夜の爪切り

 小生が小学生の頃、外が暗くなってから手や足の爪を切っていると、母親は必ずこう言って爪切りをやめさせた。
     
「夜に爪を切ると、親の死に目に会えなくなる」
     
 小生は、自分の親が死ぬ、そんな悲しい場面に立ち会いたくないなと思って、いつも母に隠れて夜に爪を切っていた。
     
この習慣は今現在も続いている。
     
小生の念願が叶ってか、母が亡くなる時も父が亡くなる時にも、小生は「親の死に目」に会えなかった、と思っている。

 母は昭和61年1月14日の未明に入院先の病院で意識を失って脳死状態となり、その三日後に家族に見送られながら息を引き取った
     
 父は平成15年10月22日の夕食後、小生と女房とが食糧の買い出しに行っている小一時間の間に倒れ、その6時間後に亡くなった。
     
小生は母が息を引き取る瞬間にはそばにいたので、世間的な解釈からすると、「母の死に目には会っている」のかも知れないが、自分ではそう思っていない。
    
小生のイメージする「親の死に目」とは、「目を落とす寸前に手を握り締めて、お互い最後の言葉を交わし合う」そんな場面だ。
     
そんな場面には、とてもとても小生が耐えられる筈はなく、そういう意味では「母の死に目」に会ったとは言えない。
     
かくして、小生は長い間の「夜の爪切り」敢行のお陰で無事?「親の死に目」に会わずに済んだのだ。
     
 

 さて、それでは小生自身の臨終シーンはどう迎えたいか。
     
以前なら、もうろうとした意識の中で女房の手を握り「お陰で楽しい人生だったよ、ありがとう」とか
二人の息子たちに「お母さんを大事にして、しっかり生きるんだぞ」などと言葉を贈り、感動的シーンを醸し出してから目を落とそうとイメージしていた。
     
しかし、もし実際にそんな場面を迎えたら、小生の顔は溢れる涙と鼻水でグチョグチョになり、心の臓はバッコンバッコンと高鳴り、何よりこの世に未練が残りすぎて、とても辛い死となるだろう。
     
小生は「辛い死」を迎えるのは嫌である。
     
母がそうだったように、寝ている間に意識を失って逝きたいものだ、と今は望んでいる。
     


 「夜に爪を切ると親の死に目に会えない」など、何の科学的根拠もないのだが、母がそう信じて小生に伝えた言葉である。
     
親が我が子にひとつの戒めとして真剣に伝えた言葉だからこそ、そこに価値があると思っている。
     
母の思いはそれはそれとして受け止め、しかし、我が家では今後、二人の息子達に「夜の爪切り」を励行させなければならない。

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