小生は劣等感の強い性格である。
友人らの優れた部分に接すると劣等感を抱き、時にはいじけて自己嫌悪に陥り、時には奮い立って向学心に燃える。
特に自分自身が密かに憧れる事を、友人が事もなげにやってのけると、劣等感を味わいながら嫉妬し、そして尊敬もする。
高校生の頃、フォークソングが流行っていてギターをガチャガチャと掻き鳴らしていた。
学校祭ともなると、友人ら何人かでグループを作ってステージにあがり、演奏?らしきものを披露する。
当時の学校祭には、いくつものグループが出演していた。
確か高校二年か三年時の学校祭の時だ、他のグループの演奏を眺めていると、高校でのクラスは違うが小学校時代からの友人がステージに上っていた。
しかも何と、その友人は「ピアノ」の前に座っている。
背筋をピンと伸ばし、すました顔でピアノの前に座っている。
「何でアイツがピアノの前に座っているんだ」小生にとって忘れる事の出来ない衝撃的なシーンだった。
彼は小学校の時に札幌から転校してきて5・6年生の時、同じクラスだった。
父親が大会社の部長で、出会った時から何となく「育ちの良さそうな感じ」を受けてはいたが、まさかピアノを弾けるとは思わなかった。
男性がピアノを弾く、何とカッコいいのだろうか。
フォークギターを肩からぶら下げて、ガチャガチャやっているのとは品格も次元も全然違う。
実はこの友人、体育会に入会していて、後輩をぶん殴って暴力事件を起こし停学処分になった事がある。
しかも高校一年時から喫煙し、校内で見つかってこの時にも停学処分になっている。
そんな彼が学校祭のステージに立ち、しかもピアノを奏でようとしている。
後輩をぶん殴ったその罪深い手で、煙草のヤニで真っ黄色に染まったその指で純白の鍵盤と戯れようとしている。
「こんな事が許されていいのか」トラウマになるほどのショックを受けたが、同時に彼に対して「おヌシもやるなぁ、やっぱりただの不良じゃなかった」と劣等感と共に憧憬の念を抱き、畏友としての存在を認めた。
頭はいいくせに成績は学年でビリから二番で、しかも二度も停学処分になった彼だが、ステージの上でピアノを奏でている姿、それが彼本来の姿かも知れないと感じた。
この何とも言えないギャップは小生の脳裏に焼きつけられ、「俺もピアノを弾けるようになりたい」という願望は強く胸に刻まれた。
それから7〜8年も経っただろうか、当時東京で退屈なサラリーマン生活を送っていたある日、下北沢のヤマハショップでピアノとエレクトーンの生徒募集のポスターに出会った。
「ピアノを弾けるようになりたい」という気持ちをずうっと引きずっていた小生は、吸いこまれるように店に入った。
店内に入ると、小生と同年代と思われる店長が対応した。
「あのう、ピアノを習いたいのですが」と小生が言うと、この店長は「誰が?」と言い、「いや、私がです!」と返事をすると「キャハハハハハ、ダメダメ」と笑って相手にしてくれない。
失礼千万な男だが、なかなか憎めない奴、と思った。
小生が困惑していると「男性が二十歳も過ぎると、指が固くなって上達しない、ピアノは子供のころから始めないといけない」
「それでも、どうしてもやりたいのであればエレクトーンがいい」と彼は言った。
小生にしてみればピアノもエレクトーンも大した違いはないので、店長の薦めるエレクトーンを習う事に決めた。
その後、この店長とは二度ほど飲みに行った。
いろいろ話をしてみると、彼とは同い年だった。
25を過ぎてピアノを習いたいという小生に「似合わねーよ」とほざく彼の趣味はサーフィンだという。
身長180cm体重100kgはありそうな肥満体の彼が、波の上でサーフボードにへばりついている姿の方がずうっと「似合わねーよ」と思ったが、口にはしなかった。
当時のエレクトーンには既にコンピュータが内蔵されていて、普通左で弾く和音は指一本でも演奏可能であった。
例えば一本の指で「ド」の音を押すとギターのコードで言う「ドミソのCの和音」が自動的に流れるといった具合である。
ゆえに右手でメロディーさえ弾けるようになれば、何とか「エレクトーンを奏でている気分」を味わえるのである。
申込時、インストラクターに自分が希望するレベルを告げると、その希望に合ったレッスンが受けられる。
「ピアノが弾けるようになりたい」という大志を抱いている小生である。
勿論、左手は指3本で和音のリズムをとるレベルを希望し、左足でのベースはピアノとは関係なくどうでも良かったので、その内にという事にした。
かくして小生の鍵盤への挑戦がはじまった。
しかし週に一度、店でのレッスンだけではどうしても上達が遅く、当時四畳半一間暮らしだったが、部屋でも練習出来る様に中古のエレクトーンを購入した。
確か値段は10万円程で、1年のローンで支払った。
レッスンを受け始めて1年半も過ぎたころ、先生から「発表会に出てくれないか」と誘われた。
何でも「男性の出場者がいない」との事で「どうしても出て欲しい」と懇願するので仕方なくOKした。
会場はステージのある本格的な会館などではなく、昼間はレストラン夜間はパブを営む店舗なので気楽に出て欲しい、との事だった。
本番の土曜日、この日は勤めている会社の出勤日で、昼で仕事を終えて帰宅した。
確か午後4時か5時頃が集合時間で「まだ時間があるなぁ」などとアパートの部屋で過ごしていたら、ついついベッドでうたた寝してしまった。
目が覚めるともう集合時間を過ぎていて「面倒だから行くの止めようかな」と一瞬思ったが、小生は愛車のCB400Nにまたがり発表会場のレストランへ向かった。
真っ赤なヘルメットを小脇に抱えてレストランのドアを開けると、発表会は既に始まっていた。
裏切り者になり損ねた小生の姿を捉えた先生が、睨むような安心したような目つきを小生に注いだ。
静かに、音を立てずに指示された出演者の席に座ると、まわりは皆ガキばかりだった。
15〜6人いた出演者の小生以外の全員が小学生低学年以下の子供で、男児が一人混じっていた。
何が「男性の出場者がいなくて困っている」だ!!
緊張した面持ちの子供達に混じって、小生の立場はまるで「お笑い担当」じゃないか。
しかも子供達は皆、ドレスを着て髪に大きなリボンを付け、演奏者然としてドレスアップしている。
たった一人の男児は黒いスーツに蝶ネクタイ姿である。
小生は、というとジャンパーにジーンズにオートバイ用の長靴といういで立ちだ。
「あー騙されたー」という思いと「もう少し情報を仕入れておけば良かった」という思いが交錯したが、もう遅い「ええーい、どうせ恥さらしな人生だ!」
この場違いなスタイルで挑むしかないのだ。
小生の出番は最後から二番目だった。
演奏曲はペドロ&カプリシャスのヒット曲「別れの朝」。
出番を待つ間、心の臓はバッコンバッコンと波打ち、手はグッショリと汗ばむ。
まわりのガキに自分の緊張を悟られるのは、「唯一の大人」としてのプライドが許さない。
観客である子供達の親の何とも言えぬ視線を浴びながら「♪レ・ソ・ラ・シ・シ・シ♪」音譜を復唱してイメージトレーニングを行う。
演奏は何とか大きなミスを犯さずに終えた。
心なしか小生に対する拍手が、一番大きかったようにも感じた。
こうして、小生の生涯で「最初で最後の演奏会」は無事に?終わったのだ。
エレクトーンで何とか鍵盤を叩ける様になると、やはりピアノが弾けるようになりたくなった。
小生が劣等感を感じ、憧れたのは電子制御で便利になったエレクトーンを弾ける事ではなく、重厚で品格のあるピアノを奏でられる様になる事だ。
演奏らしき行為を、十本の指を駆使し、ピアノを以って執り行う事によってのみ小生の劣等感は収束される。
かくして北海道に戻り、神主として何とか一人立ちした昭和63年、中古のピアノを購入した。
あれから十数年、高校の学校祭でピアノを奏でる友人の、あのすまし顔から十数年経って、やっとやっと憧れのピアノの、あの指先に伝わる感触を自分自身で感じることが出来た。
今振り返ると小生の人生に於いて、ピアノが弾けるかどうかなど、どうでもいいことだった様に感じる。
「どうしてあんなにピアノに憧れ、拘ったのかなあ」と不思議にさえ思う。
この歳になって興味が失せてしまうと全く冷たいものだ、ここ数年はピアノの蓋すら開けてない。
私とピアノ、我が人生、究極の自己満足だったのかも知れない。
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