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  新百合AOI倶楽部「虚子に学ぶ」

『武蔵野探勝』を辿る吟行を始めるにあたり

《虚子担当》後藤 洋

  『武蔵野探勝』は、昭和5年から14年までの10年間100回にわたりホトトギスの同人
 その他の人々が1日の吟行をして得た俳句を題材として、文章に綴って「ホトトギス」誌上に
 発表したものである。ここの処「新百合
AOI倶楽部」の自由勉強会において虚子について採り
 あげていこうという動きが出ている中で、我らもこれを辿っていこうかと考えている。決して
 勢い込んでやろうと思っている訳ではなく、参加できる時に参加できる人でもって出来るだけ
 当時と同じ季節を感じつつ続けていければ、と思っている。

  実は今年(平成24年)3月、そろそろ梅の季節到来なのでかつて虚子らが『武蔵野探勝』
 で訪れたと聞いていた「吉野梅林」に行ってみたいなと思っていたのだが、ひょんなことから
 図らずも81年後のちょうど同じ日(21日)に独りで吟行を決行してしまった。 折角だか
 らこれからも『武蔵野探勝』の各地に行ける時に行ってみて、その時の様子とどんなに変って
 いるのかも含めて確かめてみたい、と思い始めていた処であった。

  ちょうど新百合のメンバーの間で『おおかみの護符』(小倉美惠子著)の話題が膨らみ、御
 嶽山への吟行会が企画された頃であった。一度は延期されたその吟行はひと月後の4月に実施
 され、その際何人かの方々と『武蔵野探勝』についての話が弾んだ。御嶽山の麓の多摩川べり
 もかつて虚子らが訪問した土地の一つであったからだ。

  その直後のことである。僕の興味が見透かされたかのように、正子さんから「ひとりよりは皆
 で吟行をしながら読み込んでいけば、楽しく虚子にアクセスができるのでは?」との正に正鵠
 を射た援護射撃があった。話はとんとん拍子にまとまり、「善は急げ」とばかりに4月から、
 吉野梅林に続く『第九回、一園に了るの巻』と同じ日である29日にスタートさせる事となっ
 た。新百合の幹事、玲子さんに一斉通信を出して貰うと、なんと8人のメンバーが集まり、あ
 とは当日の首尾を待つばかりとなった。







































































第一回 (虚子編第九回)「一園に了る」の巻
      
  *** 平成24年4月29日(日) ***

集合予定時刻10時30分きっかりに、京王線・下高井戸駅北口に正子さん、玲子さん、千惠子
さん、玖美子さん、ちあきさん、洋二君、潔君そして僕(洋)の8名全員が揃った。 最近携帯
を持つ若い人たちは待ち合わせ時刻には遅れるのが常識だそうだが、流石に若さは売り物に出来そ
うもなくなった我ら一同である。

今回の「一園に了る」の「一園」とは草田男の記録によれば 「吉田園という個人持ちの庭園」
で「何千坪あるだの云う目分量は僕には利かない」ほど広くて池も二つ三つあり、虚子をして
「こんなにいろんな自然物のある、この程度に広い庭を持ってみたいものですね」と感嘆させたほ
どの所なのだが、これが地図に全く見当たらない。近くに昔からお住まいの「藍生」深津健司さん
や今西美佐子さんにも伺ってみたのだがお二人共にまったく知らない、と云う。 慌てて少し調べ
たのだが、地元の杉並区民も知っている人が殆どいないらしい。 判ったことは、

*大正初期にこの土地の吉田さんという方が開園した、冬はアイススケート夏はプール、テニス
コートや運動場、茶亭、料理屋、丘あり谷あり池あり瀧ありの大遊園地で、当時の京王線沿線の
有名な景勝地の一つだったが、戦争末期ころに閉園したらしい。

*現在の地図には、そのあたりに「大慈會教團本部」という建屋があるが、当時の吉田園がどこか
らどこまであったかは、登記簿を辿って調べてでもみないとよくは判らない。

 今日は快晴で温かくなるようだ。 昭和6年の当日は春雨の日であって、20人ほどの連衆がぞ
ろぞろ蝙蝠傘を連ねるなか、独り杣男だけ駅前の公設市場のような所で紺の唐傘を購い、非常にうれ
しそうにして差して行っている。その市場と思われる「駅前市場」と書かれた建物の細い路地を抜け、
我ら8人も甲州街道に向かった。

 すぐに上が首都高になっている広い街道に出たので、数少ない横断歩道の長い信号を待って向う
側に渡る。すぐ近くに待たなくても済む歩道橋があったものの、だれひとり登ろうとすらしない。

そのむこうに隣接して、今や緑道公園になっている「玉川上水」の暗渠がある。降りて真っすぐ上流
(だったと思われる方向)へ向かってゆっくり歩を進める。

いろいろな樹木が茂っていて気持ちのよい道だ。椋とか楠とか、「ソロ」なんて名札のついた樹皮
に薄い縞模様のある木もある。 このあたりの桜はほとんどが八重桜で落花のさなかであった。
何を思ったか玖美子さんがその枝を強く引っ張り揺らし、一面にはなびらを散らせて落花飛花だ
と喜んでいる。

「玉川上水は水源の羽村から江戸まであまり標高差がないので、開削にあたりその微妙な高低差を
夜にロウソクの光の位置で測量したんだ」と洋二君。で、みんな「ふむふむ」と納得したようなし
てないような、・・・分かったのかしら。そう云われると、この道も向かっている前の方が1~2
ミリほど高くなっているようにも感じられた。

所々に子供用の雲梯やジャングルジムの遊具が設置されているが誰も遊んでいない。今どきは危険
だと言って親が遊ばせないらしい。 「玉川上水」自体ももはや当初の目的を失ってしまい暗渠の
中だが、その上の遊具も同じく無用のものになっているのか。

 しばらく進むとチョコレート色の小さな石のアーチ橋が現れた。 右の親柱には「こぎくばし」
左には「小菊橋」とある。この橋の上で青邨や風生らが上水への毒流しの話に花を咲かせたらしい。
それを受けて素十が「上品でない冗談を言った」とある。突然、上品(そう)な正子さんが「下品
な冗談て何でしょうね。気になるわね」と。後ろから「活字にして公表できないんだから、伏字に
相当する言葉だろうね」と潔君。それとも麻原彰晃もどきの恐ろしい一言を発したのか。何れにし
ても我らがメンバーの中で素十もどきの下品な冗談を言うとすれば潔君か僕ぐらいか。

 そんな我らも手摺りに肘をのせ、彼らが同じ格好で見ていたであろう滔々とした流れを想い描き、
実際には暗渠の赤土を見おろしながら暫く句作に励んだ。思い出したように正子さんが、まるで
立子かあふひのように「えごの木がなかったわ」と呟いた。81年前は沢山の白花を咲かせていたと
いうえごの木は見つからなかったけれども、沢山の赤花を咲かせているニセ花蘇芳とでも言ってもよ
いような木が手摺りの近くに植わっていた。

 この橋を渡った角の屋敷あたりからもう「吉田園」の跡地付近に差しかかっている筈だ。彼らの吟行
は上水に沿って更に堤を遡る予定だったが、天長節にも関わらず生憎の天候だったので予定を変え、
土塀に沿いながら堤を少し下って吉田園と書いてある入口から園内に入り、吟行・句会をすることに
したのだ。

 我らも白いきれいな土塀に沿って昔は堤だったと思われる道を下っていくと、入口があったと思しき
あたりに「大慈會教團本部」と大きな看板が掲げられた真新しい厳重そうな門がある。その扉がほんの
ちょっとだけ開いていて、広い庭の奥に八角形の天井ドームを持った本堂か講堂か、これまた真新しい
大きな深とした建物が聳えているのが見えた。僅かに開いていた扉からは、黒い礼服を着た家族らしい
数人連れが礼儀正しく退出してきて、門前で記念写真を撮って去って行った。

我らは門前付近にしばらく屯して、ウェブからプリントアウトした当時の園内スケート風景写真や古地
図を皆で確認し合った。すると突然、潔君がかばんの中からなんと高濱虚子編『武蔵野探勝』一冊を
重そうに取り出し、それを抱えるように確認し始めた。皆その俳人魂に驚嘆するとともに、それぞれ
己が姿勢の足りなさを反省することしきりであった。さきほど渡ってきた甲州街道からは、皇居へ向
かうのであろう〇
×挺身隊とか大日本▲■党とかの大音響演奏が暫く聞こえてきた。昔の天長節の
今日は、昭和の日なのである。

 その広大な敷地の端を左に曲がった狭い脇道は、北に向かってゆるい傾斜になっていて、その尽
きるあたりが階段になっている。 草田男の吉田園内の記述「むかふ半分が樹枝の掩った谷になっ
てゐる」が何となく宜える地形だ。

階段を下り切った角の家の玄関先に白いあやめか杜若の花が目に付いた。さすが我らは俳人である。
種類を見分けるべく花弁の付け根あたりを調べているものも居る。今頃に咲くのは「いちはつ」
だという説に落ち着いたけれども、最終鑑定者はくれぐれも「俳人だまし」にはならないようお
願いする。

道路を渡って向う側には「都立中央ろう学校」がある。裏門付近に大きな夏ミカンの樹があって、
大きな実がたわわにぶら下がっていた。地面には実がひとつも落ちていないのだが、我らの道路脇
に置物のように実が1個。手にとってみると、採れたてのように艶やかでしっかりした実だ。何
やら不思議な存在感であった。

そこを抜けると「神田上水」に突き当たった。コンクリートの護岸であったが暗渠にはならず、こ
の先で善福寺川と合流して神田川となり都心を抜けて隅田川に注ぎ込んでいるらしい。八重桜の花
筏が次々と流れ去っていく。水の流れと云うものに飢えていた所為か、我らはしばらくそこに佇ん
で、ぼんやりと水の面を見たり、花筏の流れゆくさきを見やったりしたのであった。

黒いものが動いているようなので良く見ると、大きな鯉である。 ならばと覗きこむと、真鯉がほ
とんどだけれど中には緋鯉も結構いる。「こういう流れにはよく白い鷺が居るんだけれどもここに
は居ないわね」女性の声が聞こえた。小鷺はある程度汚れた流れに来るとも聞いているので、居
ないこの流れはきれいと言うべきか、・・・迷うところである。 

ふと対岸を見ると、一軒の民家の庭先に道祖神らしきものがある。わざわざ垣の金網をその部分
だけ捲り上げてあるので、住人は通る人に是非見てもらいたいらしい。

すぐ近くの名も無い小さな橋を向う岸に渡ってみるとその袂に、付近の見どころを示した案内地
図が立っている。暗渠である筈の玉川上水の地図で、さっき我らが居たあたりから少し下流側に
水の流れのようなものがある。今日の我らの吟行の仕上げを全員一致でそこと決め、例の道祖神
を近くから眺めて、道沿いにアメリカ花水木やカリフォルニアジャスミンや、何とかポピーを見
ながら、向かったのであった。

「玉川上水」の吟行のスタート地点に戻り、さっきの案内地図の流れらしいところに降りてみる
が、石組だけで水は無い。「永泉寺緑地」と云うんだそうだが、まるで枯山水だ。

水辺でなかったことでやや落胆の気持ちもあったが、周りは樹々も深くて風も気持ち良いので、
我らは散開してそれぞれの場所に腰掛けながら最後の句作に励む。

潔君はベンチに寝転んでぐっすり眠っているようだ。夜勤明けと云っていたので仮眠を取ってい
るのだろうか。いや俳人魂のかたまりなのだから、たぶんその格好で推敲をしているのだろう。
30分くらい経っただろうか。むっくり起き上がったのを目処に昼食場所と句会場を探しに行
くこととする。

句会場は行きあたりばったりで探すことになっていたが、実は今日僕は集合時間にほんのちょっ
と早めに着いたので、下高井戸駅の反対側付近を一巡りして二、三それらしき所を物色しておい
たんだ。 こんなことをしていると『武蔵野探勝』での常任幹事役らしい安田蚊杖の二の舞にな
りそうな予感があるんだが。

その一つ「天与」という天ぷら屋に入ってみる。入口を入って直ぐの部屋が使えたが、この店
は昼営業が2時半までと云う。今1時ちょっと過ぎだから句会までやるには不足だ。それで句会
はさっき通った道筋の「ガスト」と決め、ここでは昼食と推敲だけとした。

先ずは『武蔵野探勝』を辿る吟行会のスタートを、楽しくめでたく切れたことを祝い、全員一杯
ずつのビールで喉を潤した。当然僕には少々不足と云えぬこともないが、今日の清々しい天候と
華やかな女性陣との楽しい吟行が相まって、やはり実に旨いと感じる。 天ぷら料理も味、量、
コストパーフォーマンス何れも充分満足できるものであったと付け加えておこう。

「ガスト」では生憎の喫煙席になって、「句会中は休煙をすることにしているんだ」とかうそぶ
いていた潔君が、これ幸いとばかり煙を燻らせながら清記を始める。新百合の句会では出句選句
ともに無制限だが、それはそれ各自の良識に従って、4時頃には散会することができた。

                    第一回 完