高輪
高輪といいますと、何を連想しますか?プリンスホテル・高松宮邸・泉岳寺などでしょうか。
赤穂事件があるまでは、泉岳寺は庶民にはなじみの薄い寺でした。
「それまでは ただの寺なり 泉岳寺」 という川柳があります。 浅野家の菩提寺でしたが、庶民にはなじみの薄い寺でした。逆にいえば、赤穂事件で、「ただの寺」ではなくなったということですね。 |
高輪は、東海道の大木戸がある場所で、この大木戸までが江戸で、その先(例えば品川)が
東海道の道中というわけです。東海道からみると高輪が江戸(城下町)の入口となります。
(「武蔵国輿地全図・天保七年九月 江戸 須原屋茂兵衛等刊)
高輪の大木戸
宝永7年(1710)、(築造年には寛政四年の説もあり)、江戸の南の入り口として、道幅約六
間(約十メートル)の東海道の両側に石垣を築き、夜は閉めて通行止めにして、治安の維持
と交通規制の機能を持ちました。以来、西へ旅をする人との別れ、見送り、あるいは出迎え
たりする場所として、江戸の「玄関口」となりました。
『江戸名所図絵』を見てみましょう。
石垣がみえますね! 向こうの石垣の前では、数人の人が向かい合っています。お別れの挨拶をかわしているようです。 その前を大きな荷物をかついでいる人足が通っていく。侍が付き添っているので公用の荷物でしょうか。 天保二年(1831)には、高札場もここに、うつされ、この高札場は江戸の六大高札場の一つとなりました。 |
宿場町ではありませんが、お茶屋もありました。 |
錦絵でも見てみましょう。
・名称
「東都 品川宿 高輪大木戸」
・絵師
昇亭北寿
・版元
西村屋与八
江戸時代後期には、木戸の設備は廃止されている。 |
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・名称
「東海道名所之内 高輪大木戸」
・絵師
広重(歌川広重二代)
・年代
文久3年(1863)4月
・版元
遠州屋彦兵衛
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現地取材の写真です。
明治初年に西側の石垣は取り払われ、現在は国道15号線(第一京浜国道)沿いに東側(海側)の石垣(幅5,4メートル、長さ7,3メートル、高さ3,6メートル)のみが残されています。 |
高輪は、江戸湾の眺望が良いところから、「二十六夜待」の月見の名所でもありました。
現代では、月見といえば十五夜のことですが、江戸時代には二十六夜もありました。陰暦の
1月と7月の26日に月の出を待って拝むことを「二十六夜待」と言い、月光の中に阿弥陀・
観音・勢至の三尊の姿が現れると信じられていました。江戸では月の出を拝むことのできる
海岸や高台に人々が集まり、特に、高輪や品川の海岸は多くの人でにぎわいました。東京湾
の埋立てがまだされていない頃には、御殿山の名で知られた高輪・品川の台地からは海が間
近に眺められましたのですね。
東都名所高輪二六夜待遊興之図 |
歌川広重の絵をみると、浜辺に「寿司」「天ぷら」「しるこ」「だんご」等と書かれた屋台
がでて、飲み食いしながら夜を明かしたのです。三味線や鼓を持ち出し、浮かれた様子はお祭
りのようです。しっとりお月見とはほど遠い感じです。空には花火があがり沖には船遊びの船
がでています。船の上で月の出を待つ人も多かったようです(「江戸自慢 高輪二六夜」)。
月の出は明け方ですから、一晩中遊び明かしたのでしょう。
江戸自慢高輪二六夜 |
牛町
大木戸のあたりは俗に、「牛町」といわれました。幕府が開かれた頃、江戸城拡張工事の
ため、荷物運搬用の牛が多数必要でした。
工事が完成してからも、牛持人足の江戸定住をはかって、この地を与えたといいます。
荷物の運搬や山王祭・神田祭にも使われました。
「江戸名所図会」高輪 牛町 |
絵で見ると牛飼い場はずいぶんと広い。入口の門構えも立派です。帳場では腰かけた男に
主人らしき人物が算盤を構えている。奥には蔵もあり、牛を洗う施設が整っている。
近くにある願生寺には、牛の供養塔が残っています。牛が千頭くらいいたという記録も残って
いるようです。
願生寺 |