人にとって最も辛く寂しく、悲しい事とは「自分の存在が認められない」という事である。
「自分の存在に気づいてもらえない、無視される、憶えていてくれない、必要とされない」家庭にあっても、学校にあっても、会社にあっても、地域社会にあっても、これらが我々人間にとって最も耐えられない苦しみである。
家族とうまく意思疎通ができない、学校で無視される、会社で人間関係が作れない、地域社会で疎外感を味会う。
こういった「自分が理解されない」「自分を分かってもらえない」という悔しさは、人生にとって最大の悲劇と言って良い。
昨今の世の中では地域社会での人間関係の希薄化がどんどん進み、それに伴い「寂しい人間」が増え続けている。
この「寂しい人間」が、辛い悲しい苦しみに耐えられなくなって「自分も世の中も、もうどうなってもいいや」と考えてしまうと「池田小学校」や「秋葉原」のような事件を起こす。
そしてこれらの苦しみを乗り越え、解決してくれる唯一の方法が「人の為に尽くす精神」を身につける事だ。
例えば、困っている人の為に手を差し伸ばせば、その困っている人は手を差し伸ばしてくれた人に対し必ず感謝し、その人を認める。
そこから人間らしい信頼関係が生まれる。
寂しい人とは「人との信頼関係を持たない人」をいう。
自分が幸せになりたと望めば、他人の幸せのためにお手伝いをする精神を身につけるのが最も確実な道なのだ。
自分が誰かの為に尽くせば、誰かが自分の為に尽くしてくれる、そういうものだ、人間とは。
「自分の不幸を訴え」「おねだりしているだけ」では誰からも相手にされず、人間の内側に潜む卑しさだけが目につく。
人としてこの世に生を受けたならば「自分の足で大地を踏みしめ」「自分の働きで飯を喰い」「社会と関わることによって貢献する」、これが人の使命である。
一人ひとり誰もが「誰かの役に立つ」という相互扶助の精神を養い、またそういった地域社会を作ることが、ひいては社会全体に大きな利益をもたらせる。
その為に各地域で利他的精神を涵養出来る社会教育システムを構築する事が必要である。
社会教育とは、様々な人達が関わり地域社会がひとつの単位となって取り組むべき人間教育である。
故に学校作りとは子供と先生、父母だけの問題ではなく「地域社会の町づくりのひとつ」という認識を以って考えなければならない。
特に小学生に対する教育とは
@
躾を中心とした「家庭教育」〜主に親の役割
A
勉強と子供を中心とした狭い意味での人間関係を学ぶ「学校教育」〜親と学校関係者の役割
B
世間というものを知り、社会や広い意味での人間関係を学ぶ「地域教育」〜親と学校関係者と地域住民の役割からなっている。
これからの時代にあっては、子供達に親や学校関係者と共に地域社会に溢れる高齢者の積極的な参加を頂き、社会教育を実践するための複合施設が必要である。
核家族化が進み、さらに地域社会における人間関係の希薄化が叫ばれ「不信や不安」ばかりが募る昨今、我々がどの様な学校作りをするのかは次代の命運を握っていると言って過言ではない。
どうかご理解を頂きたいと思います。
江小・三小を統合し、その上で高齢者福祉施設との複合施設しては如何という案に対しては次の様に思います。
私案で訴えるところの複合施設の在り方で重要なのは
・高齢者が自分の足で手軽に通える距離であること(解決策〜循環バスの運行)
・今後も高齢者は増え続け、近い将来、人口比が現在の14%から20%超となり
小学生の倍以上の数になるため、複合施設が各地域に分散して存在しなければ機能しにくい。
教育委員会におかれましては内田私案(二校二施設建設)の実現性について、関係部署を含め、ご検討下さいます様お願い申し上げます。
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