■ 幸福を生む不幸
小生はなかなかしたたか者である。 見聞きしたもの、体験した事を貪欲に吸収しながら生きている。 心臓に持病を持つ身となった今は、持病持ち人間の心理を身を 持って感じ取りながら「生きる」事とは何かを考えている。 持病が心臓故に極端な事を言えば、いつ死を迎えるか分からない。 昨年、友人の知人などが四十台の若さで二人も心臓発作で亡くなった。とても他人事とは思えない。 殆どの人は「長寿」を願い、長生きに対して価値観を持っている。早死には不幸な出来事で、長生きは幸福な人生と一般的には そう認識している。 しかし、ただ長生きさえすれば幸福という訳ではない。 人が己の人生に求めるものは「幸福に生きること」である。 長生きは幸福な人生を送る一要素であるが、それが絶対的幸福 とは言えない。 早く死を迎えることが幸福とは思わないが、長生きが絶対幸福で 早死にが絶対不幸とは言いきれない。 先日、旧知のお宅の神葬祭を奉仕した。 亡くなられた奥様は満61歳であったが、そのご主人も5年前に やはり61歳で亡くなっている。 とても仲の良い御夫婦である事は知っていたが、化粧された奥様のその顔が笑っている。 どう見ても笑っている。 それはまるで、やっと御主人の元へ旅立つ事が出来て喜んでいる様に見える。 現世で淋しく生きているよりも、さっさと御主人の元へ行きたがっている様にも見える。 そしてついつい思った通りの事を、遺族である息子さんや娘さん達に言ってしまった。 ご遺体を前に不謹慎な発言をしてしまったかとも思ったが、彼らも自分達の母親の死顔を「笑っているように見える」と言ってくれたので安心した。 その笑顔の死顔は「私はお父さんのところへ行くからね」 「あなた達はもう立派な大人なのだから、それぞれ自分の道を 歩んでね」と語りかけている様だった。 とても羨ましい死顔だ。自分も笑顔で死んで行けたらと思う。 何年か前に、小学校時代からの友人が言った。 「人は何年生きたかではなく、どの様に生きたかが大切なのだ」 命には限りがある。 故にその期限内で、どの様に生きることが真っ当なのかという哲学が生まれる。 そしてその哲学の先には「幸福な人生」を送る道筋が広がる。 小生自身にとって、どの様に生きることが真っ当で幸福な人生を歩む事となるのか。 今年で数え年50歳を迎え、心臓に持病を持つ身なれば、残された人生を大好きな釣りだけをやって過ごしたい、という気持ちも充分にある。 しかし、釣りだけで満足出来る自分ではない事も、よーく知っているつもりだ。 地域の鎮守の責任者としての、鳥居を背負った者としての公の 立場で、その責務を果たす事にも充実感を感じている。 公の立場での自分を認めて欲しい、という欲求は相当にある。 その己の欲求を満たし充実した人生を歩むには、結局のところ 「真面目な日暮し」が最も確実な方法だ。 一日一日を真面目に生きて、それを積み重ねて行くのが一番の近道だ。 明日死ぬかも知れないし、30年先に生きているかも知れない。 それは誰にも分からない、「どうにもならんこと」である。 心臓病だろうが健康体だろうが、それで基本的な生き方が変わるわけではない。 極めて具体性に欠けるが「真面目に生きる」事が、己の全ての欲求を満たす唯一の方法だ。 持病という不幸が、改めて己の歩むべき道を示唆してくれた。 |