「結婚の原則」     Uコリント6:11-18

2005/04/17 鈴木 靖尋牧師
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 パウロは「私の心は広く開かれています」だから、「あなたがたの方でも心を広くしてください」とお願いしています。チェンジングライフキャンプというのがありますが、心を開くというのが鍵なようです。この礼拝も、神様にそして、メッセンジャーに対して心を開くということが重要です。中には、「こいつ、どんなヤツかなー?」としばらく観察して、やっと終わる頃に心を開く人がいます。たった5分間しか、心を開かなかった。それじゃ、もったいないです。きょうのテーマは「結婚の原則」ですから、「いきなり来たなー!」と心を閉ざし気味の人もいるかもしれません。どうぞ、心を開いてください。開いた分だけ、神様の恵みが注ぎ込まれます。アーメン。

1.つり合わぬくびき

 くびきとは何でしょうか。田舎で育った人ならあるいは知っているかもしれません。牛とか馬など、二頭で荷馬車や鋤を引っ張る場合、両者の首をつなぐ農具であります。二頭の首がつながれているわけですから、一緒に歩いて共同作業をするしかありません。では、つり合わぬくびきとは何でしょうか。申命記には、「牛とロバを組にして耕してはならない」(22:10)とあります。牛と馬でも同じことが言えます。牛は歩きたいけど、馬は走りたいんです。馬は「牛め、もっと早く歩けないか!」といらいらします。牛は「痩せ馬のはや走りとはお前のことだ。俺は、ゆっくり着実に行く」と逆らいます。これでは、お互いの首がいたくて共同作業ができるわけがありません。ところが、馬と馬、牛と牛でくびきを負うならどうでしょう。馬同士ならうまくいきます。牛同士なら「うしっしー」と喜ぶでしょう。では、「くびきを一緒につける」ということをもっと一般的に言うとどうなるでしょうか。英語のある聖書はuniteと訳しています。uniteは「一体にする、合体させる、結婚させる」という意味があります。現代訳聖書は「信仰を持っていない人と組んで、何かをしてはいけない」となっていますので、「組む」と訳しています。

 パウロは不信者と、つり合わぬくびきを一緒につけることはどんなことなのか、比較しています。正義と不法、光と暗闇、キリストとべリアル(サタン)、信者と不信者、神の宮と偶像と5組あげています。。述語の方は、「どんなつながりがあるでしょう」「どんな交わりがあるでしょう」「何の調和があるでしょう」「何のかかわりがあるでしょう」「何の一致があるでしょう」と、やはり5つあげられています。さきほど、uniteということばを取上げましたが意味は同じです。「つながり」「交わり」「調和」「かかわり」「一致」を持つことが不可能だということです。日本のことわざでは、「水と油」「木に竹を継ぐ」というのがあります。とにかく、性質や用途が全く異なって、かみ合わないということであります。でも、「信者と不信者」はなぜ、一致できないのでしょうか。霊的な面から考えてみたいと思います。不信者というと堅く感じますので、ノンクリスチャンと言い換えてみます。何が違うというと、両者の価値感が全く違うんです。残念!ノンクリスチャンの関心事はこの世、地上の生活であります。生きている間、幸せだったらそれで良いのです。一方、クリスチャンは神の国、永遠の命であります。「この地上で報われなくても、向こうがあるさ」と考えます。また、ノンクリスチャンは人がどう見るか、人の評価に関心があります。だから、見栄とか体裁を気にします。見てくれが良ければ良いのです。一方、クリスチャンは神様がどう見ているかが気になります。ですから、うわべよりも動機とか、本質的なものに関心がいきます。また、ノンクリスチャンは自分が第一です。一生懸命努力するのは、自己の目的を達成するためです。一方、クリスチャンは自分よりも神のみこころです。神様と隣人に仕えようとします。だから、損したり、嫌な思いをすることも時々あります。また、ノンクリスチャンは物質やお金が第一です。そしてできるだけそれらを得ようとします。ゲット、ゲット、ゲットであります。一方、クリスチャンは見えない霊的なものに関心があります。そしてできるだけ与えようとします。ギブ、ギブ、ギブであります。これだけ価値感が違うんです。

 ですからノンクリスチャンとクリスチャンが、1つのことをするとき争いが起こるのは当然です。では、キリスト教界ではどのようなunite合体があるのでしょうか。まず、ミッションスクールがあります。クリスチャンである創立者は子供たちにキリスト教信仰を与えるために建てたと思います。ところが理事や教授陣にノンクリスチャンが加えられていきました。信仰よりも、学力を重視するようになりました。だから、ミッションスクールは偏差値が高くなりました。どことは申しませんが、ミッションスクールに簡単に入る事はできません。狭き門になりました。では、キリスト教の事業はどうでしょうか。たとえば、YMCA、YWCAの創立者は熱心なクリスチャンでした。最初はキリスト教主義の立場に立っていたでしょう。ところが、ノンクリスチャンの職員を採用するようになりました。そのため、奉仕よりも、利潤を追求するようになったでしょう。この間、あるYMCAに行きましたら、職員の90%はノンクリスチャンだということでした。では、国教会はどうでしょうか。名前のごとく、政治と教会が合体している国です。イギリス、ドイツ、フランス、イタリヤなど、すべての国民に宗教税が課せられ、生まれたら幼児洗礼を受けます。しかし、教会の中には名ばかりのクリスチャンとボーンアゲィンクリスチャンが混じっています。だから、教会政治に一致がないのです。国家権力と結びついたために、ひどいことがたくさん起こりました。「不信者と、つり合わぬくびきを一緒につける」といかに弊害が多いか、歴史が証明しています。創世記にアブラハムとロトのことが書かれています。アブラハムに多くの家畜と召使が与えられました。ロトにも多くの家畜と召使が与えられました。しかし、水や牧草地は限られていますので、両者に争いが生じました。アブラハムは別々に行動しようと提案しました。ロトは年下でしたが、草の生い茂った低地全体を最初に選びました。アブラハムは「残された地で良い」と満足しました。ところが、ロトが選んだ場所は、滅びる前のソドムとゴモラだったのです。主はアブラハムを祝福されました。ヘブル人の手紙を見ますと、アブラハムは天の故郷にあこがれていたと書いてあります。私たちの関心事はどこでしょうか。私たちはこの地上では旅人であります。本当に住むべきところは、天のエルサレムであります。私たちは天国に行く人たちとくびきを共にすべきであります。

2.結婚の原則

 くびきを負うということで、最も影響があるのは結婚ではないでしょうか。ところが、一般の注解書ではくびきを結婚と解釈していません。なぜでしょう。それは、人権問題が絡むからではないでしょうか。「だれと結婚しようと自由じゃないか」という訳です。しかし、保守的な教会では、くびきを結婚のことであるとはっきり言います。おそらく、10の教会があれば、3つは「未信者と結婚してはならない」と教えるでしょう。他の7つは、「教会はプライベートなことまで立ち入らない」という立場ではないでしょうか。どうでしょうか、この14節を「不信者の人と結婚してはならない」と解釈すると気分を害するでしょうか。少し、旧約聖書から考えたいと思います。創世記6章に面白い記事があります。「さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた(6:1-3)。いろんな解釈があると思いますが、「神の子ら」というのは、おそらく主を信じている人たちでしょう。しかし、彼らは信仰があるないよりも、美しい娘と結婚したということです。気持ちはわかりますが、それは神様のみこころではなかったようです。また、異教の妻をめとってはならないということは、あちらこちらに書かれています。しかし、多少の例外もあります。ラハブやルツは異邦の女性でありましたが、信仰深い女性たちでした。新約聖書では、Tコリント6章と7章に結婚問題について書かれています。他の箇所でも、信仰の継承については書かれていますが、「不信者の人と結婚してはならない」と大上段に構えているところはあまりないようです。

 ですから、第二ポイントは、みことばからの説教というよりも、「お薦め」ぐらいに聞いてもらっても結構です。私はこの箇所から「不信者の人と結婚しない方が幸いである」という立場を取ります。私はクリスチャンになって26年になります。前の教会ではたくさんの若者たちがいて、私も青年会の指導をしていました。若い人たちは、恋に陥ってすぐ結婚します。しかし、教会の中では男性よりも女性の方が倍くらい多い。女性たちは婚期が遅れると親や親戚から、やんや、やんやと言われます。「洗礼なんか受けて、クリスチャンなったら一生独身だよ」なんて脅かされる場合もあります。それで、未信者の男性と結婚します。するともう教会に来なくなります。いや、来れなくなるんですね。男性も会社やコンパで知り合った、未信者の女性と結婚します。やはり、教会に来なくなります。私はそういう人たちをたくさん見ました。しかし、知恵のある人たちもいました。それは、結婚よりも、信仰を大切にした人たちです。「私と結婚したいんだったら、イエス様、信じて洗礼を受けなさい」と言う。そのようにセルフイメージの高い姉妹方もいました。ここで、私も男性の立場から述べたいと思います。姉妹方には、「彼は教会に来ることを反対しない。結婚してから徐々に教会に来てもらえばいいや」という人もいます。男性から求められたら、嫌われたくないのですべてをあげます。そして結婚します。ところが、男性は釣った魚には餌をあげない。結婚前は、「ああ、一緒に教会に行くよ」と約束していたかもしれません。しかし、結婚したら最後、「たまにの日曜日、そんなところに行けるか。よけいに肩が凝る」と露骨に断るでしょう。それから、長い苦しみが始まります。しかし、女性の方はまだ希望があります。女性はしつこく祈るんです。また、しつこく誘います。子どもを仲間に加え、しょうろう攻めにします。やがて、20年か30年たつと、旦那な観念して洗礼を受けます。しかし、男性クリスチャンの場合は違います。未信者の奥さんは、信仰を旦那の趣味か仕事みたいに考えています。子どもは奥さんの影響を強く受けますので、信仰を持ちません。男性は、世的な奥さんとずーっと暮らすことになります。

 大川先生が結婚に関して「同じ土俵で相撲を取る」とおっしゃっていました。相撲とレスリングは戦いになりません。ルールが全く違います。最近は異種格闘技というのがはやっていますが、結婚でそれを行なうと難しいですね。同じ土俵で相撲を取るとは、夫婦が同じ価値感を持つということであります。聖書の結婚は、好き嫌い以上に、「神が結び合わせたんだ」と信仰に立ちます。そして、お互いが神様のみこころを行なうように助け合います。かつて「世界は二人のために」という歌がありましたが、それではわがままな二人ができるだけです。「二人は世界のために」あるいは「二人は神様と隣人のために」となるなら別であります。また、エディ・レオ先生は「トータルマリッジ(完全な結婚)」ということをおっしゃいました。これは、肉体、魂、そして霊的に1つになるということです。結婚において、肉体が1つになるとはだれでも知っています。しかし、魂が1つになるとはどうでしょうか。これは、会話をするということです。男性はこれは苦手です。結婚する前はよく話すでしょう。しかし、結婚後は、どうでしょうか。レストランに行くと、結婚前のカップルか、結婚しているかよーく分かります。おしゃべりしていたら結婚前、だまって雑誌を読んでいたら結婚しています。会話は非常に大切です。しかし、最も大切なのは霊的に1つになるということです。これは互いに祈り合うということです。未信者の夫もしくは、妻がこれはできません。深いところの一致は、霊的な交わりからくるものです。霊の交わりがよくなされているなら、魂の交わり、そして肉体の交わりも祝福されるのであります。

 Uコリント6章から結婚を考えるなら、信者同士の結婚がベストだということです。原則は原則です。しかし、いろんな事情もあるでしょう。片方がいまだ未信者だという方もおられるかもしれません。しかし、そのことによって自分が砕かれていきます。「それでもクリスチャンか」と言われるなら、謙遜にならざるを得ません。ダイヤモンドを磨くのは、ダイヤモンドであります。喜んで、研がれましょう。無条件の愛でひたすら仕え、陰では一生懸命救いのために祈りましょう。使徒16:31「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」

 

3.ダイナミック・バランス

 ダイナミック・バランスとは、動的なバランスという意味であります。16―18節は、「分離せよ、汚れたものに触れないようにせよ」と言われています。これは、くびきを共にするなということの旧約聖書からのみことばです。私は、このみことばは否定しませんが、この世との接触の仕方には4種類くらいの立場があると思います。第一は、サドカイ派です。彼らは祭司でしたが、この世と妥協して、堕落しました。宗教を商売にしてしまったのです。妥協の埋没と言いますが、塩気のなくした塩であります。第二はパリサイ人・律法学者たちであります。パリサイとは分離するということばから来ています。まさしく、汚れた人たちと分離したのであります。律法学者たちは律法を守れない人を「罪人」と見下げて、一緒に食事をしようとしませんでした。一部のクリスチャンたちも、未信者を軽蔑しているかもしれません。お酒を飲んだり、ギャンブルをしている人たちを白い目で見たりします。しかし、そういうクリスチャンは意地悪で冷たいです。彼らの方がよっぽど親切で暖か味みがあったりします。こういうクリスチャンが伝道を邪魔しているわけです。第三は隠遁派です。バプテスマのヨハネは荒野に住んでいました。また、当時はエッセネ派と申しまして、彼らも人々から離れて暮らしていました。修道院というのがありますが、まさしくそれであります。この世から隔離されたところで、神様を礼拝する。クリスチャンでも世捨て人みたいな人がいます。映画も見ない、遊園地も行かない、ひたすら教会の集会に行く。集会に行くのは構いませんが、この世の人たちと交わらないならば伝道する機会がありません。第四はイエス様と弟子たちのスタイルです。イエス様はバプテスマのヨハネと違って、町に行き、人々の中に入って行きました。遊女や取税人とも一緒に食事をしました。律法学者たちはイエス様を「大酒飲みの友」と言いました。では、イエス様は堕落したでしょうか。むしろ、人々が清められ救われていきました。なぜでしょう。イエス様は朝早く、そして夜も、父なる神様と交わっていました。そのためイエス様の中には、愛と聖さがあふれていたのです。弟子たちもそういうイエス様に習っていきました。

 クリスチャンはどの立場を取ったら良いのでしょうか。この世の人たちを見下げるべきでしょうか?イエス様はそういう人たちを偽善者と呼びました。では、隠遁生活をすべきでしょうか。

パウロはTコリント5:10「それは、世の中の不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者と全然交際しないようにという意味ではありません。もしそうだとしたら、この世界から出て行かなければならないでしょう」と言いました。これはそういうことをしている兄弟姉妹と交わるなと言っておるのであって、未信者のことをいっているのではありません。信仰を持っているのにも関わらず、不品行をしたり偶像礼拝をしているなら問題です。また、ヨハネ17章でイエス様はこのように言われました。「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします」(17:15)、「あなたが私を世に遣わされたように、私も彼らを世に遣わしました」(17:18)とあります。つまり、私たちは世の光、地の塩として、この世に派遣されている存在です。私たちはこの世のものではありません。既に神様のものであり、天国に属する者です。でも、この世で生きている限りは、彼らと接触しなければなりません。しかし、それは伝道のためであり、神様の愛によって仕えるためであります。私たちは家庭や職場、学校に派遣されているのです。「派遣社員」というのがありますが、あれは人材派遣会社からある会社に派遣されるという意味でしょう。私たちクリスチャンは、神様から大宣教命令と愛の戒めを背負わされて派遣されているのです。もちろん、商売をする限りは利潤を求めます。しかし、お客さんに喜んでもらい、お客さんに得をさせて、同時にこちらも利潤を得るということです。もし、私という存在がいなければ、このお客さんはずっと損していたかもしれません。商売をやっている人、公務員、サラリーマン、技術、サービス業…色々いらっしゃるかもしれません。でも、共通していることは、神様のもとから遣わされているということです。そして、共通して持っているものは神の国の福音です。神様からの恵みと祝福と癒しも提供できます。クリスチャンがいるだけで、人々の人間関係がやわらかくなったら最高です。この世の人たちは、あまりにもぎくしゃくしています。共同体がありません。私たちクリスチャンがそこへ遣わされるとき、人間関係を修復して、互いに愛し合うこと、協力し合うことの喜びが生まれます。誘惑にはまらないように、罪を犯さないように、汚れないようにと気を使うことも確かに大切です。しかし、神様のもとから派遣され、聖霊様と一緒に出て行きましょう。神様が願っていることは閉じこもっていることではなく、ダイナミック・バランスを持つことです。

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