神田祭・山王祭
神田祭・山王祭は、徳川家と江戸町人による「官祭」です その特徴は、・ 将軍家が祭礼費用を援助します。(御用祭) (祭礼諸道具は幕府からの援助で新調) ・ 山王祭と神田祭は両社で隔年開催です(天和元年・1681〜) ・ 神幸行列がはじめて江戸城内に入り(元禄元年・1688〜) 将軍の「上覧」をえることがありました。 ・ 諸大名からは神馬・提灯・長柄槍、各町からは山車がでて 祭礼の行列を賑わします。 神田明神(現在は神田神社) ・ 江戸時代の祭神は、大己貴命と平将門 ・ 元和2年(1616)現在の湯島台の地に移る ・ 江戸の総鎮守として江戸っ子に信仰されます 山王祭と神田祭の違い ・ 山王祭の山王権現(永田町)は将軍の産土神です 将軍上覧の回数は山王祭のほうが圧倒的に多い ・ 神田祭は将軍のためというより江戸っ子の祭りです 祭礼行列は次の5つからなります ・ 町人(産子)の山車行列 ・ 神社の神輿渡御行列 ・ 当番の町の附祭 ・ 大名の武具行列 ・ 町奉行(与力や同心)の警固 山車 ・ 毎回出す町は決まっています ・ 各町が原則として恒例の主題をもとに作成 「・・・の山車」といえば「・・・町」と いう具合に山車の主題が町のシンボルになっています 大伝馬町の山車、諫鼓鶏(かんこどり)(『神田明神祭礼絵巻』)
神田・山王祭りでは毎年、この諫鼓鳥が、山車巡業の先頭を行く。諫鼓鳥の羽根の色は神田の場合は白、山王では青黄赤白黒の五彩。諫鼓とは、中国の伝説上の聖天子が、その政治について諫言しようとする人民に打ち鳴らさせるために設けたとされる鼓のこと。諫鼓鳥とは、唐人装束のものが太鼓を打ち、頂部が鶏の作り物の山車です。名誉でもあるが負担金は莫大で、「公役」としての勤めでした。
2番目の山車は、南伝馬町の猿。(『神田明神祭礼絵巻』)
三河町1丁目の「僧正坊牛若」(『神田明神祭礼絵巻』)
金沢町の「源頼義」は、前九年の役の場面でしょうか。義経の弓流しのポーズにもみえます。
牛が二輪車を曳き、お囃子が車上にのっています。車上後方には岩と松の作り物があるのが特徴です。江戸時代は軍記物語・能(謡曲)・歌舞伎・お伽草子・昔話などをとおしての山車の趣向が好まれました。
附祭 ・ 当番町になったときに出す出し物だから、他の町に負けないように張り切る ・ その時代や世相を反映した流行を反映した出し物となる ・ 本来、神輿渡御の「付録」という意味だけど、こちらに江戸っ子は興奮! ・ 奇想天外な仮装行列、はでな踊り、スターを雇っての音曲 神田祭で「鬼の切り首」が曳き回される!
須田町一丁目の附祭は、鬼の切り首(「大江凱陣の学び」)です。 「大江山凱陣」は,鬼退治で馴染み深い「酒呑童子」のお話です。酒呑童子は日本最強の鬼といってよく、大江山を拠点に、しばしば京都に出現し悪行を働きます。天皇の命を受け、源頼光・渡辺綱らの6人の武士が神仏の力を借りながら、鬼を退治します。退治された鬼の首が京の都大路を曳き回されたと伝えられます。首は悪を退治したことの象徴です。首を曳き回すことは、鬼が江戸の人々にひれ伏したことを意味します。江戸の町の悪は滅び、町が輝き、江戸に生まれてよかった!と参加する人達が実感したのでしょう。 大江山凱陣の図。神田の地元である三河町3丁目付近の桟敷席の様子 (『江戸名所図会』より) (『神田明神祭礼図巻』より) 異界・異人にみちあふれた附祭 異界へのかけはしとなるような仮装の行列がおこなわれています。 雉子町の「桃太郎鬼嶋渡」。犬・猿・雉とつづく。雉子町と雉をかけているのでしょう。 浦島太郎・朝鮮通信使の附祭。 同じ附祭で演じられ、異界イメージの連鎖となっています。鎖国下の江戸では、朝鮮通信使などの外交使節団の行列をあたかも祭り気分で見物することがありました。神田祭の附祭(各地の都市祭礼でも)仮装や作り物・歌舞音曲によって異国・異人・異界を造形し表現することが流行りました。 附祭の舞踊 附祭の屋台の踊りと底抜け屋台 狭い舞台の踊り台には2・3人しか踊れないが、練り物や地走り踊りでは大勢の仮装や踊りが可能となります。
麹町の人気の出し物の白象の作り物(「山王祭礼図屏風」より)
これまた人気の唐人行列と象のセットですね。 |