■ ヨーロッパT

 昭和59年3月27日、エジプトからパキスタン航空を利用して
西ドイツのフランクフルトへ移動。
フランクフルトへの到着予定時間は午前9時30分である。

今回の旅行で初めて日中の明るい時間帯に移動できる。
しかも西ドイツは先進国であり、第二次大戦時の同盟国であり、
少し前まで兄が官費留学していた国なので、何となく愛着を感じ
落ち着くものがある。

しかし物事は上手く行かず、飛行機が遅れた。
約1時間おきに出発時間変更のアナウンスが、アラビア語と英語と多分フランス語とで流れる。

英語の時には耳をダンボにして、必死に聞き取る。
「1時間後に出発予定」とのアナウンスが数回、結局6時間遅れ
であった。

「1時間後に出発予定」のアナウンスでは待つ間に居眠りも出来ずイライラする。
 フランス人の100人位の団体客が一緒だったが、彼らも相当
イラつている様子だ。

英語のアナウンスを上手く聞き取れなかった時に、フランス人に
英語でアナウンスの内容を聞くと、返事はフランス語であった。
多くのフランス人は英語を聞き取るという。

自国語にプライドが高くて、英語を話したがらないのは仕方ないが、フランス語を理解できない者に、フランス語でしか喋らないというのは単なる意地悪である。

 何時間か待っている間に航空会社から食事券が配られた。
皆でゾロゾロとレストランへ行く。
相席で座った中に子供がいたので、退屈凌ぎに日本から持参していた「折り紙」で鶴を折ってやった。

子供は喜び親にも受けたので、相席の皆に折り紙を配り即席の
折り紙レッスン会をやった。
1枚の紙が立体的な鳥の形になる事に興味を持った様だが、
いかんせん不器用である。

飛行機の遅れでイライラしているせいもあろうが、角と角を合わ
せて折る作業がどうにも下手糞だ。
そんな事では我日本の技術力には勝てないよ、と感じつつフランス人のプライドなどクソクラエと思った。


 6時間待ってやっと搭乗。
並んでいるとパキスタン航空の係員が小生を手招きしている。
行ってみると小生が持っているチケットとは違う搭乗券を渡され
た。

何とファーストクラスの搭乗券である。ビックリした顔をしていると
パキスタン人らしき係員はウィンクして、さっさと前へ進めと合図
している。

何故だろう?
きっと彼もフランス人に対して印象が悪く、同じアジア人の小生を
優遇してくれたのだ、と勝手に判断した。

 ファーストクラスに搭乗するのは、勿論初めてである。
隣の席には大柄な黒人が座っている。
エジプト滞在で黒人にも種類がある事を知った。
大きく分けると、真っ黒な黒人とそれ程黒くない黒人である。

真っ黒な黒人は、それはもう本当に真っ黒で、黒光りした肌をしている。体格は大柄で、陽気でとても人懐っこく、お人好しという印象がある。
隣の席は真っ黒で大柄な黒人だ。

弱小航空会社のパキスタン航空とはいえ、ファーストクラスに
搭乗しているので、彼はきっと金持ちなのだろう。
小生が「アジア、アフリカ、東欧旅行の最中だ」と言うと
「アフリカではどこの国を訪問したか」と聞かれた。

「エジプト」と答えると「エジプトはアフリカではなくヨーロッパだ」と
言い、「真のアフリカを知りたければ、もっと南へ行け」と言われた。
彼の身なりはダークスーツ姿で、職業は銀行家と言っていた。
アフリカで数少ない成功者の一人なのだろうが、心境は複雑な様だ。

 午後3時30分、予定時間を6時間遅れてフランクフルト空港到着。
旅行の前半のタイ、パキスタン、エジプトでは到着した日の宿は
日本で予約を入れていた。しかし、西ドイツ以降の宿は予約は
入れておらず、現地で探さなければならない。

宿は日が暮れる前に決めておきたい。その為には出来るだけ早く荷物を受け取って街まで行きたいのだが、小生の荷物はいくら
待っても出てこない。
30分も経つと荷物を受け取るターンテーブルの横には、小生と
ドイツ人らしきもう一人しかいない。

通じているか否かは分からないが、文句を言って待った。
1時間程して、やっと自分の荷物を手に出来た。

 空港から地下鉄を利用してフランクフルト市街へ向かった。
日本で事前に目星をつけておいた宿を探す。駅の近くだったので割合簡単に見つかったが、満室であった。
「まいったな」と思っていると他の宿を紹介してくれた。

この辺りの旅行者用の安い宿は、一泊朝食付で概ね1,200円
くらいだ。
宿が決まるまでは重さ約20kgのリュックサックと3kg程の
ショルダーバッグを持ち歩かなければならず、これだけでも結構
きつい。
宿が決まると本当にホッとする。

 西ドイツは本場だけあってビールは旨い。ソーセージも旨いし
酢漬けのキャベツやキューリも旨い。
ドイツ人は几帳面な気質の国民と聞くが、その几帳面さが面白い。
どの店もビールのジョッキーには上から四分の一位の所に線が引いてある。

この線は、ここまでビールを注ぎ、その上は泡を注ぐ為の目印だ。
ビヤホールへ行くと、どのウェイターもこの目印の線ピッタシに
ビールを注ごうとしている。



 フランクフルトで2泊してチェコスロバキアの首都プラハへ列車で向かう。
ヨーロッパの列車の中は、コンパートメントと言って、3人掛けのイスが向かい合い、それでひとつの小部屋になっている。

西ドイツからチェコスロバキアへ向かう間、コンパートメントは
小生一人であった。
国境では列車が2度停車した。
最初は西ドイツ国境で、ほとんど出国手続きもなく短時間の停車だ。

二度目の停車はチェコスロバキア領に入って直だ。
まだ東西の壁がしっかり存在している時代なので、西側諸国から共産圏への入国審査はなかなか厳しい。

何度か同じシーンを経験していたので慣れてはいたが、自動小銃を突き付けられて、取り敢えずホールドアップ。
座っていたイスをひっくり返し、リュックの中も全て開けられ荷物
のチェックは相当細かくやられた。

小生のことを密輸人とでも疑っているのだろうか、タイで購入した
指輪まで箱から取り出して何か言っている。
彼らは英語を話したが、わけが分からなかった。
この指輪はフィアンセに贈るエンゲージリングだと何度も言って
やっと返してもらった。

 プラハの中央駅であるハルビン駅に着いたのが3月30日の
夕方、まだ明るい。早く宿を確保しなければならない。
日本のチェコ大使館で手に入れた地図を頼りに、目的の宿を探す。この宿は日本で言うと国民宿舎の様な宿だが、なかなか見つからない。

通りすがりの人に道を聞くも言葉が通じない。
陽は落ち暗くなってきた。背中には20kgの荷物。
心細いなんてもんじゃない、おまけに雨まで降って来た、最悪。
気も狂わんばかりに必死になって探し続け、やっと見つけた。

2時間近くもこの辺りを探しまわって、何とこの宿の前を何度も通過していた。この宿、まるで普通の建物で看板が余りに小さい。
看板の大きさは縦20cm横30cm位の目立たないプレート板で
これを見過ごして歩き回っていた訳だ。

何と情けない事か。
しかし、自分を情けなく思う気持ちよりも、寝る場所を確保出来た
嬉しさの方がはるかに大きかった。

 この宿は体育館の様な広さの部屋に、たる木とコンパネで作った粗悪な2段ベッドがびっしり並べられている。
宿泊料金は素泊まりで、日本円で60円くらいである。
目つきの余り良くないお兄さん方もいたりして気持ち悪く、次の
日は別の宿を探した。

 チェコスロバキアや次の訪問国であるユーゴスラビアでは強制
両替という制度がある。
チェコだと1日15USドル、小生の場合3日滞在なので45ドルを
入国時に両替しなければならない。

この強制両替分のお金は再両替出来ない。
要するにチェコ滞在3日間で、最低45ドルは使いきりなさいと言う事だ。使い切れずに余ったチェコのお金を、再びドルに両替は出来ない。

共産圏国家のお金は自国内のみ流通可能で、隣の国へ行けば
ただの紙切れだ。
この当時1ドル250円位だったので、45ドルは凡そ11,250円
である。

ところが1泊60円の宿に泊まって、庶民が出入りしているレストランで食事して80円位払っていたのでは、11,250円はとても
使い切れない。

18年前とはいえ、当時小生が住んでいた東京の1Kのアパート
の家賃は38,000円で、サラリーマンをしていた前の年の収入は
300万円弱である。
この差は国の経済力の差である。

プラハ市内にはデパートもあったが、広い店内に商品は少なく
スカスカといった状態だ。
店員の態度も仕事に対するやる気は感じられず、シラけた
ムードが漂っている。

もしチェコの庶民が日本のデパートを訪れたなら、その商品の多さ、行き届いたサービスに腰を抜かすだろう。

余りに何でも安いので、調子に乗って国際電話で母と長電話を
したら1万円もかかってしまい、強制両替分は使い果たしてしまった。

 到着の日、雨の中を20kg以上の荷物を背負い2時間も歩き回って宿を探したせいか、風邪をひいた様だった。
無理をする必要はないので遠出は避けて、プラハ市内を歩き回った。

現地の大学生と話をしたが、彼らはチェコ内でエリートであるにも
拘わらず、自由主義に強い憧れを持っている様だった。
チェコスロバキアの印象は、その美しい街並みとは裏腹に活気
が感じられず薄暗いものに終わった。

 
 
 次の訪問国はユーゴスラビアである。
東欧の共産圏の中で最も物価の高い国である。
しかし、何もない。
ベオグラードの街の中に人も歩いていなければ、一国の首都
らしき活気など微塵も感じない。

そのグレーな雰囲気はチェコの比ではない。
ポルノグラフィが解禁になったとかで、若者が路上で写真を売っていたが、その若者の目つきに生気は感じられない。
結局ユーゴスラビアでは2泊の予定を繰り上げ、1泊で次の訪問国へ移動した。

 振り返って見ると、旅行中最も暗い印象を受けたチェコスロバキアとユーゴスラビアが、その後の紛争によって国家が分断された。
今現在の地球上にチェコスロバキア、ユーゴスラビアという国家
は存在しない。

紛争中、どれ程の子供達が泣き叫び、苦しんだ事か。
どれ程の恨みと憎しみが交差した事か。

 国家が安定して存在し続ける事が、国民にどれ程の幸福を
もたらすのか、改めて考えさせられる。

 国家が安定して存在し続ける事は、決して当たり前の事では
ないのである。




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