■「いのち」の価値観
最近頻発する小中学生、高校生の「いじめによる自殺」の報道を見る たびに不思議に感じる一言がある。 これらの報道の際、教育関係者や評論家等が必ず口にするのが 「命の尊さを伝えたい」「命の大切さを教えたい」の一言である。 心の底からそう信じて言っているのか、マスコミ用に誰もが否定しにくい フレーズとして使っているのか分からないが、小生からすると 「トンチンカン」で「脳天気」な発言に思える。 いったい、「誰に対して」「誰の命の尊さ」を教えたいのか。 少なくとも、自ら命を絶つほどに苦しみ、傷つけられた子供にとって 「いじめた相手の命」に「尊さ」など感じるだろうか。 また、自殺した子の親にとっても「もうこんな悲劇は御免だ」と思うのが 精一杯で、とても「自分の子を死に追いやった相手の命」を「大切な命」 とは思えないだろう。 自殺した子供やその親にとって「いじめた相手の命」とは 「呪い殺したい命」なのである。 追い詰められ悩み、苦しみ、自らの命を自らの手で絶とうと決意した 彼らは、どんな気持ちで自分の首に縄をかけたのだろうか、 また、どんな気持ちで飛び降りたのだろうか。 「ああ、もうこれで楽になれる」 「やっと悪魔のようなアイツ等から解放される」と、まるで何かにとり憑かれた ように死に突き進んだのか。 「お父さんお母さん、こんな方法しか取れなくて御免なさい」と、もっと一緒に 生きていたい気持ちを引きずりながら、死を選んだのか。 「いじめたお前達を、あの世からずうっと呪ってやるからな」と、怨み続けて 死んでいったのか。 「生から死」へと薄れ行く記憶の中で、いったい彼らは何を思って意識を なくしていったのか。 我々は「ひとつの命」が万人にとって「同じ価値観ではない」事を 知るべきである。 小生は「江別神社を守るために、自らの命をかける決意はある」 つもりだ。 また「女房と二人の息子を守るためならば自分の命をいとわない覚悟もある」つもりだ。 そしてこの意思は小生の「いのちの価値観」であり、他人のそれではない。 「命の何たるか」を学ぶ姿勢なくして「命の尊厳」など伝えられないのである。 自ら命を絶った彼らは今、彼らの霊魂は今、あの世から下界の我々の 様子をどんな気持ちで眺めているのだろうか。 |