■実は学んでいる


 四年程前に「インターネット」なる地域を超えた新社会の存在を知り、軽いショックを受けた。

そして、現代の多くの若者達はこれを利用して情報交換している事を知った。
各種宗教サイトへのアクセスの多さも知り、精神的に脆弱な悩める若者の多さも知った。

宗教に携わる者の一人として職業的意識は高いつもりでいるので、繰り返される若者達の犯罪や事件はネット社会に足を踏み入れる大きなキッカケとなった。

インターネットを利用すれば田舎に住む神主であっても、全国各地の若者達と接する事が出来る。

「何か出来ないか」と考えた挙句、コンピュータなどと言う文明の利器とは、生涯に亘って縁がないと思っていた小生が、ホームページを開設するに至った。

全く以って僭越至極と知りつつ、悩める者への「受け皿」作りのつもりでHPを開設した。

「自己満足」で終わってしまう可能性が大だが、それならそれで良い。

「小さな親切、大きなお世話」の格言通り、小生が「善意」と信じて行う事がその額面通りに「善意」として受け入れられるかどうかは、相手次第なのである。



 HPを開設して暫くして「相談メール」が来るようになった。
正直言って、嬉しかった。

小生如きに「悩みを打ち明け、相談を持ちかけてくる」のだ。
相談者は思い悩んでメールを寄越すと言うのに、小生は小躍りするほど嬉しかった。

ほとんどの相談メールは若者達からのもので、最初は「匿名」である。
何度かメールをやり取りする内に実名を名乗る様になり、小生が訊ねもしない身の上話をするようになる。

「自分の事を分かって欲しい」という表れだ。
メールでのやり取りは相手の顔を見ながら、目つきを確かめながらの対応ではないので、使用する言葉の一言一句に気を遣う。

「この言葉の持つ真意を汲み取って貰えるだろうか」、「どう表現すれば、分かってもらえるのか」、真剣に取り組む。

メールのやり取りが進むに連れて、相談者が小生に心を許してくるのが、手に取るように分かる。

「何と言うやり甲斐か!!」

人から「物事を相談される」と言うのは、こんなにも気持ちの良いものなのか。
人から「頼りにされる」と言うのは、こんなにも張り切ってしまうものなのか。

これは宗教に携わる者の「本質的仕事」だ。
真摯に取り組まなければならない。

とは言え、人間の心とは皮肉なものだ。
人から悩みを打ち明けられて嬉しく思う「不謹慎な心」が、「何とか力になろう」という使命感を生み出す。

無い知恵をしぼり、しかし、真剣な心でメールを送り続けると、やがて相手にも「見えてくるもの」が現れるのか、感謝のメールが届く。

この相談者と小生との関係は「相談をお願いする側とお願いされる側」の一見主従関係の様に思えるが、本当はそうではない。

小生は相談者に対して、微力ながら貢献しているかもしれない。
しかし、「学ぶ機会」を頂き、「相談を受ける経験」を積ませて頂いているのは、小生の方なのだ。

相談を受ける事によって「学んでいる」のは、実は小生なのだ。
相談を受けて多くの価値観に触れ、世間を知る場を与えて頂いている。

一方的に感謝される関係ではない、と言う事だ。
あくまで「共に学び、共に生きる」、「お互い様」なのだ。
小生も相談者に感謝しなければならない。

最近になって、やっとこの事に気がついた。
何とノー天気な己自身かと思ったが、仕方が無い、気がつかないよりはましか。

インターネットのお陰で、それなりに充実した「神主ライフ」を満喫させて頂いている。

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