佃島 〜古き「江戸」と近未来都市のコラボ 〜

佃島と聞いて思い浮かべるのは「佃煮」「住吉神社の佃祭」「月島のもんじゃ焼」でしょうか。

有楽町線月島駅を降りて、佃大通りを隅田川方面に向かうと、赤い欄干の佃小橋に出合います。佃小橋のかかる掘割は、釣り船や屋形船などの船溜まりとなっていて江戸情緒を感じさせます。

高層マンション群が川沿いに建てられ、古い町並みや釣り船と超高層マンション群が隣り合わせにあり、古き「江戸」と近未来都市のコラボという独特の景観となっています。

 佃島は、徳川家康に招かれた摂津西成郡佃村の漁師30人が、隅田川の河口にできた自然の干潟を埋め立てて居住地にしたのがはじまりといわれています。漁師らは徳川将軍家への白魚献上を義務づけられましたが、余った魚介類は日本橋小田原町で売ることを認められました。

 家康が幕府を開いた頃の江戸はまだまだ小さな町で、開発途上でした。あらゆることを、先進地帯だった上方に学ばねばなりませんでした。漁法もそうでした。四手網を使った白魚漁など、江戸の漁師の知らない漁法を彼らは存分に使って漁を行っていたのでした。彼らはこうした先進的な漁法を関東にもたらして、人口が膨張する江戸の食料需要を支えるという期待にこたえたのでした。


(北斎 冨嶽三十六景 『武陽佃島』。現在、佃島は周囲を埋め立てられてしまって島とは呼べない。この図では隅田川が江戸湾にそそぐあたりにぽっかりと浮かぶ島であることわかる。右側の家並みが密集しているところが漁師町の佃島で、左側の木立に覆われたところが人足寄場のあった石川島)


(広重 名所江戸百景 『永代橋佃しま』。白魚漁は11月から3月まで行われ、冬の夜に白魚をとるための漁火を焚いている。タイトルには佃島とあるが、沖に見えるのは、石川島であろう。 星空が美しい。)

漁師らは本願寺の門徒であり、築地を造成して西本願寺を再建したのも彼らの働きです。佃小橋を渡り右に曲がると、佃島の鎮守住吉神社です。「名月や ここ住吉の つくだじま」は芭蕉の弟子、宝井其角が住吉神社を詠んだ句です。正保元(1644)年、佃島の漁師が摂津国住吉神社の分霊を勧請して創建されました。海運業者や問屋業者から篤く崇敬されました。


 境内には歌川豊国(6代目)によって建立された伝東洲斎写楽終焉の地の碑があります。写楽は佃島の住人下駄屋甚兵衛という説があるのです。

住吉神社の例大祭(4年に1度)では400キロに近い御神輿が海中で激しくもみ合うのが特徴だったのですが、昭和371962)年を最後に行われていません。幟柱は全長18mもあり江戸城からも鮮明にみえたといいます。歌川広重がその光景を錦絵に残しています。

境内にある水盤舎は明治二(1869)年に再建され、その欄間正面には石川島の灯台と佃の渡し、側面には帆をはった廻船や網を打つ小舟、背面には磯の景色、内側には潮干狩りなど佃島の風景が彫られています。

   
   

水盤舎には「天保12年白子組」と刻まれています。「白子組」とは、白子組木綿問屋仲間のことで日本橋の越後屋・白木屋・大丸などが伊勢白子の廻船を使って商品の輸送を行ったのです。上方と江戸の物資輸送にはこの白子〜江戸の廻船が速くて安全で広く利用されていました。白子組に属している旦那衆は、船の安全を祈願するため、佃島の住吉神社に頻繁にお参りしたのでしょう。

 島の保存食になったのが小魚を煮詰めた佃煮でした。佃島の漁師たちが食生活の不時にそなえて、コハゼなどの小魚を醤油・砂糖・みりんで煮詰めていたものです。佃島を歩いていると甘い香りがただよいます。今でも老舗が数件存在するのです。

佃島の北側は石川島です。かつては独立した島でしたが、江戸の中期から埋め立てが進み、現在では狭い掘割を隔てて佃島と連結しています。老中松平定信が寛政改革の一環として、石川島に無宿人や軽犯罪者を収容し手に職をつけさせる人足寄場をおきました。鍛冶・紙すき・彫もの・屋根ふきなど多種多様な技術習得小屋がありました。人足寄場奉行清水氏が建設した石川島灯台が現在復元されています。

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