夢
僕は草むらを散歩していた。空は夕日で真っ赤に染まっている。涼しいような、暖かいようなそよ風が、頬をさするようになでていく。
毎日、この時間帯になると決まって散歩する。まず、なんといっても風が気持ちいい。それから、人に会うのが苦手な自分にとって嬉しいことに、この時間帯は人が少ない。だから堂々と歩くことができる。僕はもともと人間が苦手で、向こうから人が歩いてくると思わず避けてしまう。そのせいで、まわりから変人扱いを受けている。でも、たとえ変人に思われていても、まともになろうなどとは思わない。
まわりの人間が怖い。なんだかみんなが自分を軽蔑しているような気がする。だから、近づけないのだ。僕は学校で酷いいじめをうけた。人を怖がるようになったのは、ほとんどそのせいといっていいだろう。学校の生活は辛かった。登校拒否になった。最初のうちは、外にさえ出られなかった。なんとか外に出られるまで復帰するのには時間がかかった。心には大きな傷がついた。僕は死にたかった。あれだけ酷いいじめを受けておきながら、自殺せずにすんだのは、単に死ぬ勇気がなかったからか。
そんなことを考えながら歩いていると、草むらのむこうの大きな木の下に、なにか真っ白い物体が丸まっているのを見つけた。あれはなんだろう、と思って近づいてみたら、可愛らしい竜だった。背中に翼がはえている。竜を見るのなんてはじめてだったのに、何故か全然驚かなかった。そんなはずはないのに、まるで見るのを予期していたかのように。
どうして驚かなかったのか、あとで考えてみても、ちっとも思い出せない。それどころか、相手の顔さえも覚えていない。
僕は、不思議な感覚にでもとらわれたかのように、呆然としていた。相手のほうでもこちらに気付いたらしく、僕の目をじっと見つめていた。驚かさないように、そろりそろりと近づいていった。相手は逃げる様子をみせない。
「大丈夫だよ、何もしないよ」
相手を落ち着かせるために一応そう言いながら、さらに距離を縮める。……すぐ近くに座り込んでも、結局逃げなかった。相手も自分が来ることを予期していたのかな、なんて他愛もない想像をしてみながら、相手に話しかけた。
「僕は竜が好きなんだ。みんな、竜なんていないって言ってたけど。僕はいると信じてた。やっぱり、正しかったんだ」
すると、竜はくすっと笑った。僕は何か笑われるようなことを言ったかしら? 竜のふさふさした毛に手をのばす。そして、触ってみたが、相手は嫌がる様子もなく、じっとしていた。僕は触るのをやめ、その場に寝転んで空を見上げた。
「僕ね、君のような竜になれたらいいなあ、なんて思ってるんだ。嫌なこととか、さびしさとか、悔しさとか、全部忘れて、竜のように空を飛びたいんだ。そして、思いっきり高くまで舞い上がって、町を見下ろしたいんだよ。ああ、自分はちっぽけなんだなあって。地球は、なんて広いんだろうなあって。そう思いたいんだ。それが、夢なんだ。ねえ、僕を竜にしてくれないかな。……無理かな」
前から思っていたことを、半分冗談で言ってみた。竜はまたくすっと笑った。なんでこんなに落ち着いて竜と話すことができるんだろう。自分でもおかしいくらいだ。
普通の人間なら、竜が目の前にいるというだけで、腰を抜かすだろう。なのに僕は違う。そう思うと、久しぶりに自分が誇らしく思えた。
まだこの竜の近くにいたいと思いながら、黙って空をずっと見ていた。そのうちに、何故かうつらうつらとしてきた。眠くなってきた。視界が暗くなってくる。空が狭まってくる。やがて、視界が完全に途絶えた。僕は暗闇の世界へと入っていった。
僕はいつのまにか竜になっていた。自分の体を見てみると、いたるところが竜のウロコでおおわれていた。最初は信じられなかったけど、とても嬉しかった。早速羽を動かして、空へ飛び立った。ぐんぐん空が近くなって、いつのまにか町が自分の真下で輝いていた。僕は町を見下ろした。まるで天の川のようにきらめいている。とても綺麗だ。その輝きにうっとりして、飛ぶことをやめてしまいそうだ。でも僕は、それにみとれながらも姿勢を保ち続け、ひたすら町の上空をまわっていた。いつまでも飛んでいたかった。この綺麗な光景を見続けることができるなら、何をしてもいい。そう思った。
しかし、僕の希望は次の瞬間無残にも打ち砕かれることとなった。町の光景を見るために、高度を下げて、低空を飛行しようとしたとき、翼に激痛がはしった。驚いて翼を見ると、麻酔弾が突き刺さっていた。僕は愕然とした。麻酔がまわり、どんどん体中が痺れてくる。飛ぶことすら困難になった。必死にはばたこうとしても、翼がいうことをきかない。高度が下がり、地面がぐんぐん近づいてくる。ああ、夢はもう終わってしまうのか? わずか数分ばかり飛んだだけで? あまりにも短すぎやしないか。地面が目の前に迫っている。あと二十メートル――十メートル――五メートル――やがて地面に激突し、気を失ってしまった。
気がつくと、僕は変な場所にいた。ここはどこだろう。病院? いや実験室? なんだか不気味なところだ。嫌な予感がする。人間達が入ってきた。 三、四人はいるだろうか。みんな白衣を着て、手にメスを持っている。何をするつもりなんだろう?
「誰だ、お前達は」
そう叫んだが、相手はそれを無視して、僕をうつぶせにして、台にのせあげ、固定した。必死にもがいたが、無駄だった。すでに両手両足は固定され、全く身動きがとれない。人間の一人が、メスを持って近づいてきた。
「やめろ! 何をする気だ!」
他の人間たちも、同じように近づき、僕を力いっぱい押さえつけた。そして、メスが僕の翼の根元を切り裂きはじめた。僕は痛みのあまり叫び声をあげた。しかしメスの動きは止まらない。生暖かい液体が、背中から流れ出した。液体が、地面にだらだらとたれていった。赤い色をしている。血だ。背中の傷から、大量の血が流れ落ちている。僕は涙を流した。痛い。痛すぎる。目もかすんできた。僕が何をしたというのだ? 夢をかなえたのが悪かったのか? だが竜になって、空を飛んで、町を見下ろしたいという希望のどこが悪いというのだ。やがて片方の翼が完全に切り落とされた。そして、人間達は残ったもう片方の翼も切りはじめた。僕は全身に激痛がはしるたびに、絶叫し、体をのけぞらせた。
ちょうどそのとき、どこからともなく、くすくすと笑い声が聞こえてきた。頭の中に直接響いてくる、特徴的な笑い声。確かにどこかで聴いたことがある。
「お前だな」僕はすぐに誰だかわかった。
「そうだよ。君を夢の中へといざなった、今も君のすぐそばにいる、あの白い竜だよ」
「ここは夢の中なのか」僕は心のなかで叫んだ。「じゃあ、なんでこんなに痛いんだ。夢なら痛くないはずじゃないか」
「君が望んだことだからね」彼は相変わらずくすくす笑いを続けた。
「やめろ! その不快なくすくす笑いをやめろ!」
「やめろ、だって?」彼の笑いはますます大きくなった。「僕は君がおかしすぎるから笑ってるだけだよ。だって君、馬鹿なんだもの」
「何故」
「竜になりたいっていう夢をかなえてあげただけだよ? 竜になるっていうことは、人間に捕まるリスクも伴っているんだよ。でも、空飛べたからいいじゃん」
「それとこれとは話が違う」僕は憤慨した。「僕はこんな痛い思いをする為に竜になったんじゃない! 助けてくれ」
「あれほど竜になることを願っていたのに、今更手のひらを返したように人間に戻りたい、っていうの?」彼は真剣な顔になって言った。「君、馬鹿すぎるよ」
「馬鹿でもなんでもいい、僕はここから脱け出したいんだ、たのむ」
「なんで元に戻っちゃうの? そのまま竜のままでも楽しいのに」
「楽しくなんかない!」僕は涙を流した。「竜になるというのが、こんなに苦しいこととは思ってなかったんだ。安易な気持ちで竜になりたいなんて言った僕は馬鹿だった。許してくれ」
「謝ればすむと思っているのかな?」
ついにもう片方の翼も切り落とされた。僕は翼のない、みじめな竜になってしまった。
「許してくれ、お願いだ」涙がぼろぼろと落ちた。「もう二度と竜になりたいとなんて思わない。約束する。だから、お願いだ、僕を人間に戻してくれ。家に帰りたいんだ。家に帰って親に会いたい。普通の暮らしがしたいんだ」
しばらく無言。やがて小さな声で、竜が言った。
「そんなに戻りたいなら、戻らせてあげるよ」
その言葉を聞いたとたん、体が軽くなった気がした。僕を再び、あの暗闇が襲った。地面と天上が目の前でぐるぐる回転し、自分がどこにいるのか、今何をしているのか、わからなくなった。そして僕は、意識を失った。
目が覚めると、頬が涙で濡れているのに気付いた。僕はゆっくり体を起こした。いつもの景色。寝る前とほとんど変わっていない。変わっていることといえば、夢を見る前は夕方だったのが、今はもう夜になっていたことぐらいだった。空には星がきらめいていた。
しばらくの間は、自分が夢から帰ってきたというのに、気分が悪くて安心すらできず、ただぐらぐらした感覚に身を振り回されていた。そのうちに、今まで見てきた一切の出来事が全て夢だったんじゃないかと疑った。しかし、自分が座っているすぐそばに、羽と毛が落ちている。確かにそこに竜がいた証拠だ。だとすると、竜はなんのために僕にあんな夢を見せたのだろう。
本当に、なんのために?
……僕は涙を袖で拭うと、立ち上がって、散歩道を歩いていった。
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