や社会学を勉強しても、聖書を否定してはならないということです。キリスト教会の牧師でも、「ニュートン」を読み、進化論やビッグバンを信じている方もいらっしゃいます。ゴスペルに来ているジョンがアメリカの学びを終え、日本の聖公会に戻って来たとき、「えー、今どき、聖書なんか信じているの?」と笑われたそうです。しかし、私は科学が進めば進むほど、聖書が正しいということが分かって行くと信じます。ヒューロスという天才天文学者は、「創世記の謎を解く」という本の中でこのように言っておられます。「天文学、物理学、地質学、化学、古生物学、生化学や人類学の目覚しい発展のおかげで、創世記1−11章の記録の真実性が厳密に調べられるようになりました。以前の世代が想像できなかったほど精密に、確証あるいは論破できるようになりました」。アーメンです。

 今でも、イエス・キリストをちゃんと信じている科学者もおります。もう、14,5年くらい前になるでしょうか。韓国から全(チョン)さんという人が、分子物理学の博士号を取るためにこちらに来られました。彼は東大で勉強し、日曜日はジュニアクラスの先生をしてくれました。ものすごく、信仰深くて真面目な方で、石塚さんのお子さんたちも洗礼を受けました。山崎長老さんもものすごく、気に入り、家族同然のように交わっていました。その後、アメリカの研究所に渡り偉くなりました。しかし、彼はその職を捨てて、献身しインドネシヤに渡りました。4,5年前日本にも来られましたが、「創造科学」を専門に教えることになりました。ジャカルタの大学でも教えておられたようです。私がインドネシヤに行ったとき、そこの生徒さんがいました。しかし、先週の水曜日、インドネシヤからお電話がありました。奥様からでしたが、全さんが癌のため亡くなったと言う悲しいニュースでした。まだ、50歳にはならないと思います。これからさらに用いられる方なのに、非常に残念でたまりません。しかし、この礼拝の場で言い表したいと思います。全さんは、立派な科学者でありながら、立派なキリスト教徒だったということです。全兄弟は、科学と信仰とは矛盾しないということを身をもって教えてくださいました。知識があると人は自分を誇ってしまいますが、愛は人をへりくだらせます。私たちは理性や学問も大切ではありますが、もっと大切なのは、神様の愛を体験的に知るということであります。神学のない神秘主義も危険ですが、体験のない神学も危険です。私たちは聖書に土台して、今も生きておられる主イエス・キリストを信じていきたいと思います。

 

2.キリスト教の垂直方向

 それでは、11:13-15をお読みいたします。こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。」キリスト教の上方向は、権威の問題ではないかと思います。パウロは「にせ使徒たち」がいるとはっきり言明しています。しかも彼らはキリストの使徒に変装しているサタンの手下どもだということです。みなさん、キリスト教がよって立つものは何でしょうか。それは使徒性と呼ばれるものであります。Tコリント3:10-13に、このように書いてあります。「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。」キリスト教会の土台とはだれでしょうか。イエス・キリストであります。イエス様ご自身も、マタイ16章で「わたしはこの岩の上に教会を建てる」とおっしゃいました。イエス・キリストのご人格とみわざの上に教会が建てられているのです。教会を開拓した宣教師、あるいは牧師とかではありません。イエス様が隅のかしら石なのです。では、イエス・キリストという土台をだれが据えたのでしょうか。はい、使徒たちであります。使徒たちがイエス様の教えを聞いて、福音書なり手紙を書き残しました。使徒たちは教会の教理の土台であり、使徒の教えに反するとは、つまりイエス・キリストの教えに反するということなのです。これが使徒性であります。

 では、にせ使徒とはだれでしょうか。神様から遣わされていないのに、神様はこうおっしゃるという人たちです。にせ使徒には、神様からの権威が与えられていません。なのに、嘘偽りを並べて、人々を惑わすとんでもない輩であります。その当時から、今日まで数限りないほど出現しています。現代、私たちがよく耳にする偽者にはどんなものがあるでしょうか。「エホバの証人・もの見の塔」であります。エホバの証人はアメリカの新興宗教です。ニューヨークに本部がありまして、彼らの神はキリストではなく、組織の本部であります。組織が神様になっているのです。もちろん教義は使徒的ではありません。ヨハネもパウロも、キリストは神の子であり、十字架にかかり三日目によみがえられたとはっきり言っています。しかし、彼らはキリストが神の被造物で天使の頭であり、十字架ではなく杭にかけられたと言います。あえて十字架と言わないのは、すでに十字架の敵であります。キリストの完全な贖いを否定しているので、さまざまな奉仕や行ないが必要になってくるのです。極端な終末論を唱え、信徒たちを恐れで縛っています。彼らが伝道熱心だからと言っても、相手にしてはいけません、家に入れてもいけません。マタイ23:15にこう書いてあります。「忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです」。信徒、一人ひとりは真面目なんです。しかし、組織がすでに悪魔化しています。まことに残念ですが、彼らは洗脳され、組織の奴隷になっています。

 他にもいくつかあります。モルモン教、末日聖徒イエス・キリスト教会であります。これもアメリカの新興宗教で、ジョセフ・スミスと言う人が創始者です。彼は、天使から金の板に書いた啓示をいただいたということです。それがモルモン経典であります。彼らはその経典によって聖書を解釈します。聖書に付け加えているのです。黙示録22章にこうかいてあります。「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」聖書以上に、権威のあるものは存在しないのです。それから、統一教会であります。これは韓国でできたキリスト教の新興宗教です。今も文鮮明は生きているのでしょうか。彼は原理構論なるものを考え出しました。この章にもエバのことが出てきますが、その本によるとエバがサタンと姦淫をしたと言います。イエス・キリストの十字架は失敗だった。文鮮明こそが再臨のメシヤである。このメシヤの血を受けること(血分け)によって、人は救われると言います。私も統一原理を読みましたが、聖書の引用はまったくでたらめです。文脈を無視して、1つの聖句を自分勝手に引用しています。これもまさしく、使徒性に反しています。日本人は聖書を読んだことがないので、「聖書はこう言っていますよ」と言われるとすぐ信じてしまいます。そこに入ると、洗脳され、教団の資金稼ぎのため奴隷になります。今は、名前を変えて、駅前で「手相はどうですか」とキャッチしています。

 では、垂直方向の下(下限)はなんでしょうか。それは世の中の宗教やヒューマニズムと妥協したキリスト教であります。キリスト教会には、万人救済説(ユニテリアン)があります。「神様は愛だから地獄なんて作らない。キリストによってこの世すべての人が救われているんだ。今は知らないだけで、世の終わりにはすべての人が救われる」と考えるキリスト教の一派です。確かにキリストはすべての人の贖いになりました。しかし、その贖いを信仰によって、受け取らなければ救われないのです。黙示録21章には「不信仰の者…すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である」と書いてあります。また、日本にはキリスト教主義の学校がかなりありますが、キリストでなくても救われると教えるところがあります。これはプロセス神学などとも呼ばれています。神様は文化の中にいろいろな現われ方をするので、仏教でも、イスラム教でも、その他の宗教でも救われることは可能であると教えます。私は教団に属した頃、5年間、教師会の会計係りをしていました。東北学院大学とか敬和学園の教授をお招きしてお話をお聞きしました。そのとき、「キリストしか救いがないなんて狭い」なんて言うのです。私はその時、「えー、これが牧師会の研修会なのだろうか?」と自分の耳を疑いました。聖書にはっきり、「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」(使徒4:12)と書いてあります。もし、キリスト以外に救われるのだったなら、神様は御子を十字架で死なせる必要はなかったのです。イエス・キリストだけが救いなので、使徒パウロはいのちがけで伝道して行ったのです。もし、キリスト以外にも救われるのだったら、未開のジャングルで死んでいった宣教師の死は無駄になります。イエス様はマタイ7章でこのように言われました。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。偽預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です」(マタイ7:13-15)。私たちは自然科学や数学の狭さに対しては文句言いません。2+2は4なのです。「私は3だと思う」。「いや、5でも良いだろう」。それだったら、受験勉強しなくても良いですね。真理は狭くて、排他性を持ちます。しかし、その狭さは確かだという証拠であります。風邪を引いたのに、胃薬飲む人がいるでしょうか。「薬だったら何でも良いです」なんて言わないですね。では、魂の滅びに対してきく薬はあるのでしょうか。大川牧師は、新約と旧約ですとおっしゃいました。新約と旧約で啓示されている救い主はイエス・キリストです。イエス・キリストは私たちの罪のために十字架に死んで葬られ、私たちが生きるために死からよみがえらされたのです。罪人がイエス・キリストを救い主と信じるときに、死からいのちへと移されるのです。

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