上野  江戸を平安京にしてしまおう

上野の山と不忍池を使って、そのような大計画が立てられました。

平安京の比叡山に対して「東叡山(東の比叡山)」と名付けよう。不忍池に弁天島を築いて琵琶湖にみたてよう。清水観音(清水寺の観音にならう)、祇園堂(八坂の祇園社にならう)も。たくさんの桜を植えて花見客に開放しました。上野の山全体を寛永寺とその関連施設で埋め尽くします。

その理由はこうです。江戸城を真ん中にして、広大な面積を誇る寛永寺を東北の方角に配置します。東北は鬼門の方角です。江戸城をはさんでちょうど反対側、南西の方角には徳川家の菩提寺・増上寺があります。江戸城から北斗の方角に日光東照宮を置きました。江戸を都市計画によって、平安京と同じく風水で守ることになります。その中心が上野なんですね。

清水観音堂

清水観音堂は、京都清水寺の観音にならい本尊も現地から勧請しています。観音堂は観音信仰だけでなく、人形供養などでいまも多くの人々の信仰を集めています。

 上野清水堂 広重の名所江戸百景
「上野清水堂不忍池」
 

清水観音堂は「京師清水寺に比して舞台造なり。この辺ことさらに桜多し」と、江戸名所図会は述べている。広重の絵も、舞台の前後に数多くの桜が描かれている。
円を描いた松の枝がおもしろい。
いまは、樹木が茂っているために観音堂から不忍池はみえないが、当時は池の水面と桜の花が同時に楽しめる絶景スポット。

 清水観音堂 清水観音堂は、上野の戦争、関東大震災、そして東京大空襲にも焼けず、数年前まで江戸時代の佇まいをそのまま残していました。近年、大修理が行われ装いを新たにしたが、基本的な部材は昔のものをそのまま使っていたそうです。 

 寛永寺・家光と天海

 寛永寺は、京都の東北(鬼門)を護る王城鎮護の比叡山延暦寺になぞられて、江戸城の東北を護る寺として創建されました。寛永寺の名は、寛永2年(1625)の創建から来ています。開山は幕政に深く関与した天台宗の僧侶天海です。天海は家康の神格化に大きな役割を果たしました。三代将軍家光は祖父家康を神として崇めましたが、同時に天海に傾倒していました。家光は、天海宛ての手紙に「あなたを権現様(家康)と同じように思っています」と記しています。そして、家光は遺言で自分の墓を天海の墓の隣に建てるように命じているのです。

 天海僧正像 家光が狩野探幽に描かせた天海画像(寛永寺所蔵)



天海が死んだのは寛永20年(1643)、108歳であったという説が有力です。恐るべき生命力!
 

京成線上野駅周辺の風景

 京成上野駅 このあたりが、寛永寺総門の黒門が建っていた場所にあたります。 
   似顔絵かきのオジサンたち。

上野といえば西郷さん。明治の彫刻家・高村光雲の作。

 西郷隆盛の銅像

高さ3・7メートル。重さはなんと80トンといわれる。


除幕式で、この像をはじめてみた西郷夫人の糸子が、
うちの人はこんな人ではなかった
とつぶやいたというが、西郷さんの写真が残っていないため、真相はわからない。

 

では、なぜ上野公園の「玄関」の場所に、西郷さんの銅像がたてられたのか?

 西郷隆盛は、東征軍の参謀として戊辰戦争を主導した人物。戊辰戦争の一環だった上野戦争の最大の激戦地が、かつての寛永寺境内、現在の上野公園です。佐幕派の彰義隊が寛永寺を本拠地としてたてこもり、東征軍がこれを壊滅させ、寛永寺の全山は焦土と化しました。西郷を戊辰戦争の勝者のシンボルとして、徳川幕府とゆかりの深い上野の地におくことによって、上野のイメージを変え、時代が移り変わったことを人々に印象づけようとしたのではないでしょうか。

 上野戦争  清水観音堂内に掲げられる上野戦争の図

ちなみに堂内は撮影禁止なので、外から撮影
(笑)

 

彰義隊の墓

 彰義隊の墓  西郷さんの銅像の後ろにあります。西郷さんに比べると目立ちません。

「戦死之墓」とだけ記され、彰義隊の文字はないのです。旧幕臣で明治政府につかえていた山岡鉄舟の筆。明治14年(1881)に完成しました。その頃になっても明治政府に遠慮してたんですね。

ちなみにこれは、三代目のお墓

   初代の墓です。3代目の墓の前にのっています。

かなり小さいですね。

ちなみに2代目の墓は作られたけどお金を支払えずに回収されたそうです。

 

上野東照宮
権現造りの本殿と拝殿、玉垣、唐門、五重塔、上野の大仏がみえる

もともとこの地に屋敷をもらっていた藤堂高虎が徳川家康を祀るために東照社をつくったことがおこりで、三代将軍家光の時に全面的につくりなおして現在の東照宮となりました。

 上野東照宮 日本に一つしかないという金箔の唐門


門柱には左甚五郎作の「昇竜」「降竜」
 

上野戦争では彰義隊の本営だったのにも関わらず、ここが荒らされたり、火をかけられたりした形跡はまったくありません。徳川家の霊廟についても同様です。


お化け灯籠

参道につく手前、右側の寛永8年(1631)佐久間勝之が寄進した巨大な石灯籠があります。高さ6m余。あまりにでかいので通称「お化け灯籠」と呼ばれています。

 上野東照宮お化け灯籠  勝之は、信長の武将佐久間盛次の次男、1万8千石を領する大名。寄進した寛永8年は東照宮の創建間もなく他の大名に先駆けてこの灯籠を寄進したことになります。徳川家への忠誠心の表れでしょうか?

 勝之はこの他にも、京都南禅寺・名古屋熱田神宮にも巨大な石灯籠を寄進しているので、「目立ちたがり屋さん」だったのかもしれませんね。 
 
青銅灯籠
 参道の両側には、諸大名の寄進した280基あまりの石灯籠と50基の青銅灯籠(国重文)があります。青銅灯籠は、神事・法事のときの浄火(清めた火)を目的としたもので、照明用具ではありません。
 上野東照宮青銅灯籠 社殿落成の日にあたる慶安4年4月17日奉納のものが45基と最も多い 
 上野東照宮青銅灯籠 古代中国では虎は白虎と称して西の守護神でした。家康も寅年ですからねぇ。


松平直政は家康の孫で、出雲松江藩の初代藩主。
五重塔
   五重塔は、当時の幕政を担っていた土井利勝が寛永8年(1631)、寄進したもので、現在は国の重要文化財。

8年後の3月20日、遊山の客の火の不始末から焼失してしまいます。そして、7ヶ月後の寛永16年(1639)10月には、再建寄進されました。土井利勝の財力おそるべし

明治6年(1873)に上野が公園になることが決まると、西洋式公園の景観を損ねるものとして、五重塔は、撤去が命じられました。寛永寺が、ずるずると先延ばしにしていたおかげで、この話しは立ち消えになりました。よかった、よかった。

寛永寺旧本坊表門(黒塗りの山門)

 寛永寺表門  

寛永寺輪王殿の前にあり、重要文化財。かつては東京国立博物館の正門の位置にあり、博物館の表門として使われていたことがある。

  旧本坊はこの表門以外はすべて上野戦争で焼失。この門のみ奇跡的に焼け残ったもので、弾痕が数多くみられます。 

 

大噴水の向こうに見える東京国立博物館

 上野の噴水  大噴水がかつての寛永寺根本中堂跡、博物館のあるところが本坊跡です。かつての寛永寺の伽藍の中心でした。上野戦争は、70の堂塔伽藍は、清水観音堂・五重塔を残してすべて灰に


現在の根本中堂
(本堂)

 寛永寺根本中堂 川越の喜多院の本地堂を、明治12年に寛永寺子院大慈院の跡地に移転したものです。 


明治になって寛永寺は寺領を失い、一角を確保するにとどまりました。上野の山は日本最初の公園として出発します。

寛永寺霊園
寛永寺の裏手の〇円には6人の将軍の霊廟があります。
宝永6年(1709)造営の綱吉(常憲院)霊廟の勅額門

  第2次大戦の戦災を免れた貴重な遺構。

国の重要文化財。

四脚門、切妻造。 

時の鐘

上野精養軒入口の左にあります。

 上野の時の鐘

芭蕉の句「花の雲 鐘は上野か 浅草か」は寛永寺の鐘を詠んだものです。上野の寛永寺の鐘も浅草寺の境内の弁天山もここから遠くはなかったから、芭蕉は、「はて、この鐘の響きは、どちらかな?」と詠んだのでしょう。1日に6回ならされ、江戸の庶民に時を知らせました。

 

時を知らせる方法

最初3つついて注意させ、そのあと時刻の数だけつきました。

因州池田屋敷表門 (東京国立博物館の敷地の脇)

   

因州池田藩は因幡の国(鳥取県)の32万石の国持ち大名で高い格式を持っていました。当時、大名の城や屋敷はその格式によって姿形が決められていたのですが、この表門は最高の格式の門構えです。当初は江戸城内大名小路(千代田区丸の内)に上屋敷があって、その表門として建てられました。

最高の格式を持つ大名屋敷表門で、左右に向唐破風屋根の番所を備えます。
国の重要文化財です。

  正面の門扉

こうしてみると、威厳がありますねぇ。

 

参考文献

浦井正明『「上野」時空遊行』(プレジデント社、2002年)

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