母が授けた信仰心


 昭和61年に満57歳で他界した小生の母は、昭和3年生まれである。
今で言う中学・高校時代は戦争の真っ只中。
23歳の時に当時地方公務員であった父と結婚し、三人の子を産む。

その後父が、江別神社の宮司となるべく神主の上級資格を取得する為に、一年間単身で上京した。
小生が満4〜5歳の時だ。

 この冬の、境内の除雪作業は祖父と母で行った。
祖父が参道に降り積もった雪をかんじきで踏み固め、三箇所ある階段の除雪作業は母が行った。
もともと身体が丈夫でない母が、背中に妹を背負っての除雪作業は余りに過酷過ぎる。

冬期間、雪が降る度の除雪作業は男である小生にとってもキツい作業で、近年階段をロードヒーティングにしてしまった程だ。

厳格な祖父のもとで過酷な作業に耐え、また幼児三人の子育てもあり、母は無理に無理を重ねたのだろう。
そんな無理が祟ったのか、小生が小学校に入学する年に肺結核を患い、その年の春に入院する事となった。

母が入院する何日か前に、小生は正月のお年玉に貰った穴のあいた大きな五十円玉を香典袋に入れて母に渡した。
子供心に、嬉しい時は祝い用ののし袋、悲しい時は不祝儀用の香典袋と思っていたのだ。

布団に横になって休んでいる母の枕元に行き、香典袋を差し出すと母は泣きながら「入学式に行けなくて御免ね」と言って小生を抱きしめた。
そしてこの入院は一年以上に亘る長期の入院であった。



 そんな母の一生を顧みると、不穏な時代に生まれ、青春時代は戦争、その後も馬車馬の様になって働き続け、三人の子供を育てて学校を卒業させて、少し生活が楽になったかと思えば間も無くして癌になって、三年間入退院を繰り返して、そして死んだ。

母が死に、母の生涯を振り返る時、「神も仏もあるものか」と思った。
神主である小生がこんな事を思うのは不謹慎極まりないかも知れないが、しかしそう思った。

「悲しい」という気持ちよりも「腹立たしい」気持ちの方が強くて、自分自身の心の持って行き処が見つからなかった。

苦労ばかりして、辛抱強く我慢ばかりして、何でこんな人生にならなきゃいけないのか。
生真面目で優しい母の、何がいけなくてこんな不幸な目に合うのかと、とにかく腹が立って悔しくて仕方なかった。

 


 当時新米とは言え、いちおう神主なので日本人の、神道の死生観は理解しているつもりだった。

『生きている人間とは、物理的な意味での肉体と精神的意味での魂から成っている。
 いわゆる「死」は、その肉体が滅びる事を言い、魂は生き続ける。
 我々はその魂に手を合わせて拝むのである。』

「死生観」について、「頭の中で理解している」と「心の中で信じている」とは別ものである。
神主はこの両方を持ち合わせていなければならない。
しかし、最も大切なのは「心で信じる」事で、これが「信仰の原点」と言える。
一般の人にとっては「心で信じる」、これさえあれば救われる。

 

 母が亡くなって、骨になって、物言わぬ存在となって、
「人間は肉体と霊魂から成り、死はその肉体が滅びることを言う」
何度この言葉を反芻した事か。
そのうちに、自分自身で持って行き場のなかった心に、拠り所があることに気がついた。

「なーんだ、今ここに、この現実の世界に肉体が存在しない、たったそれだけの事か!」
「肉体が滅んでも、目に見えないだけで霊魂は存在するんだ!」
「自分の肉体もそのうちに滅んで霊魂だけとなったら、またあの世で会えるじゃないか!」
「暫しの別れじゃ、それまでちゃんと見守っててくれよ!」

母の死に対して、こんな風に信じられる様になるまで凡そ一年三ヶ月かかった。
悔しさと腹立たしさで憤りさえ感じる日々から、やっと見つけた「信仰の原点」である。

それまで決して信仰心が篤いとは言い難かった小生が、宗教に携わる神主として「信仰」という精神世界を啓蒙する立場になる事に
本能的に危機感を感じた母が、自らの死を以って授けてくれた信仰の心である。

そしてその「心」が宗教の本質を神学的に捉えさせ、人間の本質を探る作業へと進化させていった。

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