第二部
第9回 手がかりの見つけ方-「近くに手がかりがある出題」(1)
第10回 手がかりの見つけ方-「近くに手がかりがある出題」(2)
第11回 手がかりの見つけ方-同じ言葉・よく似た表現
第12回 文中から抜き出す問題 プラス・イメージとマイナス・イメージ
第13回 難解な問題文の解き方 飛ばし読み・対立概念
第14回 詩の問題 文学体験
第15回 短歌を読む 感じるこころ
手がかりの見つけ方……「近く」に手がかりがある出題(1)
1から8まで、三浦哲郎の「たきび」による出題を用いて、読解の大切なきまりをいくつか学習しました。
さて、何ごとにも基本があります。細かいテクニックならいろいろありますが、それらをバラバラに用いたのでは、場当たり的で一貫性がなくなります。統一性の無い複雑な方法論は実践の役に立ちません。方法論はシンプルであること、これが鉄則です。
入試国語の基本 「設問をよく読み、しっかりと手がかりを押さえて解く」
これが国語入試問題対策の基本中の基本であって、原則以前の問題です。しかし、実際に生徒たちの解き方を観察して見ると、ほとんどといってよいほど実行されていません。しかし「手がかり」を押さえるという意識を持たないと、どうしても直感的な解き方になってしまいます。いわゆる山勘です。
山勘式ではギャンブルだと言われても反論できないでしょう。
方法論を教えずに、とても消化できないほどの大量の問題を解かせる指導法もあるようですが、それではギャンブルの勝負勘を磨く訓練と変わりありません。
今回から、この「手がかりを押さえて解く」方法を、実際の入試問題を解きながら練習してみましょう。
まず当たり前のことですが、出発点として以下の原則を確認しておきましょう。
原則 正解の「手がかり」は、ほとんどの場合問題文の中にある。
設問とは出題者が意図的に作成したものです。そして大勢の受験者の運命を決める重大な作業ですから、誰にでも納得できる客観的な根拠(=手がかり)をふまえなくてはなりません。
したがって、入試問題が根拠をふまえて作成されているのなら、逆に出題者が用いた根拠を探し出すことができれば、ほぼ間違いなく正解が得られるはずです。
探し方の順序は下線部(傍線部)や空欄の「近く」から「遠く」へが鉄則でした。
そこで、手始めに比較的「手がかり」を見つけやすい設問をいくつか解いてみることにしましょう。いずれも「手がかり」が下線部や空欄の近くにあります。易しい設問ですから「手がかり」無しでも解けると思います。しかし、解説をよく読んで、難しい出題の場合でも自己流で対処できるかどうか、よく考えてみてください。果たして大丈夫でしょうか?
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問一
下線部「遺跡」「人工遺物」「遺骸」を具体的に示しているものを同じ段落からそれぞれ探しなさい。「遺跡」は2つ、「人口遺物」は3つ、「遺骸」は2つあります。
解説
設問に「同じ段落から…」とありますので非常に解きやすいと思います。
「具体的に」というのははっきりした形があり、実際に見たり聞いたりできるものです。
「遺跡」
「遺跡」にあてはまるのは、問題文中に「藤ノ木古墳」と「吉野ヶ里」の2つしかありませんから、答えるのは全く容易です。
しかし、いつもこのようにうまく行くとは限りません。そこで原則どおりに「手がかり」を押さえて解いてみましょう。面倒くさいと思うかもしれませんが、難問に出会った場合に効力を発揮します。
第1段落
古い遺跡が発掘されるとき、各種の人工遺物に混じって先史古代人の遺骸(いがい)である古人骨が出土するのは珍しいことではない。現実に、藤ノ木古墳では二体分の遺骨が見つかっており、吉野ヶ里からは三百人分にものぼるだろうといわれる大量の古人骨が発掘されている。多くは保存状態がはなはだ悪く、石器や土器や金属製品ほどには世間の耳目(じもく)を集めることは少ない。しかし、文字記録に残される事もなく、遠い過去の中に埋もれてしまった古代人の様子を復元するためには、これら製作物よりも、それを製作した当事者の遺骸のほうが、むしろ大きな役割を演ずる場合だってある。うまく活用すれば、先史古代人の実像に迫るような、実に様々な情報が期待できる。
「人工遺物」
これも「3つ」という条件をふまえれば、たちどころに「石器や土器や金属製品」だとわかります。しかし、ここでも「手がかり」をふまえて解いてみましょう。
第1段落
古い遺跡が発掘されるとき、各種の人工遺物に混じって先史古代人の遺骸(いがい)である古人骨が出土するのは珍しいことではない。現実に、藤ノ木古墳では二体分の遺骨が見つかっており、吉野ヶ里からは三百人分にものぼるだろうといわれる大量の古人骨が発掘されている。多くは保存状態がはなはだ悪く、石器や土器や金属製品ほどには世間の耳目(じもく)を集めることは少ない。しかし、文字記録に残される事もなく、遠い過去の中に埋もれてしまった古代人の様子を復元するためには、これら製作物よりも、それを製作した当事者の遺骸のほうが、むしろ大きな役割を演ずる場合だってある。うまく活用すれば、先史古代人の実像に迫るような、実に様々な情報が期待できる。
「遺骸」
非常に印象的な事物ですから、これも実に容易です。しかし、ここも原則どおりに解いてみます。
第1段落
古い遺跡が発掘されるとき、各種の人工遺物に混じって先史古代人の遺骸である古人骨が出土するのは珍しいことではない。現実に、藤ノ木古墳では二体分の遺骨が見つかっており、吉野ヶ里からは三百人分にものぼるだろうといわれる大量の古人骨が発掘されている。多くは保存状態がはなはだ悪く、石器や土器や金属製品ほどには世間の耳目(じもく)を集めることは少ない。しかし、文字記録に残される事もなく、遠い過去の中に埋もれてしまった古代人の様子を復元するためには、これら製作物よりも、それを製作した当事者の遺骸のほうが、むしろ大きな役割を演ずる場合だってある。うまく活用すれば、先史古代人の実像に迫るような、実に様々な情報が期待できる。
正解 遺跡 藤ノ木古墳・吉野ヶ里、 人口遺物 石器・土器・金属製品 遺骸 古人骨・遺骨
問二
下線部「当事者」にあたるものを文中からぬき出しなさい。
解説
「『当事者』」にあたるもの」とは、該当するものということです。つまり、「当事者」に対応するものを探し出す問題です。
すでに問一で「遺骸」と「古人骨」の「対応関係」を指摘しておきましたが、この「対応の関係」を探し出すという方法がきわめて重要です。
さて、「当事者」とは、そのことに直接かかわりのある人という意味です。第一段落を探してみた限りでは、“登場人物”といえるものが「古代人」しか見つかりません。これを下線部に当てはめて、「古代人の遺骸」としてみるとぴったりします。
このような解き方でも本問の場合は正解になりますが、いつもこのようにうまくいくとはかぎりません。原則どおり「手がかり」を押さえて解いてみましょう。
まず鉄則があります。
下線部の前後をよく読むと、直前に「それ」「これら」という指示語があります。
・・・石器や土器や金属製品ほどには世間の耳目(じもく)を集めることは少ない。しかし、文字記録に残される事もなく、遠い過去の中に埋もれてしまった古代人の様子を復元するためには、これら製作物よりも、それを製作した当事者の遺骸のほうが、むしろ大きな役割を演ずる場合だってある。
鉄則 下線部(傍線部)や空欄の近くに指示語がある場合は、必ずその指示内容を調べる。(これは原則ではなく鉄則です)
指示内容はほとんど直前にありますから決して難しくはありません。
この場合、「それ」は「製作物」、「これら」は「石器や土器や金属製品」を指します。
つまり「石器や土器や金属製品などの製作物を製作した当事者」となります。
このように設問部近くの指示語を押さえると、そこから「手がかり」を発見できる場合が非常に多いのです。解答の決め手になるならないは別として必ず実行します。
以上を押さえた上で、 上に述べた「対応関係」を探し出す方法で解いてみます。
つまり、設問の「当事者」をキーワードとして、これと「同じ言葉」「よく似た表現」を探し出すのです。
原則 キーワードと対応関係にある「同じ言葉」「よく似た表現」を問題文の中に探し出す。
第1段落
古い遺跡が発掘されるとき、各種の人工遺物に混じって先史古代人の遺骸である古人骨が出土するのは珍しいことではない。現実に、藤ノ木古墳では二体分の遺骨が見つかっており、吉野ヶ里からは三百人分にものぼるだろうといわれる大量の古人骨が発掘されている。多くは保存状態がはなはだ悪く、石器や土器や金属製品ほどには世間の耳目(じもく)を集めることは少ない。しかし、文字記録に残される事もなく、遠い過去の中に埋もれてしまった古代人の様子を復元するためには、これら製作物よりも、それを製作した当事者の遺骸のほうが、むしろ大きな役割を演ずる場合だってある。うまく活用すれば、先史古代人の実像に迫るような、実に様々な情報が期待できる。
正解 (先史)古代人
問三
下線部「大きな役割を演ずる場合だってある」とありますが、それはなぜですか。次から選び、記号で答えなさい。
ア 遠い過去の生活を明確に伝えてくれるから。
イ 遺骸であるということで、みなの興味を集めやすいから。
ウ 人工遺物より遺骸の方が、多く出土しているから。
第1段落
古い遺跡が発掘されるとき、各種の人工遺物に混じって先史古代人の遺骸である古人骨が出土するのは珍しいことではない。現実に、藤ノ木古墳では二体分の遺骨が見つかっており、吉野ヶ里からは三百人分にものぼるだろうといわれる大量の古人骨が発掘されている。多くは保存状態がはなはだ悪く、石器や土器や金属製品ほどには世間の耳目を集めることは少ない。しかし、文字記録に残される事もなく、遠い過去の中に埋もれてしまった古代人の様子を復元するためには、これら製作物よりも、それを製作した当事者の遺骸のほうが、むしろ大きな役割を演ずる場合だってある。うまく活用すれば、先史古代人の実像に迫るような、実に様々な情報が期待できる。
解説
@消去法 A残った選択肢の検討 の順序で解いてみましょう。
@ 消去法
イ 「遺骸であるということで、みなの興味を集めやすいから。」
ウ 「人工遺物より遺骸の方が、多く出土しているから。」
A イとウが消去できましたので、正解は自動的に ア「遠い過去の生活を明確に伝えてくれるから。」 となるはずですが、ほんとうにアが正しいかどうか検討します。
原因と結果の関係に当てはめてみます。
ア
(原因)「(遺骸は)遠い過去の生活を明確に伝えてくれるから」
→(結果)「大きな役割を演ずる場合だってある」
問題なくつながります。
さらに問題文の中から、手がかりとなる部分を探して見ます。
・・・遠い過去の中に埋もれてしまった古代人の様子を復元するためには、これら製作物よりも、それを製作した当事者の遺骸のほうが、むしろ大きな役割を演ずる場合だってある。うまく活用すれば、先史古代人の実像に迫るような、実に様々な情報が期待できる。
「遠い過去の中に埋もれてしまった古代人の様子を復元するためには…当事者の遺骸のほうが、むしろ大きな役割を演ずる場合だってある」とつなげてみましょう。
「当事者の遺骸」によって「古代人の様子を復元」すれば→われわれに ア「遠い過去の生活を明確に伝えてくれる」という形でうまくつながります。
アでまちがいありません。
正解 ア
手がかりの見つけ方……「近く」に手がかりがある出題(2)
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問一
第2段落の下線部「それ」「そこ」が指している内容を、文中の一語でそれぞれ書きなさい。
解説
指示語の問題です。答える場合には、「文中の一語」という指示に気をつけます。
指示内容は、直前に見つかる場合がほとんどです。無原則にあちこち探し回ってはいけません。原則どおりに、必ず直前から少しずつさかのぼっていきます。
指示語は文章の流れの中で、いま話題になっている言葉や内容を繰り返し用いるのを避けるために用います。ですから、その指し示すものは、そこで話題となっている言葉や内容です。
したがって、指示語の問題を解くときは、直前の話題になっている言葉や内容に注目します。
(注)設問の中には、指示語の前ではなく、後の部分に指示内容が記されている場合がありますが、これは別の機会に説明いたします。
見つけ出したあとは、必ず確認作業を行います。
原則 指し示す部分が見つかったら、必ず指示語にあてはめて正しいかどうか確認する。
「それが間違いであることがわかってきた。」
第2段落
「人間の骨の形は遺伝的に決まっており、混血とか種族の交代などがない限り変わらない、極めて安定したものだ」、というのが長い間の定説であった。しかし、それ(定説)が間違いであることがわかってきた。かつては骨も生活する人体の重要な構成部分だったのだから、何らかの形で日常生活の跡がそこに記録されているはずだという認識(=理解)が、ようやく支配的になってきた。
「そこに記録されているはずだ」
第2段落
人間の骨の形は遺伝的に決まっており、混血とか種族の交代などがない限り変わらない、極めて安定したものだ、というのが長い間の定説であった。しかし、それが間違いであることがわかってきた。かつては骨も生活する人体の重要な構成部分だったのだから、何らかの形で日常生活の跡がそこ(骨)に記録されているはずだという認識(=理解)が、ようやく支配的になってきた。
正解 「それ」 定説 「そこ」 骨
第3段落 このような認識が生まれるきっかけとなったのが、「ウルフの法則」の再発見である。この法則の名前は、ドイツの解剖(かいぼう)学者ユリウス・ヴォルフにちなむ。彼は一九八二年に出した「骨の変形に関する法則」という研究書の中で、「動物の骨というものは、一生の間に、その構成部分に課せられた労働の方向に応じて形状を変え、労働の量を反映して厚みや大きさを増減するため、その時々の形状が変化して行く」と書いている。これが「ウルフの法則」である。 第4段落 生きて行く限り、私たちの骨は習慣的な労働や体調に応じて、その姿形を少しずつ変えていく。これは見ることはできないが、誰も疑わないだろう。それは日常生活でも十分信じられており、だから現代人は各種の運動器具を使ったりして、健康を保つことに余念がないのである。「ウルフの法則」はまぎれもない事実として人や動物の生骨で一般的に見られるのである。 |
問二
第3段落の下線部の内容を、わかりやすく説明している一文の最初の五字を書きなさい。
解説
「わかりやすく説明している」とありますが、これは意味内容をわかりやすく言い換えているということですから、第9回で解説した対応関係です。
下線部は医学の研究書から引用した文ですから、むずかしい表現で書かれています。確かに小学校6年生にとっては理解しにくいかもしれませんが、落ち着いて探せばすぐに見つかります。
設問の「一文の最初の五字」に注意します。
下線部の中の重要と思われる言葉をキーワードとして、「同じ言葉」「よく似た表現を」探します。
正解 生きて行く
手がかりの見つけ方……同じ言葉・よく似た表現
第二段落 第三段落 第四段落 第五段落 |
問一
第一段落の下線部「夕顔は白でなくてはならない」とありますが、その理由を次の中から選び、記号で答えなさい。
ア 夕顔の花は白いのが一番美しいと思うから。
イ 思い出の中の夕顔の花が白い花だから。
ウ 神戸には、たくさんの白い夕顔の花が咲いていたから。
解説
「白でなくてはならない」理由を問う設問です。まず問題文の中に「手がかり」を探るわけですが、まず問題文の中から「白」という言葉を探し出します。
問題文の中で、「白でなくてはならない」理由を述べた部分には、当然「白」という言葉が使われているはずです。あたりまえのことですが、これが重要な突破口になる場合が多いのです。
つまり下線部では「白」という言葉がキーワードになっています。そのキーワードと「同じ言葉」「よく似た表現」を問題文の中に探します。
これは、既に第9・10回で試みた「対応関係」を探し出す方法ですが、この方法の重要性を繰り返し強調しておきたいと思います。
このような「手がかり」の探し方はあたりまえすぎて馬鹿にする人もいるかもしれません。しかし、この方法を徹底的に訓練しなければ、例えば早稲田大学の入試現代文で合格点をとることは困難でしょう。
いきなり大学入試の話がでてきましたが、中学受験を志す人は、すべて大学進学を念頭においているはずです。そうであれば、この時期に悪い解き方の癖を身につけることは、後で大きな弊害をもたらします。
「手がかり」を押さえずに、直感的な解き方で高得点をマークできる生徒もいますが、それは集中力の優れた一部の生徒に限られます。そのような生徒でも、自分の関心とかけ離れたテーマが出題された場合には、問題文の中にのめり込むことができず、不本意な結果に終わることが多いようです。成績に波があるという場合、このような事情による可能性があります。
優れた出題者になると、受験生の「直感」を誤った選択肢に誘導していくのはお手の物ですから、自慢の直感が災いして、いわゆる「落とし穴」にはまり込んでしまいます。
特に大学入試の問題文は、高校の授業ではまず取り上げられることのない難解なものが多いので、読み進むうちに頭がボーっとしてきます。そして“山勘”が“鈍感”に変じてしまい、正解の選択肢に対して、釣りで言う「当たり」を全く感じなくなってしまいます。 正しい答を正しいと感じることができないわけですから、当然のことながら選んだ答は全く的外れなものになります。
手がかりを押さえずに直感で問題を解いた場合、答が合っているかどうか不安になるかといえば、案外そうではないようです。逆に自分の選んだ答に妙な自信を持ったりするものです。ですから、手早く答を選んで時間が余っても、なぜか本気になって見直すことをしません。そんな生徒が答案用紙を裏返して、なにもせずに試験が終了するのを漫然と待っている姿がよく見受けられます。そしてそういう場合にかぎって結果はよくないようです。生徒本人は、よくできたつもりでいるようですが、たいていの場合、返却された答案を見て青くなります。
では今回の原則に従って正解を導き出して見ましょう。
下線部の「白」という言葉は、第一・第二段落に出ています。
第一段落
花屋をのぞいたら、夕顔の苗があったので、思いきって二本買った。店の人が「あかね 色のがあるけど、二本とも白でいいんですか」と聞いた。もちろんですとも。私にとって、夕顔は白でなくてはならない。
第二段落
小学校一年生まで、神戸に住んでいた。毎年夏になると、母は夕顔の鉢を育てて白い大
きな花を咲かせた。昼間は日のあたる庭に出しておいて、夕方になって[ A ]と、鉢を玄関 の下駄箱の上に移すのであった。帰宅する父を迎えるためである。白といっても純白では
なく、花のしんは淡い黄をおびて、花弁はかすかに薄墨をはいたような夕顔の花。夕やみの中に白くうかぶ大輪の夕顔の花は[ B ]なまでに美しかった。
第一段落は夕顔を買い求めた場面でこの話全体の導入部、第二段落は夕顔にまつわる筆者の幼い頃の思い出を述べた部分です。
あきらかに第二段落に下線部の理由が述べられています。その理由は筆者の思い出の中にあるようです。
以上をふまえて、@消去法 A残った選択肢の検討 の順序で解いてみましょう。
@ 消去法
ウ 「神戸には、たくさんの白い夕顔の花が咲いていたから。」
A残った選択肢の検討
アとイの比較検討です。
理由を問う設問ですから、すでに何度も試みたように、ア・イと下線部を、原因と結果の関係に当てはめてみます。
ア (原因)「夕顔の花は白いのが一番美しいと思うから」
→(結果)「白でなくてはならない」
イ (原因)「思い出の中の夕顔の花が白い花だから」
→(結果)「白でなくてはならない」
さて、アとイを比べてみましょう。どちらもつながりとしては正しいように思えますが、この部分だけを読むと、おそらくアの方が印象的だと感じる人が多いのではないでしょうか。
なぜでしょう。
ここで次の二つの例を比べてみましょう。説得力があるのはどちらでしょうか。
例1の方を印象的で説得力があると感じる人が多いのではないでしょうか。一般に「意
見」→「意見」の方が緊密につながっていると感じる場合が多いのです。
例2では、「わた
し」もA君をすてきだと思っているのかもしれませんが、どちらかというと「一般にすてきだという定評がある(事実)」という意味合いを感じます。
以上の理由により、まずアに正解の可能性を感じた上で、
とあるのを見ると、 正解はアの「夕顔の花は白いのが一番美しいと思うから。」ではないかと思えてきます。
しかし第二段落には、アだけでなく、イ 「思い出の中の夕顔の花が白い花だから。」の根拠も見出せるように思います。この設問は一筋縄ではいきませんね。ではさらに分析を深めて見ましょう。
ア「夕顔の花は白いのが一番美しいと思うから。」をよく検討してみると、夕顔の色の美しさに関する比較の問題であることがわかります。
しかし、第二段落には他の色と比較して白が一番美しいとする記述はありません。他の段落も同様です。
ここでアの根拠が崩れます。
したがって、イ 「思い出の中の夕顔の花が白い花だから。」だけが正解の候補として残ります。
とあるのを見ても、イ の正しさが裏付けられます。
選択肢と下線部が「原因」と「結果」の関係にうまくあてはまった場合でも、ただちにこれが正解だと決めつけるのはたいへん危険です。優秀な(意地悪な?)出題者はそこを 狙って罠を仕掛けてきます。
正解 イ
第二段落
小学校一年生まで、神戸に住んでいた。毎年夏になると、母は夕顔の鉢を育てて白い大きな花を咲かせた。昼間は日のあたる庭に出しておいて、夕方になって[ A ]と、鉢を玄関の下駄箱の上に移すのであった。帰宅する父を迎えるためである。白といっても純白ではなく、花のしんは淡い黄をおびて、花弁はかすかに薄墨をはいたような夕顔の花。夕やみの中に白くうかぶ大輪の夕顔の花は、[ B ]なまでに美しかった。
問二
[ A ]の中に入る適当な言葉を次の中から選び、記号で答えなさい。
ア 花が咲く イ 花がしぼむ ウ 花が散る
“夕顔は夕方咲くもの”という知識があればなんでもないことですが、これは理科の問題ではありません。筆者が事実とは異なることを述べている場合もあるかもしれません。ですから、あくまでも本文の中に「手がかり」を求めます。
同じ段落に、「夕やみの中に白くうかぶ大輪の夕顔の花は、…」とありますので、アが正解となります。
第四段落にも「私にとって、神戸の夏の夕方には、いつも、大輪の夕顔が咲いていたのに。」とあります。
正解 ア
問三
[ B ]の中に入る適当な言葉を次の中から選び、記号で答えなさい。
ア 絵画的 イ 神秘的 ウ 理想的 エ 驚異的
「…[ B ]なまでに美しかった。」とありますので、“どのように美しかったのか”が問われているわけです。
これは筆者の「感じ方」です。受験生にとって筆者は他人ですが、その他人の感じ方を正しく理解できるものかどうか、少々不安に思うかもしれません。
しかし国語の出題である以上、正解の根拠は誰にでも納得できるはっきりしたものでなければなりません。そうでない場合は不適切な出題ということになります。本問の場合はどうでしょうか。
その夕顔の姿は直前に述べられています。
「白といっても純白ではなく、花のしんは淡い黄をおびて、花弁はかすかに薄墨をはいたような夕顔の花。夕やみの中に白くうかぶ大輪の夕顔の花は[ B ]なまでに美しかった。」
この部分をよく読んで正解を求める場合、アからエをそれぞれあてはめてみても、決定的に誤りだという選択肢は見出せないようです。
ア 「絵画的なまでに美しかった。」は、上記の部分をよく読めば、視覚にうったえる表現であり、不自然ではありません。
イ 「神秘的なまでに美しかった。」は、「夕やみの中に白くうかぶ…」という不思議な感 じに合致します。
ウ 「理想的なまでに美しかった。」は、要するに“非常に美しかった”という意味ですから誤りとは言えません。
エ 「驚異的なまでに美しかった。」は、ウと同様の意味で誤りとは言えません。
強いて言えば、エの「驚異的」が、大げさな表現でやや不自然かもしれません。また、 アの「絵画的」やエの「理想的」も、説明としてはわかりやすいのですが、筆者の感動を伝える表現としては、やや不満に思えます。
そうすると、残ったイの「神秘的」が最も正解としてふさわしいことになるわけですが、その理由をうまく説明できるでしょうか。
第二段落
小学校一年生まで、神戸に住んでいた。毎年夏になると、母は夕顔の鉢を育てて白い大
きな花を咲かせた。昼間は日のあたる庭に出しておいて、夕方になって[ A ]と、鉢を玄関
の下駄箱の上に移すのであった。帰宅する父を迎えるためである。白といっても純白では
なく、花のしんは淡い黄をおびて、花弁はかすかに薄墨をはいたような夕顔の花。夕やみの中に白くうかぶ大輪の夕顔の花は、[ B ]なまでに美しかった。
第三段落
私の下には二歳半ずつはなれて、妹が二人いた。電気洗濯機も掃除機も炊飯器もない時
代である。ふろはまきか石炭でたいていたはずである。若い母にどうしてそんな余裕があ ったのか。感心するとともに、私の思い出の中で、夕顔の花は、ますます美しくなってい くのであった。
第四段落
最近になって母に聞いてみた。母は「ええっ?」と、すぐには思い出せないようであっ
た。ややあって、「そんなこともあったわ。一夏か、二夏のことよ」と言った。私の方が驚 いた。私にとって、神戸の夏の夕方には、いつも、大輪の夕顔が咲いていたのに。
ここで[ B ]直前の、「夕やみの中に白くうかぶ大輪の夕顔の花は」に注目します。これ は、「美しかった」の主語に当たります。
これをキーワードと考えて、「同じ言葉」「よく似た表現」を探してみましょう。
すると、第四段落に「私にとって、神戸の夏の夕方には、いつも、大輪の夕顔が咲いて いたのに。」とあるのに気づきます。
この第四段落に手がかりがあるかもしれません。そこでは、筆者は「毎年夏になると、母は夕顔の鉢を育てて白い大 きな花を咲かせた。」(第二段落)と思っていたのに、母に聞いてみると、実は「一夏か、 二夏のこと」だったことがわかり驚いています。
なぜこうなったのかを考えてみると、正解にたどり着けるかもしれません。
要するに、
幼い筆者にとって、神戸で見た夕顔の花は、“毎年母が咲かせた”と錯覚するほど印象深いものだったわけです。
その意味で、夕顔の花は筆者の心の中で、「…私の思い出の中で、夕顔の花は、ますます美しくなっていくのであった。」(第三段落)とあるように、幻想のレベルにまで大きく育っていったわけです。
この「幻想」という意味合いに最もよくあてはまるのは、やはりイの「神秘的」です。
神秘的であるが故に、現実を超えた存在にまで高められたと考えることができます。
「対応関係」すなわち「同じ言葉」「よく似た表現」に注目することの大切さをもう一度確認しておきましょう。
正解 イ
文中から抜き出す問題 プラス・イメージとマイナス・イメージ
コリコの町はもうすっかり春でした。 「そうだよ。きょうとあしたと、二日しかないよ。用意しなくていいの?」
「ひとり立ちできたと思う?」 おかあさんのあとつぎという、どの女の子も考えそうな道を、キキはえらんだのでしたが、そのあとは自分の判断でこのコリコの町をえらび、考えたあげく、魔女の宅急便という仕事をはじめたのです。思いかえすと、たいへんなこともたくさんありました。でも一年間、せいいっぱいやってきたと自分でも思えるのです。それなのに、今ごろになって、「あたし、ほんとにできたのかしら」という、予想もしなかった不安にキキはおそわれていたのでした。ひとり立ち前のキキだったら、「あたし、やったわ、えらいでしょ」とすすんでいいふらすことぐらいしたかもしれません。ところが今は、ジジが「上等だよ」といってくれても、もう一つ自信がもてないのです。ほんとうはどうなのか、だれかにきいてみたいという気がしきりにするのでした。 「里帰り、のばすっていうんじゃないでしょう?」 「さ、仕事よ。そうなのよ。里帰りってさ、つまり[ 2 ]なの。かあさんにあたしたちを運ばなくちゃ。用意、は、じ、めっ」
「さあ、出発よ」
「行きましょ」 |
問一
[ 1 ]・[ 2 ]に入るのにもっともふさわしいことばを、それぞれ文中から三字でぬき出しなさい。
解説
空欄補充ですが、用意された選択肢の中から選ぶのではなく、文中から抜き出す形式です。
このような出題形式の場合は、まず空欄の前後をよく調べ、あてはまる言葉のおおまかなイメージを把握します。
イメージを持たずにあちこち探し回るのは、目隠しして探し物をするのと同じで、スイカ割りゲームのような徒労に終わる場合が多いのです。無駄な動きが多く、意外に多くの時間を費やしてしまう危険もあります。解答する順序としては、なるべく後回しにした方が無難です。
この設問には「三字」という条件があるために、なんとなく目標が絞れたような気がするかもしれません。しかし、ただやみくもに三字のことばを探し出し、試行錯誤であてはめてみるのは、結局まぐれ当たりに期待するのと同じで、いくらやっても実力には結びつきません。
では、イメージの把握から探索へ、順を追って解いてみましょう。
[ 1 ]
・・・「あさってで、とうとう一年。[ 1 ]できるのよ。「 さっきからキキは、このことばを何 度つぶやいたことでしょうか。じつはだんだんこの日が近づくにつれ、キキは、@うれしいのにこわいという、へんな気持ちがしているのです。
「そうだよ。きょうとあしたと、二日しかないよ。用意しなくていいの?」
「なにも、きっかり一年目じゃなくてもいいのよ。」
キキのことばに、ジジはせかせかと歩きまわり、しっぽでゆかを打ちました。
「どうかしたの? キキ、帰るのあんなに楽しみにしていたのに。いよいよとなったら急におちついちゃってさ」
以上でおおまかなイメージはつかめました。
イメージ…「あさってに予定されている、ためらいを伴ったキキの行為」
これを手がかりに当てはまる言葉を探してみましょう。
「里帰り、のばすっていうんじゃないでしょう?」
ジジが横目でいいました。
「まさか」
キキはもやもやに区切りをつけるように、急に元気よく立ちあがると、背中をぴんとのばしました。
「さ、仕事よ。そうなのよ。里帰りってさ、つまり[ 2 ]なの。かあさんにあたしたちを運ばなくちゃ。用意、は、じ、めっ」
「やったね」
ジジはおどけた声をあげて、うしろ宙がえりをしてみせました。キキもAやっと心がはずんできて、ばたばたと動きはじめました。
[ 2 ]
「さ、仕事よ。そうなのよ。里帰りってさ、つまり[ 2 ]なの。かあさんにあたしたちを運ばなくちゃ。用意、は、じ、めっ」
イメージ…「里帰り」=「かあさんにあたしたちを運(ぶ)仕事」
そこで、先回学んだ「同じ言葉」「よく似た表現」の原則に従い、「仕事」「運ぶ」「里帰り」をキーワードにして、これらを本文の中に探します。
おかあさんのあとつぎという、どの女の子も考えそうな道を、キキはえらんだのでしたが、そのあとは自分の判断でこのコリコの町をえらび、考えたあげく、魔女の宅急便という仕事をはじめたのです。思いかえすと、たいへんなこともたくさんありました。・・・
正解 1 里帰り 2 宅急便
問二
下線部@「うれしいのにこわいという、へんな気持ち」は具体的にキキのどのような気持ちを言っているのか。その気持ちを次のようにまとめてみたとき、(1)(2)(3)に入るのにもっともふさわしいことばを、それぞれ文中から五字以内でぬき出しなさい。
一年間たって家に帰るのが(1)な半面、仕事を通して(2)ができたかどうかという(3)な気持ち。
解説
(1)〜(3)それぞれのイメージを把握しておきましょう。
キキの気持ちを問う設問ですから、当然( )には気持ちを表す言葉が入るはずですが、(2)だけは気持ちとは別の、なんらかの行為を表す言葉が入るようです。気持ちを表す言葉だとうまくつながりません。
「(1)な半面、…という(3)な気持ち。」とありますから、(1)と(3)は反対の気持ちになるようです。
整理してみましょう
(1)…「家に帰る」ことに対する気持ち。
(2)…「仕事を通して」できたこと。
(3)…「仕事を通して(2)ができたかどうか」とあるので、なにか割り切れない迷いのある気持ちであり、(1)とは反対の関係になる。
ここで非常に重要な原則があります。
原則 「プラス・イメージ」と「マイナス・イメージ」にわける。
(3)は「なにか割り切れない迷いのような気持ち」ですから、マイナス・イメージの言葉である可能性があります。
一方、(1)は(3)と反対ですから、プラス・イメージである可能性があります。
そういえば、キキは里帰りについて、「うれしいのにこわい」、あるいは「あんなに楽しみにしていたのに。いよいよとなったら急におちついちゃってさ」という矛盾した気持ちをいだいていました。
「うれしい」や「楽しみ」はプラス・イメージ」、「こわい」はマイナス・イメージで、反対の意味になっています。
このように、探し求める答がプラス・イメージなのか、それともマイナス・イメージなのかが把握できると、正解をしぼりこむ上で非常に有利になります。
このテクニックはやさしいのですが、効果は抜群です。
たとえば次のような設問の場合はどうでしょう。
(問) キキの人がらについて、あてはまるものをひとつ選びなさい。
ア せっかち イ 面倒くさがり ウ 前向き エ うぬぼれ
ア・イ・エがマイナス・イメージ、ウがプラス・イメージになります。「ひとり立ち」というキーワードをふまえて、少女から大人になろうとするキキの心情が読み取れていれば、ほとんど迷わすに正解としてウを選べると思います。
実際にはこんなやさしい設問は出題されないと思いますが、プラス・マイナスで、正解の候補を2つくらいにしぼれるような選択問題は非常に多いのです。
では、イメージやキーワードを整理した上で答を探して見ましょう。
(1)…「うれしい」「楽しみ」 プラス・イメージ
(2)…「仕事を通してできたこと」
(3)…「こわい」 マイナス・イメージ
「同じ言葉」・「よく似た表現」の原則に従って、キーワードに該当する言葉や現を探します。
( 1 )
( 2 )
「できた」と「同じ言葉」・「よく似た表現」探します。
…考えたあげく、魔女の宅急便という仕事をはじめたのです。思いかえすと、たいへんなこともたくさんありました。でも一年間、せいいっぱいやってきたと自分でも思えるのです。それなのに、今ごろになって、あたし、ほんとにできたのかしら」という、予想もしなかった不安にキキはおそわれていたのでした。ひとり立ち前のキキだったら、…
( 3 )
「仕事を通して(2)ができたかどうかという(3)な気持ち。」とあるように、(3)は(2)と密接につながっています。
実際にあてはめて確認してみましょう。
一年間たって家に帰るのが(1・楽しみ)な半面、仕事を通して(2・ひとり立ち)ができたかどうかという(3・不安)な気持ち。
本文の内容と合致しています。
正解 1 楽しみ 2 ひとり立ち 3 不安
問三
キキが下線部A「やっと心がはずんできて」のようになったのは、どのように考えたことがきっかけだったのか。次のア〜オからもっともふさわしいものを選び、記号で答えなさい。
「里帰り、のばすっていうんじゃないでしょう?」
ジジが横目でいいました。
「まさか」
キキはもやもやに区切りをつけるように、急に元気よく立ちあがると、背中をぴんとのばしました。
「さ、仕事よ。そうなのよ。里帰りってさ、つまり[ 2 ]なの。かあさんにあたしたちを運ばなくちゃ。用意、は、じ、めっ」
「やったね」
ジジはおどけた声をあげて、うしろ宙がえりをしてみせました。キキもAやっと心がはずんできて、ばたばたと動きはじめました。
ア 家に帰るということを一つの仕事としてとらえたこと。
イ 母親の後をついで魔女になるという決意を固めたこと。
ウ 「上等だよ」と行ってくれたジジの気持ちが分かったこと。
エ コリコの町で一年間よく仕事をしたという確信がもてたこと。
オ ほうきで空を飛んですぐに母親と会えるのが実感できたこと。
解説
出題の中には、ただで点数を差し上げますといわんばかりの極めて易しい設問が何題かあるものです。あまりに易しすぎて、かえってワナがあるのではないかと疑ってしまうほどです。そんな場合でも、原則どおりにしっかりと手がかりを押さえれば迷うことはありません。
設問には「どのように考えたことが…」とあります。「考えたこと」にあてはまるのはアしかありません。
「家に帰るということを一つの仕事ととしてとらえた(=考えた)こと。」と言い換えてみるとよくわかります。
また、手がかりの探し方の鉄則通り、下線部の直前からさかのぼっていくと、「キキはもやもやに区切りをつけるように、急に元気よく立ちあがると、背中をぴんとのばしました。『さ、仕事よ。そうなのよ。里帰りってさ、つまり[ 2 宅急便 ]なの。かあさんにあたしたちを運ばなくちゃ。用意、は、じ、めっ』の部分に注目できます。
里帰りを仕事と考えたことがきっかけで迷いが晴れ、元気が出てきた様子がわかります。
アでほぼ確定ですが、念のために他の選択肢にも検討を加えます。
プラスイメージとマイナスイメージを活用します。
イ 「母親の後をついで魔女になるという決意を固めたこと。」
本文に「おかあさんのあとつぎという、どの女の子も考えそうな道を、キキはえらんだのでしたが、そのあとは自分の判断でこのコリコの町をえらび、考えたあげく、魔女の宅急便という仕事をはじめたのです。思いかえすと、たいへんなこともたくさんありました。でも一年間、せいいっぱいやってきたと自分でも思えるのです。」とあるように、これは一年前の出来事ですから時間的に全くつながりません。
ウ 「『上等だ』と行ってくれたジジの気持ちが分かったこと。」(プラス・イメージ)
本文に、「『まあまあ、上等じゃないの』『ありがとう』といったものの、キキはまたむっと口をつぐみました。」(マイナス・イメージ)とあります。
エ 「コリコの町で一年間よく仕事をしたという確信がもてたこと」(プラス・イメージ)。
本文に、「でも一年間、せいいっぱいやってきたと自分でも思えるのです。それなのに、今ごろになって、『あたし、ほんとにできたのかしら』という、予想もしなかった不安にキキはおそわれていたのでした。」(マイナス・イメージ)」とあります。
オ 「すぐに母親と会えるのが実感できた」
本文のどこにも記されていません。
正解 ア
国語入試問題の解き方 13
難解な問題文の解き方 飛ばし読み・対立概念
いやいやがまんするのではなくて、進んで行なう、これが心地よさの基礎である。ところが、砂糖菓子は口の中で溶かしさえすれば、ほかに何もしなくともけっこううまいものだから、多くの人々は幸福を@同じやり方で味わおうとして、みごとに失敗する。音楽は、[
@ ]ことだけしかせず、自分では全然[ A ]ないのなら、たいして楽しくはない。だから、ある頭のいい人は、音楽を耳で鑑賞するのではなく、喉で味わうのだ、と言った。美しい絵からうける楽しみでさえ、下手でもいいから自分で描いてみるとか、自分で収集するとかしなければ、(それは)休息の楽しみであって、熱中の楽しさは味わえない。大切なのは、A判断するだけにとどまらず、探求し、征服することである。人々は芝居に行き、自分でいやになるくらい退屈する。自分で[ B ]ことが必要なのだ。少なくとも自分で演ずることが必要なのだ。演ずることもまたつくり出すことなのだ。わたしは、人形しばいのことばかり考えてすごした幸福な数週間のことを思い出す。だが、ことわっておくが、(わたしは単に考えていただけではなく、)実際に小刀で木の根に、高利貸だの、兵隊だの、むすめだの、老婆だのを刻んでいたのである。ほかの連中がそれらの人形に衣装を着せた。わたしは観客のことなど眼中になかった。批評などというとるに足らぬ楽しみは観客どもにまかせておいた。(もっとも、とるに足らぬとはいっても、)いくらかでも自分(の頭)で考え出したという点では、批評もまた楽しみではあるのだが(…)。トランプをやっている連中は、たえずなにかを考え出し、勝負の機械的な進行に手を加える。だが、それにしても、(トランプの楽しさを味わうには、)ゲーム(の方法)を学ばなければならない。なにごとにおいてもそうだ。幸福になるには、幸福になり方(=幸福になる方法)を学ばなければならない。 |
大人なら別に解釈に苦しむ内容ではないと思います。ここに述べられていることは、ある程度人生経験を積んだ人ならだれでも納得できるはずです。
しかし、12歳の少年少女たちにとってはやや荷が重いのではないでしょうか。おそらく、彼らがこのレベルの文章に接する機会はほとんどないでしょうし、よほどの早熟な哲学少年あるいは少女でない限り、自らすすんでこのような類の書物をひもとくことはないでしょう。
これはフランスの思想家・アランの「幸福論」からとられたものですが、けっしてこなれた訳文とは言えず、流れるように読み下すというわけにも行かないようです。つまり、内容においても、また文体においても、受験生にとっては未知との遭遇となるわけです。
ところで、今回のテーマは、難解な問題文への対処の仕方です。世の中には様々な人間がおります。思いやりあふれる善意の人もいれば、人を惑わして面白がる意地悪な人もいます。この出題者はいったいどちらなのでしょうか。設問をひとつひとつ解きながら考えてみましょう。
なお、原文のままでは意味が通りにくいとこともありますので、ところどころ当方で加筆しました。実際には原文(悪文?)のままで出題されたのですから、受験生たちの苦悶が想像されて、少々気の毒になってしまいます。
今回は、まず問題文そのものの読み方から始めましょう。
この文章は哲学(人生哲学)の範疇に入れるべきでしょうが、受験国語においては論説文となります。
論説文は筆者の意見が中心となります。そして、かならずその意見についての論拠が述べられます。論拠の有無にとらわれず、自由に意見を述べたものは随筆です。
さて、論拠の提示が論説文の条件となるわけですが、読んでわかりやすい論説文とは、この論拠の述べ方が巧みです。逆に論拠がわかりにくいと、読者は混乱し解釈に苦しむことになります。
この文章はどちらでしょうか。あきらかに論拠の述べ方に問題があります。というのは、年少者がこれを読んでもなかなか実感をともなわないからです。大人は経験の蓄積から類似のケースを引き出して解釈を成立させることができます。しかし、経験に乏しい若年層では、そこから実感をともなった生き生きとしたイメージを感得するのはむずかしいということです。
無論、この文章は小学生の読者を想定して書いたものではないと思いますので、こんな批判を筆者のアランが聞けば、「入試問題文を選ぶには選び方があるよ。」と反論するにちがいありません。
それはともかく、不幸にもこのような文章に出会った場合には、次の読み方を実践してください。
原則 難解な論説文は、論拠(具体例など)を省略しながら意見だけを拾い読みする。
これは難解な説明文にも妥当します
さて、上記の問題文から、筆者の主な意見を拾い出してみます。
いやいやがまんするのではなくて、進んで行なう、これが心地よさの基礎である。ところが、砂糖菓子は口の中で溶かしさえすれば、ほかに何もしなくともけっこううまいものだから、多くの人々は幸福を@同じやり方で味わおうとして、みごとに失敗する。音楽は、[
@ ]ことだけしかせず、自分では全然[ A ]ないのなら、たいして楽しくはない。だから、ある頭のいい人は、音楽を耳で鑑賞するのではなく、喉で味わうのだ、と言った。美しい絵からうける楽しみでさえ、下手でもいいから自分で描いてみるとか、自分で収集するとかしなければ、(それは)休息の楽しみであって、熱中の楽しさは味わえない。大切なのは、A判断するだけにとどまらず、探求し、征服することである。人々は芝居に行き、自分でいやになるくらい退屈する。自分で[ B ]ことが必要なのだ。少なくとも自分で演ずることが必要なのだ。演ずることもまたつくり出すことなのだ。わたしは、人形しばいのことばかり考えてすごした幸福な数週間のことを思い出す。だが、ことわっておくが、(わたしは単に考えていただけではなく、)実際に小刀で木の根に、高利貸だの、兵隊だの、むすめだの、老婆だのを刻んでいたのである。ほかの連中がそれらの人形に衣装を着せた。わたしは観客のことなど眼中になかった。批評などというとるに足らぬ楽しみは観客どもにまかせておいた。(もっとも、とるに足らぬとはいっても、)いくらかでも自分(の頭)で考え出したという点では、批評もまた楽しみではあるのだが(…)。トランプをやっている連中は、たえずなにかを考え出し、勝負の機械的な進行に手を加える。だが、それにしても、(トランプの楽しさを味わうには、)ゲーム(の方法)を学ばなければならない。なにごとにおいてもそうだ。幸福になるには、幸福になり方(=幸福になる方法)を学ばなければならない。
このように押さえてみただけでも、筆者の言いたいことはだいたい把握できます。
どうも主題は「幸福になる方法」のようです。そして、その方法とは「進んで行なう」ことだ、というのが筆者の意見らしい。ここまで把握できれば、問題文の全体像がはっきりしてきます。
ここでは論拠として様々な具体例が述べられているわけですが、読んでわかりにくいと思ったら、こだわらずに省略して読み進んでください。そして、筆者の意見のみをひとつひとつ押さえて行き、全体の結論に当たる部分を見つけ出すのです。
一度あたまが混乱してしまうと冷静さを失い、焦りは焦りを呼んで実力の半分も発揮できなくなります。しかし、自分が難しいと思うときは、他の受験生にとっても難しいのです。そんなときに、ひたすら強い精神力で突破するのも正しい立派な方法です。岩をも溶かす執念で粘り抜けば、必ずと言ってよいほど打開の道が開けます。一方、きちんとした対処の方法を心得ておき、事態を冷静に受け止めて、平常心のまま対処する方法もあります。
問題文の筆者であるアランは、「幸福になるには、幸福になり方(=幸福になる方法)を学ばなければならない。」と述べているのですが、同様に、「難問を解くには、難問の解き方を学ばなければならない。」と心得るべきです。
では設問に入ります。
今回は、最初にすべての設問を一括して表示します。
問一
下線部@「同じやり方」とはどういうものか。もっともふさわしいものを次のア〜エから選び、記号で答えなさい。
ア 砂糖菓子を、口の中で時間をかけてじっくり味わおうとするやり方
イ 砂糖菓子を、ただ口に含んでいるだけで味わおうとするやり方
ウ 砂糖菓子を、実際に進んで口に含んでみることで味を知ろうとするやり方
エ 砂糖菓子を、何の苦労もせずに手に入れようとするやり方
問二
[ @ ]、[ A ]に入るのにもっともふさわしいことば(動詞)を、本文に合うようにそれぞれ二字で答えなさい。
問三
下線部A「判断するだけにとどまらず、探求し、征服することである。」の説明としてもっともふさわしいものを次のア〜エから選び、記号で答えなさい。
ア 音楽や絵画は、素人ではなく実際に深く関わった人間でないと、その正しい価値は分
イ 物事は表面だけをみて浅く判断しないで、その背後にある深い部分までしっかりとみるべきである。
ウ 音楽や絵画の静かな楽しみより、探検のように体を動かす楽しみの方が大きい。
エ 物事は受身で判断するのではなく、実際に行動するなかで積極的につかんでいくべきである。
問四
[ B ]に入るのにもっともふさわしいことばを、文中から五字で抜きだしなさい。
以上の設問群を眺めて何か気づいたことがあるでしょうか。
よく練られた良問は、その設問群に首尾一貫した主題が隠されています。
その設問群の主題とは、とりもなおさず問題文の主題です。考えてみればこれは当然のことです。
入試国語の問題文は、ある作品や論文等の一部を抜粋して作られます。出題者は、日頃様々な文章を読む際に、常に作問に適する部分の発見を念頭に置いています。そして論説文の場合は、ある明確な主題をめぐって、筆者の意見とその論拠および結論とが、あまり長くもなく、また短くもなく、作問にふさわしい分量をもって述べられているのを発見すると、早速それを切り取って検討を開始します。
検討の結果、作問に適すると判断した場合は、その主題に関する理解を問うことを中心に、様々な設問が工夫されます。
本問の場合は、すでに検討したように、「幸福になる方法」という主題に関して、それは「ものごとを進んでおこなうことである。」という形で論旨を把握しました。
したがって、設問は上記の論旨が確実に把握できたかどうかを中心に作成されます。
もしも、上記の論旨を問わず、ただ漢字や文法、あるいはあまり意味のない空欄補充等で作問されたとすれば、これは明らかに悪問・愚問の類になります。
なぜ悪問・愚問となるのか。答は簡単です。出題者自身が問題文の論旨を正しく理解していないか、あるいは重大な手抜きがあるからです。解釈力のない出題者は論外として、怠惰な出題者は、全く新しい問題文の発見に努力することなく、既出の問題、すなわち過去問の中から問題文を拝借して作問します。そして同じ設問を出題するわけにはいきませんから、既出の部分を避けて作問せざるを得ません。もしも、オリジナルの問題が核心部分を押さえ尽くしているならば、二番煎じの方は、その核心を離れてさほど重要でない部分を作問根拠とせざるを得ません。こうして迫力に欠けた中途半端な出題となるわけです。
飛ばし読みによって主題を把握してしまえば、主題に関連した設問はどれもかなりの自信をもって取り組めるはずです。
すべての設問を慎重に観察し、最も説きやすいものから着手します。
ここでまず問三を解いてみましょう。
問三
下線部A「判断するだけにとどまらず、探求し、征服することである。」の説明としてもっともふさわしいものを次のア〜エから選び、記号で答えなさい。
ア 音楽や絵画は、素人ではなく実際に深く関わった人間でないと、その正しい価値は分からない。
イ 物事は表面だけをみて浅く判断しないで、その背後にある深い部分までしっかりとみるべきである。
ウ 音楽や絵画の静かな楽しみより、探検のように体を動かす楽しみの方が大きい。
エ 物事は受身で判断するのではなく、実際に行動するなかで積極的につかんでいくべきである。
解説
下線部Aは、筆者の意見の部分です。これは既に「飛ばし読み」で把握してあります。しかもその際に、筆者の最も主張したいことは、「幸福になる方法とは『進んで行なう』ことだ。」という、この問題文の論旨も把握済みです。
そうなると、解答は全く容易です。正解はエです。「積極的に」が「進んで行なう」に合致します。
ただし、敵(=出題者)も然る者で、論拠として述べられた様々な具体例に翻弄されてしまうと、受験生は落とし穴にはまります。
消去法を用いて検討してみます。
ア 音楽や絵画は、素人ではなく実際に深く関わった人間でないと、その正しい価値は分からない。
イ 物事は表面だけをみて浅く判断しないで、その背後にある深い部分までしっかりとみるべきである。
ウ 音楽や絵画の静かな楽しみより、探検のように体を動かす楽しみの方が大きい。
いきなり消去法を用いても正解のエにたどりつくことはできると思います。しかし、なによりもまず論旨を把握し、あらかじめ正解の候補としてエをしぼりこんでおくことが時間配分の観点からも重要です。
「飛ばし読み」によって、一気に論旨を把握し、設問群をじっくり一覧する。すると、問三の場合は、エ「物事は受身で判断するのではなく、実際に行動するなかで積極的につかんでいくべきである。」という文に"当たり"を感じる。「これだ!」という一種の確信です。読解のプロセスがこのように進行すれば理想です。
対立概念について
さて、「進んで行なう」は具体的な表現ですが、これを抽象的に把握し直すと「積極的」という言葉になります。このような抽象化能力が、思考力養成の大きな課題の一つです。
さらに、「積極的」の反対語は「消極的」です。ここでは「受け身」となっていますが、このような対立概念の把握も同様です。
人間は「善」と「悪」、「精神」と「肉体」というように、ものごとを抽象化し、尚且つ対立概念として把握します。そして、この方法によって、五感では認識不可能な森羅万象を、認識可能な模型として、すなわち組織的で秩序だったモデルとして把握することが可能になります。たとえば、需要と供給、インフレ・デフレといった対立概念がなければ、経済事象は、およそ理解不能な混沌(カオス)として目に映ずるばかりです。
様々な文章のジャンルの中でも、とりわけ論説文では、主題すなわち考察の対象を、抽象的な対立概念によって把握しながら論じる場合が非常に多いのです。
したがって読者の側も、内容をよく理解するためには抽象的な概念をよく理解する必要があります。
これは一見難しい課題のように思えるかもしれませんが、ある程度抽象的な概念に慣れ親しんでしまえば、逆に論説文は読みやすいとも言えます。
反対に、親しみやすいと思われる小説や物語も、すぐれた作品であればあるほど、実は論説文の数十倍も読み方が難しいのです。しかし、これはまた別の機会に論じたいと思います。
原則 論旨を対立概念でとらえる。
さて、論旨を把握し、問三を解答した後では、問一が容易なことに気づくはずです。
問一
下線部@「同じやり方」とはどういうものか。もっともふさわしいものを次のア〜エから選び、記号で答えなさい。
ア 砂糖菓子を、口の中で時間をかけてじっくり味わおうとするやり方
イ 砂糖菓子を、ただ口に含んでいるだけで味わおうとするやり方
ウ 砂糖菓子を、実際に進んで口に含んでみることで味を知ろうとするやり方
エ 砂糖菓子を、何の苦労もせずに手に入れようとするやり方
解説
・・・ところが、砂糖菓子は口の中で溶かしさえすれば、ほかに何もしなくともけっこううまいものだから、多くの人々は幸福を@同じやり方で味わおうとして、みごとに失敗する。
すでに「幸福とは積極的に得るものであり、受け身では得られないものだ。」という論旨が把握できています。
砂糖菓子の例は、あきらかに「受け身」の例です。
正解 イ
問二・問四の空欄補充においても、論旨を理解しておけばイメージの把握は容易です。
問二
[ @ ]、[ A ]に入るのにもっともふさわしいことば(動詞)を、本文に合うようにそれぞれ二字で答えなさい。
解説
・・・音楽は、[ @ ]ことだけしかせず、自分では全然[ A ]ないのなら、たいして楽しくはない。だから、ある頭のいい人は、音楽を耳で鑑賞するのではなく、喉で味わうのだ、と言った。
問四
[ B ]に入るのにもっともふさわしいことばを、文中から五字で抜きだしなさい。
解説
・・・自分で[ B ]ことが必要なのだ。少なくとも自分で演ずることが必要なのだ。演ずることもまたつくり出すことなのだ。
正解 問二 @ 聞く(聴く) A 歌わ 問四 つくり出す
さて、ここまで解き終わって感想はいかがでしょうか。設問群において、問題文の主題があやまたずに一貫して追究されており、また対立概念によって正解を導き出していく点で、その根拠が、曖昧さのない実に明晰なものとなっています。
読みにくい原文をそのまま掲載した点については、もしかしたら批判の余地があるかもしれません。しかし、これは大学入試問題の作問技術がそのまま反映されている例で、高度なものです。つまり某大学の附属校の出題例ですが、おしなべて附属校にはこのような解き応えのある、充実した出題が多いのも事実です。
ところで、最後におことわりしておきますが、ここに掲載した問題文は、あくまでも「解き方」の解説という趣旨から、実際の問題文の第一段落のみを取り上げています。全体の約三分の一で、設問も全10問中の4問です。
あの読みにくい文章がさらに続くとしたら、受験生諸君はどうしますか。「飛ばし読み」を実践するかどうかはお任せいたします。ちなみに大問三題で解答時間は60分です。
国語入試問題の解き方 14
詩の問題 文学体験
次の詩を読んで、後の問いに答えなさい。 ぞうきん まどみちお 第一連 雨の日に帰ってくると 玄関でぞうきんが待っていてくれる ぞうきんでございます という したしげな顔で 自分でなりたくてなったのでもないのに 第二連 ついこの間までは シャツでございます という顔で 私に着られていた まるで私の ひふででもあるように やさしく 自分でそうなりたかったのでもないのに |
第三連 たぶん もともとは アメリカか どこかで 風と太陽にほほえんでいたワタの花が 第四連 そのうちに 灰でございます という顔で灰になり 無いのでございます という顔で 無くなっているのかしら 私たちとのこんな思い出もいっしょに 自分ではなんにも知らないでいるうちに 第五連 ぞうきんよ! |
「まどみちお」という詩人の名前を知らない人でも、「ぞうさん ぞうさん お鼻がながいのね…」という有名な童謡を知らない人はいないと思います。
今回は詩の問題を取り上げます。
詩は内容面から大きく分けると叙情詩と叙事詩になりますが、日本の作品はほとんどが叙情詩です。したがって、主観的な色合いが非常に濃くなります。客観的な文章の代表が「説明文」ならば、逆に主観的な作品の代表が「詩・短歌・俳句」だといえるでしょう。
確かにその通りなのですが、入試問題として成り立つには客観性が何よりも大切です。出題者が自身の独断的解釈を根拠に作問したり、採点が、だれにでも納得のできる客観的な基準によらず、採点者個人の主観に左右されるようでは、公平な選抜は期待できません。
したがって、「詩」の作問においても、他のジャンルと同様に、解答の根拠は原則として詩の本文そのものの中に置かれます。
結局「詩」の問題においても、今まで述べてきた読解の方法論と異なるものではないということになります。
問一
下線部「自分でそうなりたかったのでもない」とありますが、そのことが表れている表現を次の中から一つ選んで、記号で答えなさい。
ア シャツでございます という顔で
イ 私に着られていた
ウ まるで私の ひふででもあるかのように やさしく
解説
詩人の感性は、なんの変哲もない日常の様々なものごとに、凡人では見過ごしてしまうような何かを感じ取り、それを言葉によって形にします。
思い出の一つのようでそのままにしておく麦わら帽子のへこみ
これは俵万智の作品です。
ここに詠われている「麦わら帽子のへこみ」は、ごく平凡なありふれたものです。しかし、このように表現されてみると、「ああ、なるほど…」と気づかされるものがあるのではないでしょうか。
ここでは、「麦わら帽子のへこみ」は単なる物理現象ではありません。普通の感覚では、「へこみ」とは好ましからざるもの、つまりものの価値を損なうものであり、修復を期待されるものです。しかし、それが楽しかった夏の思い出の象徴となると、感じ方が全く逆転してしまいます。二度と取り戻すことのできない過去を、愛惜の念をもって振り返るとき、その痕跡でしかない「へこみ」が、なにかたとえようもなく貴重なものに思えてくるのです。もとに戻そうとすれば、なんの造作もないのですが、そのことが逆に「へこみ」のはかなさを際立たせます。もとに戻すも戻さぬも、自分の気持ち一つです。それに対して「へこみ」は全く抗する術がありません。この絶対的に無力なものに注がれた、作者のあたたかいまなざしを感得するとき、同時に、読者である自分自身の眼にも「麦わら帽子のへこみ」がありありと浮かび上がってきます。そして、作者の感慨そのものを疑似体験している自分に驚くかもしれません。
文学とは何か、といった抽象的な議論はともかくとして、これこそが、文学体験なるものの実相なのです。
このような問題にご興味のある方は、「論語」の次の言葉を熟読玩味されることをお勧めします。
子曰く、甚だしいかな、吾が衰えたるや。久しいかな、吾れ復た夢に周公を見ず。 (述而第七)
ここで設問にもどります。
この詩を読むと、作者まどみちおの「ぞうきん」に対する万感の思いがひしひしと伝わってきます。「ぞうきん」を慈しむ、などと言えば、ギャグととられかねないのですが、繰り返し読み返してみれば、決しておふざけではないことが感じられてくると思います。
さて、ここで鑑賞から一歩退いて、解析のメスを執りましょう。
第二連
ついこの間までは
シャツでございます という顔で
私に着られていた
まるで私の
ひふででもあるように やさしく
自分でそうなりたかったのでもないのに
設問には「下線部『自分でそうなりたかったのでもない』とありますが、そのことが表れている表現を…」とあります。しかし、「そのことが表れている表現」と言われても、漠然としていて、意味内容を指しているのか、それとも表現技法を指しているのか少し迷います。
まず意味内容の面から考えて見ます。
下線部「自分でそうなりたかったのでもない」とよく似た意味の表現が他にもあります。
同じ意味内容の表現が各連の末尾に反復されていることから、そこにこの詩の主題が詠みこまれていると考えてよいでしょう。
ここから読み取れることは、意思をもたず、すべて人間の都合で利用され、そして利用され尽くした後は燃やされて灰になり、無に帰してしまうまことにはかない存在と、そのような存在に注がれた作者の暖かいまなざしです。
このような存在を、対立概念によって把握しなおしてみましょう。
自分の意思をもたず、すべて人間の都合に左右される存在という観点から、「自律的・他律的」、「能動的・受動的」、あるいは「支配・被支配」、というような把握が可能です。
いずれも後者があてはまります。
以上は、意味内容に関する把握です。
一方、表現技法(形式)に注目するならば、「自分でそうなりたかったのでもない」の「自分」は「ぞうきん」自身ですから、これはあきらかに「擬人法」です。
意味内容…「他律的存在」、「受動的存在」、「被支配的存在」
表現技法(形式)…「擬人法」
ここで各選択肢を検討します。
ア シャツでございます という顔で
擬人法
イ 私に着られていた 受け身
ウ まるで私の ひふででもあるかのように やさしく
直喩法
意味内容を基準にするなら、正解はイであり、一方、表現技法をを基準にするなら、正解はアとなります。
さて、どちらを選んだらよいのでしょうか。
先にも述べましたが、下線部とよく似た内容の表現が3箇所あり、それらがこの詩の主題を表していると考えられますので、当然下線部も主題と強く結びついているはずです。ですから、このような場合は、詩の主題を基準にして検討を加えます。
その主題とは、人間の都合に支配される「ぞうきん」と、それに対する、作者の切ないまでの同情や共感であると読み取ることができます。
それ故、上記の主題の持つ意味合いを、強く読者に印象付けるための表現が下線部「自分でそうなりたかったのでもない」なのだと考えられます。
一方「擬人法」は、下線部のみならず、「ぞうきん」の描写に際して、詩の全体にわたって満遍なく用いられています。それゆえ、主題を表現するための、特定の表現技法と考えることはできません。
正解 イ
問二
第一連から第四連の中で、第三連だけが他と違った表現になっています。
(1)
どのように違いますか。
(2)
なぜ違う表現になっているのですか。
解説
第三連
たぶん もともとは
アメリカか どこかで
風と太陽にほほえんでいたワタの花が
(1)は「…他と違った表現になっています。」となっていますから、表現技法を問う設問です。
詩の主な表現技法を列挙しておきます。
比喩法(直喩法・隠喩法)、擬人法、対句法、反復法、倒置法、省略法、体言止め、呼びかけ
第一・二・四各連に共通するのは「倒置法」です。
一方、第三連は、
「たぶん もともとは アメリカか どこかで 風と太陽にほほえんでいたワタの花が…」
としてみるとわかるように「省略法」です。
ちなみに、第五連は「呼びかけ」です。
(2)は違う表現法になった理由ですが、これは深く読み込めば際限なく追究できます。しかし、本問は小学生対象の出題ですから、背景的な知識を根拠とした解答などは考える必要ありません。それどころか、たとえば「無常観」といった仏教用語などを援用すれば、この詩に対する生の実感とはかけ離れた抽象的な把握となりますから、出題者の要求にそった答案とはならないでしょう。
無理に難しい用語を用いずとも、ごく日常的な言葉でもかなり把握できるはずです。
第一・二・四連は、目の前の「ぞうきん」を見ながら、その現在(第一段落)、過去(第二段落)、未来(第四段落)について語っています。いわば「ぞうきん」の一生ですね。
一方、第三連は「ぞうきん」ではなく、「ワタの花」になっています。「たぶん もともとは アメリカか どこかで…」となっていますから、目の前の「ぞうきん」ではなく、そのもとの姿を想像しているわけです。言ってみれば「ぞうきん」の前世でしょうか。
以上を簡単にまとめれば、第一・二・四連は、現実の「ぞうきん」に関する表現で、第三連は「ぞうきん」のもとの姿についての想像となります。
試験は時間の制約があるわけですから、とりあえず上記の観点で解答をまとめましょう。それなりに得点できるはずです。
もしも時間の余裕があれば、さらに精密に分析を加えて内容を深めればよいのです。
ここではもう少し深く掘り下げて検討してみることにします。
まず、上記のとらえ方では、現実の「ぞうきん」に関することが、なぜ倒置法とならねばならないのか、また、もとの姿である「ワタの花」に関する想像が、なぜ省略法とならねばならないのか、という点がうまく説明できません。
また、「現実」と「想像」に分けてしまうと問題が生じます。第四連をよく読んでみると、これは「ぞうきん」の未来についての「想像」です。そうなると、「ぞうきん」の「現実」を詠ったのが第一・二連、「想像」を詠ったのが第三・四連ということになりますから、第三連だけが「違う表現になっている」ことについての説明がしにくくなります。
したがって上記の2点を納得のいくように解明できれば、もっと的確で深みのある解答になるはずです。
まず倒置法の理由から再考します。
先に、
「下線部『自分でそうなりたかったのでもない』と同内容の表現が他にもあります。第一連『自分でなりたくてなったのでもない』、第四連『自分ではなんにも知らないでいるうちに』。同じ意味内容の表現が、しかも各連の末尾に反復されているということは、そこにこの詩の主題がこめられていると考えてよいでしょう。」
と述べました。
ここでまたしても「主題」の登場です。
第一・二・四連は、現実の「ぞうきん」を目にしながら、人間の一方的な都合で姿を変えられていく様を、同情の念をもって詠っていました。その作者の痛切な思いが、各連の末尾に詠歎となって表現されているわけです。
ここに注目すると、倒置法を用いた理由が納得できるはずです。つまり、作者は主題を詠み込んだ表現を、第一・二・四各連の末尾にもってくるために倒置法を用いたと考えることができるわけです。
では第三連の省略法の理由はなんでしょうか。
作者にとって、「ぞうきん」とは単なるモノではありません。それは既に人格を持ち、そこに作者の感情を投入できる生きた存在なのです。
「感情移入」という言葉がありますが、実に深い意味をもっています。西洋諸国の大部分の国民は、鯨に対して既に感情移入を行なっています。彼らにとって鯨やイルカは、単なる海洋生物ではなく、ましてや商品価値を伴う海産物などではありません。それゆえ商業捕鯨の問題は抜き差しならぬものとなり、論理の通用しない感情レベルの論争となります。
さて、すでに「ぞうきん」に対して感情移入した作者にとって、その前世である「ワタの花」も、単なる原材料ではなく、情緒の対象です。すでに人格をもった「ワタの花」が、収穫され、鋼鉄の機械で暴力的に姿を変えられていく様を想像することは、深い痛みを伴わずにはおれません。
そう考えると、省略法を用いた理由が理解されてくるはずです。作者は、単なる技法上の工夫から省略法を用いたというよりも、むしろこころの痛みに耐えかねて省略せざるを得なかったのだと考えられます。
そして読者の想像力は、その省略によって生じた空白に、それとなく誘われていきます。読者自身が作者まどみちおのこころの痛みに共感し、そして「ぞうきん」の「一生」を脳裏に浮かべてこころを痛めるならば、そこに真の文学体験が示現しているのです。
国語入試問題の解き方 15
短歌を読む 感じるこころ
先回は、まどみちおの「ぞうきん」を読みながら文学体験について考えました。
今回は短歌を読みながら、「感じるこころ」について考えてみたいと思います。
ここでとりあげる作品は、四谷大塚進学教室において、6年生対象の授業に用いた教材プリントから採ったものです。なお設問は用いません。
以下、実況中継風に記します。
水原紫苑
風狂ふ桜の森にさくら無く花の眠りのしづかなる秋
水原紫苑の歌は難解だといわれます。先輩歌人葛原妙子の象徴の技法に強く影響されていることにもよりますが、無理に解釈を試みる必要はないと思います。ことばのひびきに素直に合わせてしまえば、そこに現実を越えた世界が浮かんでまいります。しかも虚構にありがちな脆弱さではなく、しっかりとした実在感を伴っていることに驚かされます。「美しすぎる」という批判めいたコメントも散見されるようですが、羨望の裏返しでしょう。美しすぎて困ることはありますまい。
生徒に朗読させましたが、まず「読み」で躓きました。文語体はまだ小6生には荷が重いのかもしれません。何かを感じている顔と、わけがわからんという顔が混在していて間が持たず、説明もそこそこに次の歌に移りました。
殺してもしづかに堪ふる石たちの中へ中へと赤秋津ゆけ
「赤秋津(アカアキツ)」とは「赤とんぼ」のことだよ、と解説を加えると、そこかしこでビビッと反応が生じます。「かたい石の中に赤とんぼが入り込んで行く」というイメージはまことに超現実的ですが、新鮮な驚きを感じたようです。
秋水のみなもと深きむらさきに去りしあやめの声を聞きたり
壮絶な美しさです。大仰に反応するような歌ではありませんから、個々の生徒がどのような印象を持ったかはよくわかりません。しかし、この詠のもつ響きのかけらでも心の底にしまわれれば、いつの日か、思いがけない一瞬に「あやめの声」が聴こえてくるかもしれません。
米川千嘉子
春の鶴の首うちかはす鈍き音こころ死ねよとひたすらに聴く
朗読するときに胸がつまって、動揺を悟られないように苦労しました。この歌を読むと、そこらへんの恋愛論など塵あくたにひとしい。「首うちかはす」というのは鶴の求愛行為だよ、と説明すると、みんなきょとんとしておりました。まだ少し早いか…。しかし、わかる子にはわかると見えて、目をらんらんとさせ、のめりこんでいく様子が見て取れます。
さやさやとさやさやと揺れやすき少女らを秋の教室に苦しめており
国語教師である作者の実感がよく出ており、同業者の当方など肝に銘じなければならぬ詠ですが、「悪いおじさんに監禁されているの?」などと訊かれて、少々焦りながらいろいろと説明した次第です。
俵万智
砂浜のランチついに手つかずの卵サンドが気になっている
平易な歌だと思っていましたが、かなり解釈に苦しんでいたようです。「せっかく作った卵サンドを彼氏が食べてくれなかったらどう思う?」と問い返すとみんな納得したようです。こんなとき、「ぶっ殺す!」などと穏やかでないことを言い出す生徒が必ずいるものです。それが女子でないことを祈りたい。
ハンバーガーショップの席を立ち上がるように男を捨ててしまおう
「君たち、無邪気に笑っている場合じゃないかもしれないよ。」おそろしい時代になりました。男にとって…。
「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの
「カンチューハイ」は大いに受けました。しかし、このあたりで、男子と女子との反応に、違いが際立ってきます。精神年齢という観点からみれば、小6の時点ではあきらかに女子が男子を上回っています。周囲をよく観察し、理解し、そしてその中における自身の位置をよくわきまえているのは圧倒的に女子です。女子にとって男子とは、遠からぬ将来において、依存する対象であると同時に、巧妙に支配する対象でもあります。それだけにこの詠を単なるギャグとしてしかうけとれない男子と違って、女子は他人事でない切実さを直感するようです。
今日までに私がついた嘘なんてどうでもいいよというような海
「嘘」。心当たりのない人間はいないはずです。案の定、照れたような焦ったような様々な顔。しかし、逆にいえば、こんなときに能面のような無表情な顔をしている子はちょっとこわい。
俵万智をとりあげると、必ずといってよいほど「五七五七七になってないよ。」と問われます。実際、「サラダ記念日」は賛否両論かまびすしく、中には短歌として認めないという極論までありました。しかし、種田山頭火を自由律俳句とするなら、自由律短歌があってもよいわけです。詠の内容についても「軽い」といった批判が多かったようですが、俳諧歌と位置付ければ納得がいくのではないかと思います。あまり批判的にものを見ても得るところはないでしょう。
ちなみに古今集の俳諧歌から一首あげておきましょう。
我を思ふ人を思はぬむくひにや我が思ふ人の我を思はぬ (よみびとしらず)
紀野 恵
ふらんす野武蔵野つは野紫野あしたのゆめのゆふぐれのあめ
「不思議の国のアリス」は有名ですが、「ナンセンス」も文学の立派な一ジャンルです。この歌を何人かの生徒に朗読させてみましたが、けっこう面白がっていました。ただし、シュールレアリスムだのなんだのという理屈は無用です。漢字とひらがなの使い分け、言葉どうしの無意味であってしかも必然的なつながり、そして「の」の反復による快い韻律など、まず姿の美しさに酔うことです。次の詠も傑作です。
わたくしはどちらも好きよミカエルの右の翼と左の翼
諧謔の正統派というものは案外希少なものです。無論、漱石がその泰斗ですが。
辰巳泰子
わがまへにどんぶり鉢の味噌汁をすする男を父と呼ぶなり
辰巳泰子は現代歌人の中でもとりわけ重要な存在だと考えます。これより前の世代の女流歌人には、おおむね巧妙な韜晦があります。女性が本音をそのまま表すことには大きな制約があり、それゆえ象徴などの間接的な迂回表現によらざるを得なかったのですが、辰巳泰子に至って、ようやく女性の本音そのものが、美しいことばによって直截に具象化されたと言えるでしょう。確かに女性性を赤裸々に詠った作風も出現しておりますが、それらの中には、フェミニズムそのもの、あるいはその匂いを感じるものが多く、そのイズムの痕跡のゆえに、一種の作為による自然さの喪失、いわば死相を感じてしまいます。
辰巳泰子はイズムに依存しません。イズムを介した共感というものも成り立たないことはないと思うのですが、それはあらかじめ筋書きのできたお芝居のようなもので、計算ずくで受けを狙ったようなものは、たちどころに明敏な読者に看取されます。いわゆる「臭い」というのがそれです。
次に辰巳泰子の詠から試みに四首選び、起承転結に則って、わずか四行の小さな物語を編んでみたいと思います。小学生対象の授業では用いませんでしたが、ここは御父母様対象のサイトということで、あえて"問題作"も盛り込みます。
責めらるるうれしき夢におぼろげに前(さき)のをとこの名を呼べといふ
乳ふさをろくでなしにもふふませて桜終はらす雨を見てゐる
いとしさもざんぶと捨てる冬の川数珠つながりの怒りも捨てる
飛行機雲風にほどけてゆくゆふべやさしき時間(とき)に明日はかへらむ
とりわけ第二首目には衝撃を感じます。この詠によって、女性性を理解するという以上に、今まで無自覚だった男性性への痛烈な反省を強いられます。ある程度の粗暴さには耐えられても、自己本位による共感そして交歓の拒絶には耐えられない…。
それにしても、男性側のこころの空白こそが致命的です。ここでは女流歌人のみをとりあげました。なぜ男の歌がないのか、理由は極めて簡単です。当方にとって、現代短歌では琴線に触れる詠があまりないからです。戦前の著名歌人は圧倒的に男性であり、与謝野晶子などはまさに紅一点の観でした。斎藤茂吉や若山牧水など、そこにはこぼれるような慈父のぬくもりや男の浪漫がありました。戦後はホーケン的なるものの否定によって出発したわけですが、逆に今、その封建的な情緒にときどき渇くような郷愁を覚えるのはなぜなのか。ちなみに小津安二郎の「東京物語」は、仄聞するところ、名画として世界映画史上第5位にランクされ、ヨーロッパでは上映後に観客席からいっせいに拍手が起こるとのことです。
沖ななも
空壜をかたっぱしから積みあげる男を見ている口紅(べに)ひきながら
目の前に座っている女子が少々いやな顔をして、「そういう方面の女の人…」。なかなかわかっています。ちょっと嫌われたようですが、しかし歌としては、午後の倦怠といった雰囲気の中で、まるで映画の一シーンを観るようなリアリティを感じます。
愛などと呼べどもこの世にあらぬもの風船かずらの実のなかの空
全員沈黙。
栗木京子
観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ)
有名な歌で中学校の国語教科書にも載っています。作者が京都大学在学中に発表した作品で、後の活躍を約束するような秀作です。
我よりも美しき友と連れだちて男群れ居る場所を通れり
女子が何人かうつむいてしまいました。しかし、自分自身をここまで突き放して描写できる感性はすごい。これも在学中の詠。
いのちよりいのち産み継ぎ海原に水惑星の摶動(はくどう)を聴く
これは男にはわからない。しかしわからないながらもその美しい調べには打たれます。母親となった作者が、自身をも含めた専業主婦一般を、例の犀利な眼でとらえた一群の詠は、現代社会の一面を非情にえぐります。授業では扱いませんでしたが、ここで一首だけとりあげます。
天敵を持たぬ妻たち昼下がりの茶房に語る舌かわくまで
道浦母都子
ガス弾の匂い残れる黒髪を洗い梳かして君に逢いにゆく
この詠で、特に男子たちが騒然となります。「ガス弾」に何か異様なものを感じたらしい。70年安保、学園紛争などといっても通じるものではありませんが、かいつまんで説明を加えました。
催涙ガス避けんと秘かに持ち来るレモンが胸で不意に匂えり
男子たちの興奮が止みません。
明日あると信じて来たる屋上に旗となるまで立ちつくすべし
さきほどから必死にこらえてきたものがあふれ出しそうになり、声が震えました。あの時代を体験した者は、活動家であれノンポリであれ、この詠には格別の感慨を抱かざるを得ないのではないか。「サラダ記念日」の出現以前に、短歌として最大の発行部数を記録したのが、これらの詠を収めた「無援の抒情」でした。切なくて説明どころではありません。
土曜日はバラの束買う平安をいつしかわれも愛しはじめぬ
このあたりから女子がうなずき始めます。
如月の牡蠣打ち割れば定型を持たざるものの肉やわらかき
そこかしこで「わあ、おいしそう。」当方もやや落ち着きをとりもどします。
中城ふみ子
倖せを疑はざりし妻の日よ蒟蒻ふるふを湯の中に煮て
道浦母都子や辰巳泰子など、切れば血の出るような女性詠の嚆矢となったのが、戦後約10年を経て登場した「乳房喪失」の中条ふみ子。授業はここで厳粛な死の問題に対します。すでに一部の女子たちは没入のモード。乳がんの闘病生活の中で紡がれた言葉の群れによって、教室はなんとも言いようのない迫真の磁場に包まれます。
夜の風に紛れ来りてわが咽喉を扼すその手を誰かは知れり
教室がざわめく。異様な雰囲気が醸し出され、みんな固唾を呑む。特に解説しなくても「その手」の意味するものはなんとなく直感しているようです。そしていよいよ決定的な次の詠。
死後のわれは身かろくどこへも現れむたとへばきみの肩にも乗りて
ここでいっせいに「わー」と悲鳴があがる。あるいは「きゃー」に近かったか。
さて、こんなところで入試のことを持ち出すのは少々場違いになってしまいますが、授業中の観察の結果として、歌への反応の大きさと国語の偏差値とがみごとに相関していると言えます。最後の詠に悲鳴をあげた生徒たちは、おしなべて上位校へ進学していきました。
一方、その最後の詠に教室中がどよめく中で、つまらなそうに欠伸をする生徒もいました。そしてその生徒の成績ははなはだ振るわなかったのです。
では、文学的な感性とは生まれつきのものであって、後天的な努力は無意味なのでしょうか。そうではないと思います。最後の詠に欠伸をした生徒も、決して見込みがないとは思いません。それはふだんの授業態度の中に可能性を見出せるからです。国語が不得意ながらも、前向きに努力する姿勢がありました。
見込みがないと思うのは、これらの作品を一瞥しただけでせせら笑い、茶化し、はねつける、あるいは現実生活の中で、無神経に「前のをとこの名を呼べ」などと言うタイプ。これらは「こころ」をどこかに置き忘れてしまったのですからどうしようもありません。
人にはそれぞれ語彙の容量(キャパシティ)があることはどうも否定できないようです。抽象的な言葉がからきしダメな人がいます。いわゆるムズカシイ話が一切ワカラないタイプ。しかし、フーテンの寅さんの語彙は貧しいかもしれませんが、その語る言葉には心情がこもっており、人を感動させます。
一方、やたらに難解な表現で人を煙に巻き、文字通り煙たがられる人もいます。要するにいかに自分が優秀であるかを誇示したい、つまりナルシシズムの塊りなのですが、まさに寅さんこと渥美清が徹底的に忌み嫌った「便所のナメクジとインテリ」のそれでしょう。
ここで再び、なぜ戦後男性歌人の詠に琴線に触れるものが少ないのかを考えてみます。これは独断と偏見に過ぎないのですが、もしかしたら、頭で作ることと心で詠うことの差かもしれません。作歌の動機の中に、歌壇においてよい地位を得よう、占めようという出世主義の魂胆が伏在しているとすれば、その詠はある種の計算によって仕立てられることになります。エラクなれなきゃ男じゃない、男はつらいのだ、と言ってしまえばそれまでですが、もしも歌を出世や売名の手段と考えたのなら、それがいかに技巧的に洗練されていても、生きていくうえで詠わずにはいられなかった女流歌人たちの「うったえ」には及ばないのではないでしょうか。
苦しみを相分つこと遂になからんと思いて夜の障子を閉ざす 尾崎左永子
終わりに、戦後女流歌人の中で、どうしても外せないのが松平盟子です。小学生対象の授業では少々伝わりにくいか、という思いからあえて取り上げませんでしたが、あらためて別の機会に論じたいと思っています。
クレヨンに「肌色」という不可思議の色あり誰の肌とも違う
今回はまことにとりとめのない話になりました。結びに論語の言葉を引きます。
子曰く、詩三百、一言以って之を蔽えば、曰く、思い邪(よこしま)無し。 (為政第二)