■ 私は死ぬのが楽しみだ
私は死ぬのが楽しみだ。 かといって、後五年や十年で死にたい訳ではない。 とりあえず七十歳位までは元気でいたい、と願っている。 七十歳を過ぎて長患いせずに、病気で死ぬのが理想だ。 そして、そこから我人生最後のたのしみがはじまる。 人と比べ様も無いが、私は特別に信仰深い人間では無いように思う。 しかし、死後の霊界については、その存在を深く深く信じている。 四十歳を過ぎたあたりから、よく自分が死んだ姿を想像する。 「人は死んだら、後はもう何も無い、無だ」と言う人がいるが、私はそれが信じられない。 私の肉体が滅びて、いわゆる死体となった状態であっても、私の意識は存在すると信じる。 だからと言って、その意識が現世の人々に「何かをする」という訳ではない。ただ見守るだけだ。 私が死んでその肉体は死体となり、私の意識は霊となり、その存在を確認し現世の霊を信じない者達へ「ザマー見ろ、俺の言ってた通りだろ」と叫ぶのだ。 出来得るならば現世に戻って証言したいが、それは無理であろう。 やがて葬儀となり、祭主の誄詞に女房や息子達は涙を流し(多分)、友人や知人達が参拝に訪れる。 その一部始終を私は、私の霊はちゃんと見ている。 そして、厳格だった祖父や、早死にした母、流れてしまった第三子らと共に霊界から現世を眺め、見守って暮らすのである。 祖先達にどの様に迎えられるのか。 出来れば「よくやった、良く頑張ったな」と言われて迎えられたい。 霊界での私はまた忙しい。 確認しなければならない作業はあるし、会いたい人(霊)も沢山いる。 そうこう考えて行くと、死ぬのが実に楽しみになってくる。 少なくとも「死んだら何も無い」と考えている唯物論者より、ずうっとロマンがある。 そしてこのロマンが現世での生き様に、己を律する心を生む。 いつも見守って、見つめられていると信じるから「よし、頑張ろう」と言うエネルギーが生まれる。 「死んだら何も無い」のであれば、人間は「後は知らねぇー」とばかり好き勝手なことをするのである。 人間の本性なんて、そんなに立派なものではない。 働いても、働かなくても、貰う物が同じであれば、結局働かないのである。 私の理想の臨終シーンは「俺にはまだ楽しみがあるんだ」と言ってニヤッと笑って息を引き取る事だ。 この理想の臨終を迎える為の必要条件は @早死にしないで、そこそこの年齢まで生き、尚且つ女房、子供達より先に死ぬこと。 A現世で充実した、幸福な日々を送る事。 @Aの必要条件を満たすためには、結局真面目に働き、神明奉仕に励み、ストレスを溜めない様に唯一の趣味である釣りをすることか。 死に方は大切である。 自らも穏やかで、残された者に安心を与えられるような死を迎えたいものである。 |