★第七章〜いざ雪中行軍。高野山へ!〜★

 大学4年の秋、長岡で弁護士事務所を開設していた従兄弟から、就職口を紹介してもらった。日本を2/3周したままで終わらせてはもったいないと、就職するつもりは全く無かった。しかし、従兄弟の面子もある。そこで、日本地図に自転車で走ったコースを赤マーキングして面接に行った。面接では一通りの説明を聞き「暫く出張所勤務になるので、2月ころから研修に来て欲しい」と、いうようなことを言われた気がする。
 そこで私はマーキングした地図を取り出し「実は自転車で日本一周するのが夢。途中で止めたくないので、このまま走らせて欲しい」と、社長に頼み込んだ。社長は「日本一周を終えたら連絡しなさい」と、言ってくれたような気がする。
 ほぼ1年後、日本一周から小千谷に帰ってきたら「だいぶ前に会社から電話があったが、何所にいるか分からない」と、母は答えたそうだ。もちろん、その会社とは、それっきりで勤められるはずもない。

 1977年12月。卒業テスト(追試)を終え、友人に「沖縄に行ってくる。テスト結果を見てくれないか。もし、単位が足りなかったら、留年手続きをしておいてくれ」と頼み込み、その友人に学生証を渡して沖縄に向けて旅立った。
【1】1998年1月15日の出発日のこと。
 その日の関東地方は、前日からの雪が積もっている。横浜の下宿ですっかり準備を整えると、小千谷高校の同級生だった五十嵐がポケットウイスキーを持って見送りに来てくれた。同級生の五十嵐と風間(現・田巻)が送別会を開いてくれ、酒を飲みながら「この雪だからやめた方が良いんじゃないか?」と心配?してくれる。この雪を見ると自分でも止めたいのだが、送別会まで開いてもらって止めるわけにもいかない。
 2人に見送られ、みぞれ混じりの天気の中を沖縄に向けて、居候していた横浜の風間の下宿を出発した。
【2】1月21日。静岡県静岡市を通過。
 走り出してから風が冷たい事、冷たい事。静岡あたりでは、青空なのに雪が風に乗って吹き付けてくる。ペダルを踏んでいると体は温かいのだが、あまりの寒さにオ○ン○ンが冷たくなり、いたくなってきた。どうして良いのか分からず、ジャージの下に道路に落ちていたナイロン袋を入れて走った。これは結構ヒット・アイデア。
 写真は静岡市立・登呂博物館にて。
【3】1月28日。和歌山県潮岬有料道路を走り、潮岬を抜ける。
 とにかく寒くて、文字通り駆け足で暖かい所をめざした。このころの写真を見ると、ほとんどポケットに手を入れて写っている。
【4】
 このころの食事は、炊飯も上手くなってきたが、食費を浮かせるために相変わらずパンの耳をパン屋さんから貰って食っていた。南紀白浜の海中展望台から見えた魚を見て、「うまそうだな〜」と、思うことしきり。
 このころだったと思う。テスト結果を確認してもらった友人に電話すると「佐藤、喜べ。単位は足りているぞ!!!」「本当か、俺は、卒業できるんだな!!!」そのままその友人が学生証と引き換えに、私の卒業証書を学校から貰ってくれた。
【5】1月31日。奈良県高野山にたどり着く。
 高野山では粉雪が降っていた。少しばかりの観光をしたが、寒くてどうしようもない。
【6】
 その日の夜は、南海電鉄(たしかそんな名前だった)のケーブル駅のホームに泊まる。シュラフは冬用であり、その上にシュラフカバーをかけ、ダウンジャケットを着て頭まですっぽりシュラフに入って眠った。
 朝方、顔が冷たくて目がさめる。なんと、吐く息でシュラフの縁が凍って、凍ったシュラフが顔にくっついて目が覚めた。たまらずコンロに火をつけるが、体が温まらない。飯でも作ろうと、水筒に手をやったら、なんかおかしい...。水筒から一滴も水がでてこない...。
 な・な・な・なんと!水筒の水が全部凍っている。。。
 辺りは暗いし、高野山を下山もできない。そのころ、ケーブル駅の職員が起きていたので、宿舎の中でストーブに当たらせてもらい、さば焼きの朝飯までご馳走になってきた。感謝、感謝。
【7】四国 八十八ヶ所巡り。
 とにかく暖かい所に行こうと四国に渡る。四国に渡る時も金を節約するために、海上コースの一番短い明石市から連絡船で淡路島に渡り、淡路島を走ってから鳴門市に渡った。現在、このフェリーコースは、本州四国連絡道路に変わってしまっている。
【8】淡路島から四国へ。
 本四連絡橋の工事の様子と連絡船から見る雄大な?鳴戸の渦。