■「いのち」の錯覚
小生の、この思い込みの激しい性格は、時々頭の中をニュートラルな状態にリセットしなければ勘違いや錯覚を招く。 特に「いのち」について考えようと試みる時、「当たり前」と信じていた事に矛盾を発見してしまう。 今再び、己の頭の中を白紙状態に戻して「いのち」を考える。 果たして「すべての人命は等しく尊い」のだろうか。 もし仮に、世界中の人たちが「すべての人命は等しく尊い」と真剣に信じているならば、戦争など起こる筈がない、のだ。 しかし現実には、この地球上で有史以来、戦争のない時代など皆無に等しい。 これは、実は世界中の圧倒的多くの人達が「すべての人命は等しく尊い」などと、全然信じていない証拠だ。 すべての人が本当に、心の底から「すべての人命は等しく尊い」と信じ切って生きているならば、何故、学童を何人も刺殺したり、幼児の首を絞めたり、マンションの階上から子供を突き落としたりする人が存在するのだろうか!? 少なくとも、これらの犯人は「すべての人命は等しく尊い」とは、そう信じて生きていないから犯行におよんだ。 例えば道端でテレビクルーに囲まれ、インタビュアーにマイクを向けられ「すべての人命は等しく尊いと思いますか」と問われれば、いい振りこきの小生は「勿論、そう思います」と答えてしまうかも知れない。 しかし、その小生の答えは「本音と建前」の建前を言っているに過ぎない。 「すべての人命は等しく尊い」とは人類普遍の真理であって欲しい、究極の理想であろう。 これは性善説に則って思考すると陥りやすい錯覚であり、実は、言葉の表面的な美しさに酔っているだけなのである。 現実を見渡すと、残念ながら人間の本性は違う。 本性を知る事が理想を現実化させる第一歩となる。 果たして「人命と人命以外の命」と、どちらが尊いのだろうか。 例えば「人命」と「ハエの命」と、どちらが尊いですか?と問われたとする。 小生は、間髪をいれずに「そりゃぁ、人命でしょう」と答える。 では何故「ハエの命」よりも「人命が尊い」のか、個人的な好き嫌いや感情を抜きにして論理的に説明出来るだろうか。 ある人の本にこう書いてあった。 「この地球上の人間以外のすべての生き物が最も望むのは、この地球上から人間がいなくなることだ」と。 ハエが本当にこんな事を考えながら飛び回っているか否か分からないが、「人命」と「ハエの命」とを比べて無条件に「人命」が尊いと考えるのは、人間の御都合主義の始まりのようにも思えてくる。 「命」を「ひとつの生命が宿った有機体」であると考えると、「ひとつの命」という観点のみで捉えるとすると、「人命」と「ハエの命」とに如何程の差があるのだろうか。 アメリカ在住の友人がこう洩らした事がある。 「日本に住む父親の訃報に接しても泣く事はなかったが、16年間一緒に暮らした猫が壮絶な死を遂げた時、涙が止まらなかった」と。 友人のこの言葉を耳にして「アイツは冷たい奴だ」と思いつつも、妙に納得してしまう小生なのである。 「すべての人命は等しく尊いか」「人命と人命以外の命とではどちらが尊いか」などを考え合わせると、ひとつの違った価値観を見出す事が出来る。 それは「命よりももっと尊いもの」があるんじゃないか、と言う推測だ。 小生が本当に尊く感じているのは「命そのもの」ではなくて「生き様」なのではないか、と己自身の心に問う。 確かに、春を迎え真っ黒な土の中から新芽が吹き出す姿を発見すると、物凄く「命」を感じる。 鼻くそ程の種子にもちゃんと生命が宿っていて、寒い冬の間をじいっと耐えて春をまっていたのかと思うと、愛おしくさえ思える。 また、蟻が自分の身体よりも大きな虫の死骸を、一生懸命になって棲家に運ぼうとしている姿にも「生きる尊さ」を感じる。 人間に関しても同じ事が言える。 たとえ赤の他人であっても、真っ当に生きようと努力をする人や、自らの命を顧みずに人を救おうとする姿には涙が出るほど尊さを感じ感動を覚える。 しかし、簡単に人を殺める輩の命に、尊厳など絶対に認めない。 「ああ、そうか、そうだったのか」」小生は「命そのもの」よりも「懸命に努力する生き様に」 「ひたむきに生きようとする姿」に尊さを感じ大きな価値を見出していたのか、と振り返る。 なのに、「ハエ」がいくら懸命にひたむきに飛んでいても、その姿に命の尊厳は感じない。 |