子どもの誕生〜子育て

産屋の様子

出血をともなう出産は、血の穢れ観が強かった当時にあっては喜びの出来事である一方、忌むべきものでもありました。妊婦は出産間近になると産屋や納屋の一角などに移り、家人とは別に煮炊きをして暮らしました。血の穢れが火を通して移ると考えられていたためである。出産を終えた母親は長い間は5日間も産屋にとどまり穢れをはぶきました。

産屋は、1〜2間四方の広さで出産時に握りしめる力綱が下げられ、座産のときによりかかる「わらだわら」、胎盤を入れる胞衣土瓶がおかれました。

   

1人の女性が産む子供の数はどれくらいだったのでしょうか?

江戸周辺の村の女性の場合、平均4,5人くらいでした。出産の期間も135年間 で高齢出産も比較的多かったみたいですよ。

 

 

誕生・生育を支える神々

嫁が姑に妊娠を告げた日から、産神が産屋に入りこんできて、忌明けまで母子を見守ります。無事に育って30日前後たったころ、村の守護神である氏神(産土神)に挨拶に

お参り(宮参り)をすませると、氏子の仲間入りをして氏神のもとに成長していくことになります。

 

 

名づけ

 名づけは生後七日目の七夜にするのが一般的でした。生まれて七日間健在ならば、無事「人」へと育っていく見通しがある程度たったのと、父親は七日目で産の穢れの忌み明けとなったからでしょう。(産婦の忌が明けるのは30日目前後の初宮参りの時でした)

 

 

食い初め

生後100日目ころに行われる行事です。一粒の飯を乳児の口につけ食べる所作をし、丈夫に育つことを祈願しました。(図)

 (『絵本女中風俗艶鏡』国会図書館) 

捨て子

都市下層民はその日暮らしをしており、特定の家業を継承する家を形成していなかったから、子どもをして家を継がせるという意識もなかったのです。婚姻関係にない性交渉による私生児も多かったはずで、捨て子が発生しやすかったのです。非人が我が子を非人身分から抜けさせるために、町人身分の者に拾われて養育されることを期待して捨てることもありました。5代将軍綱吉は、都市の捨て子が社会問題化したため、生類憐みの令の一環として対策にのりだしました。捨て子の発生源である店借・地借層を対象に、妊婦と三才以下の幼児の登録制を実施して捨て子の防止をはかったのです。

 

捨て子(『童子養育金父母』より)

 

江戸時代でも、子ども手当!?〜公権力の産育管理〜

18世紀半ば以降、関東・東北の太平洋側の農村では、人口が激減し田畑が荒廃しました。没落した農民が都市へ流出したこと、凶作・飢饉で餓死者・病死者が大量にでたことの結果でした。幕府や諸藩は年貢が激減しますから、農村の人口が増加するための取り組みとして、出かせぎの規制・堕胎や間引きの禁止・妊娠・出産の届け出制を実施しました。多くの子どもを産んだ夫婦に養育料を支給する「赤子養育仕法」を実施しました。村役人も堕胎・間引きを撲滅すべく教諭活動を展開します。民衆の間では、間引きも赤子の魂を神の世界へお返しする行為と考えられ、罪悪感に乏しかったのですが、領主や村役人は、間引きをするものは地獄に堕ちると教諭しました。その中にあって、それまでしなかった水子の魂の供養を行うようになっていきます。

 

間引きの戒め(『子孫繁栄手引草』)
おどろおどろしい図絵と話で、間引きは罪深い行為だと戒めている。

 

育児

「七つ前は神のうち」

 江戸時代、数え七つ前の幼児はいまだ「神」の世界に属していると考えられ、人間世界の存在とは見なされていませんでした。ですから、子育てとは、神の世界から生まれ落ちた子を、人間世界での一人前の「人」に育て上げる行為となります。

 

しつけ (『莟花江戸子数語録』くもん子ども研究所)こわ〜

 

子育ての責任は男親にある?!

 江戸時代は職業別に身分制度が編成され、それぞれの職業は家職(家業)として相伝されるところとなります。家の存続を願うとき、子どもを家職の継承者としていかにして一人前に育て上げるかが、それぞれの家にとって大きな課題となります。子育て書が多く出版されましたが、男性が男性に向けて書かれているところに特徴があります。育児と教育の責任は父親にあると考えられていたためです。その根底には、女は理にくらいから、男性が理性をもって育児と教育を主導しなければならないという女性を劣等視する考えが横たわっていました。

江戸時代には「良妻」という考えはあっても、「賢母」という考えはなかったのです。「賢母」の考えが自覚されるのは明治になってからです。父親の指導で育児の実労働に主として携わったのは、母親でしょうが、小家族の下級武家も庶民も父親も実際の育児を担っていました。父親も出産に立ち会い手伝っていたことがいくつかの史料から確認されています。家族ぐるみで育児にあたり親類や共同体もそれを支えていたようです。

 

出産を手伝う父親(『桃太郎一代記』より)

寺子屋

読み書き計算が出来ないと一人前の人間として家業や社会生活を営めないような社会状況となり、18世紀になると寺子屋が全国的に普及しはじめています。寺子屋には7歳から15歳までの子どもが学び、複数の村から通うことでともに学んだ縁で結ばれた筆子中という新たな集団も生まれました。筆子塚のように、寺子屋で学んだ筆子たちが師匠の学恩に報いるために追悼碑も建てられます。

   
手習い塾(渡辺崋山『一掃百態』) より  手習塾でのいたずら(『寺子屋遊び』くもん子ども研究所)
大人を驚かすいたずらは、子供にとって刺激的な遊びでした

手習いの師匠に感謝の意を表したのでしょう。

子ども組

日常の遊びを中心とした自生的な集団である遊び仲間とは別に、村の教育システムの一環に位置づけられていた制度的な組織として子ども組がありました。村の特定の年中行事を中心に組織されたもので「子ども仲間」「道祖神仲間」「天神講」など地域によって名前は多様です。道祖神は、村境にあって悪霊の浸入を防ぎ、共同体を守護する役割を担っていましたが、子どもも神の世界と人間の世界の境界に位置する存在なので道祖神の祭りを主宰しまいした。天神は寺子屋の普及にともない庶民の間にも学問の神・手習いの神として崇敬を集め、子ども組が天神社の管理と祭りを担いました。

7歳くらいに加入し、成人(15五歳くらい)で若者組に移ります。村の公的な役割を担わされ、それを通じて一人前の村人に育て上げられていきました。子どもが主宰する行事は、小正月・盆・節供などです。小正月には、斎の神祭りの費用を調達するために、党を組んで家々を訪問してまわり金銭の施しを求めたりしました。子ども組は、男子のみで構成されることが普通です。

 

初節句

女子は3月3日、男子は5月5日に行う。女子は雛人形がおくられました。

 

(『子宝五節遊 弥生』東京国立博物館)

 

参考文献

 大藤修『近世村人のライフスタイル』(山川出版社、2003年)

 

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