■人生って、こんなもんかい
最近、つくづくと思う。 人の生活で最も大切なのは「日々の暮らし」であると。 大きな驚きや悲しみ、感動的な出来事がそう頻繁にある訳ではない。 人の一生とは、その殆んどが平凡な日々の繰り返しであり、その積み重ねだ。 日々の平凡な生活を平穏に送る事こそ、実は最も幸福な人生なのだ。 今夏、満五十歳を迎えた。 あたふたと駆け抜けてきた五十年であり、己の歩んできた己の道をさほど真剣に振り返りもしなかった五十年である。 やんちゃな少年時代を送り、多感な青年時代を過ごした。 独身時代には、自分がやりたいと思った事は何でもやった。 やがて結婚して夫となり、気ままな生活に終止符を打ち、ひとつ責任を負った。 子供が産まれ親となり、とてつもなく大きな喜びと共にまたひとつ責任を負った。 四十歳で宮司となり、一社の責任者として鳥居を背負う身となった。 これらの責任は時として重圧にもなったが、これらの責任を果たす事に生き甲斐を感じ、また、己の存在意義を見出しもした。 家族と仕事とによって己の存在意義を確認できた事実は、我人生に於いて殊更に意義深く、幸福な事だ。 しかし、毎日毎日朝から晩まで幸福感に包まれて生活している訳ではない。 実際には不安と恐怖におののき、小心者の本性をむき出しにしている自分が存在する。 今現在、小生が抱える持病は狭心症、突発性難聴、腎臓結石、頸椎損傷による手足のしびれ、ひどい腰痛、関節炎など五指に余る。 いつまで元気で働けるのか、己の果たすべき責任を全う出来るのか、怯えながらの日々だ。 「幸福感に浸りながら不安を覚え、不安感におののきながら幸福を探る」 これが小生の実態であり、現実だ。 近い将来、小生の身に何かあった時の我が家を想像してみる。 多分来年には大学生になるであろう長男。 お人好しな性格が長所であり、最大の弱点でもあるが、小学校時代からの夢に向かって驀進するだろう。 シャイで頑固者の次男は神主になって、小生の後継者になると言う。 「ガキだ、ガキだ」と思ってた息子達が、自分の道を歩み始めている。 親が何歳になろうが、子が何歳になろうが親子の関係が変わる訳ではない。 しかし、もう小生の小言を聞き入れる年ではない。 自分で決めた道に進めば、それで良い。 小生は息子達が学校を終えるまでの経済的基盤を残してやりさえすれば、あとは何とかなるだろう。 女房は、と言うと、その華奢でおとなしそうな外見とは想像もつかないほどにあらゆる意味で粘り強く、強情な性格だ。 何せあの頑固で我ままな父に二十年間も仕えてきたのだ。 そのしぶとさたるや半端なものではない。 晩年の父は小生よりも女房に心を許し、女房に頼り切っていたと言っていい。 あの父を、いつの間にか、すっかり懐柔していたのだ。 これはいかんなく発揮した持ち前の、しぶとさの勝利である。 小生の身にたとえ何があろうと、女房はしぶとく生き抜くであろう。 人生って、こんなもんかい。 気がついたらもう五十歳。 紛れもなく人生の最終コーナーを回ろうとしている。 もしかすると、最終コーナーではなくてゴール寸前なのかも知れない。 人生って、こんなもんかい。 あと何年かで父親としての責任は大方終えるだろう。 宮司職の引き際も心得ているつもりだ。 年を重ねる毎にひとつづつ責任から解放され、肩の荷が降りてゆく。 そうして、楽になった分、干からびてジジイになり、やがて人生の終焉を迎える。 しかし、そんなありふれた一生が、実は最も幸福な生涯であるのだ。 人生って、こんなもんかい。 だからこそ「日々の暮らし」を平穏に積み重ねていく事が大切なのだ。 |