■ 高齢化社会と地域コミュニティ


 高齢化社会を迎えている。
男性の平均寿命が78歳を超え、女性は84歳を超えている。
まさに人生八十年の時代である。

我国は昭和20年の敗戦後60年間近くも平和を保ち、順調に
経済の発展を遂げ、医学の進歩も相俟って世界一の長寿国と
なった。

衣食住に足り、高度な医療技術のお陰で元気なお年寄は巷に
溢れている。
このお年寄の構成年代は明治、大正生まれと昭和の一桁生まれだ。

日本の最も大変な時代を生き抜いてきた彼らの根性は、生半可なものではない。

彼らの頑張りが、現在の経済大国日本を生んだ。

現代の若者達に最も不足していると言われる「努力する事」と
「耐え忍ぶ事」を身を以って実践してきた世代だ。

この元気なお年寄にもう一肌脱いで頂き、新たな地域コミュニティを築けないだろうか。

このお年寄も、パッタリと死なない限りは、いずれ若い世代の
手をわずらわせる。

近い将来、ボケて、身体の自由が効かなくなって、地域社会の
世話になる、皆なる。それが生きる人間の自然な姿だ。

であるならば、お年寄は「元気なうちは社会に貢献するのだ」と
いう気概を持つべきである。

お年寄は決して、社会におんぶして生きる存在ではない。
活躍の場はある、必ずある。



 小生が子供の頃、祖父はとてつもなく厳しく、恐ろしい存在
だった。
しかし、祖父は何でも知っていた。
祖父からは、躾を含めどれ程の知恵を授かったか知れない。

祖父はいつも火鉢の前に座っていた。
火鉢のなかには、異様に長い火箸が立ててある。

祖父の横を通り抜ける時、畳の縁(へり)を踏もうものなら、その
異様に長い火箸でたちまちスネを叩かれた。

「畳の縁は踏むもんじゃない」
何度も痛い思いをして、躾られた。

 神主となって一年程経ったある時、毎月お参りに伺っている
畳屋さんの主から「お前、畳の縁踏まないもな」と言われた。
嬉しかった。
見ている人は見ているのだ。
痛い思いをして身体で覚えたことは、何十年経っても忘れていなかった。

多分、新米神主の小生を一年間近く観察していたのだろう。
主は自分が畳職人であるが故に、畳の縁を踏まない小生を認めてくれたのだ。

 お年寄とは、こういう存在であって欲しいと願う。
祖父に対しても、畳屋さんの主に対しても感謝の気持ちが沸き出でる。



 現役で働く世代は忙しい。
故に子供に知恵を授け躾をするのに、元気なお年寄の手を借りるのは有効な手段だ。

またお年寄には熟成した人間として、社会の先輩として、その豊富な経験や知識を若い世代の子供に伝える使命がある。

しかし、このお年寄と子供との関係は一方通行ではない。

お年寄が子供と積極的に関わり、有機的な人間関係を築く事に
よって、子供には共生の思想が身につく。

核家族化の中で生まれ育った子供にも、「お年寄とも共に生きる
のが世の中の自然な姿なのだ」と言う人間として当たり前の姿勢が
身につく。

「人生、お互い様」なのだ。



 では、どの様な方法以ってお年寄と子供との交流の場を設けるのか。

三年程前に隣の小学校から「授業を受け持って欲しい」との依頼
があった。
四年生の社会科で、地域を題材とした授業だ。

小生には「神社の昔のこと」について担当して欲しいとの事。
テーマは他に二つあって、それを担当したのはいずれも七十歳を超えたお年寄だ。

それぞれのテーマで、三つのクラスに分かれて一時限の授業を
受け持った。

結果的には自分自身にとっても、とても勉強になって楽しかったが、依頼を受けた時点では面倒臭くて、可能であれば逃げたかった。

小生に授業を受け持つ様に振ったのが当時のPTA会長で、この会長は小生の小中高の先輩なので断れなかった。

小生以外の二人のお年寄はやる気満々で、その表情にも嬉しさ
がみなぎっていた。

きっと情熱溢れる授業をされたに違いない。

地域の昔の話など、お年寄の最も得意なジャンルだ。
先生方よりも絶対に詳しい、こんな生き字引を放っておく手はない。
どんどん使うべきだ。

勿論、お年寄個々の資質も問われるので、誰でもが可能な事で
はない。

しかし、元気でやる気のあるお年寄が地域社会の中で貢献し、
活躍出来る場を設けることは、高齢化社会の大きな課題である。

例えば農業に従事していたお年寄が、幼稚園や小中学校の
農作業や家畜の飼育の指導にあたる。

例えば子供が集う公共施設で料理教室や裁縫教室を開催してその指導
にあたる。

それぞれの地域社会において、お年寄と子供とが恒常的に交流できる時間や空間をシステム化出来ないものか。

お年寄はお年寄同士でカラオケやゲートボールを楽しむ。
子供は子供同士で遊ぶ。

これが決して悪いわけではないが、時には世代を超えた交流が
必要だ。

お年寄とその孫の世代に当たる子供とが恒常的に交流する事で、
お年寄に新たな生き甲斐が生まれ、子供にも生きる知恵が
授けられる。



 当神社神輿会のある幹部が叫んだ。
「年寄り邪険にしたら国滅ぶ」
真実の叫びだ。子供だって大人だって、生きていりゃあそのうち
年寄りになる。

元気なお年寄が「元気なうちは社会に貢献する」という気概を持ち、何かしらの責任を負う事によって、己の存在が公に認められる。

より大きな達成感を味わい、こんなに嬉しい事はない。

高齢化社会において、良質な人間関係はお年寄と子供との距離を縮める
作業から始まる。

まさに共に学び、共に生きる、のである。


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