星空へ旅立ったラプラス

 自分の名前を覚えていられるポケモンは幸せだ。大抵のポケモンは自分の名前を忘れるほどの出来事には遭遇しない。俺の場合は、いつからここにいるのかさえ覚えていない。あるとき海を泳いでいると、捕まえられ、そしてこの水槽に入れられた。ラプラスだからという理由だけで。それだけのことだ。名前なんか覚えていたって何の得にもなりはしない。毎日この檻みたいな水槽でほとんど動かずにすごすのだから。変化といえば、餌が時々運ばれてくるくらいだ。最初の頃は水槽から出ようと抵抗したが、何をやっても無駄だった。ついに俺は諦めた。一生、ここで死ぬまでこうしているしかないのだ。捕まえられたときに殺されなかったのがまだましというものだ。
 あるとき、俺の水槽に、もう一匹のラプラスが運ばれてきた。
「君の名前は?」
 彼女は最初おどおどしていたが、
「ソーフィ」
 小さな声で答えた。
「君も捕まったんだな? 俺たちの仲間入りだ。かわいそうにな」
 彼女は黙っていた。
 次の朝、大きな音がしたので、起きてみたら、ソーフィが水槽を突き破ろうと、壁に体当たりをしていた。俺は驚いた。なんて馬鹿なことをするのだろうと思った。
「無駄だよ。壁は物凄く硬い。どんなに体当たりしても壊れないんだ」
 彼女は体当たりをやめた。
「……そんなに脱出したいのか?」
 ソーフィは黙ってうなずいた。そして黙って壁への体当たりを再開した。次の日も、また次の日も、彼女は体当たりを続けた。しまいには、監視している人間に、
「静かにしろ!」
 と叫ばれ、鎮静剤をうたれるほどだった。
 彼女の体は血だらけになった……
「もう諦めたらどうなんだ?」
 と言っても、いっこうにやめなかった。俺は毎日ソーフィをからかった。
 あるとき、俺はソーフィにこう言った。
「無駄な抵抗はよしたほうがいいぜ。体力を消耗するだけだ」
 俺のその渇いた笑いは悲しく響いた。ソーフィは俺を厳しい目で見つめた。
「あなたは何もしないの? 人間からこんなに不当な扱いをしているのに、それでも何もしないの? もう一度、海を泳ぎたいとは思わないの? ラプラスという生物は、もっと強固な精神を持っていたはずよ。少なくとも、捕まったという理由だけで全てを諦めるような、あなたみたいな腰抜けじゃない」
「だからなんだというのだ? ここから脱出できると、本気で君は思っているのか? 馬鹿馬鹿しい。そんなこと、とっくの昔に俺が試した。しかし無駄だった。俺は人間に毎日虐待された。お前もそうならないうちに抵抗するのはやめたほうがいいぞ。いいか、これは警告だ。今すぐ抵抗するのはやめろ。痛い目にあっても知らないぞ」
「言いたいことはそれで終わり? あなたは、痛い目にあうのが怖くて逃げたのね?」
 俺は黙った。彼女の言うとおりだった……
 彼女はまた体当たりを再開した。
 今まで俺は何をしていたのだろうか? もちろん最初のうちは俺だって抵抗した。だけど何もならなかった。しかしそれだけで諦めていいのだろうか……俺は努力が足りなかったのではないか……? 俺は彼女を馬鹿だと思った。何故こんな無駄なことをするのだろうと思った。しかし逆に彼女から見れば、俺の方が馬鹿かもしれない。俺は何もかも忘れたのだ。苦痛から逃れるために……
 俺は頭を抱えた。俺の名前はなんというのだろう。思い出せない……
 ある日、依然として檻に体当たりを続けるソーフィに俺は話しかけた。
「俺も手伝うよ」
「え……?」
 ソーフィは驚いた。
「どうして?」
「恥ずかしいことだが……俺は自分の名前が思い出せない。それどころか、いつからここにいるのかさえも覚えていない。捕まったのが相当の昔に感じる。恐ろしいものだ、生物というのは自分に必要のないものを、忘れる。記憶喪失なんて人間だけかと思っていた……俺の場合は自然に記憶を喪失したんだ。必要なくなったからな」
 ソーフィは驚いた表情をした。
「あなた……なんでそんなになるまで抵抗しなかったの? 人間なんて私たちラプラスにかかれば、ひとひねりじゃない」
「あいつらを甘く見るな。人間は残忍な生物だ……ポケモンなんかかないもしないほど。彼らは武器を持っている。頭脳という最大最強の武器を。その頭脳から彼らは生物を殺す兵器を生み出した。俺は人間に抵抗するたび、その兵器によって傷つけられた。耐え難い苦痛から逃れようとした俺は、全てを忘れることに決めた。ここから脱出することも、希望も、自由も、自分の名前も、記憶も……」
 俺は微笑んだ。
「だが、君のおかげで変わったよ……君は希望をまだ捨てていないね……希望というのはいいものだ。周りの心を動かす。現に俺は君の希望によって変わった。ここから脱出したいという希望がまた湧いて来たのだ。だから、君に協力しよう。二匹がかりでやれば、檻を破れるかもしれない」
 彼女は目に涙を溜めて聞いていた。
「俺の名前はジーラだ」
 唐突に俺は言った。
「突然思い出せた。お前のおかげで、長年記憶を封印されていたのが解かれたのかもしれない。今、俺の心は生きたいという気分で一杯だ」
 彼女は涙をこぼした。俺は苦笑した。
 その日は、たまたま監視がいなかった。思う存分体当たりができる。水槽には努力のおかげで、少しヒビが入っていた。それは、体当たりするたび、少しずつ大きくなっていった。何時間もそれを続けたが、ついにソーフィが力尽きた。何日も努力してきたので当然だが……その姿を見てジーラも体当たりをいったんやめた。
「ふう、小休止だ」
 ソーフィはその場に倒れた。
 彼女は倒れていた。頬が赤く染まっていた。
 しばらく休んだジーラとソーフィはまた元気を取り戻して、一緒になって体当たりを続けた。
 やがて、ついに目の前の壁が崩れた。
「やった……!」
 水槽が破れたという実感はなかった。以外に簡単だったからだ。水が溢れ出して壁の外は水浸しになった。俺はソーフィと一緒にはしゃぎながら喜んだ。だが俺は、はっとして我にかえると、
「喜んでいる場合じゃない。はやく脱出しなければ。ほら、警報装置がなりだしている。もう人間どもに気付かれたかもしれない」
 ジーラとソーフィは、外へ出た。
 久しぶりに味わう外の空気。きらめく星空。なんて最高なんだろう。このまま、できることなら感傷にひたっていたい。だが、そんなことは許されない。すぐに追っ手がやってきた。
 ジーラとソーフィは、手をつないだ。
「さあ、泳ぐぞ」
 俺らは体を動かして、海へ飛び込んだ。俺は感動した。何年ぶりに飛んだのだろう! 懐かしい感覚が体に戻ってくる。その感覚に俺は涙した。ようやく、脱出できたのだ。あの地獄のような檻の中から。

 俺らはずっと泳ぎ続ける。海の果てを目指して。俺らは一緒になった。最高のパートナーだ。そして、俺らは最高の恋人になろうとしていた。
「なあ、ソーフィ」
 俺は泳ぎながら言った。
「ここから逃げ出せたら、どこか遠いところに行って、ふたりで一緒に暮らさないか? ふたりで一緒に食事したり、遠くを眺めたり、一緒に泳いだりして、そして、今日の運命的な出会いの日を、想いだし、笑うんだ。俺たちが出会った日として。馬鹿どもから逃げ出せた記念の日として。そうやって暮らせばいいと思わないか? 俺たち、最高のパートナーになれると思うんだ。だから、一緒に」
 これは事実上俺の告白と言ってよかった。彼女はかすかにうなずいた。彼女の頬は赤く染まっていた。それが疲れからくるのか、恥ずかしさからくるのかはわからなかった。

 しかし、そううまくもいかない。俺たちは息切れし、疲れて、人間に追いつかれた。そのとたん、俺たちを巨大な爆風が襲った。人間達が、俺らを、砲で撃ったのだ。俺たちは瀕死の重傷を負った。俺らを、人間が取り囲む。
 全員が銃をこちらに向けている。
「ダメ、だったみたい、だな」
 ソーフィは黙っていた。彼女は泣いていた。
「ごめんよ」
 ジーラはソーフィに向かって最後の力で擦り寄り、彼女を抱きしめた。彼女の意識は朦朧としていた。
「ジーラ、ジーラ……」ソーフィはそういい続けて、俺を抱きしめ返した。
「よし、とどめをさせ!」
 人間の叫び声が聞こえた。大量の銃弾が発射され、俺らを切り裂いた。
 激痛が襲った。だがそれは最初だけで、撃たれて血が流れていくたびに、痛みはなくなり、ただ意識だけが遠のいていった。血が飛び散って、俺らは青いポケモンなのに真っ赤に染まった。どくどくと音をたてて大量に血は流れていく。肺を銃弾が貫通し、俺たちは血反吐を吐いた。俺は完全に意識を失い、最後に見えたのは自分とソーフィの大量の血で染まった海だった。

 それからどれくらいの時間がたったか、わからない。
 やがて、俺ら二匹の魂は、青く光りながら、星空へ昇っていった。
 俺らは星空へ行けるのだ。苦しみを一時的に味わったけど、もう安心だ。永遠の魂を得られたのだから。ソーフィと一緒になれたのだから。現実に生きることはかなわなかったけど、星空という海で、永遠に泳ぎ続けることができるのだから……



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