■ ヨーロッパU


ハンガリーの首都ブタペストへの到着も夕方だった。
宿探しではチェコで痛い目にあっているので、この日は安宿では
なく三ツ星のホテルに泊まった。

今回の旅行で一番の贅沢だ、一泊7,000円也。
ホテルのチェックインを済ませ、近くの公園をブラブラしていると
「あっちへ行ってみろ」と指示する親父がいた。

指示されるままにその建物に行ってみると、それは体育館で中では空手の世界選手権が行われていた。
入り口のドアを開けて中へ入ると、体育館の天井の周りに参加国の国旗が下げてあった。

小生が入った丁度真正面に日の丸が掲げられてあった。
心細い一人旅の途中で、遠い異国で掲げられている日の丸を
見ると、何だか勇気付けられた。

しかも会場では日本人の大活躍であった。
試合は男女別、体重別で行われていたが、そのほとんどの
クラスで金メダルは日本人だった。

ここ二週間以上の間、ほとんど日本人と会っていなかったので
胸が熱くなった。
三ツ星のホテルは日本選手団の宿泊先でもあった。

日本選手はホテル内でもスター扱いだ。
歩いていてもレストランでも、サインを求められている。
ある日本選手と話をしたが、スター気取りでとても横柄な態度
でがっかりした。

この人は何か勘違いをしているなと思いながら、熱くなっていた胸のうちが冷めていくのを感じた。
しかし次の日も朝から見学に行った。

昨日は何もなかったのに、この日は入り口に受付があり、入場者をチェックしている。
当然小生はチケットなど持っていないし、購入する気もない。

言葉は全く通じず、どうすればよいのか分からないでいると、小生の首からぶら下げているカメラを見て、勝手に報道関係者と勘違いしたのかプレス用のカードをくれた。

暫く観戦して、ロビーでタバコを吸っていると、小学生位の地元の子供達に囲まれた。皆、手にサイン帖を持っている。
そして小生にサインを書いてくれと言う。

一人に書いてやると、数人いた子供達は皆サイン帖を出して来た。子供にサインをねだられて囲まれる、こんな事は生まれて初めての経験だ。

子供達にしてみるとサインを貰う相手は日本人なら誰でも良かったのだろうが、サインをねだられるって、何て気持ちが良いのだろう。
人間ってチヤホヤされると、ついつい我を忘れてしまい傲慢になってしまうのか。

二日目の宿は国民宿舎の様な安宿だ。
管理人の親父にはほとんど英語が通じず困ったが、ゼスチャーと気合の入った日本語とで何とか手続きを済ませた。

夜になって親父に呼ばれた。
親父は小さな瓶に入った、僅かの量の紅茶の葉を大事そうに持って来た。小生に御馳走してくれるらしい。

小生は日本から紅茶のティーパックを持参していたので、それを
見せると驚いた顔をしていた。
親父の貴重な紅茶を飲んでしまうのは申し訳なくて、小生の持参したティーパックを使い二人で飲んだ。

すると親父は絵葉書を持ってきて、しきりに何か書けという。
親父はほとんど英語が出来ず、小生との間に会話は成立しないのだが、やっと意味がわかった。

要するに「元気でいる」と言う事を日本の両親に伝えろ、切手は
自分が貼って投函しておいてあげる、と言っているのであった。
有難いものだ、子を思う親の心に国境はないのだ。
帰国し帰省した時、親父から頂いた絵葉書は実家に届いていた。



ユーゴスラビアの首都ベオグラードで一泊して、待望のブルガリアの首都ソフィアへ着いた。
何故、待望かというと、ソフィアには母方の叔父が長期出張で滞在している可能性が高いからだ。

叔父は日本とブルガリアの合弁会社に勤めていて、この当時、
相当の日数をソフィアで過ごしていた。

ソフィア駅への到着は午後十時をまわっていた。
旅行中、新たな国へ入国して、まず行う事は両替だ。
しかし午後十時を過ぎていては、銀行に人はいたが両替は出来なかった。

お金がなければ乗り物で移動する事は出来ない。街まで確か
1〜2km位と記憶していたので、歩こうかと思ったが見知らぬ国の夜道を歩くことは止めた。チェコで懲りていた。

仕方がない、駅で夜を明かす事とした。
そういえばベオグラードからの列車の中で「折角持参した寝袋を
使っていないなぁ」などと余計な事を考えていた自分を思い出した。

お陰で、ソフィアでこの寝袋に世話になる事となった。
さすがに深夜の時間帯となると、目つきの余り良くない連中が
ウロウロしはじめる。なるべく明るくて人通りの多い所で寝る事とした。

共産圏国家では外国人の宿泊は、警察に届け出しなければならない。通常はホテル等に泊まるので、宿側が警察への届け出を
代行してくれる。野宿は原則的に御法度なのである。

多分警察に捕まるだろうと思っていたので、弁解と文句を言う練習をした。和英辞典を持参していたので、分からない単語のメモを取りながら、その時に備えた。

ベンチの上で寝袋を引っ張り出して仕度をしていると、やっと警察官が来た。まくし立てる様に「自分はブルガリアが好きで、はるばる日本からやって来た。先ほど着いたが、両替も出来ずに困っている。
これでは街まで移動も出来ない。一体どうなっているんだ」みたいな事を一気に言った。

若い警察官はニヤリと笑って、「そこで寝てろ」と言った。
リュックをワイヤーロープでベンチの柱に縛り付け、パスポートやチェックなどの貴重品は胸に抱いて、午前二時に寝た。
疲れていたのか、どこで何をしているのか忘れるくらい熟睡した。
そして午前六時、喧騒で目が醒めた、我に返った。
目を開けると、ベンチの上であお向けになっている小生を覗き込む人の輪が何重にもなっていた。

ビックリしたが、ソフィアの人達だってビックリしたろう。見た事もない東洋人が駅のベンチの上で寝袋に入って寝ているのだ。
さすがに照れて「ハ、ハ、ハロー」と言った。すると人垣は崩れ、
皆足早に去って行った。

両替などを済ませて駅を出た。街までは路面電車を利用した。
公衆電話の使い方がわからず苦労して、やっと叔父の会社に連絡が取れた。

「やったぁ」叔父は来ていた。
ブルガリアで最上級のバルカンホテルのロビーで待ち合わせした。叔父と合流して、この旅行中やっとまともな食事をした。

民族料理というやつだ。
その国の唄や踊りに接しながら、その国の酒を飲み、料理を食す。こんなにゆったりと食事したのは久々だ。ビールも旨いが、ラキーヤとか言う地酒は最高だ。

昼間は叔父は仕事なので、小生は不必要になった荷物を日本に送ったり、お土産を買ったりして過ごした。

ソフィア市内には、革命の父レーニンの像やソビエト兵を称える像等がある。こういった建造物はソビエトが建てさせたのか、ブルガリアが自主的に建てたのかは分からない。
しかし、庶民や学生の間ではロシア人は人気がない。



ドイツ人も戦時中のナチスの印象が残るせいか人気がないが、ロシア人はもっと人気がないと感じた。
エジプトでもチェコスロバキアでもハンガリーでも、彼らはロシア人と区別がつくのか、眉をひそめて悪口を言っている姿を目撃した。

国家レベルではソビエトを親分と認めても、庶民レベルではロシア人はうさん臭い存在の様だ。
後年、ソビエト連邦が崩壊し、東西の壁が崩れたので言うわけではないが、東欧の庶民や学生は共産主義に厭きていた印象を持つ。

旅した東欧全般にいえる事だが、宗教を認めない無神論の共産主義であるのに、教会はどの国でも立派に建っている。
これは国家レベルでの共産主義体制と庶民レベルでの心の本性とでは異なる事を意味する。

庶民レベルでは連綿と信仰が引き継がれている、その教会を叩き壊すなど、だれも出来ないのだ。
近年、それに近いことをやったのはアフガニスタンのタリバンくらいか。

宗教は主義思想を超えたものだ。
宗教は「心の学問」であるが故に主義思想を超えて普遍的だ。
個々の人間の心の中で生き続ける。
この宗教的心に国家は介入できないのだ。

この事実を確認できた事は、この旅の最も大きな成果だ。
この事実を確認したくて、この旅を企てたと言っても過言ではない。
そしてこの事実確認が、これから先宗教に携わり、それを飯のタネとして生きて行く小生の糧となる。



ブルガリアから最後の訪問国であるギリシヤへは飛行機を利用した。日本で旅行日程を組む時、トルコに寄ってからギリシヤに向かいたかった。しかし、この両国は昔から仲が悪く、今でも軍の小競り合いが続いている。

両方に行くのは危険であると、旅行会社の人からアドバイスを受けたので、仕方なくギリシヤだけの訪問となった。
ここまで来ると相当に旅慣れてきて、態度もでかくなっていた。







デカい顔して歩いていると白人の老婆に道を訊かれた。
旅の本によると、旅先で道を訊かれる様になれば、現地にとけ込んでいる証拠と書いてあった。小生の事をまさか現地人と思った訳ではないだろうが、道を尋ねられた事は嬉しかった。

そう言えば最初の訪問国であるタイの首都バンコクでも道を訊かれた。
タイは浅黒い顔をした南方系民族と、日本人と変わらない顔をした北方系民族から成る。

小生に道を尋ねてきたのは北方系だ。小生は首からカメラをぶら下げている彼を、タイのおのぼりさんと思った。
「○○寺院はどこか?」とたどたどしい英語で訊いて来る。

冷静に考えると、小生の事を現地人と勘違いして道を尋ねてくる
タイ人が英語で話し掛けてくる筈がないのである。
舞い上がっていた小生は拙い英語で答えた。

すると彼は「えっ」とか「あれっ」と言うのである。
こちらこそ「あれっ」と思い「日本の方ですか?」と聞くとびっくりした顔をしていた。彼は北方系のタイ人ではなく日本人だった。

まさか日本人に英語で道を訊かれるとは思わなかったが、陽に焼けて口髭をたくわえていた小生を現地人と思ったのだ。



アテネ市内には、それまでの東欧と違い日本人の姿を見る事が
出来た。大学生が多かったが、大変興味深い事を発見した。
それは一人旅か否かで、態度も表情も全然違うと言う事だ。



一人旅同士が街ですれ違ったりすると、すぐに仲良くなり宿や食事の情報交換を始める。ところが複数で旅行している日本人に話し掛けてもシラけてしまう。彼らは戸惑った顔をしてお互いを見詰め合い、依頼心が丸出しだ。

腹立つくらいに反応がない。
そこへいくと一人旅をしている者は目つきが違う、それこそ根性の据わった逞しい目つきをしている。

小さなディパックひとつでもう何年も世界中を旅しているという若者。驚くほど少ない荷物で旅しているが、必要な物はちゃんと持っている。しかもサンダル履きで。

友人の結婚式に参列する為に、一人でイスラエルまでやって来たという女の子。外国人の半分位の体格だが、目つきだけは負けていなかった。

当時小生は29歳だったが、逞しい目つきをした若者と出会えたのはとても嬉しかった。
まだまだ日本も捨てたもんじゃない、逞しい若者は沢山いる。

一人での旅はキツイ、しかし得るものは大きい。
今回の凡そ一ヶ月の旅の費用は航空運賃、列車代、宿代、食事代にお土産代、女房への婚約指輪代まで全て入れて約50万円である。
サラリーマン時代の貯金を当てた自分への投資であったが、
この旅を経験できた事がどれ程の財産となったかは計り知れない。




〈訂正〉ヨーロッパTで訪問国の順番をチェコスロバキアの次に
    ユーゴスラビアと書きましたが、ハンガリーの誤りです。
    正しくはチェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラビアの
    順番です。勘違いしていました。


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