6月10日更新

人間は死んだ後にどうなるのか、果たして死後の世界はあるのか、それとも死とは全き消滅なのか・・・、虚空に問いかけるようなとらえどころのない疑問です。死後の世界を完全に否定し去るにはためらいを感じる。さりとて、はっきりと認めるほどの根拠も見出せない。

しかし、人類史の観点から見るならば、霊魂観のように、死後においてもなんらかの形で存在が持続するという考え方こそが正統であり、死による完全な消滅を説く唯物論的な考え方はむしろ異端なのです。

現代は「進歩」と言う観念によって、伝統的な宗教観を克服すべき迷妄とする考え方が一見優勢のように見えます。しかし、自分自身が生命の危機にさらされた時、肉親の死に直面した時などに、ふと意識の古層から時空を越えて連続する何かを感得する場合も多いのではないか。

釈尊は、最晩年に弟子のアーナンダと共にナーディカ村へ赴いたことがあった。そこでアーナンダは釈尊に向かって、既に亡くなった大勢の知人たちの行きついたところを順次問うていった。釈尊は問われた一人一人について丁寧に答える。

大変興味深いのは、完全に煩悩を断ち切ってニルバーナに住し、再びこの世に戻ってはこない人がいる一方で、一度だけこの世に還ってきて、その後にニルバーナに至る人や、別の世界に生まれてそこからニルバーナに至る人など、あきらかにこの世での死の後に、なんらかの生存の継続を示唆する答えが延々と述べられたことだ。

アーナンダの記憶力は教団中随一であり、それ故に釈尊は常に彼を従えて自らの教法を正確に記憶させたのだが、その強記故に次々と故人を想起しては同種の問いを繰り返したため、さすがに釈尊も疲れたのであろう、そのような問いは如来にとって煩わしいとして、個別の答えに代えて総括的な教えを説いた。それが「法鏡の教え」という、やがて大乗仏教に連なっていく極めて重要な教えである。

この話は数ある涅槃経の中でもとりわけ古い「大パリニッパーナ経」に収載されている。それだけに内容の信憑性は高いといえるだろう。

ここに述べられた釈尊の教えを信じるならば、完全に煩悩を断ち切ってニルバーナに入った者以外は、境地の差によって違いはあるものの、死後にもなんらかの形で生存が持続すると考えるのが正しいであろう。

ちなみに「一度だけこの世に還ってきて、その後にニルバーナに至る」存在は、後に理論化されて「一来果(一来向)」と名付けられた。

つづく






東大−文科前期 2006年度

第一問
 
次の文章を読んで、後の設問に答えよ。

 なにゆえに死者の完全消滅を説く宗教伝統は人類の宗教史の中で例外的で、ほとんどの宗教が何らかの来世観を有しているのであろうか。なにゆえに死者の存続がほとんどの社会で説かれているのか。答えは単純である。(ア)死者は決して消滅などしないからである。親・子・孫は相互に似ており、そこには消滅せずに受け継がれていく何かがあるのを実感させる。失せることのない名、記億、伝承の中にも、死者は生きている。もっと視野を広げれば、現在の社会は、すべて過去の遺産であり、過去が(a)チンデンしており、過去によって規定されている。この過去こそ先行者の世界である。そもそも、「故人」とか「死んでいる人」という表現自体が奇妙である。死んだ人はもう存在せず、無なのであるから。ということは、こうした表現は、死んだ人が今もいることを指し示している。先行者は生物学的にはもちろん存在しないが、社会的には実在する。先行者は今のわれわれに依然として作用を及ぼし、われわれの現在を規定しているからである。たとえば某が二世紀前にある家を建て、それを一世紀前に曾祖父が買い取り、そこに今自分が住んでいるという場合、某も曾祖父も今はもう亡いにもかかわらず、彼らの行為がいまなお現在の自分を規定している。先行者がたとえまったくの匿名性の中に埋没していようとも、先行者の世界は(b)ゲンゼンと実在する。この意味で、死者は単なる思い出の中に生きるのとはわけが違う。死者は生者に依然として働きかけ、作用を及ぼし続ける実在であり、したがって死者を単なる思い出の存在と見なすことは、時として人々に違和感を醸し出す。人々は死者を実体としては無に帰したと了解しつつも、依然として実体のごとく生きているかのように感じるのは、そのためである。 

 名、記憶、伝統、こうした社会の連続性をなすものこそ社会のアイデンティティを構成するのであり、社会を強固にしてゆく。言うまでもなくそれは個人のアイデンティティの基礎であるがゆえに、それを安定させもする。したがって、個人が自らの生と死を安んじて受け容れる社会的条件は、杜会のこうした連続性なのである。 

 人間の本質は社会性であるが、それは人間が同時代者に相互依存しているだけではなく、幾世代にもわたる社会の存続に依存しているという意味でもある。換言すれば、生きるとは社会の中に生きることであり、それは死んだ人間たちが自分たちのために残し、与えていってくれたものの中で生きることなのである。その意味で、社会とは、生者の中に生きている死者と、生きている生者との共同体である。 

 以上のような過去から現在へという方向は、現在から未来へという方向とパラレルになっている。(イ)人間は自分が死んだあともたぶん生きている人々と社会的な相互作用を行う。ときにはまだ生まれてもいない人を念頭に置いた行為すら行う。人間は死によって自己の存在が虚無と化し、意味を失うとは考えずに、死を越えてなお自分と結びついた何かが存続すると考え、それに働きかける。その存続する何かに有益に働きかけることに意義を見出すのである。ここで二つの点が大事である。まず、それは虚妄でもなければ心理的(c)ヨウセイでもないということである。それは自分が担い、いま受け渡そうとしている社会である。第二に、人ははかない自分の名声のためにそうしているのではないということである。むろん人問は価値理念と物質的・観念的利害とによって動く。したがってここでは観念的利害が作用してもいるのであろうが、それは価値理念なしには発動しない。ここで作用している価値理念とは、「犠牲」ということである(後述)。 

 社会の連帯、つまり現成員相互の連帯は必ず表現されなければならない。さもなくばそれは意識されなくなり、弱体化してしまう。まったく同じことがもう一つの社会的連帯、つまり現成員と先行者との連帯にも当てはまる。この連続性が現にあるというだけでは足りない。それは表現され、意識可能な形にされ、それによって絶えず覚醒されるのでなければならない。この縦の連続性=伝統があってこそ、社会は真に安定し、強力であり得る。それゆえ、先行者は象徴を通じてその実在性がはっきり意識できるようにされなければならない。(ウ)先行者の世界は、象徴化される必然性を持つということである。他方、来世観が単なる幻想以上のものであるなら、何らかの実在を象徴しているのでなければならない。来世観は、実在を指示する必然性を持つということである。これら二つの必然性は、あい呼応しているように思われる。 

 人類の諸社会で普遍的に非難の対象となることの一つは、不可避の運命である死をひたすら呪ったり逃れようとする態度であり、あるいはそうした運命のゆえに自暴自棄となり頽廃的虚無主義に落ち込むことである。どのような杜会でも、人間は、老いて行くことを潔く受け容れるように期待されている。死がいかんとも避けがたくなったときに、その運命に(d)ショウヨウとして従うことを期待されている。それは無論、死ねばよいと思われているのとはまったく異なる。悲しみと無念の思いにもかかわらず、そうした期待があるということなのである。ここでは事の善し悪しは一切おいて、なにゆえにそうした普遍性が存在するのかを考えてみたい。それは来世観の機能と深い関わりがあるように思われるからである。 

 年老いた個体が順次死んでいき、若い個体に道を譲らないなら、集団の存続は危殆に瀕する。老いた者は、後継者を育て、自分たちが担っていた役割を彼らが果たすようになるのを認めて、退場していく。これが人間杜会とそこに生きる個人の変わらぬ有りようである。その場合、積極的に死が望まれ求められるのではない。人は死を選ぶのではなく、引き受けざるを得ないものとして納得するだけであり、生を諦めるのである。それは他者の生を尊重するがゆえの死の受容である。これは、他者の命のために自分の命を失う人間の勇気と能力である。たとえ客観的には杜会全体の生がいかに脆い基盤の上にしか据えられていなくとも、また主観的にそのことが認識されていても、それでも(エ)他者のために死の犠牲を払うことは評価の対象となる。これこそ宗教が死の本質、そして命の本質を規定する際には多くの場合に前面に打ち出す「犠牲」というモチーフである。それは、全体の命を支えるという、一時は自らが担った使命を果たし終えたとき、他の生に道を譲り退く勇気であり、諦めなのである。それは、自らの生を何としてでも失いたくない、死の不安を払拭したい、死後にも望ましい生を確保しておきたいという執着の対極である。一方でそうした執着を捨てきれないのが人間であると見ながらも、主要な宗教伝統は、まさにそれを(e)コクフクする道こそ望むべきものとして提示する。このモチーフは、いわば命のリレーとして、先行者の世界と生者の世界とをつないでいる価値モチーフであるように思われる。そうであれば、(オ)先行者の世界に関する表象の基礎にある世俗的一般的価値理念と、来世観の基礎にある宗教的価値理念との間には、通底するないし対応するところがあるように思われる。                     (宇都宮輝夫「死と宗教」)

〔注〕○アイデンティティ―identity(英語) 時問的、空間的な同一性や一貫性。   
   ○パラレル―parallel(英語) 並列ないし平行すること。   
   ○モチーフ―motif(仏語) 中心思想、主題。



設問

(一)「死者は決して消減などしない」(傍線部ア)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(二)「人間は自分が死んだあともたぶん生きている人々と社会的な相互作用を行う」(傍線部イ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(三)「先行者の世界は、象徴化される必然性を持つ」(傍線部ウ)とあるが、それはなぜか、説明せよ。

(四)「他者のために死の犠牲を払うことは評価の対象となる」(傍線部エ)とあるが、それはなぜか、説明せよ。

(五)「先行者の世界に関する表象の基礎にある世俗的一般的価値理念と、来世観の基礎にある宗教的価値理念との間には、通底するないし対応するところがある」(傍線部オ)とあるが、どういうことか。全体の論旨に即して一〇〇字以上一二〇字以内で説明せよ。(句読点も一字として数える。なお、採点においては、表記についても考慮する。)

(六)傍線部a・b・c・d・eのカタカナに相当する漢字を書け。

(解答枠は(一)〜(四)=13.5センチ×2行)




第一回 「意味」「説明」「理解」


問題文が論説文の場合、通読の方法は二通りあります。

@ 冒頭から省略なしに順を追って通読する方法。
A 最初に全体の話題と結論を把握するために、まず要所を選び取って読み、その後で未読個所を読む方法。

Aの場合、問題文には結論の位置によって、頭括型・双括型・尾括型の3種類があり、それを念頭において最初に目を通す個所を取捨選択します。

ここでは、@の読み方に従って説明を試みたいと思います。

なにゆえに死者の完全消滅を説く宗教伝統は人類の宗教史の中で例外的で、ほとんどの宗教が何らかの来世観を有しているのであろうか。なにゆえに死者の存続がほとんどの社会で説かれているのか。

問いかけの表現になっていますので、問題提起です。そして、ただちに非常に簡明な答えが提示されます。

答えは単純である。(ア)死者は決して消滅などしないからである。

ここで設問です。「どういうことか、説明せよ。」

さて、傍線部説明は大別して2種類あります。 @ 意味説明 A 理由説明 

(ア)はもちろん@の「意味説明」です。そうすると、ここで「意味」とは何か「説明」とは何かということを考えておかねばなりません。

「意味」「説明」・・・非常にありふれた言葉ですね。わたしたちはいつも使っています。では、「意味」の意味を説明できるでしょうか。「説明」の意味を説明できるでしょうか。

なんだか漫才みたいになってきましたね。でも、このふたつの言葉の「意味」をしっかりと「理解」しておかないと、的確な答案は作れませんね。

ところでもうひとつ、いま使ったばかりの「理解」ってどういう意味でしょう・・・?

東大国語に限らず、すべての傍線部説明問題は、まずここからスタートしましょう。

「意味」「説明」「理解」の意味を理解しなければ正しく説明できません。




以下は余談のつもりで軽く読み流してください。参考にするしないはおまかせします。

「意味」とは何か。

ふだん、何気なく「意味内容」という言葉を用います。この「意味」と「内容」はほぼ同じ意味です。簡単に言えば「中身」のことです。

「フライドチキン」とは何か?・・・と問われれば、
「鶏肉を油で揚げた料理である」と、一応答えておきましょう。香辛料など、,詳しく述べれば際限がありませんが・・・。

ここで「フライドチキンとは 鶏肉を油で揚げた料理である」という、主語と述語のそなわった「文」が成立していることに注目します。

話題・テーマになっているのは「フライドチキン」です。そしてこれが「主語」に該当します。
英語で主語は「subject」ですが、これは本来、「議論や研究上の主題, 問題」という意味です。

そして、「鶏肉を油で揚げた料理である」が、その主語に対応する「述語」なのですが、まさにこの「述語」こそが「意味」に該当します
英語で述語は「predicate」ですが、これは動詞としては、「真理として断言する」という意味があります。

要するに「意味」とは「述語」である、ということです。



「理解」とは何か。

「テンプラ」とは何か・・・? と問えば愚問の類になります。誰でも知っていることですから。

しかし、イタリア語の「tempra」とは何か・・・、となると、イタリア語を知らない人には見当もつきません。しかも心の中に「天麩羅」のイメージがわいてきて、少々複雑な気持ちになります。

かつてフィアットが「TEMPRA」というセダンを発売しましたが、日本法人はこれをわざわざ「テムプラ」と表記しました。その配慮は理解できますね・・・

「tempra」の意味は「響き」とか「音色」です。

したがって、「『tempra』とは、日本語で「響き」「音色」である。」とすれば意味がはっきりします。

主語の「tempra」はまだ理解できていない「未知」の言葉です。
一方、述語の「響き」「音色」は既に知っている「既知」の言葉です。

このように、未知の「主語」が既知の「述語」と関係付けられたとき、「理解」が成立するわけです。

もちろん、「相手の気持ちを理解する」ような場合は、必ずしも言葉を介在させません。これは共感、共鳴という感覚的理解ですが、ここでは言葉による知的な理解に限定して話を進めます。


余談ですが、ベッリーニの歌劇「ノルマ」の有名なアリア「清らかな女神よ」に、「tempra」 が何度か出てきます。非常に敬虔かつ繊細な歌の中にこのような言葉が出てくると、どうしても日本語の意味が干渉してきて邪魔になりますね。でも「tempra」=「響き」という関係が意識の中に定着してしまえば気にならなくなります。

マリア・カラスの卓絶した歌唱を一度聴いてみましょう。
Casta Diva...Maria Callas

カラス自身がこのように述べています。
「このアリアはあらゆるオペラのアリアの中でも、最も難しいもののひとつです。その理由は、このアリアでは、完璧なレガートの技術が絶対的に要求されているだけでなく、声そのものが、常によく目立つように書かれていて、そういう意味からもごまかしがきかない、過酷な要求に応えなくてはならないからです。」

レガート [legato]〔音〕 音と音の間に切れを感じさせず、滑らかに続けて演奏する方法。

東京芸大の卒業記念コンサートに行った時、このアリアを歌った学生がいて少々驚いたことがあります。大丈夫かな・・・、と。でも、とてもよく練習を積んだようで、無難に歌い終えました。しかし、「tempra」の部分がどうだったかは記憶にありません。


「説明」とは何か 3月16日更新


「ねえ、タベルナって何?」

さて、タベルナとは何でしょう・・・?

「タベルナはタベルナだよ。」
・・・主語と述語が同じでは「理解」が成立していることになりませんね。自信のなさそうな様子から、ご本人もわかっていないんじゃないでしょうか。

「タベルナっていうのはアレだよ。」
・・・ご本人には分かっているんでしょうが、「説明」になってませんね。

「タベルナというのは、伝統的なギリシャ料理店のことだよ。」
・・・これでよくわかりました。

日本でも「TAVERNAナントカ」と銘打った店がありますが、たいていはイタリア料理です。なぜギリシャ料理ではなくてイタリアンなのか、ということになりますが、日本ではギリシャ料理はあまり好まれないんですね。探してもほんの数店しかないようです。

なぜなんだろう・・・? オリーブ油がきつすぎて口に合わないんです。

というわけで、「タベルナは食べるなだよ。」という最初のお答えは、もしかしたら良く事情のわかってらっしゃる方の暖かいご指南だったのかも・・・


「理解する」というのは、自分自身で「未知」のものごとを「既知」に転化することでした。

一方、「説明する」というのは、自分の理解したことを相手に「理解させる」ことです。

相手は様々ですから、当然「理解のさせ方」、つまり説明の仕方も異なってきます。相手の「既知」に合わせた言葉を選ばなければならないからです。

説明の上手な人は、ほとんど一瞬にして相手の「既知」のレベルを観取し、それに合致した語彙を動員します。



第二回 「対応関係の把握・・・同じ言葉・同じ内容、そして定義」 4月2日更新


(ア)死者は決して消滅などしない

さて、この部分を説明しなければならないわけですが、何事も手順が大切です。

「問い」は出題者によって一方的に投げかけられます。記号で選ぶ問題であれば、正解はすでに選択肢のどこかに用意されています。しかし、論述では受験者自ら答案を作り上げ、そしてそれを投げ返さねばなりません。相手はもちろん出題者、採点者です。

出題者、採点者を納得させるためには、
@「設問において何が問われているのか」
A「解明するには何が必要なのか」

B「どう答えるか」
以上の三点を満たさねばなりません。

実は、これから東大過去問の演習を重ねて行けば、上記三点のどれもが一筋縄では行かないことが納得できると思います。

とりあえず、現在は問題文通読の段階です。ここではとりわけAの「解明するには何が必要なのか」を中心に読み進めます。

方法は極めてシンプルです。

下線部(傍線部)と同じ言葉、同じ内容の部分を見つけ、線を引く。

つまり、問われている下線部(傍線部)と密接なつながりのある部分を見つけ出すわけです。

この対応関係の把握をさっそく試みてみましょう。ここでは見やすいように太字で示します。

(ア)死者は決して消滅などしないからである。

親・子・孫は相互に似ており、そこには消滅せずに受け継がれていく何かがあるのを実感させる。失せることのない名、記億、伝承の中にも、死者は生きている。もっと視野を広げれば、現在の社会は、すべて過去の遺産であり、過去が(a)チンデンしており、過去によって規定されている。この過去こそ先行者の世界である。そもそも、「故人」とか「死んでいる人」という表現自体が奇妙である。死んだ人はもう存在せず、無なのであるから。ということは、こうした表現は、死んだ人が今もいることを指し示している。先行者は生物学的にはもちろん存在しないが、社会的には実在する先行者は今のわれわれに依然として作用を及ぼし、われわれの現在を規定しているからである。たとえば某が二世紀前にある家を建て、それを一世紀前に曾祖父が買い取り、そこに今自分が住んでいるという場合、某も曾祖父も今はもう亡いにもかかわらず、彼らの行為がいまなお現在の自分を規定している。先行者がたとえまったくの匿名性の中に埋没していようとも、先行者の世界は(b)ゲンゼンと実在する。この意味で、死者は単なる思い出の中に生きるのとはわけが違う。死者は生者に依然として働きかけ、作用を及ぼし続ける実在であり、したがって死者を単なる思い出の存在と見なすことは、時として人々に違和感を醸し出す。人々は死者を実体としては無に帰したと了解しつつも、依然として実体のごとく生きているかのように感じるのは、そのためである。
 


(ア)「死者は決して消滅などしない」のキーワードは「死者」です。
同じ言葉・同じ内容として「死者」「先行者」「死んだ人」が頻出しています。

「死者は決して消滅などしない」という筆者の主張と同内容の表現は5箇所出てきます。
1.死者は生きている
2.死んだ人が今もいる
3.先行者は生物学的にはもちろん存在しないが、社会的には実在する
4.先行者の世界は(b)ゲンゼンと実在する
5.人々は死者を実体としては無に帰したと了解しつつも、依然として実体のごとく生きているかのように感じる

さらに、3と5については理由が付されています。
3.先行者は今のわれわれに依然として作用を及ぼし、われわれの現在を規定しているからである
5.そのためである



これらの同じ言葉・同じ内容の中に、絶対に見逃してはならないきわめて重要な部分があります。

  死者は生者に依然として働きかけ、作用を及ぼし続ける実在であり、」

これがなぜ重要なのか、それはこのように書き換えてみるとよくわかります。

  「(消滅しない)死者とは生者に依然として働きかけ、作用を及ぼし続ける実在である

つまり、筆者による「死者」という言葉の定義なのです。

問題文の中で主題となる言葉・キーワードについては、必ずといってよいほど筆者による定義が述べられます。これを見逃すと、まず読解は不成功に終わります。


現在は問題文通読の過程であって、答案作成の段階ではありません。したがって「解明するには何が必要なのか」を念頭において、これらの作業を細心の注意を払って実行します。集中力を欠いてはなりません。


第一段落の要約

なぜほとんどの宗教が来世観を有し、ほとんどの社会が死者の存続を説くのか、それは死者は消滅しないからである。死者とは生者に働きかけ作用を及ぼす実在であり、それゆえ生物学的には存在しないが、社会的には実在するのである。



第三回 余談・・・「アイデンティティ」

次の段落へ行く前にちょっと余談。

言文一致運動のさきがけは「二葉亭四迷」だが、実に妙な名前である。これは本人長谷川 辰之助によれば、「くたばってしまえ」がその由来なのだという。ところで、アメリカにダニー・ケイという名コメディアンがいたが、これをもじったのが「ガチョーン」で有名なクレージー・キャッツの「谷啓・タニケイ」。世界三大喜劇俳優の一人バスター・キートンから「益田喜頓・マスダキイトン」。

さて、このHPで連載中の「黒猫」の作者、文豪エドガ−・アラン・ポーとくれば、ご存知「江戸川乱歩」。代表作は「怪人二十面相」だが、この作品群に登場する怪盗は、あるときは老人、あるときは若者、あるときは学者、あるときは女、さらには夜行人間とか電人Mとか鉄人Qにもなりきってしまう変装の大名人。

しかし、どんなに姿を変えても、元はあくまでもひとりの男であり、その名を「遠藤平吉」という。派手な振る舞いに反してずいぶん平凡な名前だ。しかもこの男、現金にはあまり興味は無く、ねらいは常に高価な宝石とか美術品に限られる。しかも、事前に必ず予告状を送りつける。

・・・というわけで、千変万化の中に不変のキャラクターがある、と言える。この自他共に認める一貫性、同一性のことを「アイデンティティー」という。

さて、第二・三段落。

名、記憶、伝統、こうした社会の連続性をなすものこそ社会のアイデンティティを構成するのであり、社会を強固にしてゆく。言うまでもなくそれは個人のアイデンティティの基礎であるがゆえに、それを安定させもする。したがって、個人が自らの生と死を安んじて受け容れる社会的条件は、杜会のこうした連続性なのである。

 人間の本質は社会性であるが、それは人間が同時代者に相互依存しているだけではなく、幾世代にもわたる社会の存続に依存しているという意味でもある。換言すれば、生きるとは社会の中に生きることであり、それは死んだ人間たちが自分たちのために残し、与えていってくれたものの中で生きることなのである。その意味で、社会とは、生者の中に生きている死者と、生きている生者との共同体である。 

アイデンティティという言葉には注が添えられている。

○アイデンティティ―identity(英語) 時問的、空間的な同一性や一貫性。  

東大国語における「注」は非常に重要なヒントを含んでいるので、安易に読み過ごしてはならない。

この二つの段落を読んですぐにあのことか・・・と気付いた人は読解の基本ができている。第一段落にこのような部分があった。

失せることのない名、記億、伝承の中にも、死者は生きている。もっと視野を広げれば、現在の社会は、すべて過去の遺産であり、過去が(a)チンデンしており、過去によって規定されている。




アメリカにフローレンス・フォスター・ジェンキンスという「歌手」がいた。一応アメリカのソプラノ「歌手」?ということにしておくが、この人の場合、どうしても「括弧」が必要になる。

小さいころから声楽に志していたのだが、両親はじめ周囲は猛反対だった。そしてそれには十分な理由があったのだ。ところが父の死後大きな財産を相続し、晴れて声楽家として活躍できることになった。

彼女は自分の音楽的才能にいささかの疑念もいだかなかった。自ら生涯超一流の「歌手」と信じて疑わなかったのである。実際、リサイタルはたいへんな人気だったのだ。

ド派手な衣装ということなら、かつては美空ひばり、現役なら小林幸子だが、このジェンキンスおばさんも負けてはいなかったらしい。

さて、彼女の毎年のリサイタルはごく小規模なもので、希望しても容易には参加できなかった。しかし、76歳になったジェンキンスおばあちゃんは、なんとカーネギー・ホールを借り切って自慢のノドを披露することになった。チケットは早々に完売御礼。そして、舞台に立った1ヵ月後にこの世を去る。

彼女はレコードも吹き込んでいる。現在もCDで入手できるので、興味のある方は聞いて見るといい。毎日が楽しくなるハズで、決して後悔はしないだろう。

なぜ両親や夫が猛反対したのかは、この歌唱Listen to samples)を聞いてみればよく理解できると思う。前衛芸術という「暖かい」見方もできるだろうか・・・? しかしお腹がよじれるのはいかんともし難い。

このCDのタイトルは「The Glory (????) of the Human Voice」だが、いくらなんでも「?」を4つも重ねるのは可哀想じゃないか・・・と思うかもしれない。しかし、「Murderon the High Cs」なんていう物騒なタイトルもあるのだ。派手な舞台衣装とその歌唱とを重ね合わせて鑑賞したら、あるいはそのような事態も起こり得るかと・・・。

さて、彼女は自分を歌手だと固く信じていたが、周囲はあきらかにコメディアンとして見ていた。こうなると、フローレンス・フォスター・ジェンキンスのアイデンティティとは何ぞやという難しい問題に逢着する。アイデンティティとは自他共に認めるものでなくてはならないからだ。

彼女が自分は「歌手」だと主張しても周囲は認めない。一方、周囲が彼女のことをコメディアンと主張しても彼女は絶対に認めない。




彼女のコンサートで聴衆は笑った。しかし、その笑いに対する彼女の「解釈」は独創的である。自分の才能に嫉妬するライバルたちが、わざと嫌がらせをやっているのだ、と。

人は何かになりたいと願う。作家、タレント、弁護士、プロゴルファー・・・、しかし願望だけでは何者にもなり得ない。

彼女が「私はソプラノ歌手である」と宣言する。そして仮に周囲もそれを承認し、彼女を単なるアマチュアではなく、社会的な存在としての「ソプラノ歌手」と呼称すれば、はじめて彼女の「ソプラノ歌手」としてのアイデンティティが確立する。しかし・・・

問題は彼女自身の自己認識だ。自分自身の実力を客観的に把握できるかどうか、この認識を誤ると「宣言」そのものが妄言になる。無論、そんな妄言を周囲が承認するはずがない。したがって、アイデンティティの確立には、自分自身を客観的に見つめる視点が絶対に必要なのだ。

ジェンキンスおばさんには客観的な自己認識が欠けていた。もちろん周囲も正しい意味でのソプラノ歌手とは認知しなかった。言うまでもなく、彼女は正しい意味でのソプラノ歌手ではなかったのだ。

希望する大学に合格したい。しかし、そのためにはまず受験生でなければならない。自分は受験生であると正しく宣言できるだろうか。




「アイデンティティ」という言葉には定まった訳語がありません。「自己同一性」「存在証明」あるいは「主体性」など、分野によって様々です。

この用語を広めたのはエリクソンですが、実は彼自身がはっきりした定義を行っていません。不思議といえば不思議です。思うに、はっきりと定義してしまうと、この言葉の「アイデンティティ」が失われてしまうからなのでしょう。というのも、用い方によって意味を拡大できるのが、この言葉の特色だからです。

ここで、一般的な用例をも加味して簡単な説明を試みるならば、@意識的な、あるいは無意識的な学習によって何かを身につけていくこと、同時にA自他共に認めるその人らしさを確立していくこと、となります。ここで@とAはお互いに関連しあっていることに注意します。つまり一貫性を保ちながら変化していく過程であって、この動きを伴ったイメージを把握することが大切です。

「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず」(論語・為政)

ここには孔子のアイデンティティが見事に表現されています。「学に志す」という一貫性。そして徐々に高まっていく境地。怪人二十面相はフィクションですが、孔子は実在の人物です。それだけに、より説得力があります。アイデンティティについて「進化する輪郭」という比喩的な説明がありますが、ぴったりですね。

以上の説明を踏まえた上で、「アイデンティティ」を、「何かになる」「何かである」という複合的なイメージとして理解し、あとは文脈に応じた解釈を試みてください。


さて、東大の用意した注には「時問的、空間的な同一性や一貫性」とあります。まず、この説明を注意深く理解します。「アイデンティティ」は個人のみならず、社会のレベルまで拡大されています。

たとえば京都の人を思い浮かべて見ましょう。京都人には一貫した京都人らしさがあります。というのも、京都という土地柄(空間)には一貫性があり、また平安京から連綿と続く歴史的伝統(時間)にもまた一貫性があります。そしてそこに育った人間は、言葉やしぐさ、対人関係など、京都独自の特色(文化)を身につけていきます。この人が、仮に東京に住むようになっても、やはり京都人の一貫性は持続します。

問題文に、「名、記憶、伝統、こうした社会の連続性をなすものこそ社会のアイデンティティを構成する」とありますが、「名=地名、記憶=歴史、伝統=言葉や習慣」と捉えてみると、これらがまさに京都のアイデンティティを構成しているといえます。

同時に、京都で生まれ育った人間についても、「言うまでもなくそれは個人のアイデンティティの基礎である」ということが納得できると思います。

逆に、幼い頃から頻繁に転勤を繰り返して育った人は、いったい自分は何者で、どこに骨を埋めたらよいのだろう、と悩むことになりそうです。

このように読み取っていくと、次の段落も、おそらく容易に読解できると思います。

「人間の本質は社会性であるが、それは人間が同時代者(家族、友人、近隣、先生等)に相互依存しているだけではなく、幾世代にもわたる社会の存続(歴史や伝統)に依存しているという意味でもある。換言すれば、生きるとは社会の中に生きることであり、それは死んだ人間たちが自分たちのために残し、与えていってくれたものの中で生きることなのである。その意味で、社会とは、生者の中に生きている死者(無数の先人達)と、生きている生者との共同体である。」 




 死の床にあった父が、母と共に徹夜で看病をしていたぼくに、『お前を必ず天から守ってやる』と話しかけてきたことがあった。

 ・・・次の英語の試験のときに、信じられない奇跡が起きた。心霊現象などぼくは信じない。それなのに、英語の問題を素早く通し読みしたとき、電気にふれたような衝撃をうけた。

 英語の受験のためには単語一万語暗記というのが当時の常識だった。入試直前、亡父の書斎に父の英文の論文があったので、力試しのつもりでそれを読んだ。わからない単語がいくつか出てきたので、辞書をひいて意味を一万語のボキャブラリーに加えた。

 東大入試の英文解釈の問題に、驚くなかれ、亡父の論文にあってわからなかった単語が、翻訳のキーワードとして三語もあったのである。神がかりみたいだが、事実、あった話だ。

 三十分も余して答案を書き終えた。見直すのは怖い。迷いが出るからだ。ゆけ!! これで!! 前席の受験生が険しい顔でふりむき、小声で『やめて下さい!!』という。知らぬ間に貧乏揺すりしていたのだ。
                                      「焼け跡の青春」 佐々淳行