江戸城の外堀の石垣にふれてみよう!
といっても江戸城(今の皇居)の外堀の石垣をじっくり観察したり,ふれてみたりすることは難しいのですが、簡単にその願いが叶えられる場所があります。小石川後楽園の外壁には、諸大名が競って築いた寛永十三年(1636年)
の江戸城外堀普請(丸の内一丁目鍛冶橋付近)の石垣が使われています。当時、備中成羽藩主山崎家治(外様大名・3万石)の丁場の石垣で、石垣には備中藩山崎家の刻印が掘られています。山崎家治は「築城の名手」と言われ、元和六年(1620年)には、大坂城築城工事において、天主・本丸・二の丸の石垣構築に携わっていました。
なぜ刻印が?
江戸城に用いる石は江戸の近辺には石材を産するところがないので
石集めには苦労し。遠隔の地から運んでいます。西国の大名の中には、堅牢で色の白い摂津の御影石を船に乗せて江戸へ運び、大事な部分である石垣の角や人目に立つところに使用して、自分の分担した仕事を立派に見せたり、幕府への忠誠心をあらわす目的で遠路をいとわずに送ったのでしょう。江戸城の石材の多くは、相模真名鶴付近と伊豆から切り出しています。ここでは大名がそれぞれの石切りの丁場を設け、重臣クラスの武士が総監督、配下の武士が人夫を指図して石材を切り出しました。狭い地域に多数の大名の人夫が入り込んで、同じような石材を切り出すので紛争が起こりやすかったのです。そこで、各大名ごとに間違いのないように石に紋を切り込んで目印とする工夫をこらしました。
動員された人々
石垣に手をあてて築城の当時に思いをはせてみましょう。どれだけの人々が動員されたのでしょうか?石を切り出し、運び、加工する人々。賃金はどの様に支払われたのか?幕府に手伝普請を命じられた大名たちはどの様にして領内の人夫や職人を動員したのでしょうか?
人夫はほとんどが国許の農村から徴発されたされた農民です。秋田の佐竹氏の例では、元和六年の江戸城に二の丸の普請工事の知らせに対して、百五十石につき1人宛、都合1271人の人足を決定しています。(実際は佐竹氏はこの時には助役に命じられませんでいした)寛永六年の普請では給人(家臣)は百石につき1人の割で人足を徴発しました。この人足には脇差をもたせ、衣装も見苦しくないように注意をはらっています。他の諸大名と比べての競争意識が働いたのでしょう。人足に藩が払った手間賃は1人宛銀百匁でした。慶長十七年、山口の毛利家では、家臣は人足の差しだしだけでなく、百石につき銀百匁の供出を命じています。
江戸に出向いた人足は、各大名の組ごとに人足小屋に入れられ、集団生活をしました。ケンカが絶えなかったのでしょう、江戸に出てきて酒や女に狂っちゃう人もいたんだろうね。「喧嘩口論の禁止、賭博の禁止、若衆ぐるい、女ぐるいの輩の成敗、飲酒の制限、他藩の者との接触の禁止」などがほとんどの藩に共通した法令となって出されています。
築城の意味
大名の家臣の中には藩から借金をして、ようやく供出などの責任を果たした者もいました。このような苦しい思いをしてまでも負担を果たさねばならなかったのは、当時、城普請の助役は「軍役」の一種と見なされていたからです。大名は幕府から、家臣は大名から知行をあてがわれ、「御恩」を受けている代わりに、果たさねばならないのが「軍役」の奉仕でした。そのため、大名もその家臣も、それぞれの知行の石高を基準にして相応の課役を果たす義務があったのです。
築城は、将軍が諸大名に対して強大な権力を誇示する行為です。そして、諸大名は幕府の普請動員に応えるためには、自らの領内の諸身分を編成し、支配体制を固めていかなければなりませんでした。
『江戸図屏風』(歴史民俗博物館蔵) |
幕府は、大名の普請役を半役に軽減する措置をこうじ、大名の妻子を江戸に在住させる制度を徹底させました。このように、幕府と藩の「主従関係」は、大名への普請役を通じて確立していったのです。築城はまさに江戸時代初期の幕府と藩の「政治」そのものなのです。
このような、幕府が諸大名に命じて行わせた大規模な土木建築工事を「手伝普請」といいます。江戸城下町建設に始まり、江戸城、西国や上方に対しての守りとしての彦根城・篠山城・丹波亀山城、大御所家康の居城である駿府城、家康の息子義直の居城名古屋城、家康の息子忠輝の居城高田城などの築城が続きます。
大名も幕府に気を使って大変なのよ。本当に肉体が大変なのは、動員された民衆だけどね。
参考文献 村井益男「江戸城 将軍家の生活」(中公新書)1964年
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