■人間パラドックス1

 ある画家に、同じ程度の才能を持つ二人の弟子がいた。
一人は裕福な家庭に育ち、もう一人は苦労人である。

ある時、裕福な弟子が「友達と酒を飲みに行くのでお金を借して下さい」と申し出ると、師匠はあっさり貸した。

しかし、苦労人の弟子が「生活が苦しいのでお金を借して下さい」とお願いすると、彼は断ったという。

しかも、その弟子に「画家を目指す事をあきらめる様に」諭した。

方や遊ぶ金、方や生活費である。
普通に考えると、師匠がお金を貸す相手は逆の様に感じる。

 

 芸術とは「究極の理想を求め、それを表現する世界」である。

その芸術の世界を目指す者がチマチマとした生活観を抱いていては、とても大成出来ないのだろう。

芸術家には遊ぶ金を平気で人から借りられる、ある種の傲慢さがなければならないのだ。

将来の人生設計を細やかに立てたり、日常生活の泥臭い部分に思いを馳せなければならない庶民感覚とは異質の「ぶっ飛んだ感覚」が必要なのだ。

自己の求める理想の世界を表現する事にのみに集中出来る傲慢さと、繊細さとを兼ね備えた者が、人を感動させる芸術作品を作り上げる。

芸術とは残酷な世界だ、とも思う。
しかし、何となく理解も出来る。



 実は神主の仕事、宗教者にも同じ様な事が言える。

庶民感覚は欠かせないセンスのひとつであるし、一社の宮司ともなれば経営のセンスも必要だ。

だが、神主に最も必要なのは「志」である。

神主として必要不可欠な「志」以前に「明日食う米の心配」をしている様では「崇高なる精神世界」に携わる者として、ふさわしいとは言えないのだ。

生活を支えるために神主を仕事とするのではなく、日本の伝統的な精神文化を守り伝ようと言う志が、生活をも支えてくれると認識しなければならない。



 しかし、どこまでも平々凡々な小生は、将来貰える?年金額を社会保険庁のHP等で調べて、一喜一憂しているのである。

戻る