■救急車とトラウマ
小生は「119番に電話して救急車を呼ぶ」という行為に対して、大きなためらいを抱いている。 小生が神主として江別神社に奉職した時、既に父は狭心症を患っており、時々救急車のお世話になる事があった。 狭心症の発作を起こすと胸が痛くなり、ニトロールと言われる舌下錠を服用する。 すると大体5分か10分で痛みが治まるのが通常である。 それでも胸の痛みが治まらない時に、救急車を呼ぶ事にしていた。 ある時、父が心臓発作を起こし「救急車を呼んでくれ」と言うので、119番に電話した。 この時、運がいいのか悪いのか分からないが、救急車が家に到着する前に父の発作は治まった。 頑固で我儘で正直な父は、駆けつけた救急隊員に「もう治まったから帰ってくれ」とぶっきらぼうに言う。 小生はタンカを担いで駆け付けてくれた救急隊員の方々に申し訳なくて、ただただ謝る。 彼らは「いや、いいんですよ」と言いながらも、腹の底ではきっと「大した事ないのに呼んだな」と思っているのでは、と小生は勝手に想像して萎縮してしまう。 消防署には親戚もいれば、同級生もいる。 普段から「最近は大した病気でもないのに、タクシー代わりに救急車を呼ぶ市民が多くて困る」と云う話を、小生はよく耳にしているのである。 6年前、父が意識を失って救急車で病院へ搬送する時、救急隊員の方から「家族の方、一人乗って下さい」と言われ、小生がその救急車に飛び乗った。 救急車の中では、隊員の方が真っ青な顔をして意識のない父に応急処置をほどこしながら、搬送先の病院を決めるべく、無線連絡している。 そのやり取りなどから「もう助からないかも知れない」ことを察知した。 すると急に胸が苦しくなってきて、このままでは自分も心臓発作を起こすのではないかと心配になった。 発車寸前の救急車を止めてもらい、小生は救急車を降り、女房を代わりに乗せた。 小生は自家用車で、救急車を病院まで追いかけた。 この時、父や女房に対して申し訳ないような後ろめたさと共に、救急車そのものに対する恐怖心が生まれた。 結局、父はこの翌日の午前2時半頃に亡くなった。 ほとんど睡眠を取れなかったので、仮通夜と合わせて三日間、心臓発作を起こさずに無事に葬儀を済ませられるかどうか、自分自身の健康状態が不安であった。 不安は当たり葬場祭(告別式)が終わって、火葬場に向かう霊柩車の助手席で発作を起こしてしまった。 我慢できない痛みだったので、すぐにニトロールを服用した。 痛みはなかなか治まらず、「救急車を呼ぶかい?」と何度も親戚の叔母などから言われたが、とうとう我慢しきって救急車は呼ばなかった。 この時、喪主であった小生は神式の葬儀用の装束を着けていた。 小生は装束を着けたままで、病院に搬送されるのは「もう二度と御免!」だったのだ。 小生が神主となって1年が過ぎようとしていた昭和60年3月、連続で二件の神葬祭を奉仕した。 一件は隣町のT別神社から助勤依頼された葬儀であり、もう一件は当社の神徒の葬儀である。 第一日目はT別町での前夜祭(通夜)の助勤奉仕、二日目はT別町での葬場祭、帰家祭奉仕の後、江別で前夜祭を奉仕した。 そして、それは三日目の葬場祭奉仕中に起こった。 当時の小生は新米神主であり、そう多くない神葬祭の仕事でとても緊張し、疲れ切っていた。 そしてこの日、葬儀会場内のストーブから噴き出す温風が小生の背中に当たり続け、暑苦しくて具合が悪くなり、葬儀の途中で脳貧血を起こして倒れてしまった。 もう、葬儀会場は騒然となったことだろう。 そりゃそうだ、葬儀を奉仕に来た神主が葬儀中に倒れたのだ。 結局、装束を着けたまま、救急車で市立病院へ搬送された。 病院内外で一躍有名人になったのは、言うまでもない。 多分この時に「救急車で搬送される」という事に対して、決定的にトラウマ(精神的外傷)を抱えたのだと思う。 ここ2〜3年、狭心症の発作を起こすと「このまま死ぬんじゃないか」と感じる時がある。 発作の痛みでうずくまる中、膝が震え、背中がぞくぞくし、何とも言えない恐怖心に襲われる。 未経験の恐怖を感じながら「頼むから早く治まって!」と念じるが、それでも今のところ、救急車を呼ぼうとは思っていない。 友人は「宮司、救急車を呼んだ方がいいよ」と言う。 多分、多分女房は小生が「救急車を呼んでくれ」と言わない限り、119番には電話しない、と思う。 まだ絶対に死にたくないし、死ぬわけにはいかない。 救急車に対するトラウマと、新たなる闘いはもう始まっている。 |