雑 感 ホームへ戻る
平成21年7月22日(水) ブログ開設
ブログも開設してみようと思い、ある知人の方のブログを参考に作ってみた。ホームページとブログの二足の草鞋もどうかと思ったが、使い分けをしようと考えた。ホームページはこれまでと同じように情報を提供し、ブログは、これまでの私の撮影記録を読んでもらおうと。私のホームページで公開しても良いことであるが、契約の容量が残り少ないことを考えるとこれまでの撮影記録のまとめは、ブログで公開しようと考えた。そこには、これまで25年の野鳥撮影記録と野鳥写真を載せ公開している。是非時々覗いて欲しい。時々更新するから。
平成21年7月11日(土) お前はどういう人間になりたい?
雲に覆われた太陽を見つめながら考えた。お前はどういう人間になりたいと。
私は、子どもに信頼され、親にも信頼され、同僚にも信頼され、そして、地域の人にも信頼される人間になりたい。
しかし、今の自分はどうだ?誰にも信頼されると言う人間ではない。これからは誰からも。いや違う。私を信頼してくれる人間をどれだけ作れるかだ。私が信頼される人間になることだ。自分に信念を持つのはよい。しかし、誰にも指示されず、信頼されなければ何にもならない。
平成21年5月31日(日) 依頼心を捨て
私がここまで生きてこられたのは、いろんな方と出会い、多くの方々にお世話になったお陰だと思う。それは、仕事の世界でもそうであるし、プライベートでもそうである。
その中でも特に、私が先生と尊敬する方々には本当に感謝を申し上げる次第である。私は、多くの先生方にご指導ご鞭撻を頂きここまで生きてこられた。例えば、私が子どもたちを教えるという仕事がここまで続けてこられたのもそうである。また、趣味である写真の世界でも同様。本当に多くの先生方や仲間に支えられ、お世話になってきたからこそ、今の自分があり、これからも生きていけると思っている。
しかし、私は最近になってこれまでお世話になってきた仲間や先生方に甘えて良いものだろうかと思うようになってきた。それは、特に写真の世界でお世話になった仲間や先生方にである。これまで私の尊敬する仲間や先生方に、本当にお世話になった。野鳥写真の世界でも、何人かのプロとして活躍している先生方にお世話になっている。また、二科会写真部神奈川支部や相模原市の写真活動においてもプロの先生方にお世話になっている。そのプロとして活躍をしている先生方は、その実績も華やかで今でもその世界では第一人者として活躍をしている方々である。これまでの自分があるのもそのような先生方に出会い、そして、ご指導いただいたからこそであると、深く感謝するものである。
しかし、最近になってそう思えばそう思うほど、それで良いのだろうかと思うようになってきた。それは、これまでは、そのような先生方のお陰で写真の入選を果たしたり、私の作品が選ばれたのではないだろうかと言う思いが拭いきれなくなってきた。私の疑念かも知れない。しかし、先生方のお陰で今の自分の写真の実績が評価され、その実績があるのではないだろうかと思うと、何か自分としては納得がいかないし、そんなものを払拭してこそ自分の真価が問われるものであると思う。先生方に甘えてその縁で自分の写真が評価されたり、仕事を続たりするのはどんなものであろうかと思うようになってきた。正直な気持ちである。これからは、いろいろお世話になっているプロの先生方に甘え、頼ることなく自分で自分の世界を築きたいと強く思っている。どれだけのものができるというものではない。依頼心を捨てたいだけのものである。依頼心を捨て、孤高の人に・・・。人一倍寂しがりやで弱い人間である私が、孤高の人になれるはずがない。しかし、自分の世界は自分で築きたい。どうすれば自分の世界が築けるのかを、今後考えていきたい。
といっても、勿論お世話になっている先生方を大切にすることを忘れるものではない。お世話になっている先生方のこれからの益々のご活躍を祈念している。
平成21年5月13日(水) 大きな組織の中で自分の使命を果たすために
大きな組織の中で自分の置かれた立場でその責を果たすことは、容易なことではない。そのことは、自分がその立場に立たされたときに自覚をしなければならない。その自覚がなければ、その仕事は請け負うべきではない。自分にできないことはきっぱり断るべきである。しかし、「お前にしかできないんだよ、是非、頼むよ」とお世話になっている方に頼まれると、なかなか断れないのが人情である。そのことが後になって思わない失敗をすることがある。その仕事は自分にはあまりにも大きすぎたか、小さすぎたかの時である。大きすぎたときには潰れ、小さすぎた場合は幻滅する。自分にはどれだけのことができるのか、どこまでその責任が果たせるのかを自覚して、仕事は請け負うべきである。そこまで自覚をし、その責任を負うのであれば、どんなことがあっても、体を張ってその責任を果たすべきである。そのためには、できるだけ感情を抑えてもの申すことも多くなる。なぜなら組織の多くの人は、そのことに自覚を持ってもの申すことはないからである。組織の人はその組織のためにと思ってもの申すのである。そのことを理解し、受け留められない人は上に立てる人間ではない。例え、それが考えが違っても「そのような考えもありますけど・・」とか言って、それから自分の考えを述べるというのが、常識ある人間である。それを自分の考えを逆なでされたとしても、感情的にもの申す人間は、器の小さい人間であって,、大した人間ではない。そういう私も感情的な人間であって、「売られた喧嘩は黙っていられない」という類の人間である。しかし、その立場に立った時には、ある程度感情のコントロールや節度は持ちたい。少なくとも、子どもと同じような言い方はしない。そのコントロールができない人間は、子供と一緒であって人の上に立つべき人間ではない。私も自戒を込めて言いたい。感情的にもの申す人間が上部にいる組織は、それをカバーする人間がいなければ滅びるであろう。ましてや役員会と称する場において、同じ議論を何度も繰り返すような組織には、期待が持てない。、
みんなで何かを作る、何かをやると言うときには、寛大にいろんな人の考えを受け留め、いろんな考えの人を上手くまとめる人こそ人力があり、人徳がある。自分の伝えたことに不備があり、そのことを指摘されてすぐカッとなってもの申す方は組織の上に立つ人間としては最低であり失格である。そのような組織は、そのことを指摘して改善する人がいなければ、長続きはしないだろう。人は、感情的に言われれば、カッとなることもある。しかし、あまりにも瞬間湯沸かし機でその人の人間性まで否定するような発言には気をつけなければならない。名指しでその人間性を否定するような方がいる組織には協力できない。しかし、その人の感情を悪くしても、その組織を悪く思うものではない。私が関わってきた組織は今後も、益々発展することを願っている。それにしても、最近私が関わってきたある組織の事務局の人には幻滅をした。子どもの気持ちがよく分かった。そういう私も子どもである。これまで、仕事も含めていろんな組織、団体に関わってきたが、私の学びとして大切にしたい。自戒の念を込めて。
平成21年2月26日(木) 写真仲間が永眠された。まだこれからと言う時に。
体の具合を悪くして入退院を繰り返していた写真仲間が、今日永眠された。初めは歩くことがままならなくておかいしと思い、病院へ行ったようである。いろんな検査の結果、脳におできができているという奥様のお話であった。しかし、脳梗塞か脳溢血かと私は素人がてらに思ったものだ。その後、退院して自宅療養となり元気な姿が見られた。それでも、話す声が小さくなり、食も細くなったと言うことであった。また入院して治療にあたると言うことであった。それでも、絶対に元気になって戻ってくると私は信じていた。なぜなら、気持ちの強い方で日頃から健康には、それなりに気をつけていた方であったから。その方が、今日亡くなったという訃報を聞いた。信じられない。
しかし、思い当たる節はいくつかある。声が出なくなったり食が細くなったりと言うことは、元気を取り戻すことの限界にあったのだと。私も何度か入退院を繰り返した。その経験からもそのことは想像がつく。そのことを思うともっと早く見舞いに行ってあげたらと悔いが残る。
その方の家族のことを思うとつらいが、意欲的で野鳥に理解のあったその方に、私達のクラブに貢献していただいたことに栄誉を送ると共にその功績を讃えたい。その方は幅広く人脈を持っていた方だから。また彼のご冥福を祈ります。
平成20年8月16日(土) 「戦争の悲惨さと世界平和」を次の世代に
1年ぶりにこのコーナーを書く。これまで思うことはあったし、考えることも多かった。しかし、何だろうか、このコーナーに書き込もうという意欲がそれほどでもなかった。まあいいや。「雑感」に書き込むことでもないな。と思いながら、今日になってしまった。1年ぶりにこのコーナーを書こうと思ったのは、江成常夫先生の「鬼哭の島」のNHKの「視点・論点」の番組を見てからだ。江成先生は「鬼哭の島」太平洋戦争で激戦地となった太平洋の島々を巡りながら、未だに遺骨となって浮かばれない戦死者の悲しみを写真を通して見つめ、そして、人間としての生き方を追い続けている。その番組を見て、戦争の悲劇を二度と繰り返さない平和への願い、今生きている人間として、写真家としての社会的役割を担う大きな存在である江成先生であることを改めて認識した。そのことに刺激された私は、久しぶりにこのコーナーを書く気になった。勿論、今日のテーマは、「戦争の悲劇を次の世代に」である。
私は、戦後の9年生まれである。勘違いしないでほしい。昭和9年生まれではない。戦争が終わって9年後の生まれということである。だから直接戦争を知る人間ではない。それでも戦後の恵まれない中で必死に経済成長を続け、だんだん経済的に豊かになっていく日本を感じとってきた。経済的に豊かな日本。私もその経済的に豊かな時代に育ち、その恩恵を受けて育った人間である。しかし、、祖父が軍隊から帰ってきて、病気になって亡くなったこと。祖母が満州から日本に帰ってきたことや、原爆投下の後に広島市内に入ったこと。履歴書を書く時に父親が国民学校出身であったこと。子どもの頃、浜辺に行くと薬莢が埋まっていたり、砲台山や防空壕があったり。そこが私達の遊び場であった。そんなことを考えると、まだまだ戦争と繋がっていた時代であった。それが私の若い頃であった。
この国は、順調に経済成長を続け、世界的も経済大国と成長した。その国が、オイルショックや経済のバブル期がはじけたことも経験してきた。今の日本は、経済を必死になって立て直そうと頑張っている。しかし、このところの原油高やマネーゲームとしか思えない金の流れによって世界経済がおかしくなっている。行き先不透明な時代。これからの日本はどうなるのだろうかと思いつつ、これまでの54年間、私も必死になって生きてきた。その間、体をこわし入院生活を繰り返したときもある。そんなとき命の大切さをいかに感じ取ってきたことか。がむしゃらに働くことよりも、今の自分を大切にしよう。今生きていることの喜びを感じよう。生きているうちにやれることをやろう。「自分らしく生きよう」そう思ったものである。そんなことを思い続けてきた私に、この夏強く思いをはせたものがあった。
これまでの日本は、確かに経済的には恵まれた。が、ずっと忘れ続けてきた日本もある。そんなことを今になって改めて強く感じさせたものがあった。それが江成常夫先生の「鬼哭の島」である。この8月になるといつの年も、8月6日(広島原爆投下)と9日(長崎原爆投下)そして、終戦記念日の15日は忘れたことはない。いつも黙祷を捧げ、二度と戦争の悲劇をくりかえさない世界をと強く思う。戦後65年。戦争を直接体験した人たちが高齢を迎え、だんだん少なくなっていくという。そんな中で、生きているうちにと戦争の語り部として活躍する人たちにエールを送る。と共に、その記録を残し、次の世代に受け継ぐべき我々の役割の大切さを強く感じる。戦争の悲惨さを写真に収め、それを通じて、人間の愚かさと、人間としてどうあるべきかを次の世代に伝えようとする江成先生。これからの更なる活躍を切望する。この夏、北京オリンピックが華やかに開会した。その開会の日にロシアとグルジアの紛争が始まった。私も小さい存在であるが、「戦争の悲惨さと世界平和」を次の世代の子ども達に伝えたいと思う。そう強く思うのは、私が、広島出身と言うことも原点にあるのかもしれない。
平成19年8月13日(月) 写真展を終えて
今年も8月1日から10日まで相模川清流の里にて、相模バードフォトクラブの写真展を開催した。8月に入って猛暑の日が続く中、多くの方々にご高覧いただくことができた。交通の便の悪いところであるが、遠くからも多くの方々に来ていただき深く感謝している。
私たちのクラブでは、例年夏に相模川自然の村清流の里にて写真展を行うことにしている。清流の里で行うのは、私たちのクラブは、相模川とその周辺で野鳥の写真を撮り続けてきたメンバーであり、相模川に最も近い写真ギャラリーを設けてくれているのが清流の里であるからである。また、会費制で運営されているクラブであるが、財政的にも厳しいクラブにとっては、無料で利用できるのもありがたい。そのためには、3ヶ月前の1日の抽選にメンバーが駆けつけるという苦労もあるのだが、そこが私たちのクラブの発表の場としては最もふさわしい所であると思っている。
写真展を行う目的は、私たちの作品を多くの方々に見ていただきたいと言うことと、写真の美しさや感動を伝えたいと言うことである。私たちは先にも述べたように相模川とその周辺を中心に全国各地で撮影した野鳥写真を通して、多くの人にその美しさや感動を伝え、その喜びを分かち合いたいと考えている。そのために写真展を開催すると言うことは、相当のエネルギーを必要とするものであるが、年に1回は写真展をやりたいと思っている。
また、写真展をやって今回もよかったなと思うことは、教え子(直接の教え子ではないが)がわざわざお母さんと一緒に見に来てくれたことだ。この子とは時々ホームページを通じて鳥のことでメールのやりとりしている子であるが、写真展にも来てくれて本当にうれしかった。この子の印象に少しでも残り、これからの成長に役立ってもらえたらと思う。もちろんこの子に限らず、わざわざご来場いただいたすべての方々に深く感謝を申し上げたい。相模原市写真連盟の方々、野鳥写真やその他の写真関係で知り合った方々、ホームページを見ていらっしゃった方々、通りがかりで見ていただいた方々、様々な方に見ていただきました。本当に大変ありがとうございました。
これからも、未熟ではございますが、ますます精進していきたいと思います。よろしくお願いします。
平成19年5月9日(水) 全国各地で30度を超す真夏日
東北南部から九州にかけて30度を超す真夏日になった。5月初旬というこの時期に真夏日を越す地方がこんなに多いということは、やはり地球温暖化が進んでいることを実感する。この近年、地球温暖化が進んでいる現象は多いが、今年のこの5月初旬で日本各地で30度を超す真夏日。どう考えても異常気象というほかはない。このことと鳥との関係も無関係ではない。なぜなら、鳥の観察においても地球温暖化のこと考えさせられるからである。例えば、関東地方でシロハラクイナやレンカクが観察されたりすることである。シロハラクイナやレンカクという鳥は、これまで、南方、九州や沖縄、北でも関西などで観察されたこたことはあるが、関東地方では観察されたことはなかった。それが関東でも観察されるようになったということは、やはり地球温暖化と関係があると言わざるをいえない。この日、光化学スモッグ注意報が出された。子供たちの5校時の校庭での体育はできなかった。
平成18年12月12日(火) その瞬間を伝えたい
写真の特性は、その瞬間を捉えるもの。ビデオなど動画は、ストーリーとしてそのよさはあるが、写真はあくまでもその一瞬を捉えるもの。その世界のすばらしさを伝えるもの。私でいえば、野鳥の美しさや野性としての生き様、その瞬間を捉えた写真で多くの人々に伝えることである。私は、野鳥の四季を通しての美しさやその中で繰り広げられる野鳥の営み、生きることの厳しさや強さなど、野鳥のすばらしさを写真に捉え、多くの人々に伝えていきたい。その感動を分かち合いたい。そんな気持ちで写真を撮り続けている。
平成18年10月24日(火) デジタル写真に思う
昨年の暮れにデジタル1眼レフを買った。それから条件の悪いときにはデジカメを使おう、銀塩で撮影できる条件の時には銀塩で。デジカメと銀塩カメラの使い分けをしようと思って今日まで来た。そう思いながらしばらく使って思うことは、確かにデジカメは便利である。暗い時やどうしても速いシャッタースピードが要求される時などには、銀塩に比べると、感度を一こまずつ変えられることやレンズの長さをカバーできることなど、撮影者側からすると大変便利なものである。
しかし、撮影したものを、プリントにするとどうだろうか。というのは、適正露出で撮影したもので、モニターで見ると、これはよい写真が撮れたと満足して、プリントに出してみると、がっかりすることがある。それは、モニターで見た画面と、出力したプリントでは大きく違っているからである。パソコンのモニターは全てその会社や製品によって違う。その差をなくするためのソフトもあるが、高価だそうだ。
そこで、私が今試みているのは、いかに、今自分が使っているモニター画面で見る画像と、写真屋さんに出してプリントしていただく写真の仕上がりが同じになるかである。そのために、明るさやコントラストなどをいくつかに変えたデーターでプリントを出し、自分が今使っているパソコンのモニターでイメージしたものと、写真屋さんのプリントのできあがりを比較するようにしている。そして、どれだけ自分がイメージしたものと違うか、どうすればその違いを近づけられるか。
銀塩に比べて、デジカメの場合はプリントに仕上がるまでの過程が全然違う。デジカメの場合、ポジのようにそのままの色やコントラストで印画紙に焼き着けられるというものでなく、デジデーターがあり、モニター画面で修正、プリンター性能、インクの違い、印刷用紙の違い、銀塩ポジによるプリントまでの過程の違いによるものであろう。
しかし、今強く思うのは、デジタルにしても、白いものが白くプリントされる写真屋やラボに注文を出したいものである。
平成17年5月8日(日) 危機管理意識に思う
兵庫県尼ヶ崎の列車脱線事故は、107人もの死者と多くのけが人を出し本当に悲惨な事故である。事故原因は事故調査会の報告を待たないと分からないが、オーバーランしたことによって遅れた分を取り戻そうとしてスピードを出し過ぎたことが大きいのだろう。しかし、日勤教育や過密なダイヤによる運行、安全対策が充分でなかったという会社全体の体質と言うことも大きく関わっているように思う。また、事故後の対応や後処理についても問題が大きかったと思う。JR西日本の事故当日における同じ列車に乗っていながら被害者の救済にあたらなかった乗務員やボーリングやゴルフ、慰安旅行、宴会と社員の意識には強い非難が浴びせられている。被害者やその家族の思いを考えるとそれも当然である。
どんな事故でも、まず被害者の救済を最優先にすべきことである。今回の事故では、会社の被害者を逆なでするような不誠実な対応が問題となっている。事故の重大性を認識できなかった現場の人間や管理者(上司)の認識の甘さには、その責任を厳しく問われても仕方がない。
何か事故や災害が起きたときにどう行動すべきか、しなければならないか、改めて考え直す必要がある。私もそういう危機管理意識を高めたいと思う。今、全く安全という社会ではないのだから。
平成16年12月28日(火) この一年をふり返って
この一年をふり返ると、オリンピックで活躍した選手やメジャーリーグで記録を更新したイチローや松井選手のように明るいニュースもあったが、猛暑の夏、豪雨、台風、地震と災害に見舞われ、今回のスマトラ沖の地震や津波の被害を思うと、まさに「災」という字に象徴される年であったといえる。
私にとっても、特に新潟中越地震の時には微力ながらボランティアとして実際に現地に行き、その災害の甚大さや被災者の方々の苦労や悩みを聞くことができたことが、この一年の最も大きな体験であった。その体験が被災地や被災者の方々にとってどれほど役に立ったのか、また、自分にとってもどれだけのものだったのかと言われると、分からない。
仕事の面でもどれだけの仕事をしてきたのかと問われると、このところ怠慢な面が強いことを自覚している。難しくなってきた子どもたちや親の問題に直面しながらも、そのことにもっともっと真剣に答えていかなければならないと思う。そのための校内研究や自己研修に努め、力を付けなければと思う。しかし、かつてのその気力が薄れてきたのが、本音である。年をとったと自覚している。
趣味で続けてきた写真もこの一年進歩がない。マンネリ化してきた。その殻を破るためにも、もっと違った視点で写真を撮っていかなければと思う。その反面、これまでのものを大切にしたいとも思う。かなり揺らいでいる。迷いがある。まだまだ未熟者である。
来る年は、もっと自分自身が進歩できる年にしたい。そして、来年は「幸福」とか「幸」とか「喜び」とかという明るい字に象徴される年になって欲しいと、願っている。
皆様方、良いお年をお迎え下さい。
11月25日(木)
新潟中越地震の被災地を訪れて その3
ボランティアとしてやってきたこと
ボランティアとして何をやってきたのかというと、初日の仕事は、避難所での救援物資の各家庭毎の区分け作業と自衛隊の炊き出しの食事を避難所へ運ぶ仕事である。炊き出しの仕事は昼と夕方の二回だけであった。そのため午後からは少し暇になったが、そのおかげで被災者の方々と少し話ができて良かった。昼からは子どもたちも学校から帰ってきてにぎやかになった。子どもたちの表情は思ったより明るく元気なので安心はしたが、心に残った傷跡は大きいものだろうと思った。お年寄りの方の話では、初め河原の避難所に避難したが、山古志村の災害ダムの決壊などの心配もあり、再びこの場所へと避難してきた大変さや仮設住宅の申し込みが迫っている中、娘夫婦が一緒に暮らさないかと言ってきているが、永年暮らしてきた場所は離れたくないし、どうしようかと迷っているという切実な話など深刻なものであった。
二日目は、朝は子どもたちの学校への登校の付き添いをやってきた。被災地はいたるところ子どもたちにとって危険な箇所があり、また、いつ急に大きな余震が来るかも分からないと言う状況で、子どもの安全を図るため、集団登校に地元の先生方や警察、ボランティアの方が付き添って登校をしている。その仕事の後は、せっかく来たのだからいろんな場所へ行っていろんな仕事を体験してみたいと思って仕事を待った。そして、やってきた仕事は支援物資の運搬作業であった。全国から送られてきた支援物資が次々とトラックで運ばれてくる。その荷物を支援物資一時保管場所として確保された屋内テニス場へと運び積み上げていくというものであった。この作業は30人くらいのボランティアで行ったが、私にとってはハードな肉体労働であった。主な支援物資は食料や日常生活品であったが、その数は膨大なものであった。トラックの荷物をすべて運び終わって次のトラックがやってくるまでの休憩時間はあったが、その間隔はおよそ15分程度であった。その仕事は午後も続いた。一日よく働いたという充実感はあったが、本当に疲れた。
三日目は、ボランティアセンターでの救援物資の積み直し作業であった。物資置き場に積み上げられたペットボトルの水を積み直す作業でこの日も30人くらいのボランティアで行ってきた。この日はバケツリレー方式で次から次へと渡していき積み直すもので、まるで筋トレを行っているかのようであった。もう午前中には腕がパンパンになりさすがに疲れてきた。積み直したペットボトルの荷物(1〜2リットル、6〜10本入りのもの)でざっと数えて3000箱。ミネラルウォターは充分足りていることを体で感じてきた。
11月18日(木)
新潟県中越地震の被災地を訪れて その2
ボランティア活動班の言葉
私が訪れたのは新潟県川口町ボランティアセンターである。11月10日の夜には川口町のボランティアセンターに着いた。その駐車場で夜を明かし、受付が始まるという午前8時を待った。その前から日赤の医師など多くのボランティアの方々が動き始めていた。
受付をしてガムテープにマジックで名前と受付番号を書き、それを胸に貼ってどんな仕事があるのかを待つ。ボランティアの仕事を調整し、声をかけるのが活動班の方々である。この方々もボランティアである。しかしなかなかボランティアの仕事の声がかからない。テントの中には全国から何かできることはないかと駆けつけた大勢のボランティアが集まっている。まるで仕事を求めてやってきた職業安定所(ハローワーク)のようであった。
そんな中でボランティアを募集する活動班からこんな言葉があった。「ここは職安ではありません。仕事がないということは被災者自らが自らの力で生活を立て直し努力しているということです。その点を良く理解して、しばらくお待ち下さい。」ボランティアは全国各地から駆けつけてきたのであるが、被災者がボランティアに望む仕事、やってもらいたいことに応えるのがボランティアのあり方のだろうと思った。そのことを考えないで、何でもいいからやろうとするのは被災者の方々にとって余計なお世話なのであろう。何をやればいいのか、どこまでやればいいのかを考えて行動する必要があると感じた。
11月15日(月)
新潟県中越地震の被災地を訪れて その1
一刻も早い復興を
新潟中越地震が起きてから3週間目に震災救援ボランティアとして川口町に行ってきた。川口町といえば、震度7を記録した震源地に最も近い所である。大きな被害を受けた山古志村や小千谷市はその隣に位置する。川口町だけでなくその周辺の状況も車で回って見てきた。
被災地に入ってみると、比較的建物の被害は少ないように感じた。しかし、よく見ると古い建物は軒並み倒れたり傾いていたりしていた。道路も崖崩れや陥没のため通行止めや片側交互通行の所も多くあった。町の公園の体育施設の地面は大きく地割れをし地震の甚大さをあらわにしていた。道路の修復工事は急ピッチで行われかなり車が通れるようになってはきたが、いろんなところで段差があり道路の端は大きく陥没したりガードレールが飴のようにひん曲がったり電柱が傾いたままの所も多くあった。
余震が続いている中で、被災した人々は未だに避難勧告が解けずにテントなどでの避難生活を余儀なくされている。不自由で辛い生活を送っているように感じた。電気は復旧していたが、水道やガスは未だに復旧していなかった。ガスは多くの家庭が都市ガスを利用しており、火災が少なかったのはガスの遮断弁が作動したためだという。この地域は近くに天然ガスが出る所があって日本でも早くから都市ガスが普及したということである。水道は近くの水道局の配水車が回って貯水袋(タンクではない)に吸水したり、ペットボトルの水で賄っているという状況であった。寝泊まりは自衛隊の設置したテントで。トイレや風呂は仮説のもので凌いでいるという状況であった。被災者の身になって考えると不便で辛い生活を余儀なくされていると強く感じた。食事は自衛隊の炊き出しが行われており、食べ物や水、衣類などの物資は全国から送られてきており、充分行き渡っているように感じた。
しかし、この地方は豪雪地帯でこれからの季節は少なくとも1、2mの積雪があるという。これからの生活のためにも仮設住宅の建設や家に帰れる人たちには家の片づけなどを行い安心して暮らせる場所の確保など一刻も早い復興が望まれることを強く感じてきた。
7月29日(木)
これがベストだ!これ以上のものはない!ということはない!
最近アオバズクをずっと追っている。この時期は、その人によってそれなりの狙いがあるのだろうが、私にとっては、最も身近であるし一つの環境のバロメーターのごとくアオバズクの繁殖地を市内に探し歩いてきた。今年はその当たり年なのだろうが、市内でこれまでの所以外に新しい繁殖場所を見つけることができた。
その中で最も近くで撮影できたのは10〜15mという所であった。しかし、近くで撮影できるということ以上に撮影条件の良いという点ではそんなに良い所はなかった。それでも一日中観察する中で良い条件の時を見つけることはできた。そして、私が狙ってきた羽伸びなどの動きのある写真も撮れた。しかし、ある枝がなければとか、もっと光線状態が良ければとか、もっとシャープに写し留めることができたらなどと欲をかく。どれを見てもこれで満足、ベストの写真が撮れたというものはない。限りなくその上を求め、欲しがるからこそ発展がある。これがベストだ、これ以上のものはないということはないのである。
6月30日(水)
多くの人々に支えられながらも
その道を突き止めることを「蛇の道はへび」と言うが、どうしてここが分かったの?どうしてここへ?と言うことは良くある。自分しか知らないはずなのに、いつの間にか誰かがやってくる。どうして?なぜ?誰から聞いたの?なんて勝手に思う。できたら誰にも知られずに、そっと自分だけでと思うが、そう簡単には問屋がおろさない。
鳥の写真を撮るために、いろんな人から多くの情報を頂きそのおかげで写真が撮れる。その情報を頂いた方々に深く感謝すると共に、私一人では決して写真は撮れないと悟る。自分が納得のいく写真が撮れると言うことは、多くの人々に支えられてこそできるものである。
しかし、多くの人々の情報で撮影に出かけながらも、自分自身で撮影できる場所を探したいと思うのも事実である。私一人でしばらく観察し、そして仲間に知らせ、一緒に写真が撮れることに越したことはない。
平成16年4月20日(火)
写真に力強さを
最近の自分の写真を見て思う。厳しさがない!ちょっとしたしぐさの中に野鳥の美しさ、可愛らしさ、愛しさを感じ、それを写し留めることに努力してきた。そして、そのような写真は何枚か撮れた。
しかし、最近の写真を並べて思う。厳しい自然の中で生きる逞しさとか力強さというものが表現されていない。もっと力強さや迫力、野性としての力強さや逞しさを撮るべきである。
私のこれまでの写真には、迫力、インパクトがたりない。力強い写真をもう少し私のアルバムに追加したい。
9月30日(火)
事実の中に自分の考えを
その時、その都度あったことを書き留める。はじめは、その事実だけを書き、その中に自分の思いや考えを書くようにしているが、自分の書いたものを後で読み返してみると、その文章があったことそのままのものでしかなく、それでどうだったの?だからどうなの?と言う自分の考えや思想がないことが多い。
そんな時、自分の文章力や考えの甘さを感じながらも、自分の考えや思いを誰かに伝えたい、その中で何かを感じて欲しい、学んで欲しいと強く思う。
そう自分で気づいた時、できるだけ客観的に事実を伝えながらも、その中に自分の思いや考えかたを入れていきたいと思った。そう努力しなければ、相手の人に共感を与えることはないだろうし、共感を持たれることはないだろう。できるだけ多くの人に共感や同感を得られるようにこのページを更新したい。
8月18日(月)
久保敬親写真展を見て
久保敬親さんの写真を見て思う。これほどまで自然(被写体)と対峙し真正面から真っ直ぐに、素直にシャッターを切った写真家を他には知らない。ヒグマ、キタキツネ、エゾジカ、ナキウサギ、オオワシ、オジロワシ、シマフクロウ、シロハヤブサ、シマエナガなど数多い作品一つひとつを見ながら圧倒される。久保先生の作品を評する言葉は私には持ち合わせていない。評することは私にはできない。
小手先の写真技術にとらわれず、その美しさや感動を真正面から捕らえ、それを圧倒的な迫力でもって真正面から伝えること。それが写真の神髄なのかも知れない。
ともかく、純真な気持ちで自然と対峙し、その純真な気持ちをあるがままに写真に捉えたのが久保先生だと思う。だからこそ先生の写真は感動が強く伝わってくるのだと思う。
8月16日(土)
終戦記念日に思う
終戦記念日8月15日、及びその前後に放映された戦時中の様子や原爆の悲惨さ関東軍による検閲などの、戦後57年の映像を見て思うこと。戦争のために苦しい人生を歩んできた方々の生き様を見せつけられた時、私も人ごとではない、自分自身の問題であると思う。
被爆し、その後白血病になり、「千羽鶴を折ると私の病気は治るの」と鶴を折り続けながらも11歳という若さで亡くなった佐々木貞子さん。平和の子の像のモデルとなり、今も全世界から平和を祈り、折り鶴が送られて来るという平和の象徴。それが今年8月6日の原爆記念日の直前に心ない大学生によって放火されるという考えられない悲しい事件が起きた。その後、そのニュースを知ったその大学関係者をはじめ、全世界の人々からそれ以前を大きく上回る折り鶴が、平和公園に送られてきたという。
そんなニュースを見聞きし、日本が戦争という悲しい事件を起こし、つらく悲惨な時代を築いてきた事実とその歴史を今でも引き続き残しているという現実。私は忘れたくはない。
私の祖父も戦争に行き帰ってきたが、病気のため若くして亡くなったことや身近な人が被爆し被爆者手帳を持っていたことなどを考えると他人事とは思えない。
忘れたくはない。もっと知りたい。そしてそのことをこれからの人に伝えたい。私ができることは・・・。
5月20日(火)
なぜ、写真なの?
「なぜ、写真なの?」「なぜ、写真を撮っているの?」「なぜ、写真で自分を表現しようとしているの?」と問われると、「はて、なぜだろう?」と自分でもはっきりした答えが出せない。
私のかつての自己表現の方法としては、絵(油絵)で自分をアピールし、その絵で自分自身の存在を示したものである。それがいつしか、絵の世界から写真の世界へと変わってきて、今ではもっぱら写真でしか自分を表現できなくなってしまった。と言うより、絵とは違う写真の世界に引き込まれてしまったと行った方が正確なのかもしれない。
写真の被写体として鳥の美しさやすばらしさに惹かれてもっぱら野鳥をと撮り続けているが、写真は絵とは違うリアリティや直接的な世界(現実)を伝えるものとして、野鳥の感動をいろんな人たちに広く伝える手段としてベストだと思っている。なぜなら、自然の中で懸命に生きる姿は自然そのものを見たままを直接的に伝えることこそ本物を表現できると思っているからである。こういう言い方をすると絵を描く人からは、多くの批判を受けることは分かって知るが、私には私の表現方法があり、考え方があることを言いたい。
4月22日(火)
テイクバイテイク
「お互い様」というのだろうか。こちらが悪気はないのだが、相手に不快感を与えたらり、相手が強気で「何だよ」と出てくると、こちらも「何だよ」と反発する。反対に相手が、穏やかに丁寧に接してくると、こちらも穏やかな気持ちで優しく対応をする。
私が相手のことを「いやな奴だな」と思うと、相手も私のことを「いやな奴」と感じるのだろう。相手に好意を抱けば、相手はそれを察して相手に対して穏やかで優しい気持ちになる。それが発展したものが愛情と言うことだろう。
テイクバイテイク「お互い様」と訳すと、何かいやな感じで「おまえがこうだから、俺はこうだ」という何か喧嘩を売っているようだが、本当の意味は違うのではないだろうか。お互いに相手を大切にし、お互いを敬う気持ちがあり、お互いを高めるという関係の時に使うのではないだろうか。私は英語の意味はよくわからないが、そんな時にこの言葉を使いたい。間違っていたら誰か教えて・・・。
最近この言葉が気になるのはなぜだろう?
平成15年2月9日(日)
写真を通して分かち合う
どんな写真でもそれぞれに訴えるものはある。社会性の強い戦争場面や人々の生き様をとらえた写真。何気ない人々の生活をスナップ的にとらえた写真。家族の成長や思い出を記録としてとらえた写真。自然の営みをそのままにとらえた写真。生き物の厳しさやすばらしさを感動とともに伝える写真など。写真のジャンルは幅広く、奥行きの深いものである。
私は、野鳥の美しさや生きることのすばらしさを写真にとらえ、それを自分の感動だけでなく、写真という作品を通じて多くの人々に見ていただき、その感動を分かち合いたいと思っている。自分の思いや感動だけにとどめるのではなく、その思いや感動を多くの人に伝えたい。そのために多くのコンテストへの応募や写真展を行うことにしている。
私たち写真仲間の中には、自分だけが写真を撮ることだけに満足し、それを他の人に見せることなく、あるいは写真展などで発表することなく写真を撮り続けている人もいる。それはそれでその人の写真の楽しみ方であり、否定するつもりは毛頭ない。しかし、それだけではあまりにももったいないと思う。自分が素晴らしいと思ったものや感動はできるだけ多くの人に伝えたい。それが自然な感情ではないだろうか。そして、多くの人に見ていただき、その感想や評価を得ることが自分のためにもなる。これまで写真展などで厳しい評価を得たこともある。しかし、それがあったからこそ今まで「よし、今度こそは」と自分を奮い立たせ自分を高める為に努力をする。そのことが肥やしとなって今までよりよい写真が生まれる。
大袈裟にいえば、自己満足の世界から、写真を文化といえる世界にまで発展させたいと考える。多くの人々に感動を伝え多くの人に評価されるようになれば、写真は文化へと発展する。写真を価値あるものへと発展させるためには一人一人の写真技術と感性と考え方である。
平成15年2月3日(月)
現実の一瞬を切り取る
「現実の一瞬を切り取る」それが写真の特性でる。現実は、時間とともに動き変化する。生きているものはもとより、動くことのない山や大地、そしてビルや橋などの人工物(正確に言うと地殻変動などで動くこともあるが)においてもそうである。
写真はその日々刻々と変化し、あっという間の動きを写し留めるというところにそのすばらしさがある。目には見えてもその瞬間瞬間をいつまでも残せるものは、その人の心と写真である。人の心の中には、多くの情報と印象を残せる。心は心として素晴らしい。
その印象を形あるものとして多の人々にも具体的に示せるものは絵や写真、映画、ビデオ、言語、音楽など多様な表現法がある。その中で私にとっては、その現実をリアルに写し留め、多くの人々に伝えられるものは写真でしかない。写真で写し留めたその瞬間と写真という表現方法には他の絵やビデオ、言語などと違ってその特性がある。現実をできるだけそのままに、リアルに伝える表現手段は映像である。その点では、写真もビデオも映像である。しかし、ビデオと違うものが写真にある。それは、一瞬の世界を写真プリントいう二次元の世界に表現(プリント)し、そのすばらしさを伝える手段は、写真でしかないと思うからである。(ビデオのその瞬間をプリントにしたもの、デジカメで撮影してそれをプリントしたものなど写真と同類と考える)<しかし、私は、ビデオでもなく、デジカメでもなくあくまで銀塩写真にこだわっている。
だからこそ、写真の持つ力強さとを写真というものに意義を見いだす。写真の持つよさを最大限に発揮したい。そして、日々努力したい。私のこだわりである。
平成15年1月15日(水)
厳寒の中で
このところ関東地方も寒い日が続いている。今日も北風が強く吹き続き寒い日であった。明日が寒さの底であるというが、このところの寒さには滅入る。
この暮れに訪れた北海道では、朝の気温が−20℃〜23℃という厳寒であった。冬の北海道は寒さが厳しいと聞いて、それなりの覚悟をし、それなりの準備をしていったが、さすがに−20℃という早朝の寒さには参った。何が参ったかというと耳と足のつま先の寒さである。耳は、毛糸の帽子に防寒着のフードをかぶって更にマフラーを巻いた。それでも耳の先は冷たい。足のつま先は靴下の上に靴下をはき、更に股引の袖をかぶせ、雪靴の中にカイロを2.3枚入れてもなお、指の冷たさは厳しいものであった。日中はそうでもないが、朝の冷え込みにはそれくらいの覚悟と装備が必要である。
平成15年1月8日(水)
思いがけないところから傑作が生まれるもの
ある情景を写真に写し留めたいとカメラに向かう時、カメラが表示した露出で撮影する。間違いは少ない。しかし、その時の被写体や時間帯、天候(気象条件)などによって自分なりに計算して露出を変えることは常である。例えば、被写体の色合いやバックの明るさ、その時の使用フィルムや使用カメラとレンズの特性、そして、撮影者の印象などによってカメラ任せではなく、自分なりに露出を変えて計算して撮ることはよくあること。つまり、その状態や条件によってカメラ任せに撮ったり、オーバー目に、あるいはアンダー目に撮ったりする。
今回の北海道での撮影でも、出来上がったポジフィルムを見ると、カメラ任せに撮ったものの中にもいいものはある。しかし、そうではなくこの場合はオーバー目に、アンダー目にと自分なりに計算して撮影したものの中にもいいものはある。さらには、計算外のもの(意外なもの)の中に自分なりに素晴らしいと思う写真が出来上がってきた。その多くは、自分の露出計算とは別に「思いがけなく撮れたもの」であった。
そこには、私の露出計算と写真技術の甘さがある。そして、「写真は思いがけないところから傑作が生まれるもの」というわかったような言い方をするところに私の未熟さと私なりの写真の楽しみ方がある。