「おめでとうっていうジェラシー、あるよね」
これは札幌のある結婚式場が以前、宣伝用に使用していたコピーである。
要するに友人が結婚するので「おめでとう」という祝意はあるけれど、心のどこかで嫉妬している自分がいる、という意味だ。
人間の心理を捉えたコピーだ。
ジェラシー、とっても人間らしい感情だ。
この感情は、人間としての熟成度や保有している知識の量に関係なく、誰でも味わう事の出来るのが特性だ。
幼児にとって弟や妹が産まれると、その赤ん坊は血の繋がった
身内であると同時に強力なライバルとなる。
母親を一人占め出来なくなり、幼児は初めてジェラシーを体験する。
しかし、血の繋がった身内であるが故に、思いやりとジェラシーとの葛藤の世界に足を踏み入れ、人間としての感情を開花させて行く。
そしてこの葛藤が家族愛を育む第一歩となる。
人間として熟成しているはずのお年寄りも、ことジェラシーに関してはまだまだ熱い。
老人ホームなどで、やたらとモテる爺さんがいる。
モテる爺さんには婆さんが群がる。
モテない爺さんや相手にされない婆さんは面白いはずがない。
かくしてジェラシーに燃え上がる。
知的レベルが高いと言われる人達にだって、ジェラシーは公平だ。
知的レベルが高い故に、己の存在価値が認められず、他人の成功を目の当たりにすると嫉妬の炎が燃え上がる。
平静を装いつつも精神の行き場を見失う。
人間の廻りに、ジェラシーなんて、そこら中にころがっている。
ジェラシーは人間の本性であり、最も人間らしい感情のひとつだ。
しかし、最も人間らしい感情をストレートに表す事が、人間らしい生き方ではない。
良くも悪しくも本性は本性として認め、その上で本来的な己の在り方を追求する事こそ、人間らしい生き方だ。
嫉妬に狂う己の姿を美しいとは、誰も思わない。
嫉妬に狂う己の姿を、恥ずかしく感じる価値観が己の心を成長させる。
ある時は嫉妬し、ある時は恨み、悔しくて眠れぬ夜を過ごす。
しかしそれを乗り越えた時、人は徳をひとつ手に入れる。
そしてまた新たなるジェラシーが生まれる。
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