■生 老 病 死


 『生老病死』ー釈尊の有名な教えのひとつだ。
仏教では「人生は苦である」と教える。
ここで言う「苦」とは、いわゆる苦しい辛いの「苦」ではなく
「自分の思い通りにならない事」を指す。

人間にとって「生まれ」て「老い」て「病」になって「死」を迎える事は「自分の思い通りにならない事」である。
故に人生は苦なのである。

 

 小生は人類史上最高の天才は釈尊であると信じている。
その釈尊の教えに小生如きが解釈を加えるなど、余りに恐れ多い事だ。
しかし、釈尊の偉大さに甘えて、あえて小生の『生老病死』解釈
を披露させて頂く。

『生老病死』は二面性を持った言葉である、と小生は考えている。
ひとつは普遍的に理解されている「苦」であり、もうひとつは「喜」
である。

「苦」が「自分の思い通りにならない」人間の生死について人知の及ばない部分を指しているならば、考え様によっては人知の及ばない部分が「喜」として作用する事もあり得る。

釈尊は天才であるが故に、たった四文字の短い語に複数の意味を与えたのではないだろうか。

あくまで小生の勝手な解釈ではあるが、『生老病死』は人間の
「最も幸福な生涯を表現したもの」とも理解出来る。


 「生」−人として生まれる喜び。
ハエやゴキブリではなく、人間として生を受ける喜び。
人間として生まれる縁を頂いて、はじめて人生を歩む事が出来る。
勿論、己自身に生まれてくる自由はないので、その命は親の意志によって生まれる。
その縁が大きな喜びである。



 「老」−老いるまで生きられる喜び。
老いを迎えるという事は、少なくとも早死にしていないと言う事だ。
この世に生を受けて幼年期、少年期、青年期、実年期を経て、多くの経験を重ねて熟成した年代を迎えるのは誰でもが望む喜びである。



 「病」−この世に人間として生まれ、老いるまで生きられて、その後もずうっと生き続けられる訳ではない。
近い将来、必ず死を迎える。

老いるまで年齢を重ねた者が、病に犯されるのは喜びである。
必ず迎えなければならない「死」を受け入れる準備段階で、病に犯されるのは、自らの人生に終わりを告げる覚悟を固めるにふさわしい喜びである。



 「死」−死ねる喜び。
この世に人間として生を受け、老いるまで生きられて、病気で死を迎えられる喜び。

事故でも自殺でも戦争でもなく、病気で死ねる喜び。
永遠の命など存在しないと知る以上、人間としての順序を踏んだ上で死を迎えられるのは至上の喜びである。



 「こじつけ」と言われようが、小生は『生老病死』をこの様に
「典型的幸福な人生」と理解している。

何日後か何年後かに小生も死を迎える。
あの世で、もし釈尊にお会いできる機会があるならば、『生老病死』の意味については何が何でも質問しなければならない。

またひとつ、「死ぬ楽しみ」が出来てしまった。


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