| カルガモが暮らす境川を歩こう 撮影平成16年7月25日 境川は町田市の最高峰、草戸山(365m)を水源に全長約69キロメートル、江ノ島まで流れています。 源流部は川が複数に分かれその内の小松川、穴川、本沢、宝沢等は雄龍籠山を水源にしています。雄 龍籠山の山頂には金比羅神社が祀られ境内にある「雨乞池」はどんな旱が続いても決して涸れなかった と云います。そうした事からこの池を中心とした古来からの「水分の神」としての信仰があったのではないか と云われています。 麓、川尻八幡宮「一の鳥居」から900メートルも続く長い参道の延長上に御神体山と しての雄龍籠山が見えます。 草戸山、雄龍籠山を水源とする境川水源地帯を歩いて見ませんか。町田市と城山町の境を流れる境川は 現在、河川改修工事が進んでいます。ふるさとの川、境川にはカルガモも生息しています。全体の頭数は未 だわかりませんが平成16年7月27日の朝、雨水調整池で11羽を確認しました。 境川沿いには水車小屋跡や水田、用水の取水口跡など水と関わってきた人々の暮らしを垣間見ることが できます。一部両岸には遊歩道もできています。 気持ちよい朝を、そして月見草が咲く夕暮れ時を歩いて見ませんか。 ![]() ふるさとの川 ふるさとの川よ ふるさとの川よ よい音をたててながれているだろう (母上のしろい足をひたすこともあるだろう) ![]() 円林寺の大賀ハス 昭和26年3月30日、千葉県検見川の東大運動場の敷地内で、一粒のハスの実が発見されました。 発見したのは当時花園中学生だった西野真理子さんでした。今は全国各地で「大賀ハス」の花を見ることが できますがその一助となったのが先代の御住職様でした。 大賀博士には人知れぬご苦労があり、そのご相談相手となったのが先代の御住職様でした。 「死ぬときはこう云う所で死にたい」、「自分が死ねばハスの面倒を見てくれる人がいないから是非後を継い でもらいたい」そう云って博士は亡くなられたそうです。 博士のご意思は円林寺や門下生を通じ全国の心温かな人々の努力よって全国津々浦々にまで広まって行 きました。 原宿用水取水口から西方、龍籠山山系を望む 母をおもう けしきが あかるくなってきた 母をつれて てくてくあるきたくなった 母はきっと 重吉よ重吉よといくどもはなしかけるだろう ![]() 原宿用水取水口跡 段差部分は当時の堰跡で補強に松の木が使われています。松の丸太は地上では 直ぐに腐ってしまいますが、水中では「生松1000年」といわれるほどの耐久力があります。 嘉永6年(1853)にペリーが来航しました。同年、幕府は江戸を守るため品川に御台場を築く事を決めま した。幕府は台場を築くために各地にあった松を伐採しました。近くでは鑓水村の「御林」の松の木も伐採さ れ相原、橋本、川尻村を経由、小倉からは筏に組んで相模川を下りました。城山では900メートルも続いた 川尻八幡宮参道にあった「松並木」を伐採し御台場建造にあてました。 撮影2006・2・19 河川改修工事が進む原宿用水取水口跡 昭和30年代の原宿用水取水口 時の流れ 相模丘中学校創立50周年記念誌より 小松川を渡る、原宿用水コンクリート橋 境川と小松川の合流点 昭和3年「御大典」記念に建立されました。 アスファルトの道路面と同じ高さに用水橋があります。 ![]() 河川改修工事がすすむ境川 撮影2006・9・18 ![]() ゆうやけ橋から
![]() ゆうやけ橋 撮影2006・6・25 相原根岸地区農業用水取水口完成記念碑 昭和39年2月建立 「堰のことば」 元境川の左岸にありました。 堰のことば ひらのしゅうや 堰は水を湛え 水はきょうも導かれ 人は長い歴史を振り返る 初めて木杭を打ち込んだ それが知恵に満ちた人々だった 幾百年も支えて来た それは誠の人々の努力だった いま静かな生命が甦える がっしりした堰 人々の果たしあい願いが 遠い未来へ向かって 堰はきゅうも水を湛え ![]() ![]() ![]() 雨水調整池(左岸側) オイカワの産卵場所、メスを守るかのようにオス は他のオスが寄らないよう盛んに威嚇していた。 オスは赤みをおびた青緑色をしていて輝き他の 魚とたやすく区別ができます。 月見草(メマツヨイグサ)の花が咲く小松川 ![]() 「夕焼け小焼け」の作詞者、中村雨紅さんが 一時期養子となった中村家 ![]() ![]() カルガモが生息する境川、本郷地区 河川改修の頃 中相原・本郷地区 ![]() 新田橋 馬頭観音 明治21年3月建立 昔、城北の細谷さんが、馬をひいて橋を渡ろうとしました。馬はどうした事か川に落ち死んでしまいました。 可愛そうに思った細谷さんは、その後、橋のたもとに「馬頭観音」の石塔を建て手厚く供養を行いました。 「馬頭観音」は馬が落ちた新田橋の方向を向いていましたが、河川改修工事で八木家の屋敷内に移され 下流方向に向きを変えました。 ![]() 境川にも昔、水車小屋がありました。本郷の八木家の庭に当時の石臼が残されています。 町田市相原小学校の近くにあるラーメン屋さんの屋号は「金車」と云い、水車が回っていた頃を今に伝えています。 かっての境川沿いにはたくさんの水車小屋があり、粉を挽いたり製糸産業の動力源として利用されていました。 ![]() 昭和25年頃まで使われていた「中相原の共同 水車」真米川が境川に合流する白田橋の際に ありました。 資料 「明治・大正頃の相原」より ![]() 華蔵院をトンネルで通過した、当麻田用水取水口跡 ![]() 華蔵院境内 水神塔 子育地蔵 秋葉大権現石塔 竹に挟んだ榛名講の御札 寛政初年(1789)建立 二体の地蔵塔は寛政6年(1794)建立 ![]() 華蔵院境内 国定忠治の力石 大銀杏 ![]() 相原八幡神社のすぐ脇を流れる境川 ケヤキが鬱蒼と茂る相原八幡神社の境内 ![]() かつて神楽や村芝居が行われた舞台 ![]() 当麻田開田記念碑 昭和21年11月建立 題字 元農林大臣有馬頼寧 碑文は大衆作家加藤武雄 「太平ヲ萬世ニ開キ世界ノ平和ニ先駆スルトイフ我ガ民族ノ大使命ヲ前ニシテ我等農 ハ国本ナリトノ古ノ帝ノ詔ヲ想起シ平和ヲ以テ貴シト為ストノ我ガ国最初ノ憲法ヲ・・・・・」 当麻田の水田再拓は昭和7年に開始され翌年5月に完成しました。戦後間もなく「開田記念碑」が地元 民によって建立されました。農業が国の基本であることを想起、平和の祈りが込められています。戦後 の混乱期をたくましく生きようとした人々の気持ちが伝わってきます。 当麻田の水田は約4町歩あり昭和8年5月に完成、戦後になってから記念碑が建立されました。 ![]() 開田碑の南側に広がるヤマイモ畑 畑の中で見つけた土器(土師器、須恵器、磁器)の破片 このヤマイモを利用して郷土の名産「長寿そば」が 参照 相原森ノ上遺跡 誕生、好評を博しています。 昭和32年、大和芋が有志により試作され栽培者が始まる。 昭和60年、相模原市のヤマトイモが「神奈川名産100選」に選定される。 ![]() 当麻田小学校裏を流れる境川 生物の多様性を育む河畔林 石仏が集中する相原橋(大法院橋)界隈 昭和10年、橋名が相原橋と変わりました。 ![]() 庚申塔 橋の南側(右岸脇) 金剛界大日如来像かは不明? カワセミの朝 撮影2004・8.19 ![]() 橋の北側(左岸脇) 石仏 年代不詳 馬頭観音 胎蔵界大日如来石塔かは風化が激しく不明? 地蔵塔 (場所 八千代銀行前を南に50メートル入ったところ) 享和3年建立 「森久保」、「田尻」、「中村」、「三屋」、「??」 地域の枠を乗り越え石塔を奉納しています。 名も知れぬ昔からの道を歩いていているとふと人々の交流や喜びや悲しみ、願いに出会うことがあります。 境川上流域を相原駅まで辿って見ました。町田街道沿いにはバスが走っています。疲れたら乗る、そんなふうに 考えながら歩いて見てはいかがでしょう。発見の道です。 戻る |