■「いのち」の正体


 正直に言おう。
実は、小生はとんでもない差別主義者である。

テレビや新聞の報道で子供の死亡事故や殺人事件を知ると、
とても痛ましい気持ちになり、やり切れなくなる。
たとえ亡くなった子供が赤の他人の子であっても、犯人を
「なぶり殺しに行ったろか」と思うくらいに腹が立つ。

しかし、こんなにも優しい小生なのに、年寄りの訃報に接しても
何とも思わない。
食事も喉を通るし、冷静なままだ。

新聞の死亡広告欄には、毎日毎日何人もの死亡が伝えられる
が、それが年寄りばかりだと心は乱れない。

本来、年寄りだろうが子供だろうが、同じ尊い人命なのに、
小生は何故か差別してしまう。



 
  小生は社務所に住んでいる。
社務所のまわりの至る所に蟻の巣があり、多くの蟻たちが動き
まわっている。

日中境内を歩く時、小生は蟻を踏まない様に気を付ける。
特段蟻の命に尊厳を感じている訳ではないが、無駄な殺生が
嫌なので、そうしている。

しかし実際には、車に乗って境内を行き来する時に、相当数の
蟻たちを踏み殺している。

 境内にはスズメバチもたくさん生息していて、社務所の中にも
入ってくる。
女房が社務所の中で蜂を見つけると怖がって叫ぶ。
「早く殺して!!」

いくら女房の依頼であっても、小生は蜂も殺すのは嫌なので、
そっと窓を空けて蜂を外へ逃がしてあげる。

しかし、「お祭」が近づいた時期に蜂の巣を見つけると、その巣は叩き壊す。
多くの参拝者や子供達が集まる「お祭」を無事に終えるためだ。



 神主の資格を取得する為には大学での講義の他に、夏休みに
実習に行かなければならない。

小生はこの実習を京都の石清水八幡宮で行った。
実習中、一日の最後に夕拝という行事がある。
夕拝は神殿前の拝殿と言われる屋外で行われた。

夏なので蚊がたくさんやってくる。
担当教官は「ご神前での修行なので、たとえ蚊の命であっても
殺生してはならぬ」と言った。

小生はその言い付けを守った。
「飛んで火に入る夏の虫」の逆バージョンとなった小生らは
図々しい蚊たちの餌食となった。

露出している肌に蚊たちは群がり、たらふく血を吸う。
中には血を吸いすぎて全身真っ赤になり、重くて飛べなくなった
蚊もいる。

夕拝は拝殿の石畳の上にござを敷き、その上に正座し祝詞を
奏上して行われるのだが、最も辛かったのは猛烈な「かゆみ」であった。
「ブーン」と蚊が飛んできて、「チクリ」と肌を刺す、そしてその後猛烈なかゆみに襲われる。

何よりもこの「かゆみ」に耐え、肌を掻けないいらだたしさに耐える事が修行であった。
蚊には恨み骨髄だ、いくら殺しても何とも思わない。



 犬や猫のいわゆるペットは、最近ではペットとは言わず
「ライフパートナー」と呼ぶのだそうだ。
空前のペットブームも相俟ってか、最早ペットは人間とほぼ同格の、人生の伴走者だ。

 以前、我家でも二十数年に亘って複数の犬を飼っていた。
最も長く飼っていた犬はサムといい、二十年以上生きた江別屈指の長寿犬であった。

サムには小生の意思は何でも伝わった。
小生が怒ると、上目使いに小生の様子を伺って、小生が「もう怒っていない」という顔をすると、サムも安心した顔になる。

そんな愛犬もだんだん年老いて、歯が抜け、白内障になって、
ガンになって、そして、死んだ。

その日は肌寒い十一月の大安だった。
朝見に行くと相当弱った様子で、自力で立ち上がる事は出来ず
差し伸ばした小生の手に擦り寄ってきた。

こいつは自分の死期を分かっているなと感じた。
仕事が忙しい日だったので、サムに毛布をかけて祭事に出かけた。
昼頃仕事から帰ると、サムは既に死んでいた。
新しい白いシーツにサムを包んで社務所の裏に穴を掘って埋めた。

命あるもの、いつかは死を迎えると分かってはいても、その時は
とても辛く悲しかった。
小生にとって、知らない人の命よりもサムの命の方が大切であった。





 何と言う事だ。
小生は人の命よりも犬の命を大切に思っているのか。
自分の都合で、自分の利益で「いのち」の価値観や尊さが
コロコロ変わっている。

小生の唯一の趣味である渓流釣りの都合から言うと、ヒグマが北海道から居なくなっても全然構わないし、大嫌いなヘビなど
この地球上から抹殺される事を望んでいる。

聖職者の小生が「いのち」に対して、実はこんなにも差別主義である。

 「いのち」って何だろう、「いのち」の正体って一体何だろう。
いくら考えても明確な答えは出せない。

しかし、こんな差別主義者の小生なので、とても「人命は地球より重い」などとは照れちゃって言えない。

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