最後の優しさ

 人間が死ぬ瞬間って、どんなだろう。

 生きている人間としての自覚があって、何か考えたり感じたりして生きている状態から「死」の状態にいたる瞬間とは、いったいどの様な感じなのだろうか。

肺癌の要観察になったり、尿管結石の痛みに悶え苦しみながらも、相変わらずこんな事に興味をそそられる。

 以前「生と死の境目」について、小生が実際に本人から聞いた証言を記してみる。



1、叔父の証言

父の一番下の弟である叔父が小学生のころ、石狩川で泳いでいて溺れた。

叔父は息継ぎの時に泥水を飲みこんでしまい、パニックに陥って溺れた。

息が出来なくて苦しくて手足をバタバタさせながら水中でもがいていたが、そのうちにふわふわと気分が良くなってきて苦しさからも解放され、すっかりいい気持になっていた。

そしてその次の瞬間、誰かによって叔父の手がつかまれ、そのまま身体も水中から抜き出され叔父は助かった。

叔父を救って下さったのは、当時石狩川で働いていたK野さんのお父さんである。

叔父は生前「K野さんのお父さんは俺の命の恩人だ」と何度も言っていた。



2、父の証言

小生が江別神社に奉職した昭和59年から、父が他界した平成15年までの凡そ20年の間に、父は多分100回以上心臓発作を起こし10回程度救急車で病院へ搬送された。

顔色が真っ白になって、手足を痙攣させながら救急車に乗せられている時など「もうダメかな」と思う。

そんな時の父の証言である。

胸が痛くて、息が出来なくて、もう苦しくてどう仕様もないでいたが、突然目の前のあたり一面にいろんな色の草花が現れ、きれいな川まで流れている。
川には石で出来た橋が架かっていて、その向こう側には父よりも18年前に他界した母が立っている。

母のところに行こうとして橋に向かうと「お父さん、こっちに来ちゃ駄目」と母が叫ぶ。

父は「何言ってんだ」と思って、さらに橋を渡ろうとすると母は必死の形相で「こっちへ来るな」と訴える。

父は母の訴えに従い橋の手前で立ち止まった、すると夢から覚めたように意識を回復した。

退院後の父が言う、「あの川はきっと三途の川だったんだ」「ヒデの言う事聞かないで、あの橋を渡っていたら俺は死んでいたんだろうな」
「きっとヒデが助けてくれたんだ」
(*ヒデとは母の名前)



3、知人の証言

最後は、ある上場企業の元北海道支店長の証言である。

小生と同じ狭心症を患っている知人、この日の発作はニトロールを舌下しても治まらず、看護婦をしている娘さんが救急車を呼んだ。

付き添いとして救急車に乗り込んだのは息子さんだ。

知人は強い胸の痛みに耐えながら救急車で搬送され、その間中息子さんは
知人の手を握って「お父さん、お父さん」と声をかけ続けた。

搬送途中、知人は意識を失い、失禁状態に陥った。

その時の様子を知人は「宮司さん、本当にきれいなお花畑が出てくるんですよ」

「もう痛くも苦しくもなくて、すっかり気持ち良くなっているんですよ」

そんな状況の中で、かすかに息子さんが自分を呼ぶ声が聞こえて、息子さんが握っている手を握り返したら意識が戻った。

そして、知人は助かった。

後に救急隊員から「一分間ほど心肺停止状態だった」と言われた。



 小生がこの三者の証言から注目するのは「最後は気持ち良くなる」という部分だ。

この世に生を受けた者、必ず死を迎える。

そして誰も好き好んで死んでいく訳ではない。

たとえ自ら首に縄を掛けようとする者であっても、生きているのが辛くて苦しくて耐えられないから、そうするのである。

そんな人生の末期(まつご)までも痛くて、苦しくて、辛いんじゃ可哀想すぎる。

最後の最後くらい気持ちよく逝きたいものである。

死の直前に気持ち良くなるというのは神様が人間に与え給うし「最後の優しさ」と感じる。

死の淵をさまよいながら生還するか、そのまま泉下へと旅立つかは誰も分からない。

命あって、死の直前から舞い戻って来たこの三者の証言は貴重なものだ。



 先日、右腰上の脇腹あたりが突然痛みだして、この時点では病名も分からず、激痛の中で「このまま死ぬんだろうか」と思った。

それくらい痛かった。

しかし、小生は「気持ち良くなって来たら死ぬ直前」と信じていたので「痛いと感じているうちはまだ死なない」と自らを励まし、とうとう救急車のお世話にもならずに頑張った。



 いつか必ず「気持ち良くなる時」がやってくる。

この日この時を「ああ、これで俺も終わりか、楽しい人生だった」とにっこり微笑んで「気持ちよさそうな顔」で、生から死への瞬間を見定めたいと願って止まない。

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