■パキスタン 


昭和59年3月21日から24日の間、最近何かと話題の多い
パキスタンへ旅行した。
約1ヶ月で11ケ国訪問した旅行の3番目の国である。
3泊4日の短い滞在であったが、大変印象の深い国である。

3月21日の午前0時過ぎにタイのバンコクからパキスタン航空機で、パキスタン最大の都市カラチに降り立った。
飛行機を降りたとたん、何とも言えぬ「イスラムの匂い」にビビった。

夜中でも30度を超す気温の中で香の様な匂いが漂っている。
BGMもシタールの音だろうか、イスラム特有の音楽が空港内に
流れている。そしてターバンを巻いた男達がウロウロしている。
若い女性はいない。

どう言う訳か小生には、あっけない位の簡単な入国審査であったが、パキスタン人らしき人達に対するそれは大変厳しく荷物は
全部開けられていた。

空港を出ると白いロングドレスの様な服を着て、白いターバンを巻いたタクシーの運ちゃんが何人も駆け寄って来る。
思わず後ずさり。

バスなどの公共交通機関はなく、町までのアクセスはタクシーしかない。一番優しそうな顔をした運ちゃんのタクシーに乗り、予約を入れてある宿へ向かった。

空港の敷地を出るとすぐに検問があった。
いきなり自動小銃を向けられ、車から降ろされた。
直ぐにホールドアップ。

余計な気を回して、パスポートを出そうと内ポケットに手を入れようものなら、そのまま「ズドン」だ。言われた通りに両手を挙げて
車の横にうつ伏せになる。
まるで映画で見たシーンそのものだ。

この時は荷物を全部開けられた。
リュックの中には後にブルガリアでお世話になった寝袋をはじめ
とする身の回り品が約20kg入っている。パスポートとトラベラーズチェック、現金はベストの内ポケットの中、カメラやその他の貴重品はショルダーバッグの中だ。

緊張で暑さも感じない、やはり、ここは日本ではない事を実感する。

翌日はパキスタン航空の事務所へ行って、リコンフォームとか言う予約航空券の再確認を行った。
空路の移動は全て、当時一番安いチケットが出ていたパキスタン航空を使った。

安いチケットというのはそれなりにリスクもあり、自分でそのリスクを解消しなければならない。このクラスの航空会社のチケットは日本で予約を入れたにもかかわらず、現地で予約が入っていないと言われる事があると聞かされていた。

とにかく日本人が行う作業とは、精度も仕事に対する責任感も違う。その為の予約航空券の再確認だ。
空港のカウンターで預ける荷物などに付けられるタグも、自分が
搭乗する飛行機の行き先と同じか、自分で確認しなければならない。

実際エジプトから西ドイツに移動した時、小生の荷物は出てこなっかた。とりあえず文句を言って、荷物を手にするまで1時間以上かかった。しかし、荷物が出てきた事はラッキーなのである。
出てこなくても当たり前、そんな雰囲気が漂っている。

パキスタンから先の航空券の予約の再確認が無事に済んで、
カラチの街中を歩いた。
建物を眺めながらボヤーっとしていると、ジィーンズの裾が引っ張られている。

足元を見ると、心臓が口から出そうになった。
奇形児であろう、身長は数十センチくらい、顔が異常に大きく
手足が異常に小さい。歩く事は出来ない様子で小さい片手で
小生のジィーンズの裾を引っ張り、もう片手で物乞いをしている。

大きな目が小生を見つめている。
これ程びっくりした経験はない、走って逃げた。そして思った。
「もう帰ろ、何でこんな国へ来てしまったんだ」

その夜は矢野徹著の時代小説「カムイの剣」を読んで過ごした。
大分冷静になった。「このまま帰国すると、友人達に何を言われるか分からない、一生バカにされる」
虚栄心から旅を続ける事にした。

そしてその翌日は朝からバザールへ行く事にした。
小さな移動は徒歩か、日本のダイハツ製のオート三輪(これは快適、料金も安い)で行ったが、この日はタクシーを使った。

人のよさそうなオヤジである。目的地までの料金を交渉して車に乗り込もうとすると、客用の後部座席ではなく助手席に乗れと言う。彼の言葉に従うと「ジャパニーズ、マイフレンド」と言って車は走り出した。

英語のレベルは小生と同じようなもので、片言だが意志はよく伝わった。それにしてもよく喋る男で、日本の事を、主に裕福度を
色々聞かれたが、日本の地理的な位置などは理解していない様だった。

話をしながら外を眺めると、どんどん景色が悪くなっていった。
当地の地理は全く分からないが、バザールに向かっているとは
とても思えない。小さな汚い路地を廻っている、どう見ても貧民街だ。泥をぬったくった様な家の横で車を止め、何か叫んでいる。

「このオヤジ、俺をどこへ連れて来たんだ」と思いながら緊張した。家の中から太った女性と子供達が出てきた。オヤジの妻と子供達であるという。自分の住んでいる家を見せ、自分の家族を小生に紹介する為にここへ連れて来たのだ。

何の為にこんな事するのだろうか?
彼らは小生の方を見て笑いかけているが、小生の頬は引きつっていた。
人のよさそうなオヤジであると感じてはいたが、まだ信用はしていないし、出来る訳もない。

宿の近くからバザールまでの一区間を乗るつもりでいたが、結局
朝から暗くなるまでの間、色々な所へ連れて行ってくれた。

海を見にいった時には、近くで商売をしていたラクダ屋のあんちゃんに、小生の事を「マイフレンド」と連発して無料で乗せてくれる様に交渉してくれた。小生は無料でなくてもよかったのだが、ラクダ屋のあんちゃんはお金を受け取らなかった。

カラチ最大のムスクにも行った。
翌日がパキスタン建国の父、ムハマド・アリ・ジナーの誕生日だったか命日だったかで、何十万人もの参拝があるとの事。
当日はその前日の為、入り口の門は封鎖されていた。

しかしオヤジは門番に何か言っている。そして小生に小銭を出せと言う。小生が門番に小銭を渡すと、ニッコリ笑って門を開けてくれた。袖の下は万国共通の様だ。

薄暗くなるまでアチコチ行って、宿まで送ってくれた。
この頃にはオヤジの事を大分信用していたし、1日お世話になったので応分の料金を払おうとすると、朝交渉した一区間分の料金でいいと言う。

何てオヤジだ、まるで商売気がない。こんな奴がまだいたんだ。
全然スレていない。すっかり気に入って、翌日の空港までの移動もオヤジに頼んだ。1日一緒に行動して写真も沢山撮ったので
帰国したらオヤジに送ってやろうと思い、名前と住所を書くように
メモ帳とペンを渡した。

オヤジは「明日書く」と言って帰って行った。
翌日、いくら待ってもオヤジは迎えに来なかった。
この時に昨夕、メモ帳とペンを渡した時のオヤジの困惑した様な
目を思い出し、直感した。

オヤジは読み書きが出来ないのだ。
今現在でも世界中の三分の一の人達は読み書きが出来ないと言う。読み書きが出来て当たり前と考えている、自分の浅はかさ
を思い知らされた。

オヤジが姿を現さなかったのは、オヤジの小生に対する最後の
プライドであったと感じる。

しかし感傷にひたっている暇はない、空港までのアクセスを確保
しなければならない。何せこの日は皆ムスクへ行っている。
街の中に人は殆ど歩いていない、焦った。

国際級のホテルならタクシーが拾えると思い、シェラトンホテル
まで歩いた。しかし、一台のタクシーもいなかった。
ホテルの下働き風のオヤジにタクシーが拾えるか否か尋ねたが
「今日はダメ」との事。

困った顔をしていると、自分が送ってやってもいいと言って来た。
助かった。
料金は通常の倍くらい請求してきたが、そんな事は問題にしてられない。

車中でこのオヤジ、「日本の酒は美味い」と言った。
何故日本の酒の味を知っているのかと聞くと、商社の社員がお土産用に持ち込むとの答え。イスラム教徒が酒飲んでいいのかと言うと、金持ちは隠れて飲んでいると答えた。

小生、この手の話を聞くと妙に嬉しくなる。
人間の本性を垣間見る思いがするからだ。

昔、仏教でも出家した者は飲酒出来なかった。しかし、酒を
般若湯(はんにゃとう)と言って、これは酒ではなく湯の一種と
偽り飲酒したと聞く。

美味いものが食べたいとか、きれいな服が着たいとか、大きな
家に住みたいとかは人間誰しもが持っている本性である。
その本性を権力や宗教の力で押さえつけても、人間はどこかで
抜け道を作って己の欲求を満たそうとする。

しかし、そんな人間が皆いいかげんであるかと言えば、そうでもない。
イスラム教の信者は信仰心が厚い印象を抱く。

短いカラチ滞在中に、夕方になると聖地に向かい路上で額ずく
姿を何度も目撃している。庶民の素朴な信仰形態だ。

多くの人間にとって宗教あるいは宗教心は必要である。
何故なら宗教は心の学問であり、人間は心が満たされなければ
幸福感を抱かないからだ。

我国においても正しい宗教教育は不可欠である。
でなければ国際人など、育つはずもない。


それにしてもパキスタンの紅茶は本当に美味しかった。
羊のミルクを入れたミルクティーにして飲むのだが、抜群に
美味くて毎日飲んだ。クソ暑い中で飲む甘くて熱い紅茶の味は
今でも忘れられない。

そしてあの親切だったオヤジの事も、最近テレビでパキスタン
報道がある度に思い出す。
元気でやっているのかな。

戻る