プロフィール
上坂 徹自
富山県在住 代々木ゼミナール・一橋学院 元講師
中学受験も個人指導や大手進学教室にて経験豊富
アトピーは治るか?
頭痛がする、歯が痛い。これはほんとうに耐えられない。しかし「カユイ」というのもまたやっかいなものである。「痛み」は回復への強い意志が忍耐力を高め、また他人の苦しみへの共感を育む場合があるが、「痒い」というのは、くすぐってゲラゲラ笑う場面を連想したりするせいか、今ひとつ他人の同情を得にくい。しかし、慢性的な痒みとなれば、これはもう我が身を消滅させたいと思うほどの切なさであるに違いない。
アトピーに苦しむ人は多い。そして完治の手立てがなかなか見つからない。頓服としてステロイドが有効であるが、副作用もあり、継続的な使用はためらわれる。
ところで、教え子にひどいアトピーの子がいる。おそらく慢性的な痒みのせいであろう、集中力が続かない。素質はすばらしいものがあるので惜しいことだと思いつつ、なんとなくプロポリスが効くのではないか、と根拠のない考えが浮かんだ。
早速プロポリス入りのクリームを与えてみた。風呂上りに全身に塗布してみたそうだが、すぐに効果が出始めた。掻きむしってぼろぼろになっていた肌がみるみるきれいになっていく。薄黒かった顔がツルツルに輝いてくるのだから驚きではないか。痒みが完全に無くなったというわけではない。やはり時間がたつと出てくるのだが、以前とは比べ物にならないくらい楽になったという。
続けて錠剤も与えてみた。内と外から攻めれば効能は倍加するであろう。未だ完治は確認していないが、あと3ヶ月くらい継続してみて結果を確認してみたい。
副作用は全くない。通院に比べて非常に廉価でもあるので試してみる価値はあるだろう。もしも試みて効果のあった方は、お手数ですがメールください。こちらからもアドバイスできることがあると思います。
最悪の条件を克服する精神力
教師生活を長くやっていると、ほんとうに感嘆することがある。
開成・筑駒志望のM君が試験前日に発病した。数日前だったら対処の方法もあったろう。しかしもう後がない。解熱剤を処方しながらとにかく挑戦することにした。食事も取れない最悪の条件。しかし気力をふりしぼって最後まで完答し、とうとう終了後にもどしてしまった。むろん保健室での受験だ。
問題は3日目の対処だった。発表が3日の午後。そしてその日が筑駒の試験日なのだ。開成の結果が不明のまま筑駒を受けてよいものかどうか。こんな状態では開成・筑駒ともに失敗する可能性がある。ならば安全策として3日目のランクを下げた方がよいのではないか。しかし、それでは3年間なんのために苦労してきたのかわからなくなる。お母様からこんなご相談を受けて当方も緊張した。
お母様のお話を聞きながら、根拠はないものの、直観的に開成は合格するという妙な自信があった。気力をふりしぼって挑戦しているときに、ランクを下げたりすると一気に緊張の糸が切れてしまう場合もある。体調も回復しつつあるようなので、筑駒は大丈夫だと思う。そんなやりとりをしているうちにお母様も覚悟が固まったようで、ここは初志貫徹することになった。悔いの残る戦いはしたくない。
M君にも激励する。電話の向こうから聞こえてくる声はさすがに思いつめていて、とてもジョークで笑い飛ばせるような雰囲気ではない。何を語りかけても「うん、うん」を同じ返事を繰り返すだけだ。授業で繰り返し練習した解き方の順序をしっかり守るんだよと何度も念を押す。
電話を切った後で、もう何の助けも出来ない、後は本人一人の孤独な戦いなのだと切なく思いながらも、「開成は受かっているよ」と、無造作に語った自分の言葉に不思議な確信を抱いていた。
はたして3日に本人からはずんだ声で朗報が届いた。
平成16年度 麻布中学・国語研究 1
「国語は人間学? 平成16年度 麻布中学の出題から考える」 で予告しました麻布中学の国語を研究してみましょう。
次の文章を読み、設問に答えなさい。
「私」は中岡信一という人物を「信サン」と呼んで、彼との少年時代を思い出しています。「信サン」は、ある事情から義父母(養父母)に育てられていました。ある日、「私」は本屋に向かう途中で見知らぬ三人の少年に取り囲まれ、土手下に連れていかれました。そこには、「信サン」がいました。
信サンは、そこで一人、ザリガニをとっているところのようだった。いつも着ている古びた学生フクの、そのうでとすそをたくし上げて川の浅瀬にひざのあたりまで入っていた。学校の備品の金バケツが近くに置いてあり、中で数匹の赤い大きなザリガニがゴソゴソと動き回っていた。泣き声を上げる寸前であった私は、しかしそうすることも一瞬忘れて、眼前の、川中に立つ信サンをぼんやりと、ただ見つめた――
「お前、なんしよっとか、こげなところでっ」
一人が敵意をたっぷりとふくんだ声で、信サンにそう言った。信サンはだまっていた。
「オイッ、なんしよるとかち、聞きよろおがっ」そいつはあらげた声で、そうつづけた。
「おれがここでなんしよったちゃ、おまえに関係なかろおが」信サンはそいつにそう答えた。そして、「おまえたちゃ、どこの者か」そう言って三人をにらみつけた。その目には、子供なりのすごみのようなものが確かにあった。
三人はだまった。これはただものではない、とでもいったような何かを、そこに感じとったようでもあった。
「……おい、よかけん、その二百円だけとって早よ帰ろうや」別の一人が少しあせるような調子でそう言い、他の二人が、おう、とかなんとか言いながら、たおれている私につかみかかってポケットの百円札をとろうとした――
信サンの動きはすばやかった。いつ川から出たのやらも分からぬまま、あっという間に二人をはじきとばし、立ちつくしているもう一人の顔を手に持った大きな石で音がひびくほどになぐりつけた。バッ、となぐられた少年の口もとから血がふき出した時、あっさりと勝負はついた。
三人はこしをぬかすようにして、仁王立ちの信サンをみた。それから、口をおさえて泣き出してしまった一人を他の二人でかかえるようにしながら、もつれるように川べりをかけ上がっていった。「おぼえちょけよっ」というすてゼリフと一緒に、あわただしく走り去っていく自転車の音が、橋の下の私の耳に聞こえた。
私は、あらい息をはきながら、そこにたおれたまま動けずにいた。なぐられた少年の口からふき出した血のおぞましさが、まだ私に衝撃をあたえつづけていた。信サンはだまってそこに立ち、たおれているままの私を見ていたが、やがてはきすてるように、
「よその者にやられんなっ」そう一つどなって、右手に握りしめていた大ぶりの石を、足元に投げすてた。
そのとき私は――何を思ったか――たおれたまま、ポケットから二枚の百円札を取り出すと、それを信サンに向けて差し出していた。信サンは、その私の右手をけげんそうにじっと見つめた。
「やる」
右手をさらに差し出すようにして、私は信サンに言った。信サンは、その二枚の百円札を少しの間見ていたが、「いらんっ」と何か@腹立たしそうな声で言いすてて、川辺のザリガニの入ったバケツへ歩み寄ろうとした。――その、信サンが、一、二歩私から遠去かろうとした時、橋の上で自転車の止まる音がして、だれかが急ぎ足で川原に下りてくる足音が聞こえた。
問一(省略)
問二
――線@について。「信サン」はなぜ「腹立たしそうな声」で言ったのですか。説明しなさい。
解説
「国語はこうやって解く」で、再三「手がかり」をふまえて解くことの大切さを強調しました。
したがって、ここでもまず「手がかり」を探さねばなりません。
まず、信サンが「腹立たしそうな声」になったきっかけを探します。きっかけはほとんどの場合、直前に見出せます。
ここでは「そのとき私は――何を思ったか――たおれたまま、ポケットから二枚の百円札を取り出すと、それを信サンに向けて差し出していた。信サンは、その私の右手をけげんそうにじっと見つめた。『やる』右手をさらに差し出すようにして、私は信サンに言った。」の部分に注目します。
「そのとき私は――何を思ったか――」とありますので、「私」は動機をはっきりと自覚しないままお金を差し出したのですが、これは謝礼の意味であることはあきらかです。他人に助けてもらったときは、なんらかのお礼をするのが当然だという常識があり、「私」は無意識にその常識に従ったわけです。
ところが、「信サン」は受け取りを「腹立たし」そうに拒絶してしまいました。
そうなると、上記の部分が下線部のきっかけではあるものの、その拒絶の心理を説明できないので、この場合は「手がかり」として役立ちません。
では、その時の「信サン」の気持ちを合理的に説明できる「手がかり」が他にあるのかと言えば、それも見出せないようです。
ギブ・アンド・テイクという考え方がありますが、「常識」的に考えれば、見返りを得るのは別にやましいことではないはずです。ただ、本音では欲しいにもかかわらず、外聞を気にしてわざと受け取りを拒否する場合も多いのではないでしょうか。
ところが、「信サンは、その私の右手をけげんそうにじっと見つめた。」とありますので、「信サン」が謝礼を欲しいと思わなかったのは、偽りのない本心だと考えられます。したがって、彼は上に述べた「常識」とは異なる「考え方」によって行動していることになります。
その「考え方」とはいったいどのようなものなのか。これを把握する「手がかり」が問題文の中に見出せないとすれば、問題文を離れて、解答者(生徒)自身の解釈力によってこれを解明しなければなりません。
ところが、この設問の場合は、結果として単なる思考力ではなく、解答者(生徒)の人間性が試されることになります。なぜでしょうか。
@ 他人を助ける⇒謝礼を受け取る
A 他人を助ける⇒謝礼を拒絶する
上記の二つの態度を比較してどのように感じるでしょうか。また選ぶとすればどちらでしょうか。
じつはこれが踏絵となって、解答者(生徒)の「お金に対する考え方」が露わになると同時に、そのような解答者(生徒)を育てた保護者自身の価値観も白日の下にさらされることになります。(つづく)
平成16年 麻布中学・国語研究 2
人に助けてもらったり世話になったりした場合には必ずそれに報いる。
人を助けたり世話をしてあげた場合でも見返りは求めない。
両者を並べてみると確かに矛盾しているように思えます。
しかし、モラルの確立した人間の眼から見れば、決して不可解なことではありません。
新潟県中越地震への義捐金がすでに三十億円を超えています。これは利息のついた貸付金ではありません。そして多くのボランティアが現地で救援活動をしています。これを我々は当然だと考えます。
目の前で人が溺れていたら助けたいと思うのは誰しも同じでしょう。しかし、水の中に飛び込んで救助した後、請求書を送りつけたりすれば人間とはみなされなくなります。
このように、様々な事例を想起してみれば、理屈では説明できない直観的な価値判断が我々の心の中で発動します。
そうすると、ギブ・アンド・テイクという損得勘定では律しきれない何らかの規範が我々の社会の中に存在し、現にそれが機能しているとしか思えません。
お金は確かに大切です。ただしそれを手に入れる手段によって、人間は厳然とランク分けされていきます。
物語にはカツアゲ(恐喝)の三人組が登場していました。無論彼らは最低ランクとなります。これは暴力という直接的な手段によるものですが、一方、地位や権限を利用した見えにくい悪行も跋扈しており、我々の規範意識を動揺させます。公官庁の税金の使途は果たして公明正大なのでしょうか。
一方、世俗の利害を超越した宗教家などは最高ランクとなりますが、そこに開示される崇高な理想は、金銭といった実利的価値を超えるものとして我々をより良き方向へ導きます。
しかし、我々凡人の意識的な宗教心によって偽りのない立派な人格が作り出せるかどうかは少々疑問かもしれません。僧院や寺社の内部の実態はどのようなものでしょうか。ちなみに京都祇園のお得意さんにはお寺の高僧が多いそうです。また、宗教の支配的な国や地域が必ずしも民度や治安その他において卓越しているとは言えないようです。
人は誰に導かれて人となるのか、このように問われれば、それはなによりもまず「親」だと答えるほかないでしょう。さらに近隣や友人関係など、多くの有縁の人々による有形無形の影響によってその人となりが形作られていきます。
これは宗教における経典のごときものに準拠して行われるのではありません。様々な育児書の類もありますが、それらは必ずしも望ましき人格の育成を教えるものではないようです。
乳幼児は言葉を解しません。ではそこには教育はないのか、と言えばそうではありません。言葉による教育以前に、言葉によらざる教育が、赤子の誕生、いやその受胎と同時に始まります。それは親から子への一方的な愛情の注入であり、それによって幼児は愛を学び、同時に他人を信頼することを学びます。
もしも、この無私の愛を学ばなかったとしたら、後年どのような高邁な理論を彼に注入しても、あるいは彼が自ら学んでも、砂上の楼閣のごとく、それは空虚な人格を偽装する理論武装にしか過ぎないでしょう。そして、その理論によって他人との相互理解を具現しようとしても、ついにその空虚を満たすことはできないでしょう。理論や見解の一致は、必ずしも他者との心情的一体感には結びつかないからです。
この間の事情は、たとえば三島由紀夫の生涯とその諸作品が示唆的です。
さらに、その理論武装すら持ち合わせない人は、恐ろしいことに暴力によってしか他人と関わることができなくなるのではないか。通り魔という不可解な犯罪の根源にこのような事情を想定してみると、意識的な教育の限界を認めないわけにはいきません。
しかしながら、我々の住む世界は、誰によって導かれたというわけでもないのですが、あきらかに無償の善意によって、その根底が支えられています。
ここで我々は、漠として掴みがたく、しかし尚我々の心を導く道しるべのごときものを想定せざるを得ないのですが、その掴みがたい何者かを形にして我々に示してくれるのが、実は文学に他なりません。
文学は、宗教のごとき教条の体系を持ちません。それどころか、その教条主義を否定し、理論の網からこぼれ落ちる生(せい)の実相を、虚構(フィクション)によってまざまざと具現します。
「乱暴者」と評価された人間は、通常疎外された存在として我々の社会の中で一線を画され、有害無価値なものとして排斥されるのですが、文学は、そのような存在を教条的な物差しで一概に否定することをせず、世の中で現実に生を営むひとつの存在として掬い上げます。
このように、現に在るものを、在るものとして認めることから文学は出発します。宗教は好ましからざるものを地獄に突き落とすのですが、文学は、逆にその闇の中に分け入り、光を当てます。
それでは、「信サン」という存在に、どのような光が当てられていくのか、順を追って読み解いて行くことにいたしましょう。
「……守(まもる)」と目を見開いたまま、母は小さくつぶやいて、たおれている私を見た。それから、ゆっくりと、私の前に立つ信サンを見た。それはどうにも、信サンにはA分の悪い光景ではあった。
たおれたままの私のフクはどろだらけで、半ズボンからのぞいたひざこぞうはすりむいてうっすらと血が出ている。おまけに右手に持った二枚の百円札を目の前の信サンに向かって差し出したままでいた。その信サンがまた、私の前で、いかにも今ひと暴れし終えたところのように、ほおよくよごれており、何よりも、そこにいるのは母も幾度か目にしたことのあるフダツキの少年なのだった。
見つめる母と、見つめられる私たちの間に、少しの時間がながれた。
何か言わなければと、私が、信サンのために口を開こうとした時、橋の上で、また、自転車の止まる音がした。
「どけんか、したとですなあっ?」という大きな声が、どすり、どすり、という重い足音と一緒に土手を下りてくるのがわかった。
やがて、そこに、こしをかがめ、橋の下をのぞきこむようなかっこうで、制服の巡査が姿を見せた時、信サンは、一瞬、身をひるがえしてにげようとした。
「待たんかっ!」そう一つどなりつけ、信サンの足を止めると、それから巡査は、ゆっくりと母を見、私を見た。そしてそこでいま何がおきていたのかを、一瞬の内に了解したようだった。。
「B信っ! おのれは、またっ!」そう声をあらげて信サンに走り寄ろうとした巡査を、しかし一瞬はやく、母はおしとどめていた。
「C……なんか、ちがうごとあるですよ」母はそう言って巡査をみた。それから、ゆっくりと信サンに顔を向けると、「ね……たすけてくれたとやろ?」わずかに目をうるませながら、母はそう言って、信サンにほほえみかけた。
「……中岡くん……やった?」
巡査が帰ったあと、母は風聞のなかでいつかおぼえた少年の名字を、そう口にしてみた。信サンは意外なほどすなおな調子で、コクリと一つうなずいてみせた。
「……下の名前はなんて言うの?」
「――信一」
そう答えた少年に、「なら、信サンやね」母はそう言って一つ笑った。それから、「信サンはけがせんかった?」私のひざこぞうに自分のつばをぬりながら、母はそう言って信サンをみた。
「しちょらんっ」
信サンは、ただそれだけを答えて、クルリと向きを変えると、おこったようにズボズボとまた川へ入って行った。そして川の中で向こうにたたずんだまま、Dとつぜん大きな声で泣きじゃくりはじめたのだった。(つづく)
問三 下線部A「分の悪い光景」とありますが、この「光景」はなぜ「信サン」にとって「分」が「悪い」のですか。説明しなさい。
問四 下線部B「信っ! おのれは、またっ!」、下線部C「……なんか、ちがうごとあるですよ」とありますが、この巡査と母のことばについての説明としてふさわしいものを、次の中から一つ選んで記号で答えなさい。
ア 巡査は目の前の光景を見て、乱暴者だと評判の「信サン」が「三人」に暴力をふるったと思いこんでいる。母は、「信サン」が暴力をふるうはずがないと直感したが、それでも巡査と異なる意見を言うのを少しためらっている。
イ 巡査は目の前の光景を見て、乱暴者だと評判の「信サン」が「三人」に暴力をふるったと思いこんでいる。母は、「信サン」が暴力をふるったと一方的に決めつける巡査に、ためらいながらも内心では強い反発を感じている。
ウ 巡査は目の前の光景を見て、乱暴者だと評判の「信サン」が「三人」に暴力をふるったと思いこんでいる。母は、「信サン」が暴力をふるったかを確かめるように二人を見比べるうちに、巡査とは異なる考え方を持つようになる。
エ 巡査は目の前の光景を見て、乱暴者だと評判の「信サン」が「三人」に暴力をふるったと思いこんでいる。母は、「信サン」が暴力をふるったのだろうかという疑問と、巡査を前にしてちぢこまるような気持ちを持っている。
オ 巡査は目の前の光景を見て、乱暴者だと評判の「信サン」が「三人」に暴力をふるったと思いこんでいる。母は、「信サン」が暴力をふるったにせよ、巡査にどんな理由をつけてでも「私」をこの場から救いたいと思っている。
問五 下線部Dについて。「信サン」が「とつぜん大きな声で泣きじゃくりはじめた」のはなぜですか。「信サン」がこの時まで大人たちからどのようにみられていたかを考えて、その理由を答えなさい。
解説
ここで非常に重要なノウハウがあります。
論述問題と選択問題が混在している場合、選択問題が論述問題のヒントになる場合が非常に多いのです。
ここでは、問四を正しく答えることができれば、それが問五のヒントになります。
場合によっては、選択肢の中の表現をそのまま論述の素材に利用することもできます。このパターンは、大学入試問題でよく出現します。
国語入試問題の正解とは、あくまでも出題者の解釈です。その出題者の解釈がストレートに反映するのが、選択問題の選択肢です。正解の選択肢は出題者が作成したものですから、それを上手に利用すると、必然的に答案は模範解答と合致してきます。
問四の正解はウです。
「巡査は目の前の光景を見て、乱暴者だと評判の「信サン」が「三人」に暴力をふるったと思いこんでいる。」から、問五「『信サン』がこの時まで大人たちからどのようにみられていたか」のイメージをつかむことができます。
また、「母は、『信サン』が暴力をふるったかを確かめるように二人を見比べるうちに、巡査とは異なる考え方を持つようになる。」からは、「『信サン』が『とつぜん大きな声で泣きじゃくりはじめた』」ことのヒントがつかめるはずです。「巡査」を「大人たち」の代表と考えれば、その「大人たち」とは異なった考え方で「信サン」を見てくれる人間が出現したことになります。
ここでいよいよ「信サン」に光があてられます。読者自身が「信サン」の立場に身をおいて、さらには「信サン」自身になりきって、彼のこころを自分のこころにしてみましょう。
そうすれば、「だれも自分を理解してくれない。理解してくれるはずがない。」と半ば自暴自棄になっていたところへ、突然目の前に、偏見を持たずに、正しく事情を理解してくれる人が現れた、その「驚き」を読者自ら「体験」できるはずです。
そして、その「文学体験」から、的確な答案も生み出されてくるはずです。
過去問という曲者
運動会も終わり、枯葉散る頃になると、そこはかとなく切ない気分とともに、妙に気になりだすものがある。「カコモン」だ。
中には夏休み前から気もそぞろの方もおられるようだが、ちょっと待って欲しい。
「過去問」とはそもそもなんぞや? 過去の入試問題である。それはそうなんだが、なんでそんなに気になるんだろう。
ここで問題にしたいのは、その焦りをともなった一種の気分だ。
まず私の指導経験を率直に披露する。「過去問」だけに一生懸命取り組むと成績が下がる場合が多い。最初は少々気にかかる程度だったが、同様の例が再現するので慄然とした。いったいなぜなのか。
そもそも入試問題とはなんだろう。それは実力のある生徒を選び出すと同時に、定員の枠を超える分を切り捨てるのが目的だ。つまり、あくまで選抜の手段であって、実力養成の教材としてはふさわしくない面もあることに注意しなければならない。
例えば、落とすための方策として、どんなテキストにも出てこない専門的なことがらが盛り込まれることがある。これに驚いて瑣末な知識にこだわりだすとノイローゼになる。
冷静に考えてみよう。合格するには満点を取る必要は無いのだ。合格の条件は、まず誰でも解ける基本的な部分で絶対に取りこぼしをしないことである。つまり、基礎力の徹底である。
基礎が十分に仕上がる前に、あせって実力養成とは目的の異なる出題に取り組むとどうなるか。常識で考えて見れば答は明らかだろう。プロ教師と称する先生方の中にも、いきなり「過去問」をメイン・テキストにして生徒を疲労困憊させ、模試で惨憺たる結果を得ても、まだその誤りに気付かず、さらに拍車をかける例もある。セオリー無視の帝国陸軍方式だ。結果が凶と出たらすぐに方法論を再検討する柔軟さを持たねばならない。
「国語はこうやって教える」で述べたが、国語の実力を養うには、主題の把握に始まって、いろいろと手順を踏んでいかなければならないことがたくさんある。良質な受験用国語テキストは、「過去問」を素材に編集する場合にも、必ず著者が手を入れて実力養成用に作り変えてあるのだ。したがって、「過去問」をテキストに用いる際には、ただ漫然と解かせるだけでなく、事前に十分検討を加え、解き方の手順を補足しなければならない。
では基礎力完成の確実な方法はあるのか? ある。全く容易な方法だ。塾で用いているテキストを何度も何度も解きなおすことである。ところが、設問は一度解いたらそれっきり。こんな生徒がほとんどなのでいつも嘆息する。ひどいのになると、使ったノートが行方不明だったり、果ては未練も無く捨ててしまう場合もあるのだからあきれてものが言えない。
最近女子マラソンが素晴らしい。よく調べて見ると実に細かく配慮した合理的な練習方法を実践している。ところで古い話だが、ロサンジェルス・オリンピックの時、日本マラソン・チームは致命的な練習のミスを犯して大敗した。瀬古利彦という稀に見る逸材もいたのだが、まったく走りにならなかった。なぜなのか。
それは、酷暑のロサンジェルスを想定して、同じ酷暑の条件で練習を積んだからだ。この段階でほとんどエネルギーを使い果たしてしまった。この失敗に鑑みて、アテネ・オリンピックでは、ロス同様の酷暑に対処するに、わざわざ快適な好条件を選んだ。結果はご承知の通りである。
「過去問」そのものは酷暑のロスと同じだ。ならどうすればよいのか。
「彼を知り己を知れば、百戦殆うからず、彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆うし。」
有名な孫子の言葉だが、過去問とは「彼」すなわち「敵」にあたる。
過去問演習はあくまで「彼を知る」こと、すなわち敵情観察だ。そして実際に解いて見て、ボーダーラインを超えるには、自分自身の学力のどこがどれほど足りないかをしっかりと把握する。これが「己を知る」である。
ところが、実際に過去問をやってみると、そこにはいろいろな悲喜劇が生じる。八割ほど解けてもう合格した気分になったり、あるいは五割を割って奈落の底に・・・。
当方の家庭教師の経験でも笑えないケースがあった。模試で成績が急上昇し(まぐれでしょう)、家族中で舞い上がってしまった。何時に起きてどうやって通おうかね、などと合格したあとの心配を始める。そして勝手に第一志望の過去問を解いてみて大騒ぎとなった。ボーダーラインを超えていない(まだ時期が早いのに)! 父親が逆上した・・・。こちらから辞めさせていただきました。
どうも「カコモン」には「危険物取り扱い」の心得が必要のようだ。
過去問のタブーを二点まとめておこう
@ 過去問は実力養成のメイン・テキストとしてはふさわしくない。
- 基礎力ノーチェックでいきなり過去問演習など論外。
- 必ず学校別のテキストを用いること。
- 多くの学校を収録したいわゆる電話帳は、あくまで参考資料にとどめるべきである。これをテキストに用いると、想像以上に生徒に負担をかける。仮に他の生徒が使っていても、断じて同調してはならない。
- 拠り所とすべきは、再三言うように塾のテキストであって、これを中途半端にしてあれこれ手を広げることは自殺行為に等しい。浮気者に勝利の女神は微笑まない。
A 過去問は模試ではない。
- 合格可能性は模試で判断する。実力は塾のテキストで養う。
- 時間を決めて過去問を解き、正解率が何割などと詮索しても意味は無い。
- とりわけ正解率が悪かったときに、上記の例にあるようなパニックに陥ることがあるので注意しなければならない。
- 過去問を解くときには、とかく合否を占うような心境になりがちだが、あくまで事前調査の心得で淡々と取り組むべきである。
では、過去問利用のモデル・ケースをあげておこう。
まず、過去問演習の目的をしっかりと決めておく。あくまでも理性的に対処し、「占い」のような非合理的動機は厳に排除しなければならない。
@ 出題傾向の把握 A 出題傾向への慣熟
@ 出題傾向の把握
- 実際に解く前に、過去問テキストの解説部分や塾の先生の意見など、可能な限り情報を集め、十分に検討する。
- しかし、学習の基本方針は一貫して塾のカリキュラムに従う。
- なぜなら、過去の傾向が今後もそのまま継続するとは限らないからである。ある特定の傾向や分野に合わせて学習すると学力に偏向性が生じてしまう。まず、どのような傾向・範囲にも対処できる偏りの無い実力を養うのが先決である。
- 実際に解くのは2学期以降でよい。間違えた問題をよく検討し、そこから自分自身の課題を見出す。
- その課題を念頭において、塾のテキストを再学習する。
A 出題傾向への慣熟
- 志望校のだいたい5年度分くらいを、繰り返し解いて、出題の癖を体で覚える。
- ただし、@で述べたように、急に傾向が変わっても動揺しない心の準備はしておく。
国語は人間学? 平成16年度 麻布中学の出題から考える
最近、最上位校において論述形式の導入が顕著です。男子御三家では開成、女子御三家では桜陰が論述形式に転換しました。
この問題を考えるには、今年度(平成16年)の麻布中学の出題が極めて示唆的です。出題内容についてはあらためて解説したいと思いますが、テクニックで解ける設問ではありません。なによりも受験生自身が、豊富な交友体験を通して、人間関係における基本的なマナーとルールを理解していることが必要です。そして、その答案によって、家庭において、親がどのような倫理観・道徳観にたって子供を育てたかがたちどころに看取されてしまうでしょう。
こうなると、単に塾の教材や過去問の範疇を超えて、育ち方・生き方そのものがテクストとならざるを得ません。すなわち受験生が、実生活の上で、どのような考え方にたって友人関係や家族関係をいとなんでいるかが問題になってくるのです。したがって、養育者である親の価値観がきびしく問われることになります。
人間の内面的価値が基準となってくるわけですから、受験生のステレオタイプである「ガリ勉」型とはいささか色合いの異なった「人の気持ちが分かる健全な人格」が求められているのでしょう。
そう考えると、意外にも受験国語は、本来の正統的な国語学習に回帰しつつあると言えるのかもしれません。そして本来の国語学習とは、とりもなおさず「人間学」であるということです。
「通年課題」という方法論
受験勉強は、塾などのカリキュラムにそって進められるわけですが、個々の単元を超えて、入試の前日まで不断に学習を継続しなければならない分野があります。
国語では「漢字」、算数では「計算」などがこれにあてはまります。私はこれを「通年課題」と称して指導上の重要な方法論にしてきました。
算数では「計算」の他に「割合と比」を通年課題として位置付けるべきです。すなわち5年生の段階で「割合と比」の基礎を学び、それ以降は中断することなくこの分野をコツコツと学習し続けるのです。これはやがて「速さ」や「図形」と密接に関連し、難問となって受験生を苦しめることになります。この難所の突破法は順次公開していきます。
国語では主に問題文の基本的な「読解法」や、設問の要求に正しく答える「解答技術」が通年課題となります。というより、国語の学習は、ほとんど「漢字」と「読解・解法の方法論」という二つの通年課題が主体だといってよいのです。志望校が論述中心の場合は、当然「論述の訓練」がこれに加わります。
下手の長談義・下手の長説明
当たり前の話だが、「教える」ことは容易なわざではない。
自分で理解することと、他人に理解させることは全く別なのだと心得る。これが「教える」という仕事の出発点だ。これから教えようとする事柄は、自分にとってはわかりきったことだが、相手の生徒にとっては未知との遭遇なのだ。
新しい知識は、既知の土台の上に築かれる。すでに知っていること・理解していることと全くつながりのない事柄は理解できない。であるならば、「教える」とは、まず相手の知識レベルをよく把握し、そして相手が既に知っていることを上手に組み合わせて、新しい「わかった」を相手の頭の中に作り出すことだと言える。
そして、これが重要なのだが、「理解する」とは物事を単純明快に把握できるということなのだ。これがわからないと、相互理解などとむやみにガンバッテみても、誤解の上に誤解を重ねるだけだ。話が複雑になると理解できなくなる。こんなことは誰でも知っている。ならば、下手の長談義といって、まるでエンドレステープのような散漫饒舌な話し方では相手にうまく伝わらない、ということも誰でもわかっていそうなものだが、世の中そうでもないらしい。いますね、話の長いのが・・・。
井戸端会議の長話なら、なんとか理由をこしらえて退散することもできるが、教室の中で「軟禁」されている生徒児童はそうはいかない。熱血教師が、これでもかこれでもかと塗りたくるように説明に説明を重ねる。そして、挙句の果てに、なんでこんなことが理解できないんだとキレまくる。ここが教師の剣が峰だ。
説明は短いほどわかりやすい。これを得心し実践できるかどうかがほんもののプロ教師になれるかなれないかの分かれ目だ。
「理解」「記憶」「練習」の三原則と苦手算数の克服
「勉強の仕方がわからない。」これはよくある悩みだ。
ところで、何をやってもきちんとこなしていく人と、逆に何をどうすればよいのかまるで見当がつかず、ただ呆然としているうちに取り残されてしまう人がいる。後者は単なる不器用とは違うようだ。不器用な人は、もたついたり遅かったりするものの、何をどうすればよいのかはきちんと心得ている。職人さんの世界では、案外不器用な人が大成することが多いようだ。
さて、「取り残されてしまう人」はいったい何が原因なのだろう。性格的な面も確かにあるだろう。しかし、生まれ付いてのものだと断定してしまえば救われようがない。もしかしたらちょっとしたノウハウの問題ではなかろうか。
@「理解する」A「記憶する」B「練習する」。この三つが学習の大原則だが、実はこの順序が問題なのだ。まずテキストの熟読や教師の説明によって@「理解する」いや「理解しようとする」。ところが、この最初の段階で躓く場合が少なくない。とくに算数・数学では心当たりのある方が多いのではないだろうか。こうなると立ち往生。しかし、授業は進んでいく。遅れる。取り残される。そして「落ちこぼれ」の烙印を押されてしまう。
実は、よく理解できないのは単に慣れていないという面が大きい。新しいことに対する不安感や恐怖感が先にたって、受け入れを無意識のうちに拒否してしまうのだ。算数・数学のように、形が無く、五感で確かめにくいものはとりわけ不気味だ。「いやよいやよも好きのうち」などと粋な心境で勉学に邁進できる方ならともかく、多くの迷える羊は、こんな達観とははなはだ疎遠な、きわめて野暮な仕儀と相成る。
ではどうすればよいのだろう。実は簡単なのである。まず理屈ぬきに「記憶」してしまう。問答無用で覚えてしまうのだ。わからなくてもいいのである。とにかくピアノでも習う要領で、決まりや解き方を繰り返しなぞるように反復練習し、覚え、慣れてしまうことだ。
すると不思議なことに、時間がたつうちにだんだん「わかってくる」。要するに、@「記憶する」A「練習する」B「理解する」の順になるわけである。考えて見れば、母国語はこうやって身につけたのだ。考え理解する能力が芽生える以前から、実は理屈抜きの学習が始まっていた。
算数で悩んでいる人、あまり神経質にならずにまず覚えてしまおう。例題を繰り返し解いて見よう。そのうち必ず「あっ、そうか!」となります。 そして、ガクモンへの愛が芽生えるのだなあ・・・。
中学受験国語に頻出するテーマ
読解力とは何でしょうか。「文章の内容を正確に理解する力」と言ってしまえばそれまでですが、実はいろいろなものごとに関する「知識」や「経験」の有無が大きな前提になります。
よく「速読法」と称するものが広告などに現れます。しかし、その方面の大家に直接聞いたことですが、全く基礎知識を持たない分野の専門書などは速読できないとのことです。速読可能なものは、すでによく知っている分野に限られるわけです。
これは受験国語の読解についても当てはまります。問題文のテーマについて、関心や知識を全く持たない場合は、何度読み返しても十分な理解は得られません。客観式の設問ならば、漠然とした直感的な方法でもなんとか答を記すことはできますが、これが論述問題となるとお手上げです。
「赤信号は渡ってはならない。」というルールを知らない人に、いくら赤信号を示しても、それは意味不明の記号に過ぎません。同様に、「友情の大切さ」を全く理解しない人に友情の物語を読ませても、残念ながら「猫に小判」です。
したがって、受験国語の対策としては、頻出するテーマに関する基礎的な理解がどうしても必要になってきます。問題文のテーマが、ふだん全く考えたことも無い未知の分野であったために、その内容に深くのめり込んでいくことができず、不本意な成績に終わるケースは非常に多いのです。
このような場合には、解き方の良し悪しについて反省してみても、あまり効果はありません。
頻出テーマの例
「論説文・説明文」では「自然と人間」
昨今、地球温暖化やゴミの問題がよく話題になります。いわゆる「環境問題」です。そしてこれが現代社会のもっとも深刻な問題の一つであり、また「行き過ぎた現代文明に対する批判」という論点が小学生にもよく理解できるためか、頻出のテーマになっています。
対策…どれを読んでも内容はワンパターン。
問題文の構成は、ほとんどの場合、自然破壊の実例とそれに対する筆者の意見となっています。
そしてその意見も大同小異で、「人間と自然は対立すべきものではない。人間の身勝手による自然破壊を反省し、自然との共存を考えよう。」といった趣旨がほとんどです。そこには「自然と人間は本来調和すべきもの」という考え方が、まるで共通認識のように確立しています。
ですから、このような図式をよく頭に入れておけば、問題文の要旨はだいたい誤りなく把握できるはずです。
「物語・小説」では「人間関係、特に友情」
そもそも物語や小説では、古来人間関係が非常に大きなテーマになっているわけですが、少年少女向けの作品では、これが「友人関係や友情」あるいは「親子関係」となって現れます。
ところで、物語や小説は、あくまで読者を意識し、読者の共感を得て広く読まれることを目的に書かれます。要するに一冊でも多く売れることを目的とした「商品」なのです。その意味でプライベートな日記や手紙とは根本的に異なります。それらにおいては、出来事や感想などが、原則としてありのままに記されます。しかし、物語や小説で、だれでも知っていたり、あるいは思いついたりする平凡なことを漫然と書き連ねたのでは、読者の興味をかきたてることはできません。
読者の心をとらえ、お金を払ってでも読みたいと思わせるには、言い換えれば高い商品価値をもつには、そこに構成上の様々な工夫が必要になってきます。その工夫とは、一言で言えば上手なウソなのです。あっと驚くような奇想天外なフィクションによって読者の想像力をかきたて、夢中にしてしまえば作者の勝ちです。
無論、私小説という作家自身の体験が赤裸々に述べられた小説のジャンルがあり、これこそが純文学であるとする考え方もいまだに根強いのですが、ここではこの問題に深く立ち入ることはいたしません。
さて、中学受験をむかえる小学生たちの関心はなんでしょうか。受験勉強はともかくとして、やはり友だちや友情が大きな比重を占めるでしょう。しかし、彼らに単純な仲好し子好しの物語を読ませても乗ってくるはずはありません。そんな紋切り型のストーリーで文学賞に応募しても百戦百敗です。
読者の興味を引こうと思ったら「ひねり」が必要です。たとえば「仲間はずれ」。
自分の誕生パーティに招待した友人たちが途中で帰り始める。どこへ行くのかと思ったら、クラスで一番背が高くて美人で、そして勉強ができる女の子の家だった…。誰しも仲間はずれに対する恐怖心は持っています。ですからこの展開は人ごとではないのです。そこでついこの先はどうなるの…?となってしまう。
対策…友情からの疎外、それが逆に友情の大切さを教える。
友だちから仲間はずれにされる悲しみ。クラスの友だちとうまくとけ込めない悩み。しかし自分の存在は認めて欲しい。認められるにはどうすればよいのだろう…。子どもの世界とはいっても、そこには大人の世界となんら変わらないどろどろした人間関係の葛藤があります。
少年少女向けの物語の場合、基本的な主題の多くは友人関係とりわけ友情の大切さです。その友情の大切さをうったえようとする場合、構成上の工夫として、あえて友情から疎外されたスケープゴートを仕立てる場合が多いのです。そして、この友情からの疎外を通して、逆説的に友情の大切さが強く読者に意識されます。
このような逆説的な図式を頭に入れておけば、登場人物の心情に関する論述においても、表面的な把握にとどまらず、人間関係の深層と作者のねらいとを的確に解答できるはずです。
「親子関係」もテーマとして非常に重要ですが、これは機会を改めて述べたいと思います。