江戸最大の盛り場!両国
大相撲のメッカ「両国国技館」、江戸と東京の都市史展示を中心とした江戸東京博物館。両国は江戸のイメージに近いところにありようです。かつて両国は江戸最大の盛り場でした。そんな両国界隈にタイムスリップしてみましょう!
・両国橋
両国橋が架けられたきっかけは、江戸最大の大火、明暦の大火(1657年)です。それ以前は、江戸中心部から神田川を越えて浅草の方向へは浅草御門を経て浅草橋が架かっていましたが、隅田川を越えて本所と連絡する橋はありませんでした。明暦の大火では、浅草橋が通行止めになったため、行き場を失った避難民が、浅草御門の前で大量に焼死、あるいは川で溺死するという惨劇となり、その数は10万人以上に達したといわれています。このような惨事が再び起こらないようにと幕府が架けた橋が両国橋です。当時は、大川(隅田川)が、武蔵国と下総国の国境であったから、両国橋と命名されたといいます。しかし、両国橋が架けられた時点で、すでに隅田川の東岸は武蔵国に編入されていた可能性が高いのです。ですから、この間まで「両国の国境でした」という意味で、橋の名がつけられたのでしょう。万治3(1660)年、隅田川を越えてまだ未開発の本所へと橋が架けられたのでした。次図は1860年頃の江戸です。両国橋の市を確認してみて下さい。
江戸末期の両国
長谷川雪旦が挿絵を描いた『江戸名所図会』で両国をみてみましょう。
まずは、両国橋です。夏には、花火が打ち上げられ、隅田川には見物の屋形船や屋根船が浮かび、橋の上にも大勢の見物人でごった返しています。手前が西両国の広小路、橋の向こう側には東広小路です。西広小路の一角では、毎朝青物市場が開かれ、東広小路には草花市場に人々が集まりました。
両国橋の広小路の部分を拡大してみましょう。西広小路です。広場の中央には、芝居や軽業の小屋、土弓場(小さな矢で的を射て遊ぶ遊技場。矢とり女は売春をしたりもした)などの娯楽施設が描かれています。
上の図の左側の図です。髪結床や茶屋が立ち並び、広場の両側には
「舟宿多し」「料理や多し」と書いてあります。
東広小路の部分を拡大してみましょう。「見世物」「軽業」の小屋が
川に沿って水茶屋が横に並んでいます。
料理屋は、たんに料理を楽しむだけでなく、座敷や庭の造作まで売り物
にし、凝った浴場で入浴させ余った肴は笹折りにして収めて帰り客にそ
なえました。また。宴席にはつきものの町芸者も高級料理茶屋の発展と
ともに台頭しました。
東両国駒止橋の青柳。芸者の後に青柳評判の船料理を運び込む仲居さん。
広重『江戸高名会亭尽 両国』(神奈川県立博物館)
江戸中期の両国
『江戸名所図会』は江戸時代末期に書かれた本ですが、江戸中期の
宝暦3(1753)年に出版された『絵本江戸土産』によって、さかの
ぼって、江戸中期の両国の様子を見てみましょう。この『絵本江戸
土産』は江戸土産として当時かなり評判を呼んだもので、絵師は西
村重長(浮世絵師)で、墨摺の絵本です。
両国橋にある水茶屋「ふしや」「えびすや」には、屋根がありません。
店毎に行燈を置いて「御涼所」と記しています。橋のすぐ近くにまで
「あめ」売りの店が出ています。橋のたもとには、鬢付け油で有名だった
「いからし(五十嵐)」の看板が見えます。向かいには、浄瑠璃でしょう。
「わき子太夫」「竹本政太夫」「三味線文物」「上るり」の看板が見えます。
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橋を渡って「あわゆき とうふ ひのや」道を隔てて「あわゆき 花まんぢう(饅頭)」の看板です。「あわゆき」は、淡雪豆腐のことで、苦汁を加えずに固まらせた豆腐です。舟宿「ちょきぶね」とありますが「猪牙舟」とは、屋根をもたない茶舟の一種で、長さ八メートル、幅1,4メートルほどの小舟。この柳橋に船宿があり、新吉原への突端である山谷堀の間を結んでいました。
舟の上から手持ちの花火をしています。
ちなみに、
西両国の橋番所の脇にある林屋正蔵の寄席引札(1834年刊)をみてみましょう。
林屋正蔵は、怪談噺の元祖と言われ、「怪談の正蔵」の異名を取りました。鶴屋南北と交遊し、『東海道四谷怪談』に影響を受けています。引札とは、広告のことです。晴でも雨でも毎日朝四ッ時より夕方まで連中かわるがわる登場して今昔の物語をしていました。
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・回向院について
両国橋の東詰に建てられた国豊山無縁寺回向院を御紹介しましょう。
回向院は、明暦の大火の後、10万人を超える無縁の亡骸を埋葬するために築かれましたが、その後も大きな災害、天明の浅間山の大噴火や安政の大地震、海難事故の溺死者など大量の犠牲者が出るたびに、ここに埋葬されました。
回向院は鼠小僧次郎吉の墓があることでも有名です。武家屋敷での盗みが多く、芝居や講談では奪ったお金を貧民に配ったとありますが、そういう事実はないようです。市中引き回しの上、小塚原で磔獄門に処せられまいsた。鼠小僧の墓石を削ると願い事が叶うという俗信から墓を削るものが多く、そのため、現在は削ってもよいように専用の墓石が用意されています。犬やネコ、鳥など動物の墓が多いことも特徴です。元々、無縁仏を供養する寺であり、人も動物目別なく、幅広く弔い供養する精神が宿っているのかもしれません。
鼠小僧次郎吉の墓(手前が削っても良い白い石) |
相撲の町の象徴「力塚」 歴代相撲年寄の慰霊のために建立された3mをこえる石碑 |
回向院の境内には、「延宝三年」銘のある明暦大火横死者等供養塔をはじめ多くの供養塔が立つ |
回向院の境内では、天明元(1781)年、はじめて勧進相撲が行われました。天保4(1833)年からは、境内の掛け小屋で毎年春秋の2回開催され、江戸相撲の常設場所となりました。境内に土俵を築き桟敷を設け、櫓を立てて晴天10日間開催しました。定期的に開催される場となり、相撲取り集団が組織化されたことで安定した興業が可能となり、都市の娯楽としての相撲が定着したのです。
櫓太鼓が聞こえてきそうな広重の『名所江戸百景』
年2回の回向院での勧進相撲には両国橋ぎわに太鼓の櫓が仮設され、本場所の開始を知らせる櫓太鼓を打ち鳴らしました。一番太鼓は場所の開始を、二番太鼓は関取の入場を知らせました。早朝打つ太鼓は、おおよそ7つ(五時頃)に打ち始めることが多かったのです。早いですね。明け方の隅田川を渡るドンドドンコドドンコドンという響きは江戸の風物詩の一つで、川風に乗って遠くは品川まで聞こえることもあったそうです。
「うす闇(ぐら)き角力(すもう)太鼓や角田川(すみだがわ)
広重『東都両国回向院境内相撲の図』(江戸東京歴史博物館)
『東都名所両国回向院境内全図』(江戸東京歴史博物館)
『両国大相撲繁栄之図』(江戸東京歴史博物館)
回向院は、各地の出開帳が行われる場として知られていました。
開帳とは、社寺が日ごろ厨子の中に安置秘蔵していた神仏や霊宝を、一定期間公開し広く人々に拝観させることで、自分の社寺で行う居開帳と、繁華地に出向いて行う出開帳があります。開帳の目的は、元々は人々との結縁ですが、社寺の経営費や修繕費を得るためのものとなりました。看板や幟を立てて、人形浄瑠璃や歌舞伎の見世物小屋・茶店などが軒を連ね、信仰的な雰囲気より、興行的な色彩を強く持つことになりました。出開帳が、さかんに行われた回向院は、庶民にとっては、まさにワンダーランドですね。
回向院開帳参(『江戸名所図会』より)
「諸方より便りよき地なる故 殊に参詣多し」とあり、両国の立地のよさをあげています。相撲も無縁仏の供養も動物に至るまで、あらゆるものを受け入れる寺は、あらゆる人の集まる両国だから成り立ったのでしょう。
回向院(『江戸名所図会』より)境内に茶屋が多数見られます。
参考文献
『図説 浮世絵に見る江戸の一日』(河出書房新社、1996年)
佐藤孔亮『江戸名物を歩く』(春秋社、2008年)
吉田伸之『21世紀の「江戸」』( 山川出版社, 2004 年)
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