★第十章〜沖縄上陸〜★

 沖縄にたどり着くまでの20数時間、ずっとトラックの中でガイドブックを読んでいた。その時のイメージとして、悲惨な戦争の歴史だけがインプットされてしまい、到着してからしばらく走った深夜のサトウキビ畑沿いの道路では、鉄砲の弾が飛んできそうで怖かったのをおぼえている。
【1】
 1978年3月15日、幼稚園で目が覚めてから、真っ先に平和祈念資料館に向かった。
 資料館で遺品と地下壕の鍬の跡など、見るもの全てが恐ろしかった。カメラを持って資料館に入ったのだが、その遺品にカメラを向けることが、犠牲者の方々に申し訳ないような気がして、写真を1枚も撮れなかった。一種のカルチャーショックだった。
【2】
 写真を撮れたのは、がまの出口で木の根を撮るのが精一杯だった。新潟生まれの私には、この根だけは珍しかった。
【3】
 沖縄本島では落ち着けず、八重山諸島を歩くつもりだったので自転車をリュックサックに変えて石垣島に向かった。石垣市から川平湾までリュックを背負って歩いて行った。
 これを機会に歩いて島を巡り、留守家や公民館の軒下、海岸などどこでも泊まれるようになった。やはりアウトドアー?は、天候に恵まれることが必要だ。
【4】
 野宿を繰り返していると、丸々とした水牛のたくましさが羨ましかった。
【5】
 再び石垣港に戻り、竹富島に向かう。この頃、小柳ルミ子の「星の砂」が流行っていた。星砂海岸にテントを張って泊まった。
【6】
 なるほど、海岸の砂という砂が星砂であった。地図を広げて、ココが竹富島!!
 竹富島も歩いて巡っていたが、地元の若者がカブに乗せてくれ港に戻った。島での交通手段はバイクのカブのようだった。
【7】
 竹島島からの乗船券
 石垣港から石垣島に向かい、また海岸でテントを張って泊まっていた。しかし、ラジオを聞きながらシュラフに入ると、低気圧が近づいているらしい。朝方になると風と雨が物凄くなってきた。風できしむテントの中で缶詰を食べ、その空き缶でテントの中の水をくみ出しながらラジオを聞いていると「暴風波浪・大雨洪水・雷雨注意報」が出ている。
 さすがに観念して、雨の中でパッキングをしてミドリ荘に向かう。このユースホステルは、民宿なので酒が飲めると聞いていた。
【8】鍾乳洞探検。
 ユースのメンバーと鍾乳洞探検に出かける。この赤いヤッケは、北海道で買ってきたお気に入り。
【9】波照間島。
 日本人が住む最南端の島だ。
【10】
 サトウキビ工場の近くの海岸に、テントを張って泊まる。一緒に泊まった人が釣った魚を貰い、自分でさばいて食べた。旅に出てから、はじめて刺身?を口にした。
【11】
 サトウキビ工場から水を貰ってきて、だいぶこの海岸に連泊した。この広い海に3人きりのキャンプもけっこう贅沢...。
 西表島で一緒になった人が、同じ船で波照間島に来ていた。その人が「民宿に遊びに来いよ。ルルブ(旅行雑誌)の記者が一緒に泊まっているよ。」と言っていた。夜、民宿の裏口から入りこんで宴会をしていたら、宿の主人に見つかってひどく叱られたおぼえがある。
【12】石垣島フェリー乗り場
 八重山のどの島に行く時も、このフェリー乗り場がベースになる。何時の間にか石垣島のフェリー乗り場が定宿になり、あちこちの島で出会った人との宴会場になってしまった。中央のツナギを着た人は、島の人でフェリーの船員でもある。この日は私たちと一緒にここのベンチに泊まり、寝過ぎてしまい自分の乗るフェリーに乗れなかった。ブロンソンも懐かしいな〜。