■エジプト 


 昭和59年3月24日午前2時、エジプトはカイロ空港に降り立った。
パキスタン航空を利用しての旅だが、バンコク到着が午後10時
カラチ到着が午前0時、今度は午前2時だ。

パキスタン航空の各国への到着時間を見てみると、大体昼間の
ゴールデンタイムはヨーロッパに合わせている。
後進国への到着は夜中ばかりだ。弱小航空会社の商売上、これも仕方のない事か。

 エジプトの入国ビザは日本で取得しなかった。
日本で取得しなくとも、現地で500エジプトポンド両替すると、
自動的にビザを発給して貰える。

両替を終えて入国審査の順番を待っていると、30代後半の茶色
の顔で普段着の男が親しげに話しかけてくる。
旅行者ではないようだ。国籍、入国ルート、入国目的などを聞かれた。

入国前の到着ロビーで、何故このような得体の知れない男が
色々聞いてくるのか理解出来なかったが、さほど気にもしなかった。
入国審査は進み、数十人いた日本人の団体旅行客も、既に入国している。
まわりを見ると残っているのは、小生とあと一人だけだ。
40代後半か50代でコーデュロイのジーンズにベレー帽をかぶった芸術家風の日本人だ。

しかし、当地の事情はやたらと詳しい。先程小生に話しかけていた男は、エジプトの秘密警察であるという。
最近、日本赤軍の重信房子が不穏な動きをしているので、日本人の個人旅行客には特別目を光らせているとの事。

しかもブラックリストの機械化が遅れていて、手配写真を手作業でチェックしているので、入国まで時間がかかるよと教えてくれた。他に頼る人もなく、不安と緊張がつのる。「早く入国させてくれ」と願いながら芸術家風の親父さんと話をしていた。

身体は疲れ切っているが、緊張のせいか眠くならない。
彼の奥様は日本赤十字の医師で、ボランティアでエジプトに派遣
されているという。今月その任期切れで、帰国する引っ越しの手伝いに来たそうだ。

当地での彼の奥様に対する待遇は良く、運転手付きの車が与えられている。その車が自分を迎えに来ている筈なので、小生を街
まで送ってあげるという。有り難い話だ。不安と緊張の真っ只中
の小生にとって、本当に有り難いお誘いだ。

そうこうしている内に、午前4時すぎに彼が入国審査官に呼ばれ
入国した。彼が呼ばれたので、小生も直ぐに呼ばれるだろうと
思っていたが、いつまで待っても呼ばれない。
「俺のこと忘れてんのか、それとも無視してんのか」と怒りつつ

入国審査官を見つめると、時々むこうも小生を見る。
それから約2時間後の午前6時過ぎに、やっと入国出来た。
先程の芸術家風の親父さんは、もうとっくに奥様のもとへ行っているだろう。

「人を頼るのはやめよう。これは俺一人の旅だ。人に対し依頼心
 が強くなると、この旅は出来ない」
空港の廊下を歩きながら、心身共に疲れ切った自分に言い聞かせた。

外へ出ると、もう夜が明けている。
これがエジプトの朝か、昨夜から一睡もしていない気だるい身体に朝日がやたらと眩しい。
タクシーを探そうと道路を見ると、何と親父さんが車の中から

手を振っているではないか。
2時間以上も小生を待っていてくれたのだ。
遠く離れた外国で心細くてどうしようもない時に、こんなに親切に
されると、本当に人の情けを感じる。

カイロの市街地まで送って頂き、お礼を言って別れた。
しかし、この約2週間後、テレビ番組のガチンコではないが
「とんでもない出来事」が起きる。
そう、奇跡と言っていい出来事が。

 予約を入れてあった宿は比較的簡単に見つかった。
到着時間が早すぎたので、チェックインは無理かと思ったが、
宿の親父は部屋に入れてくれた。この日は仮眠をとり、その後
何をしたかは覚えていない。

 折角エジプトまで来たので、ピラミッドは是非とも見学したい。
カイロ市内の旅行会社を見て回ると、様々なオプショナルツアー
があった。貸し切りバスの団体旅行は嫌だったので、少し贅沢
だが車をチャーターした。

運転手の他の同乗者はコロンビアから来たという中年婦人だった。夫は裁判官で、日本へも行った事があると言っていた。
カイロ市内は東京と変わらない大都会だが、一歩市内を出ると
道は悪く、中東戦争の傷跡なのか、壊れた建物が目立つ。

サッカーラという所へ、エジプトで最初に作られたピラミッドを見学に行った。
ピラミッドの前をウロウロしていると、ターバンを巻いた連中が
「一緒に写真撮ろう」と寄ってくる。

ついその気になって一緒に写真でも撮ろうものなら、すぐに
「バクシーシ」と手を差し出される。「バクシーシ」はチップをよこせとか、物乞いする時に使う言葉だ。エジプト旅行中、特に観光地に出向いたとき、何度「バクシーシ」と言われ手を差し出され

たか分からない。ベストの胸ポケットに入れてあったボールペン
を子供に抜かれた事もあった。(直ぐに取り返したが)
イスラム教には「富める者は貧しき者に分け与えよ」という教え
がある。

最近では、この教えを逆手に取って「貧乏人が金持ちの物を
盗んで何が悪いんだ」と開き直る者もいる。
日本人は皆、金持ちに見えるらしい。
同じイスラム国家でも、パキスタンとは人間のスレ具合が違う
様に思えた。

 砂漠も散歩した。ある程度までチャーターした車で行くと、
ラクダ屋がある。ラクダ屋と言っても建物があるわけではなく
ラクダと人が砂漠の中でたむろしているだけだ。
本格的な砂漠へはラクダに乗っていく。

勿論、最初に値段の交渉をする。
ラクダ屋は当然のように値をふっかけてくる。こちらはその十分の一位の値を言って、双方歩み寄り、値段が決まる。
この値段交渉は結構楽しい。

ところが砂漠に入って、まわりの景色が全部砂だらけになって
方向感覚がなくなった頃に、最初に決めた値の倍の金額を要求
してきた。

小生はこの旅行を一年前から計画していた。
当時東京に住んでいたので、旅行先の各国の大使館を回って
地図や様々な資料を手に入れ、習慣の違いなどを学習していた。その他にも当時流行っていた「地球の歩き方」などのマニュアル本を何冊も読んでいた。

ラクダ屋の要求は、読んだ本に書いてある通りだった。
余りにマニュアル通りだったので、思わず笑ってしまった。
ラクダからは絶対に降りずに「GO BACK」と言って帰って来た。

当然、支払代金は最初に交渉した金額だ。
何かブツブツ文句を言っていたが、トラブルにはならなかった。
こんなものなのだろう。ラクダ屋にすれば、余計にお金が貰えれば「ラッキー」くらいにしか思っていないのである。

 有名なギゼのピラミッドや国立博物館のミイラなども見て回った。一年前から旅行を計画し、旅行の仕方や各国の習慣については勉強したが、歴史は勉強しなかった。
しかしその国の歴史を知っていると、歴史的建造物等を見学した

際、感動が違う。その国の歴史を肌で感じる、その感じる力が大きく違ってくる。
ピラミッドを前にして、そう感じた。そして少し後悔した。


 
旅慣れてくると、だんだん図々しくなる。小生の悪い癖だ。
どの国へも入国する際にお金を両替するが、空港や駅の銀行で
行うのが普通だ。
しかし街中を歩いていると「チェンジ ダラー」と声を掛けられる。

闇の両替人だ。闇で両替すると公定レートの二倍以上だ、勿論
違法行為である。
東欧の共産圏等では五倍で両替する闇商人もいるという。
本当か否か知らないが、捕まると懲役100年の刑に処す国も

あり、マニュアル本には絶対に闇両替はするなと書いてあった。
しかしエジプトでは結構贅沢もしたので、公定レートで両替するのがバカバカしくなってきた。
宿の近くの土産物屋の親父が、実は闇の両替商で何度か声を

掛けてきている。
勇気をふりしぼって両替してみた。公定レートの二倍以上の
現金を手に出来た。しかも何も起こらない。シメシメ。

この後訪れる東欧の共産圏でも、何度も闇の両替人に声を掛けられた。しかし、秘密警察かも知れないし、さすがに怖くて闇の
両替は出来なかった。
この時に思った。何だかんだ言っても、世界の経済はアメリカが

牛耳っている。みんなドルが欲しいのだ。
 調子に乗って、どんどん図々しくなる自分がいた。
ナイル川の雄大な流れを見つめていると、自分が訪れた足跡を
残したくなった。どうしても何かしたくなった。

アホな小生が思いついたのは、ナイル川に小便をする事だった。しかし風習のよく分からない異国で、このような行為をして捕まったらどうしようとの戒めも少しはあったが、思いついた事は止められなかった。

キョロキョロしながら川の淵まで行き、橋の真下まで歩いた。
ここは死角になっている。
おもむろに大砲、いや水鉄砲を出して放尿した。ナイル川の雄大
な流れに、今し方小生の体内から放出された小便が混じり合い

地中海へとそそがれる。うーむ、何とも言えぬ充実感を味わう。
小便をした少し上流の水を汲み、宿でコーヒーを沸かして飲んだ。特別に旨いとは思わなかったが、何せナイル川の水を汲んで沸かせたコーヒーである。こんな事した人間は、そうは居ないだろうと
くだらない優越感に浸った。
 
 水は日本で一般的に言われているほど悪くない。
タイのバンコク以外、パキスタンやヨーロッパでも水道水は大丈夫だ。「湯沸かし棒」という、コップ一杯の水を一分間で沸騰させるスグレモノを携行していたので、これで一度沸かして飲み水とした。
 
 次の訪問国は西ドイツで、その後チェコスロバキア、ユーゴスラビア、ハンガリー、ブルガリア、ギリシャと回って帰国の途についた。帰国ルートはカラチ、北京経由で、そのカラチで奇跡は起きた。

飛行機の乗り換えの為にカラチ空港のロビーを歩いていると
何と二週間程前にエジプトでお世話になった芸術家風の親父さんが居るではないか。
何という事だ。いくら地球が狭くなったとは言え、何万qも離れて

いるパキスタンとエジプトで同じ人に会うなど、あり得るのだろうか。親父さんもビックリした顔をしている。
 親父さんの名は「塩田さん」と言う。職業は芸術家ではなく、獣医師である。

日本赤十字の派遣医師である奥様の、帰国の為の引っ越しが
終わり、自分も帰国の途中だという。
北海道出身の二十歳くらいの姪御さんも一緒だった。
奥様はJALのファーストクラスに乗り、自分たちはお金が無いの

でパキスタン航空を利用したとの事。
 これは盛り上がらずにいられない。次の乗り換え地である北京空港で一緒にビールを飲んだ。盛り上がって飲んでいる内に搭乗時間を忘れていた。

パキスタン人の係員が「乗っていないのはお前達だけだ」みたいな事を言って怒っている。しかし、ここまで来ると小生もすっかり
気が強くなっていて「もう歩いてでも帰れる」と思っていた。
 
 無事に成田空港に着いて、塩田さんとはお礼を言って別れた。
名刺を頂いたので、直ぐに礼状を書くつもりでいた。
ところが帰国した二日後が女房との結納、、その後東京のアパートの引っ越しやら何やらでゴタゴタしている内に、頂いた名刺

を無くしてしまった。あんなにお世話になったのに、礼状も出さずに
18年経ってしまった。
塩田さん、ごめんなさい。本当にごめんなさい。
さんざん世話になりながら、無礼な奴だとお思いでしょう。

しかし、エジプトでの御恩は忘れておりません。
一生、忘れません。

今回このような形で、文章で残す事で、18年間の胸のつかえが
取れる思いだ。

小生は忘れない、一生忘れない。

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