朽ちてもなお

 
 小生は、我が誇り高き江別小学校の校歌にも謳われる「♪名もかぐわしき萩ヶ岡なる♪」神社山で生まれ、境内を遊び場として育った。

境内の四季折々の木々の風景などとっくに見あきて、改めての感慨など抱くこともなかった。

しかし近年、この年になって漸く気が付いたことがある。



 江別神社の境内には、何十本もの落葉樹が生い茂っている。

春から夏にかけて青々とした葉が太陽の光を浴びて輝き、目映い(まばゆい)ばかりだ。

これらの葉っぱ達は光合成を繰り返し、空気中の二酸化炭素を酸素に作り替え、境内の空気を「凛」としたものにしてくれる。

葉っぱ達は本能の赴くままに、光合成を繰り返しているのだろうけれど、これはまさに「天の恵み」と言っていい。

そして、秋を迎えると見事な紅葉となって境内を紅く染め、我々の目を楽しませてくれると共に、やがてやって来る北国の厳しい冬を迎える決意を促してくれる。

役目を果たした葉っぱ達は落ち葉となって地に落ち、一旦その生涯を終える。

しかし、この葉っぱ達は「朽ちてもなお」世の為人の為に役立っている。



 毎年、この落ち葉を境内の隅に積み上げ、腐葉土を作っている。

陽の光を充分に浴びた栄養満点の落ち葉達は、1〜2年で腐葉土となって生まれ変わり、次には小生の畑で野菜たちを育んでくれる。

この腐葉土のお陰でうちの畑の土は痩せる事なく、いい加減でど素人菜園家の小生にも大地の恵みを分け与えてくれるのだ。

しかも、この腐葉土の中には巨大なミミズが、もう何千匹と生息している。
湿った腐葉土をちょっと掘り返せば、そこは「ミミズ達の楽園」である。

微生物などの栄養素が豊富な腐葉土の中ですくすく育った超肥満体のミミズちゃん達は、お魚ちゃんの大好物なのである。

はたして今年は、この「地の恵み」を浴びるほど頂いたミミズちゃんを餌に、巨大マガレ釣りに挑戦したのだ。



 境内の木の葉が新緑や紅葉となって人を癒してくれるだけではなく、新鮮な空気を作り出す淵源にもなっている。

更には「朽ちてもなお」土となって野菜やミミズを育み、「朽ちてもなお」新たなる生命の肥やしとなっている。

これは自然界の「命のリレー」である。

小生はこの年になって自然界のこの偉大な循環に気が付き、深い感動を覚えた。
これらの事は理屈として大体は理解していたが、近年自分で野菜作りを始めるようになってはじめて、実感として胸に刻まれた。

小生は、神社の境内という恵まれた自然環境の中で生活出来ることに、感謝しなければいけない。

そして、何だか良く分からないが、この自然界の循環の中にそっと自分の身を置き、「命のリレー」に加わることが「自然に生きる」という意味に感じている。



 出来れば、小生も「朽ちてもなお」と願う。

祖父や父や母から細胞と共に頂いた生き様や思い出が、彼らが朽ちてもなお小生の後ろ盾となって支えていてくれると同様に、小生も朽ちてもなお子孫や誰かの肥やしになれれば、自然界に生きる人としての使命を果たせるのではないか、と思っている。

自分が頂いた「人の恵み」を、また誰かにお返しするのである。

加齢と共に肉体が衰え、気力が萎え、やがて病に犯され、生きる気力も失って「もうそろそろ、いいか」と人生の終焉を迎えられるのは幸せなことだ。

そして、そこから「朽ちてもなお」は始まる。


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